定年ジジイの夕焼け人生

朝日ほどの力強さはなくてもいいが、人生の黄昏期をせめて夕焼けほどに輝いていたい。

目的と目標と手段

2008-05-31 09:06:21 | Weblog
何事かをするときには、目的と目標と手段がある。

何かを成し遂げたいとか、なんとしてもそれを達成したいと思うときは、必ず何らかの目的がある筈である。
その目的を達成するためには、一般的には出来るだけ具体的な目標を定めて、目的達成の目安にするだろう。
また目標を達成したり、目標に近づくためには、ひとはそのために具体的な手段を選び、それを日々実行することにする。

このプロセスは、よく会社などの組織では体系時に行われ、それが日々の実務になり、またその組織または組織の構成員の行動基準となったり、達成度を計ることによって成績を査定することになる。

個人でも同じである。
何かを成し遂げたいとの思いを実行するときには、意識しているかいないかは別にして、必ずこの行程を踏んでいるはずである。

例えば英語を上手くなろうと思うとき、それは目的になり、具体的にTOEIC800点を達成しようと言う様な目標を立てる。学校に通ったり、TV番組を見たり、本を読んだりして勉強する手段をとるだろう。

この場合800点を取ることは、あくまでも目標であり、本来の目的ではないはずであるが、それが会社から与えられた課題のようなものであると、いつの間にかそれが最終的な目標になり、800点を取るための要領をよくするなどの手段を探すようになる。「これで50点は間違いなくあがる」のような本を手に取ることになり、いつの間にか800点そのものが目的になり、英語を上手くなるという目的はどこかに消えてしまう。

対外的に800点が重要で、そのために勉強するということであればそれで良いだろうが、英語の実力をつけるという個人的な目的を達成することはいつの間にかどこかに行っていることがある。

同じような例がいろいろある。

例えば体力をつける目的のために、毎日何らかの運動をして、筋力や循環器を強化することを目標にすることがある。毎日10,000歩歩くことがその目標を達成するための手段としては実行しやすい手段の一つだろう。

万歩計を腰に朝夕徘徊する人を多く見るのは、このためだろう。早朝のウォーキングをする人あり、いや朝夕2回に分けたほうが良いとか、川沿いのコースがいいとか人それぞれの方法を考えて歩く、歩く。

そのうちに毎日10,000歩歩くことが完全な日課となり、それを繰り返すことが習慣になる。
これからが問題だ。いつか10.000歩歩くことが目標になり、目的になってしまい、本来の目標や目的が忘れ去られる。

すると何が起こるか?

なんとか10,000歩歩かなくてはいけないとの思いが強く、体調の悪いときでも強行するし、また逆に10,000歩が達成できないとなると、3日で30,000歩歩けば良いと自分自身に対する言い訳にする。
ひどいときには、歩幅を縮めてまでして、何とか10,000歩にしようとしたりする。
もうこうなると本来の目標も目的もまったく忘れ去られ、ただ10,000歩が目の前の人参になり、ただただ自分への言い訳、自己満足・自己妥協のためだけの世界になってしまう。

目的・目標を達成するための手段がいつの間にか目的・目標そのものになってしまう。
世の中にはこの類のことが沢山ある。何かを実行している個人や組織が、このわなに陥っている例が実に多い。

個人の場合は、その人の性格によることでもあろうし、結果は個人に帰るだけであるからそれ程の問題ではないし、時によっては微笑ましいことでもある。

しかしこれが組織の問題となると回りに大いに迷惑を掛ける結果になる事が多い。
しかしこの種の組織の勘違い、思い違いが世の中に多い事も事実である。

組織のトップのしっかりした考え方とリーダーシップが大切なのはこの点においてが多い。





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ちょっと風邪気味です。

2008-05-30 09:35:02 | 老人、友人
これも歳を取った証拠だろう。

身体が少しだるく、身体が火照っている感じがする。

たぶん風邪だろう。無視できるほどの軽い風邪だろう。

久しぶりに風邪を引いたような気がする。
熱を測ればきっとたいしたことも無いのだろうけれど、ほんのちょっとしたことが身体に変調として現れる。
若いうちは、こんな時は逆療法だ、なぞとわざと運動をしたりして直してしまったことも有ったが、この歳になるとそんな馬鹿な真似も出来ない。

