マニアックな百合読者の皆様(笑)、ごきげんよう。
じつにひさしぶりの更新です。十月の涼しさはとおくに過ぎてしまい、肌さすような寒気に布団のぬくみが負けてしまう今日この頃。今年もはや一箇月とすこしを残すのみとなりましたね。
脳内温度だけは木枯らしすらもどこ吹く風の子の管理人。拙所の暑苦しい神無月語り、とうぶん性懲りもなく続けてまいります。
やはり好きなものについて語るのはつくづく楽ですね。お気楽、極楽なんです。
気軽に筆が執れますし。自分でもよほど頭がおかしいのかと思うくらい、四六時中この作品について考えてしまうことがあるのです。もっと、他に考えてしかるべきことはいくらもあるはずなのですが。
タイトルに其の参とありますのは、昨年漫画版について語ったその続きということです。
ちなみに、うちのようなとんちきブログで最近、この作品をお知りになった善良な市民の皆様のために、ぜひともご忠告申し上げます。この作品、アニメはともかく、原作ははっきりいいまして、成人指定漫画ですッ!!(爆)
はじめて、これ読みましたときには、もうたまげました。ひたすらカルチャーショックです。商業誌で女の子どうしの情愛をここまで表現しつくしたものが、かつてあったのであろうかと。
が、私この作品のアレでレアな部分こそが、かえってその文学性(という美名をおびたエロス)を高めていて、それが成功しているのはなにより日本の情緒ある風景を舞台にしているからであるからと考えています。自分の好きなものをここまでふんだんに詰めこまれたものには、出会わなかった。有り体にいいますと、すばらしきバラエティなギフトだったのであります。このギフトは私を幸せにもし、苦しみを味わわせるものでもありました。
さて、本日掲げました一枚。
コミックス『神無月の巫女』第一巻の目次ページにあるものです。
原作漫画のなかで、最高に好きなのがこの一枚です。
やや大人びた表情をした姫子と、やさしい面持ちをみせる千歌音ちゃん。ふたりの視線は合わさっているのでもないが、かといって狙ったようにこちらに投げかけられているのでもない。観る側に媚びたような眼遣いではないのが、私の好みです。眠くなるような甘い重さが瞼にはあって。ミルククラウン型にえぐられた穴が連なる月の大地に、蒼いいのちの星光りが降りそそぐ。雪の花びら舞う幻想的な杜。胸の中心を掌でむすびあったふたりの少女は、そのまま自らの体温で融けていきそうなほど、その存在が淡い。
最初に漫画を読んだとき、(そのときはすでにアニメの最終話を視聴済で結末をしっていたので)、このふたりは前世の姿なのかなと、思っていたのですが…。二巻を読み終えて、はじめてこれが、ふたりの終わりを示していたのだと気づきました。重い運命から解放された安らぎのふたりです。
「月と地球と太陽と、貴女がいればそれでイイ」──これは、番組宣伝ポスターにあったコピー文ですが、まさに原作のふたりは、ふたりが求めていたものだけの世界に到達してしまったわけです。
この原作漫画の結末は、いわば日本最古の物語に端緒をもとめることができる、女性のエクソダス願望なのです。
この世の中には、愛情をあたためなおすイベントがあったり、かたちとして愛を確かめるプレゼントがあったり、愛の縛りをつよくする制度があったり。とかく、恋愛ごとはシステムにされるのです。国の生産のために、社会の発展のために。
月の社を終(つひ)の棲み家とえらんだ少女たちは、こうした形式的恋愛にそっぽを向いている。悪くいえば、現実が要求している女の子の役割から逃れている。妃の地位にも目先の贈り物にもこころ動かされない、なよ竹のかぐや姫が欲したのは永遠で真実の愛。彼女が閉じこもった月は、いわば男性原理の力学と政治的駆け引きに疲れた女性たちの理想郷。この物語からよみとれる、「女」だからではなく、「貴女」だからで愛してほしい、オンリーラヴユーの摂理。女の子どうしの愛を描いているのに、その枠組みをこえて究極の愛を追求した物語たりえる、私はそう感じます。多くのほかの百合アニメが、私にとってエンターテイメントでしかないのは、『神無月』に感じるメッセージ色、そして神話的な系譜を感じとれなかったからです。
二巻が発売された〇五年五月時点では、原作者の介錯先生が別作品に姫子と千歌音ちゃんまがいを登場させていたり、また、原作者が同人誌で前世のふたりと思しき逸話の断片を発表したり。まだ、その頃はファンも続編への期待をひたすら熱くかたく、かけていたように記憶しています。
