JRで30分間、車窓から春の景色を見た。まさに華やかな山の形容『山笑う』だ。山の木々は目覚めて、芽吹きはじめた黄緑色の柔らかい葉をまぶしく揺らし、つつじ、ふじ、山桜などの花が中腹に見える。視線を移すと、線路に沿って黄色の菜の花が帯になってずっとずっと続き、所どころで花大根の紫色がアクセントになってきれい。芝桜、エニシダ、ハナミズキ、椿、紅カナメ、貝塚いぶき、まだ黄熟した果実が残っている橙の木、ぼんやり考え事をしながら目は退屈しない。
椿は花首から落ちやすく、お見舞いなどには連想が悪いなどと言われていますが、茶花には楚々とした清らかな美しさが好まれているのでしょうか、炉開きに「白玉」という椿の花がよく入れてあったりします。利休が最も好んで使った花は椿だと言われ、お茶席に入れてあるといいなと見入ってしまいます。
ほころび、咲き、散っていく桜の花が季節の移ろいを告げていたのに、この時期には珍しく県内でも積雪が観測された所もあり寒い日でした。思わぬ番狂わせにたくさん咲いていた花も寒さに震えていたように見えました。
四月の登校風景。新学期が始まり小学校の一年生が、まだ身に馴染んでいない大きめの制服にピカピカのランドセルを背にして、少し緊張した面持ちで、集団登校する班の一員として上級生たちに遅れまいと、大股で歩いて通り過ぎていく。その小さな背中を目で追いながら応援したくなっている。
雑草とは申し訳ないような愛らしい「オオイヌノフグリ」
季節が移りゆくにつれて、草木は蕾をほころばせて、色とりどり鮮やかに開花し野山を彩っていく。無心に咲いている野の花に励まされていることも多い。それぞれ名前があるのに「草」「雑草」などと、ひとからげにして邪魔者にしている。中には「名もない雑草」という人も。「雑草のように」とたくましくなれというお手本にされたりもする。よく見ると可愛い花を咲かせているのもある。
「つくしんぼ」「つくしの坊や」「つくし誰の子 スギナの子」この頃になると日当たりの良い土手などに生えている土筆。近所の方に誘われて山里で沢山採って帰り、指先を真っ黒にしながら、はかまをとってお湯で灰汁(あく)を抜き、卵とじや佃煮などで賞味しました。3億年前から生き続けると言われる不思議な植物、姿は可愛いですが、一方しつこい雑草で除草は経験がありますが厄介でした。
暖かくなった地方から花の便りが届くようになると、羨ましくもあり早く咲いて欲しいと誰もが待っていた桜の開花。『明日ありと思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)に嵐が吹かぬものかは』と父がよく言っていたのを思い出します。今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると夜に強い風が吹いて、花が散ってしまうかもしれない…意味分かっていますよ。感謝しています。
(親鸞が9歳の時詠んだ句という)
勝手口の戸を開けると、バサバサッと大慌てで飛び立つヒヨドリ。そこに植えてあるわが家の菜の花の、どの株の葉っぱもヒヨドリについばまれギザギザになってしまった。試しに不用になったCDをぶら下げて見たらキラキラが嫌なのか全く来なくなった。花や蕾はお好みでないのか残してくれている。
暖かくなって庭を眺めていると気分転換になる。樹木の芽吹きや、土から芽を出した植物などから元気を貰い、蕾を見つけて喜んでいるので、咲いた花は満面の笑みで、答えてくれます。花に微笑みを返して大満足、結構癒されています。
地産の丈がちょっと短い下仁田ネギを、時期的にはもう遅いかと思いながら買って帰った。その中の1本からネギ坊主の頭ががほんの少し見えてはいたが、翌日見ると坊主はあらまぁ~更に首を伸ばしている。急いで調理前に描いた。いつもの柔らかくて美味しい下仁田ネギでした。
裏庭で寒あやめが咲いています。
四月(卯月)に入りました。卯月の季語は夏、卯の花月(うつぎの花)、卯月鳥(ほととぎすのこと)などは何となく初夏の近づきを感じさせるようなもの、食物では豆腐のしぼりかすのおからも「卯の花」、そのおからは「きらず」とも言う。豆腐殻(から)が空(から)になるというので言い換えて、切る必要がないから「切らず」だと教わった記憶があります。「きらず」は「雪花菜」と書くようです。きれいな字を当てられていますね。