蒸気鉄道日記

5インチゲージ・ライブスチーム活動の日々を書き連ねます。

超短時間工作再び

2011年05月31日 | Weblog
 先日旋盤のチャック交換時に痛めた指が二週間たっても治らずに痛みますので昨日外科へ行きました。幸い骨には異常はなく、あと一週間ほどで治るでしょう、ということでした。ひと安心です。
 さて、ZARD武道館ライブの興奮さめやらぬ日々ですが、本日から再び平日の超短時間工作が復活いたしました。
 写真のとおり本日もD51の煙室管板の工作です。つまりポンチマークの上からドリルで揉みつけを行なったのでした。これはわたしのいつもの工法で、より確実に本番のドリル刃を中心に案内するためのものです。拙著『B20製作奮闘記』でもご紹介いたしました。ライブスチームのように大径のドリルを使用する場合はポンチマークだけでは先端が滑って中心を外してしまうことがあるからです。16番時代には使っていなかった方法です。

 今回は3.2mm径のドリルで行ないました。この径には特に意味はなく、単に手持ちのピンバイスでつかめる最大径だったからにすぎません。本当はもう少し大きな径で行ないたかったのですが、まぁしかたありません。
 同時に煙管ロウ付け用の治具の方にも揉みつけを行ないました。こちらは鉄板ですのでちょっと歯ごたえがありました。終わってから指を見たら爪の脇に血がにじんでおりました。まさに血もにじむような努力だったわけです(しみじみ)。
 揉みつけ痕も丸かったり三角だったりといろいろです。ちなみに所要時間は35分ほどでした。いつもよりはちょっと長かったですね。やはり鉄板にピンバイスで揉みつけをするのはちょっと骨が折れたということです。

 これから先はいよいよホルソーで本番の煙管孔を開けることになります。ここまで準備工作をしてあれば、それほどの時間を要さずに完成することでしょう。しかし、ちょっと汚れ仕事ですので帰宅後に行なうにはきついものがあります。なにしろ家に着いたらただちに入浴し、飲酒態勢に入ることになっておりますので。。。
 
 そういう次第ですので、自室で出来るあまり汚れない工作はないものかと思いめぐらせましたが、当面はなさそうです。この点ライブスチームというのはハードな工作が多いので難しいものですね。早く定年になって毎日が日曜日にならないものかと心待ちにしています。まぁ、年休がたっぷりと残っておりますので、これを消化すればけっこうな工作が出来るものとは思いますが、本業の方が次第に佳境に入りつつありますので次第に年休も取れない状態になってきています。今年は節電対策で夏休みが長くなりそうですから、それを活用して工作出来るかもしれません。もっとも暑さと藪蚊の攻撃に耐えられれば、の話ですが。対策として工場扇でも導入することにいたしましょうか。

blogram投票ボタン ←明日は何をしましょうかね~。
 
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助勤の思い出

2011年05月30日 | Weblog
 本日は取材の流れで飲酒をしましたので帰宅が遅くなりました。したがって工作方面はまったく進展がありませんでした。
 というわけで、本日は久々に学生時代の国鉄臨時雇用員の思い出話などをいたしましょう。
 今回はちょっと角度を変えて見たいと思います。それは「助勤」といわれるものについてです。
 「助勤」とは所属の職場を離れて他職場へお手伝いに行くことの用語です。われわれ臨時雇用員は、原則的に現場採用の日々雇いですので、他駅に行っても形式上はそこで改めて採用される形になることから、正確には助勤ではありません。しかし事実上は助勤であり、現場の管理者も一般職員もわれわれも助勤と呼んでいました。

 というわけで、助役同士が知り合いのつてを頼って繁忙期などに「ちょっと寄越してくれない?」などと話を持ち込んでくる例はけっこうあったのです。最もよく行なわれたのが野球対応です。例えば信濃町駅では神宮球場でのヤクルト-巨人戦、早慶戦など、水道橋駅では後楽園球場(時代が分かります)の阪神-巨人戦といった具合です。また、原宿駅からメーデー、年末年始の対応を頼まれたこともありますが、そのときは自駅の方も忙しかったのでほとんど行けませんでした。府中本町駅の競馬対応というのもありました。

 これらは繁忙対応ということで予算がたっぷりあったのか、最大多客時に対応して人数を集めていましたので、閑散時は人が余ってやることがなく、30分立番(たちばん)をして2時間半手待ちなどというすごいこともありました。そのかわり引き上げ時は総出で延々と改札をします。
 青梅線の河辺駅から頼まれて交代でしばらく通ったこともありました。こちらは純粋に要員不足の充当でしたので、本来の作業ダイヤどおりに仕事をしました。
 あるときの夕方、手待ちで一人で事務室にいたところ、切符を買いに来たお客さんがいてあわてたことがありました。ちょうど夕方前の閑散時で出札担当の職員が夕食を作りに席を立ったその数分間でした。むこうも手が離せない状態で「ちょっと頼むよ~」という返事でした。さて、そうはいっても申告された乗車券がどこにあるか分からず、ウロウロと乗車券の棚を探し回ったあげくやっとのことで見つけて発売しました。出札をしたのは後にも先にもこのときだけでした。まだ近郊区間を硬券で手売りしていたころです。当時は河辺では貨物の入換もあって、のんびり見物していたこともありました。のんきな時代だったのでした。

