como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

真田丸 第25回

2016-06-29 21:47:34 | 過去作倉庫15~
 今わたしはちょっと大きなショックをうけて、がっくり落ち込んでいます。今週の真田丸ががっくりするくらいつまんなかったことではございません。同日の昼間にやった「武田信玄」の録画を間違って消しちゃったのです。それも、前の回のラストに三条夫人(紺野美沙子)が、八重(小川真由美)と一緒に部屋に戻ってきた瞬間、「……?……あ、あ゛あ゛あ゛――――――っっつ!!!」というぶっ壊れた絶叫で「今宵はこれまでにいたしとうございます…」以下次回、その次回の分を。
 まあ、リアタイで見てはいたけどまじめに続けて見てなかったし、なにぶん昔のことでもあるので、この「あ゛あ゛――――っっっ!!」の先に何があったのか思い出せないしわかりません。この滅茶苦茶引きの強いラストシーンの次に何があったか知る機会は、きっと生きて正気でいるうちはないでしょう。そう思うとじわじわショックだな。でも、わざわざDVD借りて見たりするのはなんか趣旨が違う気がするしな。「武田信玄」、基本、古臭いし退屈だし、それでもなんか見てしまう昔懐かしい大時代感にはまり、毎週末の夜に半分寝ながら録画したのを見るという、弛緩した鑑賞態度が基本なんで。あくまで私の中でですが。
 というわけで、三条夫人が何を見たのかは永遠の謎となったのですが、その一方で真田丸です。弛緩してみるなど許されない真田丸。それにしたって、いやあもう今週は……なんか、まいったな。なんだこりゃ。なんでこんなことになってしまった。この一話だけみれば歴代の駄作に引けを取らない駄作クオリティだよ。
 そうはいっても毎週真田丸のすばらしさに感動に打ち震えている人はたくさんいらっしゃるわけで、こういうことを言うとどこからか必ず飛んできて、この人は真田丸の歴史を見るまなざしがわかっていない!とか絡んでくる人がいる。歴史を見るまなざしですって。はあ、そうですか、これが歴史を見るまなざしなのですかとしか返しようがねえな、その手の人には。
 まあね、わたしもできれば臭いものにはふたをして、出来る限り長く皆さんとご一緒に感動に打ち震えていたかったけど、でもこの堕落っぷりに気づいてしまったら、そんなこと言ってる場合じゃない。これはない、ということを今週は言いたいわけです。いや、以前みたいにムキになって大河ドラマを論じるつもりはもうないんだけどさ。
 はい、それではいってみましょう第25話「別離」


今週のみどころ


鶴松危篤の一夜。奇妙なりの逆時系列。

 今週のお話は、秀吉(小日向文世)の愛児・鶴松が危篤の夜から始まります。その一夜が明けるまでの一晩のお話なんですけど、吃驚いたしました、はい。だって「鶴松様の病は死んだ利休の祟りでは…」とかいって、唐突に利休(桂文枝)が死亡扱い。は??と驚いていると「その半年前」に、話が戻されるんですよ。
 そこで、前回小田原城で押収された利休印の鉛、すなわち敵たる北条軍に公然と商っていた武器弾薬のところまで巻き戻し、再生。利休を失脚させたい大谷吉継(片岡愛之助)・石田三成(山本耕史)コンビは、話を大納言秀長(千葉哲也)のところに持ち込みます。病の重い秀長は、これが最後のご奉公と思い、兄秀吉に注進。秀吉の跡を継ぐ鶴松のためにも、大名たちが協力しあう良い関係の組織を作らなくてはならない。利休のようにひとりに権力が集中するのは先々に災いをなすと言い、それで説得された秀吉が利休の断罪にむけて動き出す、ということなんですけど、ここでわかんないのは、「利休が力を持ちすぎた」のっていつから?どんだけ?このドラマ的には、ってことなんですよね。
 茶室で秀吉によからぬことをささやいてはマインドコントロールする、あとは行く先々でトラックマーケットをひらいては女どもを物欲で洗脳する、それ以外になんかありましたかね?たとえば、秀吉の逆鱗に触れるくらいにほかの大名に影響力を持ったり、信奉者を集めたりみたいなことが。
 まあ、敵軍に軍事物資を売るだけでも十分いけないけどさ。それにしたって秀吉の次の世を脅かすほど権力を持っていたり、いつのまにか茶々(竹内結子)に「父と慕われて…」とか、急に言われてもね。
 そういうことも、過去にさかのぼって既成事実として語れば、まことに安上がりにドラマの尺も使わずに設定変更できる。便利ですねえ。でも、これだけは言わせてほしいんですけど、ここでトートツに、「利休にたずねよ」みたいに逆時系列で過去を追っていく手法になるのって、すげーヘンだよ。
「官兵衛」の味噌汁事例など持ち出すまでもなく、過去語りというのは完了形のエピソードをイージーに追加できる便利機能ではありますが、それにしたってなあ。利休の切腹は、尋常の時系列通りに入れたほうが絶対よかったと思いますよ。特に大徳寺山門上の像のくだり。茶々は手のひらサイズの(一般的な茶室に飾ってあるサイズの)利休像をほしかったのに、おもわず注文間違えて等身大のが出来ちゃいました、って何だそれ。ギャグか。いや、ギャグのつもりもないようだけどな…。でもこれ、ふつーに時系列のなかに入れ込んだら、ふつーに笑えた話なんじゃない?へんに捻ったせいか、笑っていいんだかどうなんだか、趣旨がよくわかんないで宙に浮いてしまったではないですか。
 あと、切腹を前にした利休の告解のくだり。「金で人の心を買うのは業のふか―いことでおます…」、その業ゆえにわたしは茶を点てる、と。そりゃいいけど、ここの利休の劇画チックな顔芸と、それを盛り上げるライティングがすごくて、それで業とかいわれると、どーしても連想せずにはいられないじゃない。現役感も旺盛に不倫などたしなんでおられた、中の方の身の下事情とか。しかも切腹シーンで見せた師匠の腹筋がけっこうすごく、ほぼシックスパックに近くて、思わず息をのんじゃったよ。別の意味で。ま、ちらっと「合成か?」とは思ったけどさ(コラッ)