仕事をしているわけでないから、普段からゆっくりしている。改めてゆっくりと思っても特別ゆっくりする方法もない。
その点現役のときは、会社を休むということは大変なことであったし、確かに休んだという実感があり、それだけで風邪なぞは治ってしまったこともあった。

現役時代のメリハリのある生活を卒業してもう10年。
それでもまだ今は、自分で決めた事をしながらなんとか生活の区切りと言うかリズムみたいなものを作っているが、だんだんそれも境がぼやけてくるのかもしれない。

出来るだけ気力を維持する努力をして、何もやらずに済む環境でも、何かをやってメリハリの利いた生活を続けて行きたいものだ。




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箸休め

2008-05-29 08:43:07 | 木工
旋盤でボウルを削ったり、漆を塗ったりの木工作業の合間に、箸休めのようにちょっとした作業をすることがある。

小生にとって、ペン作りはそんな感じのものだ。

先日アメリカの木工のカタログを見ていたとき、ちょっと格好の良さそうなペンが目に入った。
いままで数十本作ってきたペンの感じではなく、本格的な感じの重厚なペンに見えたので、早速インターネットで注文した。



先日試作したセルロイドをこれにも使ってみた。
軸が太く、堂々とした、しかも実に重々しいボールペンになった。



早速試用してみる。

こりゃーだめだ。
第一重過ぎる!握りが太すぎる!キャップをペン先の逆側につけるとまったくもってバランスが悪い!

いかにも高級そうな見た目はいいのだが、実用性と言うことになると問題だ。

飾っておいて、たまに使うということだろう。
卓上ペンという位置づけかな。ポケットに入れて持ち運ぶ本来のボールペンではないな・・・・・・・・・・・・


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物の値段と価値。

2008-05-28 09:25:33 | Weblog
ガソリンの値段が直ぐにもリッター170円になりそうだし、200円も現実のレベルとして予想されている。

1リットルの値段が200円と言うと、これは牛乳とかジュースとか身近で毎日消費していて、スーパーマーケットで売っている紙パックとかPETボトル入りの飲料と変わらなくなる。

ガソリンが牛乳と同じ値段とは理解しかねるとか、ジュース一本でガソリン1リットルしか買えないと嘆いたり、従来の物の値段の相対的関係が劇的に変化すると人々は戸惑いを隠せない。

相対的値段で物の価値を計ることが身についているから、その相対的数値が変化することによる価値観の変化を受け入れるまでには時間が掛かる。

しかし今度のガソリンの価格の急騰による相対的値段の変化は、個人的にはそれ程戸惑いはない。
何億年もの時間を掛けて、地下深くで生成された原油を採掘して、精製したガソリンはそれが天然資源とは言え、価格は高くて当然だ。それを、それこそ湯水のように消費しようとするから、ちょっとでも価格が上がると高いと感じるのだろう。

人間は石油をあまりにも安易にエネルギー源として、工業原材料として浪費している。
1リットル1,000円くらいにして、大事に大事に使うような仕組みにしたらいい。そういう社会の仕組み、生活の様式に変化させていったらいい。

それこそ地球に優しい仕組みと言うものだろう。


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垂れケヤキ

2008-05-27 09:07:36 | Weblog
浜松市役所から東進する大通りはケヤキの並木通りになっている。
木ももう相当な年数を経て、やっと通りにふさわしい大木になりつつあった。

去年の暮れにこともあろうに、そのケヤキをすべて剪定してしまった。
びっくりするほど枝先を思い切って切ってしまったため、冬は箒のように枝先を空に突き立てている姿が、フォークのようになってしまった。

春になって芽吹き、なんとか木の様相になってきたが、この姿がまた情けない。



これではまったく「垂れケヤキ」だ。
 
青空に向かって突き出した枝に青々と、なみなみと葉っぱをつけて、大木の様相にならなくてはいけないところだが、枝先は丸く刈り込まれた盆栽のようになってしまっている。

ケヤキをこんな姿にしてしまってはいけない。ケヤキはやはり天に枝を突き出すように、大きく佇んでいなくてはいけない。

誰のアイディアか、こんな姿をよしとする感覚が分からない。
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蓋付きボウル完成(その5)