 以上は慣れ親しんだ改札を中心とした業務で、まぁ、どこへいっても間違いなく務められたのですが、なかにはちょっと変わった助勤もありました。それは次の機会に申し上げることといたします。

blogram投票ボタン ←今日は飲酒量が少ないのでけっこう正気です。
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嵐の中の帰宅

2011年05月29日 | Weblog
 台風2号は温帯低気圧に変わったようですが、雨がザァザァ降る中を帰宅しました。
 昨日・本日と高校同期会の幹事会旅行が行なわれ、参加してきました。日ごろ酒ばかり飲んでいるしょーもない役立たず親父ら11人がせめて被災地にお金を落とすことで復興に貢献しようという殊勝なことを考えて大洗まで宴会をしに行きました。
 泊ったのは「大洗ホテル」というご当地では高級なところです。海岸べりにあるため、津波のときに漁船がロビーに突っ込んできたそうです。それを40日で復旧させてGWから再開にこぎつけたと支配人から伺いました。

 飲酒しか能力の発揮のしようを知らないわれわれですので、到着から早々に飲み会モードに入り、夜中過ぎるまでひたすら飲み続けたのでした。しかし、朝は5時起きで入浴し、一路いわき市の小名浜漁港をめざしました。そこで市場が再開していたら買い物をして地元経済に貢献して帰ろうという計画だったのですが、残念ながら市場はまだ再開されておらず、わずかに営業再開していた食堂で昼食をとって帰路に就いた次第です。
 小名浜漁港の周りの家々はほとんどすべてのお宅が一階部分を津波でさらわれており、かろうじて建っている状態でした。道路もデコボコで信号も消灯したままでした。また、瓦が落ちてブルーシートをかけたお宅があちこちにありました。

 天候も悪く時間もありませんでしたので、小名浜から引き返さざるを得なかったのですが、これが宮城方面へ進むとさらにひどいことになっているのだな、と粛然とした次第です。

 さて、帰る道すがら新宿で再びZARD20th YEAR展を覗いてこようかと思っていたのですが、思いのほか時刻が遅くなっていたのといささか疲労していたので本日は通過してしまいました。
 写真は同展の記念スタンプです。2011.5.27の日付が入っております。
 本日はこれから2009年の三回忌ライブのDVDを見ようと思っておりますので、簡単ですがこれにて失礼させていただきます。

blogram投票ボタン ←今年のライブもDVD出るのでしょうか…。
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ZARDライブ報告

2011年05月28日 | Weblog
 初のダブルヘッダーをしようかと思っていたのですが、所詮無理なことでした。帰宅したのは軽く日付変更線を越していたのでした。
 武道館を出てから考えていたことといえば「早くビールが飲みたい」いえ、「早くこの感動を語りたい!」ということでした。というわけで、降り始めた霧雨をついて九段下の串焼き屋へ…。結局S水同志とビールをあっという間に3杯おかわりをして、どうにか人心地つけて総括会議を催したのでした。

 そこで、まず本日の(すでに昨日ですが…)行動についておさらいをいたしますと、まずは昼から新宿タカシマヤでZARD20th YEAR展を参観しまして、その後麻布・鳥居坂のBeing鳥居坂ビルへ赴き献花&記帳をして武道館へ向かうという、お遍路さんか七福神めぐりのようなことをいたしました。こんなことをしているのはわれわれだけかと思いきや、ず~っと同道している人たちがけっこうおりまして、麻布十番の花屋さんは「今日はお客さんが馬鹿に多い」といぶかっておいででした。

 基本的にまだ興奮状態ですので冷静にご報告をしたためる状況ではありません。とりあえずのご報告です。
 タカシマヤの展示はZARDファンなら基礎知識に属する内容でしたが、実際にご本人が着用されたおなじみの衣装が思ったよりたくさん展示されておりました。これはけっこうインパクトがありましたね。等身大の泉水さんが感じられるわけですから、感慨もひとしおというところです。PVを集めた17分のビデオ上映というのもありまして、なかなかな人気を博しておりました。もちろんわれわれも見ました。
 グッズ売り場は相変わらずの混雑で、けっこうなお値段のグッズがすいすいと売れておりまして、震災以来の自粛ムードなどどこ吹く風という力強さでありました。S水同志はちょっとのところでマグカップを買い損ねて落胆しておりました。それをみてわたしは「俺もほしかったな」などと思っていたのでした。

 さて、メインイベントの追悼ライブですが、公演時間はたっぷり3時間ありました。そしてかつてないほど楽曲が多いコンサートでした。なにしろご本人は疲れ知らずですから(!)とにかく次から次へと曲が進行していくのでありました。大方は2番から始まるという短縮パターンでした。そして「ここぞ」というところはフルコーラスで、という構成です。
 バンドの構成は前回までのものと比較するとちょっと寂しいかな(特にストリングス系)と思いましたが、お馴染みのゲストが次々登場し、後半の盛り上げはちょっとしたハプニング(?)もあったりして、十分に一体感が持てる内容でした。写真はライブで配られたライセンスケースです。

 というわけでありまして、充実した一日はあっという間に過ぎ去って、今はちょっとした虚脱感の中に浸っております。とりあえず、詳しくは明日以降アタマを整理して再度ご報告することといたします。

blogram投票ボタン ←大賀さんのテクはやはりしびれました!
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行ってきます!!

