え!いつそんな事故が起こったの?と驚かないでください。事故は戦後間もない1947年に起きたのです。
実は古い写真を整理していて、八高線の蒸機の写真がたくさんあったものですから、ふと思い出したのです。
八高線南半分は、いまでは川越線とともに首都圏の通勤路線となっていますが、わたしたち世代の鉄ちゃんにとっては東京付近で蒸機が遅くまで残っていた貴重な路線だったのです。当時まだポピュラーだったC58をはじめ、D51重連や大正生まれの9600などが一時間も待っていれば必ず一本は来たというウソのような世界だったのです。
奥武蔵野の丘陵地帯を越える八高線は、昭和初期の不況期に建設されたために経費節減からトンネルを掘らず、勾配で丘陵を乗り越えています。そのため土地の上下に合わせて短い急勾配と急曲線が連続しています。中でも有名撮影地だったのが金子~東飯能間の金子坂と東飯能~高麗川間の鹿山峠でした。金子坂は八王子方向に上り20/1000の一方勾配でしたが、鹿山峠は途中にサミットがあって両方向から20/1000の勾配に挑む蒸機が撮影できたので効率がよく、最も頻繁に訪れたのでした。
前置きが長くなりましたが、その鹿山峠が事故の現場だったのです。わたしがこの事故のことを知ったのは1970年9月の八高線の蒸機お別れ運転(高鉄局主催分)の列車内でした。たまたま乗り合わせた方が事故直後に現場を通った方で、そのときの惨状を詳しく教えてくれたのです。
事故の概要は、1947年2月25日朝、八王子発高崎行きの下り3列車(C57牽引・木造客車6両編成)が鹿山峠のサミットを越えたあとの下り20/1000の区間を無制動状態で暴走、時速80km/hで高麗川駅手前約1km地点の250Rの急曲線に進入して3~6両目が分離・脱線して5mの築堤下に落下、死者184人負傷者495人を出す大惨事となったものです。
この規模は例の福知山線脱線転覆事故を上回ることはもちろん、三河島事故や鶴見事故をも上回り、1940年に大阪の西成線・安治川口駅で発生したガソリンカー転覆・炎上事故に次ぐ史上二番目の死者を出した大事故だったのです。
事故列車の機関士は列車の脱線に気づかずに運転を続行して、高麗川駅駅員に言われて初めて事故に気づいた、というので世間から大きな非難を浴びました。
事故原因はいろいろ取り上げられています。直接的には速度超過による脱線ですが、よって来たる原因のひとつには機関車の状態があげられます。まず、当該のC57には速度計が無く、加えて戦時中に急速養成された未熟な若い機関士(当時23歳・運転経験6ヵ月)が速度の節制に失敗したことが原因とされています。速度計が無いとはちょっと信じられないことですが、戦時中は金属供出のためか速度計が撤去され、機関士は目測で速度を測ったといわれています。速度計どころが水面計さえない機関車も珍しくなく、しかたなしに目一杯に給水して汽笛を吹き、水がシューっと出るのを見て安心したという恐ろしい話を聞いたことがあります。現に1950年に発行された岩波ブックレット『鉄道』には水面計の一本がガラス管でなく金属パイプでつながれたC57のキャブ内の写真が載っています。戦後5年経ってもこんな状態だったのですね。
また、ここまで事故をひどくした原因としては戦後の買出しのために列車が超満員(1500人乗車といわれています)で重量が非常に重く下り勾配で加速がついたこと、客車が全部木造で、かつ車齢も古かったため脱線転覆で簡単に大破してしまったことがあげられています。17m級木造車6両編成で、荷物合造車も含まれていたとのことですので定員はおそらく400人前後であったろうと思いますから混雑の度合いも分かります。
木造客車の危険性は大正時代からいわれており、すでにオハ31以降の新造車はすべて鋼製車(正しくは内装を木造とした半鋼製車)であったのですが、既存の木造車を置き換えるには至っていなかったのでした。加えて戦時中の酷使がたたってかなり損耗が激しかったことも被害を大きくした原因とわれています。この事故を契機に国鉄は木造客車の全面的な置き換えを決意し、後の60系鋼改車の登場へとつながるわけです。
事故原因については「ブレーキの故障説」もあります。もともとこの列車はブレーキが不調で、鹿山峠の下り勾配でブレーキが効かなくなったのが直接の原因というものです。これは国鉄の公式事故記録を再編集したと思われる『鉄道重大事故の歴史』(久保田博・グランプリ出版・2000年)にもそのような記述があります。