2008-05-26 09:23:29 | 木工
一連の蓋付きボウルの紹介もこれが最後。


青い染料で染めた後拭きうるしをほどこしたものだが、赤に染めたものと異なり、元の色が殆ど残っていない。
拭きうるしだけの場合よりいくらか色合いが違うかな、と言う程度だ。
光りすぎる拭き漆の欠点を少し抑えたという程度のものになっている。もう少し青が残るだろうという意図は達成されていない。



下地を真っ黒に染めたつもりだったが、拭きうるしをほどこしたら木目が浮き上がってきた。漆が黒の染料を透き通してしまったようだ。
これも意図を裏切られた格好になったが、これが素人作品としては面白いところだろう。
今回の一連の蓋付きボウルの中で、一番わんぐりしている形状のもの。

まったくこの形状の意図するところが分からないという辛らつな意見が聞こえてくるようなので、今回のUFO型蓋付きボウルのシリーズ紹介はこれで打ち止めとする。
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2008-05-25 09:13:47 | Weblog
昨日から降り続いている雨がまだ降り止まない。

窓の外の雨雲は低く垂れ込めて、アクトタワーの上半分を覆っている。



湿度100%の空気が立ち込め、吸収できない分の水分が雨となって降ってきているような感じだ。

それにしても妙なものだ。今朝の天気予報によれば、浜松地方の午前中の降水確率は90%だそうだ。
昨日からずっと降っていて、現に今も降り続いているのに90%の降水確率とはちょっと納得が行かない。

まあいいか、これが定年退職者の気ままなところだ。別に今日しなくてはいけない予定があるわけではない。
雨が降っていれば、家でゆっくり本でも読んでいればいい。
もっとも今日は日曜日。サラリーマンもこんな日はのんびり日ごろの仕事疲れを癒すいいチャンスだろう。
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日本語の不自由なB君とN君と

2008-05-24 09:46:16 | 子ども学習支援
このところ木曜日は葵が丘小学校で、金曜日は大瀬小学校で外国人子ども学習支援のボランティアをしている。

昨日の大瀬小学校での支援は、やっているうちは夢中でそれ程の感慨も持たなかったが、終わってからじわじわと憂鬱な気分が広がり、それに従い一種のやり場のない怒りに近い感情が湧いて来た。

放課後一時間目は一年生のB君に付いた。
彼は殆ど日本語がわからない。何から勉強を始めたものかと思いながら、学校で準備してあったプリントをやってみた。「て」と「の」の字を大きくなぞるだけの練習だ。B君は鉛筆をもってなぞり始めて直ぐ、席を外し廊下に出てしまう。
なんとか席に戻し、字をなぞらせたが、字をなぞるということがどういうことか、B君が理解しているのかどうか手ごたえが無い。
紙の上に鉛筆で字を書くということが勉強の一部で、学校とはそういうものであるということを理解しているのかどうか・・・・・・
そのうちに、プリントに向かうことをプイとやめ、積み木を持ってきた。ああ、この子はまだ勉強と言うことをまったく理解しておらず、遊びと勉強の違いさえ分からないのかと少々うんざりした。しかし彼の持ってきた積み木はその一つ一つにひらがなが書いてあるもだった。しかも彼はその中から、さっき鉛筆でなぞった「の」と「て」の字を拾い出した。

ああ、プリントでやっていたことの意味は分かっていたのだと少し安心する。それなら紙を使って字を書くことなぞやめ、積み木で遊びながらひらがなを教えようと考え、あいうえお順に発音して、その字の積み木を探すゲームに切り替えた。
なんとか拾い出すことの出来る字もあるが、なかなか拾えない字もあるようだ。

積み木の裏には、そのひらがなで始まる物の名前が絵と一緒に書かれているから、字を拾い出すことと一緒に、物の名前を聞き出そうとしたが、殆ど彼は日本語の名前が分からないようだ。彼の日本語の語彙は幼児のレベルを出ていないように見える。

