陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」

2011-08-01 | 映画──社会派・青春・恋愛
公園のベンチに座るのは好きではないが、バスの停留所にあるベンチに座るのは嫌いではない。なぜだろうか。公園のベンチは、時代に取り残された人間が座る場所だった。バス停のベンチは、そんな焦燥感がないのだ。目的があるわけでもないのに何かを待っているという姿勢をとることができるからなのかもしれない。

1994年の映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」(原題;Forrest Gump)のトム・ハンクス演ずる主人公も、ベンチに座りバスを待っている。彼がバスを待っているのは、それがとびきり不思議な運命を連れてきたからなのだろう。

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いい年した男が昼日中に、子どもでもあるまいに、ベンチに座ってチョコレートを頬張っている。しかもリボンで装飾された贈り物らしきチョコレートを。母譲りの言葉を主人公は口にする──「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみなければ分からない」。チョコレートの箱は二重に騙すのだ、そのパッケージにおいて、そして甘い風合いのコーティングによって。しかし、人はそれを甘いと信じて手にとっていくだろう。手にとってためらっている時間などない。人生とはそういうものだ。

ベンチで語られはじめる男の人生は、ありえなさそうでありえそうなおよそ三〇年にわたる数奇な半生だった。初見時は展開が唐突すぎて意味がよくわからなかったが、とにかく最後がよくて感動しきりだったと記憶してる。二回目に視聴したときは主人公がお人好しなのに運に恵まれているだけで幸福なだけに見え、あまりに不憫すぎる女性の扱いに憤慨しもした。

いま、三回目の視聴だった。
三回目にして何を思うか。やはり「フォレスト・ガンプ」は世紀の大傑作だったということだ。短い人生で三度も観たいと思わせる映画は少ない。「フォレスト・ガンプ」は、観たいと思わせる数をさらに伸ばす作品だろう。

「フォレスト・ガンプ」は、軽度の知的障害を抱えた男の半生の物語である。
と同時にこれは運命の女性への一途な想いをささげる純愛であり、またベトナム戦争を題材とした反戦映画であり、60年代末のヒッピー文化、レッドパージ、政治汚職、児童虐待、ドラッグとエイズなど世相を証言した社会派ドラマでもあり、障害者に生きる活力を与え、片親世帯にエールを送る希望のシナリオである。

しかし、この映画の味わいの妙にあるのは、主人公が打算に基づいてではなく、ただ走ることによって複雑な人生を織りなしていったことにある。ともすればご都合主義に傾きがちな荒唐無稽なシーンの数々に思えるのだが、栄誉を受けたとしても尊大になりすぎず、批判を受けたとしても卑屈になりはしない、主人公ガンプの生き方はひろく共感を呼び込むことだろう。

本作に深い奥行きを与えているのは、ガンプの少年のように純朴すぎる姿勢をときに批判し、最後には受容していく二人の存在であろう。

ひとりはガンプの運命の女である幼なじみのジェニー。
女性の社会進出が叫ばれた時代にありったけの不幸を背負い込んでいく女性だ。その人生を振り返って見れば、どうして側にいて守ってくれるはずの存在に気づかないのか、と鼻白むほどだ。彼女が窮地に陥った時に駆けつけてくれるガンプは、さながら「風と共に去りぬ」のレッド・バトラーのように頼もしい。
しかし、もし、ガンプが彼女一人の男となり、早くに父となっていたならば、彼の数奇な人生のエピソードは起こりえなかっただろう。彼女が不幸なことは、少女時代にガンプに保護者のように接してしまったことにある。おかげで腕っぷしが逞しくなったが知能が低く愛の意味など知らないと思い込んでいるガンプを、いつまでたっても一人前の頼るべきパートナーとして認められないのだ。
おかげで、ジェニーは男運の悪い人生を歩みつづけ、身を持ち崩してしまう。ジェニーは「(ジェニーの)お父さんは娘を大変かわいがった」とやんわりとズレた表現をしたガンプの優しさと賢さを知る由もない。女の愚かさを代弁したかのような生き様なのだが、一人の子の母となったことでそれまでの頽廃的な雰囲気が払拭される。この描き方はいささかずるいといえなくもないのだが、マラソンランナー時代を覗けば主人公の風貌がほぼ一貫しているのに対し、変節しすぎていくジェニーの外見はアメリカ社会の変遷を如実に映しだす鏡となっているのであろう。

もうひとりはダン・テイラー中尉である。
風のように人生を走りきっていけるガンプとは対称的に、テイラー中尉には歩くことすらままならない過酷な運命が待ち受けている。それはこの時代、退役軍人が経験した精神的苦痛そのものであったろう。戦闘時の描写自体はいささかおかしな点が目につくが、このテイラー中尉こそはまさに当時の病める合衆国そのものであった。ガンプと上下関係から対等な友情に至っていく過程がほろりとさせられる。戦争というものにかろうじて意義があったことを認めるならば、それは生死を共にした男たちの絆の美しさということになろうか。

三度目に観なおしてみて、あらためて本作が驚くほど豊穣な人生のエッセンスを詰め込んだ名作であることを確認した。私はこの映画のなかに、過去にみたいくつかの映画のタイトルを思い浮かべその類似点を見出そうとした。にも関わらず、本作はそのどれにも当てはまらないのだった。
そのふつうの映画が二時間かけて一本に仕上げるような事柄が、本作では箱のなかに並べられたチョコレートのひと粒ほどでできごとでしかない。

フォレスト・ガンプはあの時代、こんな人間がいてくれたらという、現代が送り込んだヒーローなのだろう。しかし、時代の寵児とはなれるが、真実の愛が逃げていく悲しきヒーローである。

綻びの見えないほど精巧なデジタル合成技術を用い、歴史上の人物たちと対話することによって、架空の人間を過去にねじ込んでいく手法──監督のロバート・ゼメキスは1997年の「コンタクト」においても、この手法を用いている──は今となっては、タイムトラベルなどのSFファンタジーに隆盛でさして珍しいことではない。しかし第67回アカデミー賞で六部門を制した本作が訴えるのは、エンターテインメント色を狙ったからくりの妙ではなく、きまじめな人生の本質への問いかけであろう。

主人公がリトル・フォレストを乗せたバスを座して待つシーンで、また一から見直してみたくなる。心にくいからくりだ。そして、最初と最後を結びつける白い羽根が愛する人のあの悲しい台詞と結びついたとひらめいたときに、なんともいえない切なさがこみあげてきてしまう。

人生の体験には酸いも苦いもあるにも関わらず、すべてが甘いと喜んで味わいつくせるふてぶてしさというべきか、鈍磨というか、そういうひたむきな感覚を備えれば生きていることは辛くはないと感じさせてくれる。

(2011年3月3日)

フォレスト・ガンプ 一期一会 - goo 映画



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