2011年05月27日 | Weblog
 さてみなさん!本日は待ちに待ったZARD武道館ライブであります!これから出かけるところです。今お昼ですから、ちょっと時間が早いのですが、これから新宿タカシマヤでZARD坂井泉水展を参観するのです。そして六本木のBeingビルの献花台にお花を供えまして、勇躍武道館へと向かうという式次第になっているのですなぁ。

 昨日は午後の仕事が手に付かない状態で、YouTubeの動画を見たり、すでに暗記するほど見てきたWEZARD.NETをまた見たりして時間を過ごしていたのでした。

 ではそろそろ出かけます。本日もし帰宅後に気力が残っておりましたらライブのご報告などをさせていただきます。

blogram投票ボタン ←足が雲を踏むようです~~。
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ポンチ終了

2011年05月26日 | Weblog
 昨日に続きまして超簡単工作シリーズです。予定のとおりD51の煙室管板に煙管孔のポンチマークを打ったのでした。
 まずは治具のアルミ板付図面の各煙管中心にオートポンチで小さくへこみを付け、続いて写真の大きめのポンチで本番のマークを打っていきました。いつも中心点の十字にポンチマークを打つのが下手なわたしではありますが、今回は気合を入れて行ないましたので全部の中心点に正確にポンチを打つことが出来ました。めでたしめでたし。
 ただ、これでも大径のホルソーの中心ドリルにとっては小さ過ぎるマークですので、さらにセンタードリルで揉みつけて確実にドリルを案内出来るようにするつもりです。これは工作室のボール盤でやる必要がありますので、時間のあるときに行なうこととします。

 続いて、煙管ロウ付け用の治具にも同じポンチマークを打ちました。これで揉みつけさえ行なえば一連の作業は終わりです。あとはひたすら孔開けに励むだけとなります。本日は総計15分ほどの工作となりました。
 さて、ということは、煙管配列の図面は本日の超簡単工作でお役御免になったということになります。あれほど苦労して修正に修正を重ねた図面ではありますが、いざとなるとたった15分で役目を終えてしまうのでありました。なんだかセミの生涯をみるような、E10の本来任務をみるような、そこはかとなく「もののあはれ」を感じさせる結末でございますね。。。

 とはいうものの、D51のボイラー作りはこれで大きく前進をみたことは間違いありません。気分はなかなか良いのでありました。あとはロウ付けがうまくいけば万々歳というところですが、それが最も重要かつ難関なのですから緊張はいやがうえにも高まるのです。
 こういうときは少し気をそらしてやればよいので、フィッティング類の心配でもすることにいたしましょう。やはりここでの最重要の問題は蒸気ドームです。といいますのも、前にも述べたとおり加減弁の方式がこれによって決まってくるからなのです。このD51のバックプレートは実物と同じように上から1/3ほどのところまで蒸気分配箱が占領します。これが小型機のように外火室上側に設置できれば良いのですが、寸法的に苦しいものがあります。つまり、内側テコ式の加減弁は、引き棒を通す場所が無く、構造上ちょっと無理そうなのです。
 すなわち嫌でも実物と同じ外側テコ式を採用せざるを得ず、それはとりもなおさず外側のベルクランクの受けがある蒸気ドームを使わなければならないということになります。それはちょっと「ありモノ」での対処が難しいことになるのです。

 といったことなどを考えてちょっと気をそらすことにいたしまして、次の休日には何も考えずに黙々と孔開けを行なうことにいたしましょう。

blogram投票ボタン ←さてさて、あすはいよいよZARD武道館ライブです!
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治具作り

2011年05月25日 | Weblog
 工作といえるほどのことではありませんが、煙室管板の煙管位置マーキング用の治具(長い!)を作り始めました。本日は、先日煙室管板に内接するように切り出した図面をアルミ板に貼り付け、円形に切り出しました。
 写真はアルミ板に貼り付けたところで記念写真を撮ったものです。切り出してしまいますと裏にアルミ板が貼ってあることが写真では分からなくなってしまいますからね。
 脇に立っている缶は接着に使用した3M製「スプレーのり77」です。この接着剤は大変強力で、そのうえ紙類を膨張させないのでこの種の工作には最適です。ペーパーが主体になる小スケールのストラクチャー作りなどではおなじみのものです。わたしは仕事で良く使っていました。
 これの兄弟分に「はがせるタイプ」もあり、こちらは版下作りなどの現場では昔から使われております。

 使用したアルミ板は先日東急ハンズで購入した0.1mm厚のものです。曲げたりしないように本にはさんでおいたのですが、うっかりと本ごと蹴っ飛ばしてしまいあちこち曲げてしまいました。まったく間抜けな話です。さいわい直径分の平面が残ってましたのでそこへ貼り付けて事なきを得ました。ヤレヤレ。

 さて、0.1mmのアルミ板とはいえ、そこはやはり金属板です。貼り付けたらしっかりとした手ごたえになり、治具としての強度は十分のようです。切り抜きは普通の事務用ハサミで行ないました。このくらいの板ならば、なまじ金属用ハサミなどを使うより綺麗に仕上がります。
 あとはこの図面にしたがって煙室管板にポンチマークを付けていけば、めでたく煙管孔が開く手はずになるわけですが、本日のところはここまででお終いです。
 所要時間は約10分でした。夕食後のひとときを利用しての超簡単工作でしたが、大変充実感がありました。え?決して自己満足ではありませんよ(ええ、決して)。なにごとも一歩一歩前進することが大事なのです。