もろ肌脱ぎというAEDは、二度は使えない

 2013年「八重の桜」第三話で西島秀俊(山本覚馬役)が、ガバッとばかりにもろ肌を脱いでムキムキの半裸をさらした瞬間は、大河ドラマ史に刻まれる衝撃的な事件になりました。
 ショックという意味では、あれは一種のAEDだったんじゃないでしょうか。あれでガツンとショックを与えて蘇生させた「八重の桜」は、29話まで超絶テンションで突っ走りました(そして、そこで息絶えたのだ…)。その後も西島に続けとばかり大河ドラマ界では、ガバアッ!半裸ァ!!!が、男優さんのお座敷芸みたいになりましたけど、あれほどのインパクトはもう二度とないだろうと思うのです。
 今週は石田三成役の山本耕史さんが、西島流にガバッとお脱ぎになりましたけど、やっぱり二回目のAEDはだめだね。効かない。「前にも見たよね」って思っちゃうもん。前っていつだ。2004年の「新選組!」の時か。まあ覚えているくらいだから当時はけっこうなショックだったんだろうけど。
 今週は治部と刑部のふたりが、バディもの刑事ドラマみたいな濃密なからみで魅せてくれまして、わたしもこういうのは嫌いなほうじゃないので、それなりに楽しかったです。
 特に、鶴松さまの危篤の夜に「どうせ朝まで持たない」とかいってサクサクと明日の葬式のタイムテーブル作りを始める刑部と、無駄とバカが大嫌いとか言ってたくせにバカ代表の加藤清正(新井浩文)なんかと一緒に脱…いや、快癒祈って水垢離(無駄)をとったりなどする治部、という立場逆転の図が、それが手とはわかっていても萌えました。
 常識があり、陽だまりのように温かい人柄…と思っていた刑部が、実は自分が好意をもってないものには極端に冷酷という、性格の暗部が垣間見えたのもよかった。つまり秀吉・茶々・鶴松に一片の好意ももってないってことで、このあたりの奥の深さも萌えたし、治部の、さんざん「ああ見えて熱い」「ああ見えて細やか」とか言われた「ああ見えて」以下部分の御開帳も、まあ狙ってるのわかってるけど、というかわかってるだけに楽しかったですよ。
 これって、あれですね、藤原紀香との結婚という修羅の道の前に立つ刑部の中の人と、堀北真希のおめでたというパステルカラーのしあわせオーラにつつまれた治部の中の人、というそれぞれの事情を鑑みると、この陰陽の反転はさらに奥深いですね。歴史へのまなざしとかよりそーゆーゲスなまなざしのほうが、この際面白い気がするよ。悪いんだけど。
 だけど、愛之助さんは大した役者だと思ってんですよ、わたし。キレッキレの異常者もできるのに、正常で心温かい常識人もできる。さらにその常識人の奥に隠した冷たい部分なんかも、ぜんぜんこれ見よがしじゃなくできるんですもんね。こういうのできるのは、このドラマではほかには内野さんと近藤正臣さんくらいじゃないかねえ。あ、いやほかの人がこれ見よがしだって言ってるわけじゃないけど(言ってるか)。


今、あえて言う。主人公・真田源次郎信繁は必要か?

 自分でもわかってることですけど、こんなに毎週真田丸のことを長々と書いているのに、主人公の真田源次郎信繁のことにも、演じる堺雅人さんのことにも、ぜんぜん言及してないんですね、わたし。いや、べつに憎くてそうしているわけじゃないです。大河ドラマの主人公にはわりとありがちなのですが、脇のキャラが立ちすぎて主役が影薄くなってしまい、インパクトが弱くて特別にとりあげて書くことがない……と言いたいところですが、それも実は違います。
 ようは、主人公について言及したら、突っ込まずにいられないことがあるんです。それは、

お前がそこにいる必要あるのか?

