1.アイルランドとシヤノン空港の概要

2008年06月19日 | 百里シンポジウム

 それでは、スライド(講演内容なのでスライドはありません。)を使って、まず、シヤノンというのはどのような地域かということをお話しします。アイルランドやシヤノン地域の説明は後でいたします。

  これは飛行機の中から撮った写真です。ここに見えるのがシヤノン川ですが、氷河で削られた後に、隆起して水が貯まり、それが海と繋がったもので、川というよりは、むしろ湾の一部分であります。

 これがシヤノン空港で、シヤノン川に接して存在しています。これは、シヤノン空港のターミナルですが、何ということはない小さな空港ターミナルです。規模も含めて後でご説明しますが、利用者数は福島空港よりちょっと多いくらいです

 これがアイルランドのフラッグキャリアであるエア・リンクスです。ここにエア・リンタとありますけれども、フラッグキャリアも含めて空港を管理しているのがエア・リンタで、アイルランドの6つの空港を管理しています。今はすべて民営化されております

 シヤノン川を挟んで空港の対岸にフォインズというところがあるのですが、その話は、やがて出てまいります。

 ヨーロッパは1939年9月に戦争が勃発しています。その4年前の1935年、リンドバーグが大西洋を横断する最短航路を見つけよというパンナムの指示を受けて、シヤノン空港の調査にまいります。当時は機材も発達しておりませんから、いかに最短航路で、しかもノンストップで大西洋を横断するかということが、一番の問題だったわけです。シヤノン空港の大西洋を挟んだ対岸の空港は、カナダニューファンドランド島のガンダー空港です。リンドバーグの調査結果はガンダーとシヤノンを結ぶと最短の航路になるということでありました。

 フォインズのほうは、皆さんが懐かしく思われると思うのですが、戦前から水上艇、フライングボートの基地でした。一方、シヤノン空港のほうは、第2次世界大戦が始まる1939年の5月に開港したのです。当時の予測では、ヨーロッパからニューヨーク、シカゴへ行く航空需要の7割が、このシヤノンを経由して、大西洋をノンストップで飛行し、ガンダーを経由して目的地へ行く予定でした。ボーイング社の飛行機が1便飛んできて、これからと言う1939年9月に戦争が勃発し、わずか3カ月余りで空港は閉鎖されてしまいます。その後の話は、後ほどいたします。

 これは、今も使っているのですが、1939年、空港が完成した当時の、飛行機に使う燃料を運ぶための、シヤノン川のほうに突き出たパイプラインです。

 これは、アイルランドの地層を示したもので、僅かな表土を剥せば、岩ばかりの不毛の土地です。司馬遼太郎も「アイルランド紀行」を書くために2回訪れているのですが、「二度と行きたくない土地」と書いてあります。ただし、司馬さんも褒めているように、アイルランドはジョイスやイエーツなど詩であるとか文学、音楽も含めて、芸術に優れた国です。皆さんも、妖精の住む国という話を聞いたことがあると思うのですが、アイルランドのことです。岩盤の上に海藻を敷いて表土を作り、そこに生えたわずかな牧草で酪農をして食べている。アイルランドの全土がそういう大変荒涼とした地形であります。

 シヤノンの圏域は1万平方キロですから、わが国の平均的な面積の県を空港圏としていると考えてください。県の人口はというと、シヤノン地域ですが、37万人です。ですから、皆さんの地域と同じ面積ではあるけれど、もっと奇薄な人口密度の都市です。地域の県庁所在地はリメリック市で、人口は当時5万2千人という小さな地域です。しかも、鉄道、高速道路が発達していない地域ですから、そこの地域の人たちのほとんどが日常茶飯事的にこの空港を使い、ダブリンや、ヨーロッパ、全世界へ飛び出しております。