 今度の週末は高校同期会の「震災復興応援旅行」で大洗温泉へ出かけますので工作時間はありません。次回ボイラー班作業日の前日の土曜日に孔開けをしたいと思っています。それまでにはポンチマークを付けてセンタードリルで揉んでおこうかと考えています。平日の軽作業でも積み重ねていけばその程度のことは出来るでしょう(たぶん)。そしてボイラー班作業日は再びシコシコと煙管孔の拡大作業を行なうのです。そこまでくればいよいよ煙管のロウ付け作業が射程圏内に入って来ます。夏休みにフィッティング類の算段をして秋口には次の段階に入れればいいなぁ、などと皮算用をしているところです。

blogram投票ボタン ←宿題も多くなりそうですが。
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埼玉県警察史

2011年05月24日 | Weblog
 なんのことやら、と思われたかもしれません。
 読んだとおりで埼玉県警の歴史書(発行・埼玉県警 1977年)です。二分冊になっていまして、これは第二巻です。とりあえずこの巻だけあれば良いので、もっとも安い古本を2500円で購入しました。何を読むつもりだったかといいますと、例の八高線の脱線転覆事故についての記述です。

 この分厚い本のたった3ページに書かれているだけなのですが、わたしにとってはどうしても読みたかったので買ってしまったのです。結果は、やはり買って良かったと思いました。事故の概要がこれでほぼつかめました。同時に国鉄側の記録とも若干相違する部分があるということが分かりました。特にブレーキについては「脱線した3~6両目だけに非常制動がかかったため、列車が分離してしまった」という風に述べられております。果たしてそのような状態が実際に起こりうるのかちょっと疑問ですが、警察の正史ですからそれほど間違いが書かれてあるとも思えません。この辺は専門家に聞いてみたいと思います。また、この本によれば列車は300m行って停まったと書かれており、列車分離による制動がかかったと解釈することができます。このあたりの詳細は公判記録でも読まないとはっきりしないと思います。

 記述のなかには地元警察である飯能警察署の『沿革誌』からの引用があります。こちらの全文も読んでみたいところですが、残念ながらこの沿革誌は古本市場には出回っておらず、また、飯能市の図書館にも収蔵されていないようですので、読むためには飯能署か県警本部に出向かないと不可能と思われます。国会図書館にはあるでしょうが。。。
 また、地元新聞の報道も引用されています。これを読むと事故当時がどんな状況であったのか良く理解できます。

 さて、目的を達してしまったので本を閉じたかというと、さにあらず。この第二巻には昭和初期からの警察の全歴史と主な取り扱い事件が網羅されているのです。特に戦前の警察活動や制度の変遷、戦後の混乱期の世相などが事細かく記載されていて大変に興味深いものがあります。県内の思想取り締まり、言論取り締まりなども詳しく載っていますので時間を忘れてしまいます。
 というわけで、本日はずっとこの本を読みふけっていたようなわけで、工作はまったく行なわれませんでした。
 あすは治具の製作などを行なおうと考えております。

blogram投票ボタン ←一日中字を見ているとさすがに疲れますね。。。
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最近の読書事情など

2011年05月23日 | Weblog
 本日は単機回送の予定でしたが、それではあまりに愛想がなさすぎますので、ちょっと最近の読書事情などを手短に。。。
 まず、とほほ編からまいりましょう。それは『封印された鉄道史』というものです。近年の刊行ですが、古本で入手しました。実はあてずっぽうに「日本の古本屋」サイトで検索して見つけたものなのです。八高線事故のことなどを書いていたときですので、「おや、なんだろう」という興味に引きずられて、値段も800円ほどでしたのですぐに購入したようなわけです。
 さっそくに送られてきた本を見ると、「封印」「隠蔽」などとおどろおどろしい単語が並んでいる割には、中身は、、、、だれでも知っているとはいいませんが、少なくとも鉄道に興味をもっている者ならよく知られた内容がほとんどで、素人向けの、まさに「とほほ」系の一冊でした。まぁ、新本で買わなくて良かったというところが若干救われたというものです。

 続いては『ある機関士の回想』(川端新二 イカロス出版 2006年)です。こちらは名古屋機関区OBの著者が鉄道省就職から国鉄を退職されるまでの思い出を綴られたもので、庫内手から機関士へと東海道筋の蒸機・電機にまつわる回想が記述されていて興味深い内容です。特に戦中・戦後の混乱期の体験談は今となっては貴重な記録といえます。こうなると戦前の黄金期の回想録などが読みたくなりますが、最近ではなかなか見る機会がなく、おしいところです。

 一方、例の江戸モノは、引き続き『銭形平次捕物控』を通勤電車で読んでおります。これは読破まではもうちょっとかかりそうです。『半七』と比べますとカラッと明るい記述で肩がこらずに楽しめます。「投げ銭」も控えめながら登場しました。時代設定はどうも江戸前期のようですが、これが途中から文化・文政期に移るようですので、どのあたりかな、、、と楽しみにしております。
 さて、『半七』ですが、現在『半七の見た江戸「江戸名所図会」でたどる半七捕物帳』(今井金吾・河出書房新社・1999年)を読んでおります。これは『半七』に登場する江戸の実景を『江戸名所図会』から探すというものです。本編の方はインターネット版で読み返してすっかりお馴染みになっていますので、「なるほど、こんな景色だったのだな」と思いつつ読み進んでいます。