…という、わりと身もふたもない問題だったりするんですよ。
ようするに「それを言っちゃあおしまい」なんで、それに堺雅人さんのファンを敵に回すのもいやだし、これも一時のことであろう、そのうちに……とダマしダマし、見ぬふりをして通してきたのですが、でも今週は、さすがに言わずにはいられない。あえてここで言います。真田源次郎、お前ここにいる必要あるのか。というか、この主人公は必要なのか?と。
 とくに大坂城に来てから、源次郎のホストっぷりはすごいです。鼻につくなんてレベルじゃない。売れっ子ホストのように毎週毎週あっちのテーブル、こっちのテーブルと回ってはいろんな人のお相伴をし、将来を揺るがす大問題や不穏な情報を耳にしてしまい、そのうち皆の身の上話を傾聴し、弱音を吐き出させては、さいごになんか一言いうわけです。この「一言」。これがいけない。
 まあ、ホストという意味では「独眼竜政宗」の政宗@渡辺謙だって、大坂城では、秀吉に「そちのような息子がほしかったぞ」と言われ、利休に「こんな気持ちの良いお茶ははじめてどす」と言われ、テンパり秀次に連日遊びに連れ出され、最上の伯父貴の愚痴をきき、淀の方に色目を使われ、三成に嫉妬されていやがらせをうけ……と源次郎の一歩先を行く売れっ子ホストっぷりなんですが、それが特に鼻につくってことはなかったよね。まあ、あれは政宗が主役の物語として一貫して揺るぎなく回っており、脇役主体の演芸会になんか間違ってもならなかった、という作風自体の差もありますが、違いはもっと単純なことで、ようは政宗は行きかう歴史上のビッグネームに対して、小僧のくせにしゃらくさい説教を垂れたりということはなかったんですよ。それだけの違いだと思います。
 だけどその違いは大きいよ。源次郎君は、なんでまた意味もなく大坂城内をうろうろして、心を病んだり弱っているひとを見つけては、一言ツッコミを入れずにはいられないんでしょうか。んなこたあいいからてめえが主役の話をもうちょっとなんとかしろよ、と言いたくなる。
 だって大坂に来てから源次郎が主人公の話はなにも語られてないし、ぜんぜん先に進んでないんですよ。この人ただ人の話に「えっ」とか「はい?」とかリアクションしては、なんか一言ツッコミを入れるという、借りてきたツッコミ芸人状態で、ほんとにこの人が主役の必要ってあるのかな。なんか、話をよけいつまんなくしている気がするのだけど。
 大坂城に巣食う百鬼夜行のようなへんな人たちが、面白いのは最初の1、2回で十分わかったので、そろそろ切りあげて真田さんちの物語をのほうを前へ進めてもらえませんかね。天正壬午の乱のあたりは、主人公もよかったし話自体すごく面白かったのに、なんでこんなことになっちゃったんだろう。


そのほか。

 で、その真田さんちの話のほうは、すごく楽しみにしていた小山田夫妻の再会が「茂誠さまにお会いしたらすべての記憶が戻ってきたんです♪」だけで終わってしまったので、ガクッと腰が砕けてしまいました。まあ、茂誠さんが幸せになってくれたならそれでいいけど…。
 そして沼田城の源三郎(大泉洋)と稲(吉田羊)夫妻の新婚生活のほうは、ううう…これって必要なのか。「こちょこちょ」って。必要なのか。面白いのか。もう面白がらせもなにも放棄しているんじゃないのか。なんでもいいけど、とりあえず「時間の無駄」とだけは言っときます。
 あ、でも稲との新婚生活の緊張感に耐えかねて、元妻おこう(長野里美)のところに駆け込んでがばっと押し倒す源三郎は、いままでにない男の色気っつうようなものが、かすかにだけど感じられてなかなか良かったです。おこうさんは、おばあちゃんの介護のために侍女になったんだと思っていたけど、寝たきりのおばあちゃんを上田に置いて、家政婦として元夫と新妻のところについていって同居してるって、めちゃくちゃドロドロな状況じゃないか。まあ、ドロドロを一切ドロドロさせないのも芸風というものではあるし、そのあたり「新選組!」の近藤勇の江戸妻・京都妻の描写の徹底して頑ななまでのキレイごと主義など思い出し、あれから変わってねえなあ…と懐かしいまなざしになってしまいます。
でも、おこうさんは面白いキャラだし、この異常な状況も面白いので、今後に期待をしてますけどね。小山田夫妻の件があっさり解決してしまったので、こっちが今後の楽しみといってもいい。そう、関が原より大坂の陣より…(以下略


また来週っ!