そのうちに積み木にも飽きてしまい、また別のゲーム版を持ってくる。
それは勉強が終わってからにしようね、といっても分からない様子だ。どうも勉強をすることと遊びの区別がはっきりついていないのだろう。

このような状態で、正規の授業ではどうしているのだろうと大いに心配だ。さぞやクラスの先生も大変だろうなと想像すると同時に、B君も毎日、毎日教室で訳の分からない勉強をしなくてはならない苦痛は大変なものだろうと心が痛む。

放課後二時間目は6年生のN君を見た。
彼も日本語は殆ど理解できないレベルだ。しかし一年生のB君とは違い、母語のポルトガル語はしっかりしているように見えた。

日本語を殆ど理解していない彼に与えられたプリントは、一年生の、それも最初の部分の国語で、ひらがなだけのものだ。
それを読ますのだが、内容は一年生用なのでまことに幼稚だ。読むだけであるからそれでも良いということであろうが、6年生でしかも母語ではしっかり学年相当の知識を持っているN君にとっては、その内容は馬鹿にされたような感じのものだろう。かといって、いきなり6年生の教科書を読むことも不可能と言うものだ。
このような場合の適切なアプローチがあるはずであろうが、そこまで日本の公立学校では準備されていないし、それだけの人的余裕もない。

N君自身も毎日6年生の教室で、まったく理解できない日本語での勉強を聞き続けていくとことはさぞや辛いことだろう。一種の拷問にも近い状態にも思われる。

B君の場合もN君の場合も、公立学校では申請さえあれば入学を許可して、年齢相当の学年に入れる。後は学校現場に任せてしまっている。
日本人の子ども達の面倒を見るだけでも大変な状態で、このような外国人の子どもを面倒を見るということは、相当な熱心な先生でも不可能だろう。

受け入れるにはそれなりの責任があるだろう。
学校現場と当該外国人こどもだけが苦痛を味合うような現状はなんとしても改善する必要がある。

現状の制度を導入し、実施している行政の、それも日本政府の責任を強く問いたい。


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食べの物の味と健康。

2008-05-23 09:28:11 | 食べ物
そんな甘いものは食べないほうがよいとか、歳だからそんな油ギトギトの肉は食べないように、とかよく注意される。

勿論小生の健康を考えての小言だろうが、歳を取るにしたがって旨くて食べたいと思うものがどんどん制限されるようになって来た。

しかしちょっと待てよ、と考えた。

食べ物の味とは何だろう?旨い食べ物とはどういう意味があるのか?

食べ物に味があると言うことには重大な意味があるはずである。
まずくてとても食べられないとか、これではとても口に入れられないとか言うことは、それを体内に取り入れると、体調を悪くするとか、時として害毒であるシグナルではないのか。

人間がかって動物だった頃には、旨いということは、それが十分カロリーを持っているとか、栄養豊富で、生きていく上には大切な食物であるという自然の勧誘だったはずだ。
いまでも旨いものを食べたときに「甘い!」という表現を使うことが多い。「甘い」と言うことは、人間にとって共通した食べ物に対する「好み」の表現だろう。
これはその食べ物に十分なカロリーがあるということに違いない。

苦いとか酸っぱいとかの味は、本来それをあまり取らないようにとの本能的警告であったはずだ。

それが何時の間にか、旨いもや甘いものは健康によくないとか、体調管理のためには出来るだけ苦いものや酸っぱいものを採るようにと言われるようになった。

これはまさしく飽食の結果である。
人間の、それも贅沢になりすぎた人間社会の自然に逆行した生き方だ。

旨いものを旨いと言って食べ、甘いものを喜んで食べられる姿に少しでも戻すことが必要だろう。




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蓋付きボウル完成(その4)

2008-05-22 09:08:55 | 木工
中型のUFO型ボウル2題。

拭き漆で仕上げてあるが、材質によって仕上がりの感じはいかにも違う。

それぞれ下塗り2回、拭きうるし10回の工程で仕上げた。



栃の木ボウル


けや木ボウル
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