 といったところで、外にも1、2点あるのですが、それはまたの機会にさせていただいて、本日のところはこれで御免を蒙ります。

blogram投票ボタン ←ではまた明日。
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臨時の運転会

2011年05月22日 | Weblog
 昨日申し上げたとおり、本日は第二レイアウトで臨時の運転会を行ないました。
 午前9時半ごろに集合し、まずは線路の整備です。車両と干渉しそうな雑草を引き抜き、散り敷いた桜のガクをエンジンブロワーで吹き飛ばしてさらに併用軌道のフランジウェイの小石を取り除いて運転準備にかかりました。

 今回は珍しく蒸機ばかりの出場で、5両の機関車が揃いました。写真はそのうちの1両、O澤さんが運転するOS・S6です。ご本人が後ろを向いていますが、これは後ろが気になるからです。最後部を良くご覧いただくと何か妙な車両がぶら下がっているのがお分かりになると思います。これはO澤さんが製作中の8620(セントラル鉄道製)です。エンジン部の下回りとテンダーが組みあがり、本日はそのエンジン部の慣らし運転に持参されたものです。すでにエアテストは終わっていますので、各部とも問題はないのですが、初期段階では組みが固いのでそのままでは動輪が回転せず、こうして列車の最後部にぶら下げて慣らし運転をする必要があるのです。

 本日はもう1両、O川会長の9600の慣らし運転も行ないました。こちらはもう年季が入った機関車ですが、下回りを改修されたのでやはり慣らし運転を行なったのでした。こちらはわたしのフォルテが引っ張りました。

 そのフォルテですが、本日運転中に急に軸動ポンプが入らなくなって焦りました。原因はサイドタンクが空になっているのに気付かずに一周回ってしまったためにエアを噛んでしまったからのようでした。サイドタンクを満水にし、バイパスコックを全開にして高速運転を続けましたら無事戻ってくれてほっと一息でした。こういうときはやはりドンキーポンプがあった方が安心出来るな、と思ったことでした。
 2時間弱の運転でしたが、やはり終了後は灰箱が一杯になってしまいました。なんとか改良したいのですが、よくよくフレーム内をのぞいてみると第3動軸のベアリングが邪魔して灰箱を下方に増量させることはかなり難しい状況であることが分かりました。やはり灰箱の底を開いて灰を落とす構造にする方が良さそうです。ただ、その場合は真下の第3動軸の上に落ちないよう工夫が必要です。

 心配されたお天気ですが、午前中は薄曇り状態で、蒸し暑くもなく運転にはちょうど良い気候でした。しかし昼食休憩中に見る見る黒い雲が湧いてきて湿った風が吹き出し、「警戒警報」状態となってあたふたと後始末にかかりました。ちょうど機関車を仕舞い終わるころ本降りになってきて、運転会は終了となりました。

 さて、本日は大学時代の鉄研同期の友人が遊びに来てくれました。行徳と違って会員以外も自由に運転できますので、午前中いっぱい運転を楽しんでもらいました。もともと模型仲間ですのでライブスチームには興味があり、蒸機運転の楽しさを味わってもらえたのでは、と思います。

 ということで、土砂降りの中の帰宅となり、工作室に機関車等を収納出来ませんでした。先週以来の力仕事の連続で、いささか筋肉痛になっております。
 
 なお、明日は仕事の関係で帰宅が深夜となりますので、本ブログは単機回送となると思います。

blogram投票ボタン ←疲れましたです…。
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工作報告

2011年05月21日 | Weblog
 本日は良いお天気だったため、午前中は近所のスーパーへ焼酎の買い出しに、そして久々にシトロちゃんを洗車などしてお昼を迎えました。予想以上に暑くてちょっと身の危険を感じましたので午後はやや遅めに作業を開始しました。

 まずは先週作った機関車清掃用の台座のB20バージョンを製作しました。どうもあたってみるとフォルテとB20は共用できそうもありませんでしたので、少し幅広のものをもう一つ作ったようなわけです。どちらも後端梁に給水用のホースやら機・炭分離防止用の鎖の取り付け部分など微妙に突起があってそれを避けなければならないので、特殊な寸法になってしまうのです。
 今回はきちんと採寸して、ミニフライスで木ネジ用の孔をちゃんと直角に開けてやって組み立てましたので、フォルテ用のものと比べるとちょっと高級な仕上がりになっています。ただし素材は例の建築屋の同級生から分けてもらったコンクリート用木枠の使い古しですので見た目はあまり美しくありません。もっとも、美しさを主張するような道具ではありませんが。。。

 もうひとつは懸案のD51の煙室管板の煙管配列図です。やっと修正が終わり、火室管板の状態をコピーした位置に揃えることが出来ました。考えてみると、この火室管板の煙管孔はヤスリで少し拡大してありますので、厳密には正円ではなく、いくぶん歪んでいるのでした。だから概ね心が合っていれば良しとしなければならなかったのでした。
 そういうつもりで改めて透過させてみるとほぼ合格のものがけっこうありましたので、修正する本数は半分以下だったのでした。写真は煙室管板とこれに内接するように切り出した配列図です。管板内側にはすでに青二スが吹いてありますのでいつでもケガキOKです。この切り抜いた煙管配列図を極薄のアルミ板に接着して再度円形に切り抜けば孔開け治具の完成です。これが出来ると煙室管板孔開けと煙管ロウ付け用の治具製作に入れます。ということは、いよいよロウ付けが現実のものとなりつつあるということですね。緊張しますね~~。