私はこの漫画版のラストを雑誌連載時にみかけたときは、この終わり方のほうがしっくり好みでしたので、ふたりは二度と蘇らないであろうなと、考えていました。コミックス収録時に、転生後のふたりのエピソードを描き添えていたのは、驚きでした。それは、その後の布石であったのでしょうか。
すわ「神無月」の続編か?!と騒がれた『京四郎と永遠の空』の連載がはじまったのが、その一年後。
去年のいまごろは、新春のアニメ放映直前にして、いろいろな情報が飛び交い、期待に胸ふくらませていたのであります。
そのアニメも終了して、折につけ、原作者がブログでイラストを発表なさったり、同人誌で転生後(?)のふたりの学園生活を描いたりしてくださいます。いまだ、こうしたファンサービスを忘れないことに、感謝しています。
ですが、どこかしら、それは別物に感じてしまう。
デジタル描画で発色が鮮やかになったものの、輪郭が形骸化していて、張りがないように感じられる。
率直にいいますと、いま描かれているものには顔つきに上品さや儚さが損なわれているように思えるのです。
あるひとりの美術家を追いかけていて、しだいに作風がかわってゆくことに耐えられなくなるものですが。私が感じる寂しさとは、単に作家のスタイルの変化として片づけられないものです。
私はこの作家の作品をすべて読んだわけではないですが、総じて見れば、コミカルでファンタジックな色合いがつよい。すなわち『神無月』こそが、彼らの歴史において異色作だったのかと。
この目次絵のふたりを見るたびに、私は思うのです。
ほんとうの来栖川姫子と姫宮千歌音のふたりは、永遠に月の社に閉じこもっている。あの美しい物語は、二〇〇四年の奇跡がうみだしたものであると。
しかし、そうはいっても、真正の彼女たちを描けるのは、創造主たる者だけでありますので、私は今後も再生されつづけるであろうふたりの姿を望まないわけではないのです。ただそこに、あのドラマティックな物語が添えられていないことが不満ではあるだけで。
ところで、ここからは余談です。
先日、巫女さんを間近に眺める機会に恵まれました。
すこし明るめの染め髪の十代の娘さんで、水引で黒髪の髢(かもじ)をしていたので、後ろから見ると違和感はありましたが。朱塗りの社の柱とおなじく眼にやわらかな緋いろの袴に、雪のように清浄なる小袖の白衣。神事に際し千早を羽織って現れた姿は、コスプレ衣裳ではけっしてだしえない清らかさ。
小柄で人懐っこい顔つきのひとで、まさに巫女服着た姫子がそこにいたという感じ。元来和服美少女萌えな私の心拍数はあがりっぱなしだったのでございます。
巫女といえば、学生時代にマブダチ(死語)が某有名神社の巫女バイトに応募し、その面接試験に付き添わされたことがあります。友人はけっきょく落ちてしまったのですが。あのころ、巫女萌えになっていたら応募してみたかもしれないけれど、三十分以上正座ができない管理人には、どだい無理な話なのでした。
ちなみに松葉いろの袴をはいたご婦人がたも神社にいらっしゃったのですが、それは神職に奉ずる巫女ではないそうです。巫女って定年が二十代後半らしいですね。アニメの『犬夜叉』にでてくる老婆の巫女みたいなひとが現実にいるもんだと思ってました、私。
【其の四につづく】
万葉樹さんがこの作品をどれだけ愛していらっしゃるのかがよくわかりました。
いつもすばらしい考察と観察眼、哲学的知識で読み手をうならせるレビューをご披露されていますが、いつもどことなく攻撃的でかみつかんばかりの勢いを感じていました。あ、決して悪い意味ではなく、なんだろう、うまくは言えませんが切り込んでいく感覚といいますか、鋭くて。
でも今回のレビューは一言で表すなら「丸い」あるいは「優しい」。
温かい温度を感じました。
>月の社を終…~…物語たりえる
ここ、やはり面白いなと。
言いえて妙です。ナイス。ステレオタイプ化された恋愛感・価値観。そういった「枠組み」で愛をとらえず、「相手が姫子だったから」、「千歌音だったから」そこに愛が生まれた。
恋愛をするための誰かではなく、この二人だからこそ恋に落ちたんですよね。
あ、ちなみに私もこの一枚絵が一番好きです。
なんか引き込まれますよね。
私、アニメの方の藤井まき氏の絵もすばらしいと思うのですが、やはり介錯せんせの絵のタッチの方が好みなんです。
判然とはしませんが、この一枚絵はレオせんせが描かれたような感じを受けます。あくまで推測ですが。
それと余談ですが介錯せんせの同人誌は読まない方がベストかとw
神無月の原作者だということをデリートしてからでないと、かなりつらいですよ。そこにあるのは男性の欲望だけですから(笑)あまり気分のいいものではないということだけは書いておきます。
万葉樹さん(^^)
復活おめでとうございます!