鉄道で一般的に用いられているウェスチングハウス式自動空気ブレーキ装置は、列車が分離してしまったときには制動管も分離して、そこから圧縮空気が漏れることで非常制動がかかる仕組みになっています。にもかかわらず、この列車は運転を続行したというのは解しかねるものがあります。しかし、ブレーキが効かない状態(制動管だけでなく空気だめも含めて圧縮空気を喪失した状態)では、分離してもこの安全機能は働きません。何らかの原因ではじめから客車全体が圧縮空気の無い状態であったらこういうことも起こりえます。真相は案外この辺にあったのでは、とも思えます。事実、この事故について浦和地裁では「機関士の運転と事故との間に因果関係はない」と判断して当該の機関士に無罪を言い渡しています。しかし、東飯能までは運転できたのですから鹿山峠で急に無制動状態になったのでしょうか。また、「列車は300m行って停まった」という話もあり、ちょっと謎です。
もうひとつ気になるのは、事故救援に駆けつけたはずの国鉄職員が、駅前で焚き火をしてまったく働かずに事故見物をしていた、というものです。ひどいのは酒を飲んでいたといいます。これは当時の新聞に掲載され、下山定則東鉄局長が現地で遺憾の意を表明していますから、事実だったのかもしれません。これを組合運動のせい、とする論調があります。ちょうど時あたかも2.1ゼネストがマッカーサーの命令で禁止された直後のことでもあり、不都合は何でも組合運動のせいにする意図があったのかもしれません。これも気にかかるところです。
さて、改めて鹿山峠で撮影した写真を見ますと、偶然事故現場付近で撮ったものがありました。もちろん当時は現場を知らずに歩いていたのでした。上記の実話を聞いたことを写真を見ながら思い出し、事故の様子が生々しく思い描かれたので、忘れないうちに書いておき、疑問も述べておこうと思ったしだいです。件の方からお聞きした細かい状況はちょっと文章にするのをはばかられますので、とりあえず謎の部分だけを提起して終わりにしたいと思います。いずれ現地へ行ってお花でも手向けようと考えているところです。
←長々と失礼しました。
実は古い写真を整理していて、八高線の蒸機の写真がたくさんあったものですから、ふと思い出したのです。
八高線南半分は、いまでは川越線とともに首都圏の通勤路線となっていますが、わたしたち世代の鉄ちゃんにとっては東京付近で蒸機が遅くまで残っていた貴重な路線だったのです。当時まだポピュラーだったC58をはじめ、D51重連や大正生まれの9600などが一時間も待っていれば必ず一本は来たというウソのような世界だったのです。
奥武蔵野の丘陵地帯を越える八高線は、昭和初期の不況期に建設されたために経費節減からトンネルを掘らず、勾配で丘陵を乗り越えています。そのため土地の上下に合わせて短い急勾配と急曲線が連続しています。中でも有名撮影地だったのが金子~東飯能間の金子坂と東飯能~高麗川間の鹿山峠でした。金子坂は八王子方向に上り20/1000の一方勾配でしたが、鹿山峠は途中にサミットがあって両方向から20/1000の勾配に挑む蒸機が撮影できたので効率がよく、最も頻繁に訪れたのでした。
前置きが長くなりましたが、その鹿山峠が事故の現場だったのです。わたしがこの事故のことを知ったのは1970年9月の八高線の蒸機お別れ運転(高鉄局主催分)の列車内でした。たまたま乗り合わせた方が事故直後に現場を通った方で、そのときの惨状を詳しく教えてくれたのです。
事故の概要は、1947年2月25日朝、八王子発高崎行きの下り3列車(C57牽引・木造客車6両編成)が鹿山峠のサミットを越えたあとの下り20/1000の区間を無制動状態で暴走、時速80km/hで高麗川駅手前約1km地点の250Rの急曲線に進入して3~6両目が分離・脱線して5mの築堤下に落下、死者184人負傷者495人を出す大惨事となったものです。
この規模は例の福知山線脱線転覆事故を上回ることはもちろん、三河島事故や鶴見事故をも上回り、1940年に大阪の西成線・安治川口駅で発生したガソリンカー転覆・炎上事故に次ぐ史上二番目の死者を出した大事故だったのです。
事故列車の機関士は列車の脱線に気づかずに運転を続行して、高麗川駅駅員に言われて初めて事故に気づいた、というので世間から大きな非難を浴びました。
事故原因はいろいろ取り上げられています。直接的には速度超過による脱線ですが、よって来たる原因のひとつには機関車の状態があげられます。まず、当該のC57には速度計が無く、加えて戦時中に急速養成された未熟な若い機関士(当時23歳・運転経験6ヵ月)が速度の節制に失敗したことが原因とされています。速度計が無いとはちょっと信じられないことですが、戦時中は金属供出のためか速度計が撤去され、機関士は目測で速度を測ったといわれています。速度計どころが水面計さえない機関車も珍しくなく、しかたなしに目一杯に給水して汽笛を吹き、水がシューっと出るのを見て安心したという恐ろしい話を聞いたことがあります。現に1950年に発行された岩波ブックレット『鉄道』には水面計の一本がガラス管でなく金属パイプでつながれたC57のキャブ内の写真が載っています。戦後5年経ってもこんな状態だったのですね。