 本日のところはここまでで暑さのため強制終了ということになりまして、例によって飲酒の後ぼんやりとこの治具用セットをながめつつ本ブログをしたためているところでございます。

 さて、明日は第二レイアウトで臨時の運転会を行ないます。ここのところ作業項目の無い第4日曜は休みにしていたのですが、せっかくレイアウトがあるのですから活用しない手はないということで、運転会を行なうことにした次第です。お天気が心配ですが、運転会はほぼ午前中で終了すると思いますのでなんとかもってくれるのではないかと楽観的に考えております。明日はそのもようなどをご報告させていただきます。

blogram投票ボタン ←今から暑さに負けていては仕様がありませんねぇ。。。
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生還しました

2011年05月20日 | Weblog
 昨日はお休みして失礼しました。無事人間ドックから生還いたしました。たくさん血を抜かれていろいろ調べられましたが、結果的には予言(?)どおりγGTPが高く、脂肪肝なので「運動して、お酒は控えめに」という御託宣をいただいてきました。まぁ、そうはいってもまめに運動する時間は無し、お酒は飲みたし、ということで当分はせいぜい歩く距離を伸ばして飲酒量を少なくするぐらいしか対策は思いつきません。それでストレスを溜めては本末転倒ですから気長に取り組むことといたしましょう。

 それにしてもお暑うございます。帰宅したらすっかりぐったりで、しばらくは何も出来ませんでした。
 実は昨日から日曜日に痛めた左手の人差し指の関節がズキズキと痛み出しまして、ちょっとハードな作業が出来ない状態になっております。触ると痛いものですから腫れものに触るような(まさに!)扱いで、キーボードを打つのが最大の重労働といった状況です。たぶん治る前の最後の峠であろうと勝手に都合良く解釈して、明日はちょっとB20の修理に励もうともくろんでいるのではありますが。。。

 そんな調子ですので、今日のところはおとなしく例の煙管配列図の修正などを電卓片手に行なっております。いまのところ1/4ほど修正出来たところです。なかなかハカがいきませんが、しかたありません。なにしろ病院帰りですからね(!)。
 いずれにしろこの図面が出来ないことにはボイラー作業は先に進みませんので、ちょっとずつでも暇をみては前進させていかなくてはなりません。

 さて、お話は一昨日の八高線事故のことに飛びますが、この事故の2年前、つまり1945年に起きた同線の多摩川橋梁上での列車正面衝突事故を検証した『「大列車衝突」の夏』(舟越健之輔・毎日新聞社・1985年)の巻末にこの転覆事故の概要が載っております。一昨日の本ブログでも参考にさせていただきました。この記述は「こぼれ話」的に紹介されているのですが、機関車の番号や、テクニカルな部分など一部の記述に疑問があるものの、断片的な資料しかないこの事故について、簡潔にして要を得た記述となっています。
 実はこの本が上梓されるまでは、この本の本題である多摩川橋梁の正面衝突事故の方が資料も少なく「幻の事故」といわれていたのでありました。一人のジャーナリストの地道な活動によってその立場は逆転し、いまでは転覆事故の方が幻と化しつつあります。知らずに現場をうろついていた者としては何ともやるせない思いにかられます。

 正面衝突事故の方は、母の知人が息子さんをこの事故で亡くされて(正確には行方不明)いた関係で、子どものころから聴かされていましたのでカメラを手にするようになってから何回も小宮駅に赴いて現場の写真も撮影していました。しかし、DL化されてからは足が遠のいて、いつしか忘れるともなく忘れていったのでありました。それからずい分して河原に残されていた車輪(機関車か客車の車輪と思われます)が現場に保存されたという話を聞きました。
 ここでは第三の事故も起きているとのこと(上書による)で、なにか因縁めいたものを感じます。

 というわけで、本日も得意のとりとめのないお話になってしまいましたが、明日はちょっと工作の結果がご報告できると(たぶん)思います。

blogram投票ボタン ←それにしても指が痛いです。。。

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八高線列車転覆事故

2011年05月18日 | Weblog
 え!いつそんな事故が起こったの?と驚かないでください。事故は戦後間もない1947年に起きたのです。

 実は古い写真を整理していて、八高線の蒸機の写真がたくさんあったものですから、ふと思い出したのです。
 八高線南半分は、いまでは川越線とともに首都圏の通勤路線となっていますが、わたしたち世代の鉄ちゃんにとっては東京付近で蒸機が遅くまで残っていた貴重な路線だったのです。当時まだポピュラーだったC58をはじめ、D51重連や大正生まれの9600などが一時間も待っていれば必ず一本は来たというウソのような世界だったのです。

 奥武蔵野の丘陵地帯を越える八高線は、昭和初期の不況期に建設されたために経費節減からトンネルを掘らず、勾配で丘陵を乗り越えています。そのため土地の上下に合わせて短い急勾配と急曲線が連続しています。中でも有名撮影地だったのが金子~東飯能間の金子坂と東飯能~高麗川間の鹿山峠でした。金子坂は八王子方向に上り20/1000の一方勾配でしたが、鹿山峠は途中にサミットがあって両方向から20/1000の勾配に挑む蒸機が撮影できたので効率がよく、最も頻繁に訪れたのでした。
 前置きが長くなりましたが、その鹿山峠が事故の現場だったのです。わたしがこの事故のことを知ったのは1970年9月の八高線の蒸機お別れ運転(高鉄局主催分)の列車内でした。たまたま乗り合わせた方が事故直後に現場を通った方で、そのときの惨状を詳しく教えてくれたのです。

