陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

喪失は10年で片付けられない

2021-03-11 | 政治・経済・産業・社会・法務

東日本大震災から10年経つ今日は、この話題でもちきりでした。
ラジオでも、テレビでも、ネットでも。

日本国の現代史に大きく陰を落とした事件事故に違いありません。
直接の被災者ではなくとも、当時の国民は誰もが何がしかの不安や恐怖を抱えていたのではないでしょうか。

2011年の3月11日午後3時。
当時、非常勤の塾講師だった私は津波警報を受け、生徒さんを保護者に引き渡す役目をしていました。幸いにもご当地に被害はなかったものの、テレビの報道で知りえた惨状は、この世の終わりではないかと思われるほどでした。

交流のあったブロガーさんのなかには被災地へボランティアへ行かれた方もあり、漫画家さんたちはイラストを売った収益を寄付したり、被災地の特産品を買って応援しようという動きもありました。私ができたことといえば、菩提寺の宗派(臨済宗)の本部を通じてなけなしの寄付金を送ったことぐらい。

震災ではないにせよ、この10年のあいだに、家族を亡くした、職や家を失った、などの人生の転換期を迎えたかたもいたはずです。私もそうでした。耐震設計の基準が変わったせいか、街が強度ある建物に作り替えられていきました。私も古い家屋の一部を取り壊すことができましたし。

東日本大震災について興味本位で記事にしようとしたときに、おそらく被災者と思われる方からの好意的ではないコメントを戴いたことがあり、それ以来、この日にこの話題を出すのは避けようと努めていました。

現在のコロナ禍もそうなのですが、生活の苦境に対する捉え方はそれぞれで。
がんばろう日本という言葉が重いという声もあれば、支援金がもらえる罹災者に対する心ない批判もありました。身近に当事者がいたか、いなかったかで、受けとめ方も変わったに違いありません。

東京オリンピックの招致が叶ったときも、いまだに東北地方の被災地の再建が進んでいないのに、被災者が置き去りにされる、という懸念もありました。
その五輪は世界的なウイルスの猛威で、いまだ開催の目途すらもたたないという皮肉。

被災地での支援物資をめぐって、地域のリーダー役が幅を利かせ、必要な物資が行き渡らない家庭があったり、女性が被害に遭ったという話も聞かれるようになりました。田舎では独り暮らしも多くなり、防災無線の貸出も進んでいます。

今日みたニュースのうちで、痛ましかったのは。
津波のために7年ぐらい海を見るのが怖かったという証言と、10年ぶりに親御さんの亡骸が地中から発見されたというものでした。民法上では失踪宣告は7年でできますけれど、事実がないのに死者の烙印を押さねばならないご遺族の心境いかばかりか。

被災地出身のお笑い芸人さんが、東日本大震災に10年だの20年だのの節目なんてない、語ったそうです。私たちはついあれから何年目だからと、慰撫に時効をつけてしまいがちなのですが、そのとおりなのです。

東日本大震災からの日本の、人びとのそれからには、それぞれの思いきたすところがあって、一概にその悲しみや痛みを表明することはしがたいものです。
なんだかまとまりのない日記なのですが、苦しみを共有することの難しさをいまだなお感じざるを得ません。

ところで、先月にわりと大きな震度の揺れがあったことは気がかりですよね。
10年前と似ているという噂もありますし。何事もなければよいのですが。




この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画「女盗賊プーラン」 | TOP | ★★★神無月の巫女二次創作小説... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 政治・経済・産業・社会・法務