 これは空港ターミナルの中のDuty-freeショップです。後でお話し申し上げますが、世界で最初にDuty-freeショップを設けた空港だったのです。

 これはリンドバーグルームとうレストラン兼バーです。この中に入ると、リンドバーグに関わる展示があり、リンドバーグの数寄な生涯を事細かに語っております。

 これは空港内の食堂でありますが、フライングボートの時代も含めて古い写真を、たくさん飾ってあります。写真を撮っているのは私だけでありましたが、それをおもしろがって、そこに働いている人方が、「何をやっているのだ」と聞いてくるわけです。アイルランド語が中心の国ですが、つたない英語でしやべると、いろいろな話をしてくれます。2日間くらい、ずっと話を聞いていて飽きないくらい、たくさんの人がいろいろな説明をしてくれます。ホスピクリティといいますか、空港の研究をやっていてよかったなと感じる空間と時間があります。何かこの人は空港に関する情報を知りたそうだと思ったら、ロコミでみんなが集まってきて「どこから来たのだ」、しまいにはワインまで出してくれて、お酒を飲みながら航空・空港談義ができる、そういう場所でした。

 これは、1997年に、空港の50周年のお祝いをしているところです。

 これは、空港のすぐ近くにあるホテルです。

 これはホテルからの夜景ですが、夜景を撮っているのには理由があります。空港は母都市リメリックから20キロくらいしか離れていないのですが、夜間の離発着が多いのです。後でもご紹介しますが、スイスエアとルフトハンザの、中型機材整備の国際標準をシヤノン空港が持っておりますので、整備のためにこの地域に来なくてはいけないのです。1年間のメンテと5年間のメンテの両方を行うと言っていました。その中型機の整備が終わって、ちやんと整備ができているかどうかをチェックするために夜間に訓練をするのです。ですから、夜、先ほどのホテルに寝ていてもグォングォンと音がするのですが、それが子守歌に聞こえるくらいの人間しか泊まれないホテルです。

 これはアエロフロートの格納庫です。第2次大戦によって、航空機材の技術革新が進み、シヤノン空港とガンダー空港を経由しなくてもパリとニューヨークを横断できるようになります。ですから、日本におけるアラスカのアンカレジのように、シヤノン空港は時代に見捨てられた空港と私は思っていたのです。ところが、第2次大戦中、アイルランドは中立国だったものですから、戦後、ロシアのアエロフロート機を中南米に運ぶ長距離の中継基地として、シヤノン空港は復活するのです。

 これは、一部ですが空港によくあるフリーゾーンです。1957年にできあがっていて、現在、1,100社がこの地域で活動しています。日本から見ると、今ではどこにでもありそうな話ですが、57年に造られたということを考えると、先進的な試みがなされていたと思います。

 これがフリーゾーンを管理している会社ですが、それよりもでかいのが、アイルランド最大の会社であるギネス・ピート・アソシエーション、ギネスビールの会社です。このギネスビール会社が、フリーゾーンの第1号として入ってきたのです。当初、ギネスビール社は、この1万平方キロメートルのシヤノン地域で、空港を活用してビートを作り、品種改良をして醸造業の最先端をいこうと思ったのですが、地域はそれを拒否します。今もそうですが、ギネス・ビート・アソシエーションが、航空機の部品を作る産業に変身しています。なぜ、地域は空港をとおした近代化の道を拒んだのか、これが今日の最大の話題なのですが、これは後に回します。

 これは、空港から2キロ程に造られた、シヤノン・シティという街です。空港に関わる人達が、9,000人くらい住んでいる街であります。

 シヤノン・シティの一角にあるのが、フィリピンから追い求めてきたシヤノン開発株式会社という、半官半民でできあがり、今は完全に民営化した会社です。ここのスタッフは総勢で120名しかおりません。しかし、シヤノン空港を中心とした地域開発モデルという開発技術をもって、フィリピンのスーピックへ、全世界へ飛び出しているのです。

 これは、リメリックという母都市につながる高速道路です。この高速道路も、出来るまでにはずいぶん時間がかかったそうです。理由は、空港を造ったもともとの原資は、アイルランドに住んでいる人ではなくて、アメリカにいる人達だと云うことです。アイルランドは人口400万人くらいの国でありますけれども、アメリカに5,000万人ものアイリッシュがおります。ケネディ大統領も、レーガン大統領もアイリッシュです。特にケネディ大統領はフリーゾーンに深く関係するのですが、アメリカに住んで母国を思うアイリッシュが、空港・フリーゾーン等々と、西洋の近代をこの地に押し付けてくるのです。地元のアイリッシュは、「あいつら、分家じやないか。本家はおれたちだ。」と、ちょっともめまして、なかなか母都市リメリックへつながる道路ができません。ですから、空港とフリーゾーン、シヤノン・シティだけはずっと連携を保ち続けるのですが、リメリックとの融合がなかなか生まれない時代が、30年くらいありました。