 事故の概要は、1947年2月25日朝、八王子発高崎行きの下り3列車(C57牽引・木造客車6両編成)が鹿山峠のサミットを越えたあとの下り20/1000の区間を無制動状態で暴走、時速80km/hで高麗川駅手前約1km地点の250Rの急曲線に進入して3~6両目が分離・脱線して5mの築堤下に落下、死者184人負傷者495人を出す大惨事となったものです。
 この規模は例の福知山線脱線転覆事故を上回ることはもちろん、三河島事故や鶴見事故をも上回り、1940年に大阪の西成線・安治川口駅で発生したガソリンカー転覆・炎上事故に次ぐ史上二番目の死者を出した大事故だったのです。
 事故列車の機関士は列車の脱線に気づかずに運転を続行して、高麗川駅駅員に言われて初めて事故に気づいた、というので世間から大きな非難を浴びました。

 事故原因はいろいろ取り上げられています。直接的には速度超過による脱線ですが、よって来たる原因のひとつには機関車の状態があげられます。まず、当該のC57には速度計が無く、加えて戦時中に急速養成された未熟な若い機関士(当時23歳・運転経験6ヵ月)が速度の節制に失敗したことが原因とされています。速度計が無いとはちょっと信じられないことですが、戦時中は金属供出のためか速度計が撤去され、機関士は目測で速度を測ったといわれています。速度計どころが水面計さえない機関車も珍しくなく、しかたなしに目一杯に給水して汽笛を吹き、水がシューっと出るのを見て安心したという恐ろしい話を聞いたことがあります。現に1950年に発行された岩波ブックレット『鉄道』には水面計の一本がガラス管でなく金属パイプでつながれたC57のキャブ内の写真が載っています。戦後5年経ってもこんな状態だったのですね。

 また、ここまで事故をひどくした原因としては戦後の買出しのために列車が超満員(1500人乗車といわれています)で重量が非常に重く下り勾配で加速がついたこと、客車が全部木造で、かつ車齢も古かったため脱線転覆で簡単に大破してしまったことがあげられています。17m級木造車6両編成で、荷物合造車も含まれていたとのことですので定員はおそらく400人前後であったろうと思いますから混雑の度合いも分かります。
 木造客車の危険性は大正時代からいわれており、すでにオハ31以降の新造車はすべて鋼製車(正しくは内装を木造とした半鋼製車)であったのですが、既存の木造車を置き換えるには至っていなかったのでした。加えて戦時中の酷使がたたってかなり損耗が激しかったことも被害を大きくした原因とわれています。この事故を契機に国鉄は木造客車の全面的な置き換えを決意し、後の60系鋼改車の登場へとつながるわけです。

 事故原因については「ブレーキの故障説」もあります。もともとこの列車はブレーキが不調で、鹿山峠の下り勾配でブレーキが効かなくなったのが直接の原因というものです。これは国鉄の公式事故記録を再編集したと思われる『鉄道重大事故の歴史』(久保田博・グランプリ出版・2000年)にもそのような記述があります。
 鉄道で一般的に用いられているウェスチングハウス式自動空気ブレーキ装置は、列車が分離してしまったときには制動管も分離して、そこから圧縮空気が漏れることで非常制動がかかる仕組みになっています。にもかかわらず、この列車は運転を続行したというのは解しかねるものがあります。しかし、ブレーキが効かない状態(制動管だけでなく空気だめも含めて圧縮空気を喪失した状態)では、分離してもこの安全機能は働きません。何らかの原因ではじめから客車全体が圧縮空気の無い状態であったらこういうことも起こりえます。真相は案外この辺にあったのでは、とも思えます。事実、この事故について浦和地裁では「機関士の運転と事故との間に因果関係はない」と判断して当該の機関士に無罪を言い渡しています。しかし、東飯能までは運転できたのですから鹿山峠で急に無制動状態になったのでしょうか。また、「列車は300m行って停まった」という話もあり、ちょっと謎です。

 もうひとつ気になるのは、事故救援に駆けつけたはずの国鉄職員が、駅前で焚き火をしてまったく働かずに事故見物をしていた、というものです。ひどいのは酒を飲んでいたといいます。これは当時の新聞に掲載され、下山定則東鉄局長が現地で遺憾の意を表明していますから、事実だったのかもしれません。これを組合運動のせい、とする論調があります。ちょうど時あたかも2.1ゼネストがマッカーサーの命令で禁止された直後のことでもあり、不都合は何でも組合運動のせいにする意図があったのかもしれません。これも気にかかるところです。

 さて、改めて鹿山峠で撮影した写真を見ますと、偶然事故現場付近で撮ったものがありました。もちろん当時は現場を知らずに歩いていたのでした。上記の実話を聞いたことを写真を見ながら思い出し、事故の様子が生々しく思い描かれたので、忘れないうちに書いておき、疑問も述べておこうと思ったしだいです。件の方からお聞きした細かい状況はちょっと文章にするのをはばかられますので、とりあえず謎の部分だけを提起して終わりにしたいと思います。いずれ現地へ行ってお花でも手向けようと考えているところです。