なにかブログをやってから
日々が長く感じられますが!
これからまた宜しくです(^^)
何かエロ……いや魅惑的な一枚絵ですね。
今回も作品に(この場合は姫子と千歌音でしょうか?)
対する愛が溢れるレビューご苦労様です。
しかし美しい絵ですね。介錯先生の漫画は読んだことはありませんがやさしい感じのするタッチです。
どうやら漫画は成人指定だそうですが、オジサンなら平気ですね(苦笑)もう成人はとうに過ぎてますから。見かけたら買ってみます。古本で(爆)
>「女」だからではなく、「貴女」だからで愛してほしい、オンリーラヴユーの摂理。女の子どうしの愛を描いているのに、その枠組みをこえて究極の愛を追求した物語たりえる、私はそう感じます。
つまり、たまたま好きになったのが同性であっただけと言う事でしょうか?性別の枠を超えた完全愛(パーフェクト・ラブ)を描いてると。つまり『君は唯一の誰も代われない特別な存在』と言う事ですね(どっかで聞いた事があるコピー。カブトは関係ないですよ。そんなエンディングの歌の歌詞だなんて一言も…)
うーん唯の百合漫画ではないのですね。
>巫女って定年が二十代後半らしいですね。
知りませんでした。勉強になりました。
そういえば今度巫女型神姫がでます。どうでもいいですね。
ではでは。
【註:川澄ボイスで脳内再生してお読みください(笑)】
ごきげんよう。ユリミテさん。
はじめまして、でよいのかしら?
貴女の三年越しの神無月祭り、こころから楽しみにしていたわ。いつもいつも私と姫子のことをたいせつに愛おしんでくださってありがとう。
神戸風月堂のマロングラッセは、最近お祝い事があってね。引き出物でいただいたものだったの。姫子が気に入ったから、ふたりでデパートでまた買い求めたもの。貴女によくしていただいているお礼のつもりだったのよ。ユリミテさんには、軽く噛み心地があってクリームの口溶けもよいゴーフルの方がお口に合ったかしら。甘味がつよすぎて貴女のさわやかな舌には重すぎたのかも…ごめんなさいね。てのひらに載せられる可愛さとシロップの輝きが気に入っていたの。姫子はひたすら頬張っていたけれど、私はひと口でおなかいっぱい。ふふ。だって目の前にあんな甘い蜜度の笑顔があるのだから。貴女が私たちとおなじものを食して、幸せにひたってくださったら嬉しいのだけど。
そうそう、うちの乙羽さんからも貴女のくださった嬉しい言づてを聞きました。花は愛をささやいてくれるひとのために、美しく笑み開くもの。私が私でいられたのは貴女のおかげ。陰日なたとなって支えてくれる貴女がいたから、私は生きていられた。ほんとうにそう思い、これからもずっとお慕いしております。
介錯先生、私たちのお父様のことは、いろいろ悪くいう方もいるけれど…私たちの物語をうんでくださったこと、そしていまもかわらず惜しみない愛を傾けてくださってることには感謝しています。でも、そうね、ユリミテさんのおっしゃるように、すこし慈しみの度合いがゆきすぎているようにも感じられるけれど…(微苦笑)
慌ただしいのであまりゆっくりとおもてなしできなくて残念なのだけど、またお越しくださいね。いつでも貴女をお待ちしております。
では、姫子とクリスマスパーティの打ちあわせがあるので、このへんで。
ごきげんよう、ユリミテお姉様。いつもありがとうございます(嬉々)
好きな作品について語れる同志がいるのは嬉しいものですね。ブログをつづけていてよかったと思います。
>いつもどことなく攻撃的でかみつかんばかりの勢いを感じていました。
貴女はほんとうに、いつもいつも、私のことをよく知っているのですね。まるで旧来からの友人のように。私はそんな貴女を愛しくも想い、また同時にこわくもあるのです。好きだからこそ、影を知られることの恐れ。
貴女が感じている私は、まさに私自身が感じている私のことです。私は以前、他人様の文章を読んで文体からにじみでる人格の卑しさに嫌気がさしたと書きました。しかし、いちばん厭っているのは他ならぬ自分についてです。