また、ここまで事故をひどくした原因としては戦後の買出しのために列車が超満員(1500人乗車といわれています)で重量が非常に重く下り勾配で加速がついたこと、客車が全部木造で、かつ車齢も古かったため脱線転覆で簡単に大破してしまったことがあげられています。17m級木造車6両編成で、荷物合造車も含まれていたとのことですので定員はおそらく400人前後であったろうと思いますから混雑の度合いも分かります。
木造客車の危険性は大正時代からいわれており、すでにオハ31以降の新造車はすべて鋼製車(正しくは内装を木造とした半鋼製車)であったのですが、既存の木造車を置き換えるには至っていなかったのでした。加えて戦時中の酷使がたたってかなり損耗が激しかったことも被害を大きくした原因とわれています。この事故を契機に国鉄は木造客車の全面的な置き換えを決意し、後の60系鋼改車の登場へとつながるわけです。
事故原因については「ブレーキの故障説」もあります。もともとこの列車はブレーキが不調で、鹿山峠の下り勾配でブレーキが効かなくなったのが直接の原因というものです。これは国鉄の公式事故記録を再編集したと思われる『鉄道重大事故の歴史』(久保田博・グランプリ出版・2000年)にもそのような記述があります。
鉄道で一般的に用いられているウェスチングハウス式自動空気ブレーキ装置は、列車が分離してしまったときには制動管も分離して、そこから圧縮空気が漏れることで非常制動がかかる仕組みになっています。にもかかわらず、この列車は運転を続行したというのは解しかねるものがあります。しかし、ブレーキが効かない状態(制動管だけでなく空気だめも含めて圧縮空気を喪失した状態)では、分離してもこの安全機能は働きません。何らかの原因ではじめから客車全体が圧縮空気の無い状態であったらこういうことも起こりえます。真相は案外この辺にあったのでは、とも思えます。事実、この事故について浦和地裁では「機関士の運転と事故との間に因果関係はない」と判断して当該の機関士に無罪を言い渡しています。しかし、東飯能までは運転できたのですから鹿山峠で急に無制動状態になったのでしょうか。また、「列車は300m行って停まった」という話もあり、ちょっと謎です。
もうひとつ気になるのは、事故救援に駆けつけたはずの国鉄職員が、駅前で焚き火をしてまったく働かずに事故見物をしていた、というものです。ひどいのは酒を飲んでいたといいます。これは当時の新聞に掲載され、下山定則東鉄局長が現地で遺憾の意を表明していますから、事実だったのかもしれません。これを組合運動のせい、とする論調があります。ちょうど時あたかも2.1ゼネストがマッカーサーの命令で禁止された直後のことでもあり、不都合は何でも組合運動のせいにする意図があったのかもしれません。これも気にかかるところです。
さて、改めて鹿山峠で撮影した写真を見ますと、偶然事故現場付近で撮ったものがありました。もちろん当時は現場を知らずに歩いていたのでした。上記の実話を聞いたことを写真を見ながら思い出し、事故の様子が生々しく思い描かれたので、忘れないうちに書いておき、疑問も述べておこうと思ったしだいです。件の方からお聞きした細かい状況はちょっと文章にするのをはばかられますので、とりあえず謎の部分だけを提起して終わりにしたいと思います。いずれ現地へ行ってお花でも手向けようと考えているところです。
←長々と失礼しました。
木造客車が事故の被害を大きくしたということで、木造客車の鋼体化が急遽始まりました。
狭窓の車両をそのまま鋼体化したオハ60、また広窓化したオハ61は一見新製オハ35に見えますが台車を見るとTR23ではなく、イコライザーが付いた旧型TR11でした。
スピードメーターが無いのは珍しいことではなく、電車では戦時型モハ63など計器は圧力計だけでほかの計器は無かったように思います。
この事故直後の状況は本当に酸鼻を極めたものであったそうです。話を聴いただけの私でもちょっと再現を躊躇するほどですから。
それにしてもこの転覆事故はその2年前に発生した同線多摩川鉄橋での正面衝突事故のようなまとまった研究書がありませんので、断片的な状況の伝聞だけで、ブレーキなど技術的に謎の部分が多いです。
裁判の公判記録でも見れば細かく書いてあるのでしょうが。。。誰かがまとめる必要があるのでは、と思います。