 これはリメリック市内に入るところの川で、7世紀に造られたお城ですが、これも調べ始めると歴史があります。現在人口7万7千人の、リメリックの街の姿です。7世紀からの歴史を誇り、穏やかな生活が営まれています。今や、EUの優等生といわれるアイルランドは、10%の経済成長を遂げております。アイルランドの中でも首都ダブリンには、行かれた方もいらっしやると思いますし、皆さんもよくご存じだと思います。しかし、ダブリンよりも、むしろリメリックとかコークとか、そういう地域のほうが、極めて落ち着いた、昔のアイルランドの生活を見ることができます。もしも皆さんが、リメリックの本屋へ行けば、昔の歴史書も含めて大変なボリュームの資料を見ることができます。

 これは、鉄道駅です。ここからダブリンまで300キロくらいあると思うのですが、もちろん高速道路も鉄道も一応あります。けれど、ほとんど使われておりません。ですから、航空を使って国内も、もっと言うならば、世界に広がっているのだということです。

 これは、リメリック大学です。在学生数4,000人の大学ですが、文系と理系で、2,000人ずつの学生がおります。このリメリック大学の理系2,000人に対して、航空機材の維持・管理をおこなう整備士のエンジニア養成コースがあります。先ほど言ったドイツ、スイスなどに、ここを卒業した学生をどんどん送り込みますし、ヨーロッパ全土からも、航空機の整備士になりたければここにやってきます。国際標準を持つという事がすごく大事だというのは、ここの大学の先生方も力説しているのですが、日本でも、今やっと分かってきたのだろうと思います。早い時勅に国際標準を見つけ、大学と地域と企業が一体になって、世界的に活動の湯を広げる地域を形成していっているということであります。

 これからフォインズへ行くのですが、空港からリメリックへは20キロ、リメリックから、この湾を挟んで空港の反対側のフォインズへはこれもまた20キロ位離れています。田舎道で、高速道蕗もありません。水上艇でずっとシヤノン川を渡ってきて、フォインズの地に水上艇が止まって、人が降りていきます。鉄道も走っております。

 これは空港の博物館です。これも、フリッパーなんかが出てきまして、皆さんが行かれたら涙が出るくらい嬉しくなる博物館です。どうぞ、いらしてください。

 これがリンドバーグのお墓です。リンドバーグのお基は、至る所にあるのですが、私の知る限り、ミネアポリスやドイツにあるお墓よりはずっと信頼が持てると思います。多分これが事実でありましょう。リンドバーグは、最後に、このシヤノンの地で眠ったと、地域の人達も言いますし、パンナムの冊子をずっと読んでいっても、シヤノンに骨を埋めているようです。ドイツで亡くなるのですが、骨はここに眠っています。 これは、フォインズの航空博物館で、アイルランドとかイギリスから来たファンの人たちが航空談義をしているところです。

 これは、リンドバーグのお基の上から見たシヤノン川です。こちら側に工場地帯が見えますが、このあたりにシヤノン空港があります。 ここで、シヤノン開発株式会社の話に戻りますが、これがシヤノン開発の人で、こちらがフィリピンでお会いした人です。私は1997年にフィリピンに行っていましたから、追いかけマンのように、この人を追って、翌年の7月21日に彼に会えたということです。

 空港・港湾を核とした地域開発のコンサルタントと言えばそこまでです。しかし、世界戦略をもって、東欧を中心にヨーロッパの地域開発を幾つか手がけている。アジアでは今、フィリピンだけ始まっている。「中国にも進出するぞ」と言っていました。

 蛇足として、2つのスライドをお見せいたします。 これは、1998年の10月ですから、3年前の香港です。空港を情報化するというのが今はやりです。ちょっとひなびた感じですが、香港のトランジット用のターミナルには、インターネットへの接線が可飴な部屋が整っています。

 これは、1991年の写真ですけれども、ミネアポリスにあるリンドバーグと悲運の息子の像であります。この話をしたら、また一日くらいかかっちゃいますのでやめますが、シヤノン空港はリンドバーグによって見出された空港です。


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