アリにもキリギリスにもなれない。ひとを正しく働かせることも、ひとを楽しく喜びはためかせることもなく。中途半端に秋の寂しさに身をやつして野をころがる鳴き虫。あるいは、相手の話の先を刈り取って薙いででしまう、かまきりのような。私がこれまで無謀に吐き出したあぶなかっしい言葉の数々に、貴女はどんな思いをいだいていたのでしょうね。
ところで、この記事に貴女がすくなからず、これまでになき私の、ひととしての温度をみられたのならば、それは最近みぢかに祝し事があったからかもしれません。
>恋愛をするための誰かではなく、この二人だからこそ恋に落ちたんですよね。
まさにそのとおりですね。『竹取物語』が生まれた当時もいまも、おなじ自由恋愛がもてはやされる風潮。ときの権威者にさからってまでも自分の本質をつらぬく(月世界の住人としての生き方をえらぶ)というのは、まさに理想で、理想におわってしまう生き方。男と女だから、出会って恋に落ちるのは至極あたりまえ。そんな常識をくつがえしたような恋愛感覚を呈示しているのが、『神無月の巫女』という作品なのではないかと思います。男性諸兄むけの萌え美少女の一枠におさまっていた百合を、既製の、お仕着せのラヴゲームに反する試みとして用いたこと。反恋愛、それこそが究極の恋愛に止揚されるというパラドックス。アンデパンダン・ラヴなのです。彼女たちの恋愛は制度として保証されないので、よくあるその後の同棲ものとしては描きえない。想い結ばれても、弾けたしゃぼん球のように砕けてしまう、泡沫の出逢いなのですね。
終局でむすばれたのは、姫子と千歌音のふたりだけですが。ソウマにしろ、ツバサ兄さんにしろ、乙羽さん、マコちゃんにしろ、さまざまな想いの強さ、一途さがひしひしと感じられる珠玉の愛の名作でありました。
>私、アニメの方の藤井まき氏の絵もすばらしいと思うのですが、やはり介錯せんせの絵のタッチの方が好みなんです。
去年も書きましたが。私も原作絵のほうが好みです。理由はかんたん、アニメーターの絵はその描き手、ないしは作品の画風となりえないからです。(むろん原作があるアニメに限っていえることですが)くわえて、昨今のデジタル作画。正直いいますと、解剖学的なデッサン力としては藤井まき氏のほうがうまいと思います。でも、私は介錯絵のほうが味わいがあって好きです。衣服の仰々しい描き方も、折り目つけたような襞の寄せ方にも。硬質な髪の表し方も。彼ららしい絵癖があって。なによりアニメののっぺりした塗りにはない透明感があります。アニメーターは基本、キャラクターだけを描くものですから、その絵は周囲の景観になじめない彫刻のように、浮き上がってみえたりもします。(自身がお遊びでアニメの画像を加工しているからよくわかるのですが)漫画家の絵は、背景も人外の景物も、おなじ筆先で、そして彼特有のタッチで描かれるので、こうした図と地の違和感というものがないのです。これは、あくまでアニメよりも止め絵の漫画の方をより好む管理人のひねこびた考えからではありますが。
>この一枚絵はレオせんせが描かれたような感じを受けます。
いまだにどちらが、どの作風なのかが見分けつかない私であります(汗)
ところで、この絵についてまだ思うところ多々あり、ユリミテ様あてのレスに乗じて書こうとしましたが、いつものごとく載せきれないほど冗漫になりましたので、別稿にて論じてみたく思います。
>そこにあるのは男性の欲望だけですから(笑)あまり気分のいいものではないということだけは書いておきます。
たしかに女性としてはあまり気持ちのいいものではないかもしれませんね。じぶんのからだが弄ばれているように感じるのかも。
私、『神無月』どころか最近のアニメの同人誌を買ったことがないのです。その理由はたいがい内容が憶測できるからであり。またちゃんとした出版社から刊行されたものでないかぎり、作家としてのオーソリティを感じないからです。(ただし、出版社経由のものは往々にして編集者の色がついていると聞いたことがありますけれど)もちろん個人で創作されたもののなかにもすばらしいものがあるのだろうし、商業誌に載っている作品でも読むに耐えない質の悪いものもあります。