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今日のところは

2011年05月17日 | Weblog
 さて、1001回目のブログでございます。心を新たにスタートをしたいと思います。
 などというと、本日はなにか特別なことでもありそうですが、実はなんにもありません。といいますのも本日は終日本業の原稿に挿入する図表の作成に頭を悩ませていたからなのであります。
 何を隠そう(と威張るほどのことでもありませんが)、わたくしは統計結果を分析したり、そこから図表を作成したりすることが大の苦手なのです。ましてやそこから何か「論理」を導き出すなどというのはほぼ「不可能」なほど能力を持たないのです。ただの文章ならいかようにもひねり出すことが出来るのですが、こと数字にからんだこととなると全く無力なオッサンになり果ててしまうのですね。
 それでも過去に決算書の分析などは職務上の必要から勉強させられましたので、なんとか意味らしきものは読み取れるのですが、そのほかはほとんど異星人の言語に等しい状態です。

 そのわたくしが、こともあろうに30年も前のさる調査結果についての原稿を書くことになり、参考用にその調査結果から図表を作成するハメになったのですから苦悩のほども知れようというものです。
 朝イチから昼休みをはさんで、思わずエイっと投げ出したくなるのを必死にこらえて図表が完成した時には勤務時間がほとんど終了という時刻でございました。ただちにパソコンの電源を落とし、撤収したのはいうまでもありません。
 帰りの電車の中でものすごく空腹であることに気付いたのですが、もうどうしようもありませんから家路を急いで帰宅と同時に(?)ひと風呂浴びて速攻で飲酒体制にはいったのは当然の成り行きでしょう。

 そういうわけですので、工作はもちろんのこと、例の煙管配置図の修正も「勘弁して」という体たらくだった次第です。ただ、22日の臨時運転会は決まっていることですので、そこまでにやらなければならないことはやらなければならないわけで(ははは…)、そのへんは金曜日に人間ドックから生還したあとに手をつけようかと思います。

 さてさて、そうはいっても転んでもタダでは起きないわたくしでありますから、昼休みにはちょっと鉄なことも行ないました。ふと気になってある鉄道事故のことを調べ始めたのです。とりあえず職場に資料はありませんのでネット検索で調べたのですが、いやその程度のすごいこと…。素で読んでいるわたくしにしてすでに誤りであると分かることがほとんどのサイトに見られました。中には明らかに誤りの孫引きらしき記述もあって、ネットで調べることはやめにしました。ネット社会もこういうところが危ういですね。
 さいわい手元にいくつかの資料(書籍)があって、その中に手がかりが発見出来ましたので、これは改めてお話し申し上げようと思います。

 今日のところはそんなあたりで失礼します。

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祝!1000回

2011年05月16日 | Weblog
 ふと気が付いたら本ブログも今日でめでたく1000回を迎えることとなりました。一時は体調の不全から存続の危機にも立たされましたが、何とか今日まで続けてこられましたのはひとえに読者の皆さまのアクセスに支えられてのものでございます。心より感謝申し上げます。

 考えてみればこのブログも初めはB20の改良工程を紹介して終わりにするつもりだったのですが、いつしかロケットが登場し、B20の話は本になり、フォルテを組み立て、そしてD51のボイラー作りと、何とかかんとか続いてきました。
 鉄道関係の話題だけでなく、非常にしばしば脱線しますが、不思議なことにその脱線話がランキングで上位にランクされていたりするのです。世の中分からないものです。

 というわけで、本日もメインの脱線話(?)です。今月27日のZARD武道館ライブ“What a beautiful memory~forever you~”のチケットが到着しました。写真がそのチケットです。フィルムコンサートのときの、列車の指定席券のようなチケットと違ってソレらしい雰囲気が漂うものですね。
 座席はアリーナ席で、、、と、そこから先は言わぬが花ということにしまして、けっこうステージに近いところなのでは、と思います。ファンクラブ枠ですので、わりと正面ぽい位置関係なのではないか、と期待しています。泉水さんの歌声と、あの皆さまの演奏が聴けると思うといまからわくわくしてしまいます。さっそくZ団のS水同志に報告の電話を入れたことは言うまでもありません。

 そういう次第で本日はなんとなくそわそわして仕事もなかなか進みませんでした。
 さて、前にも申し上げました通り、今週は一泊二日の人間ドックがありまして、まぁいってみれば全検ですね。さすがに解体はされませんが各種の解析は行なわれまして、日ごろの不養生について厳しい指摘が待っていることと思います。たぶん脂肪肝とか体重とかγGTPとかいうところが指摘されることであろうと思います。つまりはもうちょっとお酒を控えて体を動かしてストレスのないように……と、とうてい出来そうもないことばかり言われるのでありましょう。いつものことです(全然反省してない)。その他の数値は不思議にもいつも良好なのです。

 この先特に長生きしたいとも思わないのですが、もう少し旨いお酒を飲んだり汽車で遊んだりしていたいと思いますので、まだしばらくは元気でいられたら、と思っています。少なくとも定年になって「ああ、せいせいした」という気持ちで機嫌よく何年かは楽したいと思います。したがって、せめてあと10年ぐらいは生きていたいとささやかな望みを持っているのです。その後はついでの時でけっこうです。。。

 お話が変な方向へ行ってしまいました。そういうわけですので、今週は19日(木曜日)の本ブログをお休みさせていただきますのでよろしくお願い申し上げます。
 そうそう、D51の煙室管板の図面の件ですが、それは明日ということで。。。

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