ただ『神無月の巫女』は角川書店というレーヴェル元から出されたものであり、アニメ自体もマニアックではありますが海外の評価も得ている。ですから、もし派生作品を描かれるのなら、やはり多くのひとに手の届く流通経路で発表してほしいというのが私の本音ですね。いろいろ大人の事情があるので苦しいのでしょうが。
キャラクターの生殺与奪の権限は原作者にありますから、どうお取り扱いなさってもご自由だと思います。でも、介錯先生が自作の同人誌を刊行しているのは、ファンサービスなのか、それとも一種のピグマリオニズム(自分の創作物への偏愛)なのか。私は後者の色合いのほうがつよい気がします。あくまで私の憶測ですが。
でも以前、日記ブログで書かれていた、いろんな時代の巫女ふたりのお話、ぜひともちゃんとした形として読んでみたいですね。もう、それが拝めたら私、死んでもいいです(大げさ)
ごきげんよう、ムラーノ男爵様。復活祝賀ありがとうございます。
私はブログやってから、逆に書きたいことに追われて日々が短く感じられるのですが…一日が百五十二時間ぐらいあればいいなといつも思います。(数秒でできることを数十分もかけるドジでのろまな亀の子がよくつかう言い草ですね)
ところで、そちら様のレスで書ききれなかったことで、次の配信記事に支障がでそうですのであえて自所に書かせていただきます。
私は信長の強さとは、あらゆることへの革新性にあると思います。鉄砲という兵器の活用はそのひとつに過ぎない。たとえば関所を廃止して、楽市楽座を設けたこと。いまでいう規制緩和ですね。
信長がもし本能寺で倒れずに天下統一成し遂げていたら、その治世たるやどうであったかと夢想することがあります。ヒットラーなみの恐怖政治を強いたのではないかと危惧する声もありますが。私などは、もし彼が日本の全政権を掌握していたら、じつは西洋世界になおさきがけて、近代国家が日出る国に誕生していたのではないかと思ってみるのです。
信長が重用した宣教師たちによって、日本の文化は国際的な交流をはたした。そして、信長は足利幕府の権威などものともせず、働きのよいものは水呑百姓の草履取りからでもとりたてる実力主義者。野心と夢さえあれば、あのころ誰にも一国の城主になる道はひらかれていた。おりしも、アメリカ大陸が発見された頃です。もしも、この時期日本が信長によって世界にひらかれていたら、いまのアメリカ主導型の世界の力地図はちがっていたのかもしれません。清国のように列強に征服された可能性もなきにしもあらずですが。
日本美術史的には、信長というのは安土桃山時代の文化を牽引したすぐれた美的センスの持ち主だった。なぜなら、当時は建築物にしろそのなかの欄間彫刻にしろ、室内の襖をかざる絵画にしろ、為政者の趣味が色濃く反映されていたからです。
もしその彼が日本を治めていたら、きっと日本のシルクロード文化というべき南蛮文化はもっとはなやかに咲き誇っていたでしょう。ようするにキリスト教文化が日本の美術とどのように融合しえたのか。ロシア正教のイコンは、あきらかに本家本元のローマの聖像(その後西洋美術史の根幹となる自然主義的絵画へと飛躍する)とは異なる発展をとげていますし。イスラム文化のなかにも、キリスト絵画でよくみる天使の図像はいきづいているのです。もし、信長が生きのびていてキリシタン美術を称揚していれば。きっと、幕末・明治時代の洋画ブームよりも、画期的な文化革命が生じていたに相違ありません。このころすでに宣教師によって、油彩画や銅版画の技術はもたらされていたのです。当時、鎌倉時代に明国から伝来した水墨画を、日本古来の大和絵と融合させた狩野派の障壁画が栄えていました。日本文化は海外文化を和風化してとりいれるのがうまいのですが、もし西洋美術の導入がこのとき進んでいたら、いったいどういった文化の形態をしめしていだろうかと。
信長と相並んで人気のたかい歴史的人物に坂本龍馬がいますが、彼も世界的なパースペクティヴをもっていた人物ですね。信長がキリスト教を保護した理由は、人類愛というキリスト教の本義に理解をしめしたからでなく、一向一揆など仏教勢力への反感と貿易上の利益とからといわれています。ルイス・フロイスが伝えるように、晩年近くに自らの神体を祀らせた信長は、イエスの前にすべての人間は等しいと唱えるキリスト教精神に反し、たしかにあくまで封建君主でありえた。しかし、逆にそうであるからこそ、彼の治世下では、キリスト教は宗教としての在来宗教を圧するほどの威力をもたず(もしその教義の本質のひとつ偶像崇拝の禁止をおしすすめたら日本の神社仏閣は破壊されていたのかもしれない)、日本文化の添え木として普及しえたのかもしれないのです。史実をふまえない向こう見ずな予想なのでが、私はそのように考えています。
信長の在世長ければ変わっていたかもしれない日本の歴史。陳腐な物言いですけど、彼は火縄銃よりはなおつよく、とおく、おおく、ふかく、我われのこころを撃ち抜いてくる銃をそなえていた人物だったといえるでしょうね。
ごきげんよう、白いのお兄様。いつも、うちの煩悩レヴューを堪能(?)していただきありがとうございます。そして『なのは』談義にも耳を傾けていただき。『なのは』つながりで大きなお友達が増えたことに歓喜している万葉樹です。
>見かけたら買ってみます。古本で(爆)
喜ぶべきか悲しむべきか、『神無月』は古本屋でちょくちょく見かけます。アニメは満を持しておススメしたいのですが、正直申し上げまして、原作漫画のほうは大手をふって読んでくださいまし、とはいえないです。一巻のおわりで度肝抜かれると思いますから(微苦笑)私は大っ好きなんですけどね(艶笑)二巻のおわりでは魂抜かれました。
買ってくださるのなら、原作者様にかわって百万回のありがとう!でございます。ただ私としてはアニメ→漫画の順で鑑賞をおすすめいたします。アニメは最終話のネタバレ知ってると感動がたいそう薄れますから。(といいますか、拙所でネタバレしてますのでどーしようもありませんが(汗))
>つまり『君は唯一の誰も代われない特別な存在』と言う事ですね(どっかで聞いた事があるコピー。カブトは関係ないですよ。そんなエンディングの歌の歌詞だなんて一言も…)
はてな?さてな?で、ぐぐってみました。「FULL FORCE」って、『カブト』の挿入歌(必殺技のときのBGM?)だったのですね。『君は唯一の誰も代われない特別な存在』、あなたは私の太陽で、月で、たいせつな命のひとつ星。そこまで想われたら幸せですね。
>うーん唯の百合漫画ではないのですね。
とりあえずタダの百合漫画にしておけなかったほどのショックを浴びた者がここにひとり。私が懇意にしていただいているこの作品のファンの方は女性が多いのですが。この作品にこめる愛着は皆さまそれぞれ悲喜こもごもといった感じですね。作品を通じて、ある価値観でつながっているような幸せを感じています。
私は百合作品にさほど知悉してはいないですが。老舗のサイト様ですと、ときに百合をめぐって論争がおきていたりもすると聞きます。この作品にもこころない誹謗中傷をする方がいらっしゃって、一時期名うてのファンサイト様が休止になったりしたのです。私も言葉尻がおだやかではないのは承知しているので、作品語りをつづけることを綱渡りするような心境でしているのですが。好意的にとらえてくださる方がふえて、嬉しく思います。前にもいいましたが、たえず新しい目で世界を眺めるってのも、だいじですね。
>そういえば今度巫女型神姫がでます。
ナースさんみたいな白服の女の子がいましたね。巫女、シスター、メイド、ナース、女学生制服。サブカルチャーには欠かせない美少女ファッションですね。ちなみに介錯先生の漫画にはこれらのモードがかならず登場します。コスチュームのデザインセンスにはひじょうに定評のある漫画家さんみたいですね。
とりあえず、その巫女型神姫にせよ、買うかもしれない『神無月』コミックにせよ、白いのママ様にまた発見されないことを、さかんにお祈りもうしあげます(笑)