蒸気鉄道日記

5インチゲージ・ライブスチーム活動の日々を書き連ねます。

天地明察

2012年09月30日 | Weblog
 本日は台風が来る前に大急ぎで妻と映画を見に行きました。そんなにあわてなくても良いのですが、毎週末がけっこう忙しいのでこういう嵐の前の静かな瞬間に抜け目なく行くことが重要なのです。

 で、見たのは『天地明察』というものでした。半年ほどまえにチラシを見て見に行こうと決めていたのです。今月15日から公開されているのですが、半月ほど行けませんでした。内容は貞享暦をこしらえた幕府の初代天文方・安井算哲のお話です。彼がどのような人物で、どのように貞享暦を作ったのか、というのがストーリーの中心です。その概略ぐらいは、いかなわたくしでも存じておりますが、詳しくは知りませんでした。
 大体わたしの江戸趣味は後半のモノが多いので、前半のことはたいして知らないのでありますね。せいぜい赤穂浪士の吉良邸乱入事件ぐらいです。

 立川のシネコンで見たのですが、あまり広くないうえにスクリーンが湾曲していて、さらに高いところからぐりりんと回転しつつ下がって来るカメラアングルが多かったので眼が回って何度も酔いそうになってしまいました。どうもああいうのは苦手です。わたしは船乗りとか飛行機乗りには向いてないですね(いまさらなれませんけど)。実はラリーをやっていたときも長時間のドリフト走行では眼が回って困りました。やはり汽車が一番平和で良いようです。

 出演者は主人公の算哲が岡田准一、その妻が宮崎あおいでした。また幸四郎・染五郎親子や猿之助など有名どころが多数出ていて人件費が高そうな作品でした。。。
 2時間以上ある長い映画でしたが、途中で眠くなることもなく無事見られました。劇映画ですから実際にはどうかな、というシーンもありましたが、おおまかには史実に則っているでしょうから、知識の空白を埋めるには良かったのでは…と思います。

 そういえば満天の星というのをしばらく見ていませんね。天の川などは子どものころ見たきりです。星が良く見えるという八ヶ岳のペンションに行ったときもそれほどではありませんでした。どうも日本はどこもかしこも明るすぎますね。
 お話がそれてきましたので、ぼちぼち台風を迎え撃つ準備にかかりたいと思います。明天見!

 ブログランキングならblogram ←明日の出勤前に台風が去ってしまうことを祈ります。。。

 

 
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本線に復帰

2012年09月29日 | Weblog
 仕事の方はなんとかかたがつき、本日から本ブログも運行を再開いたします。とはいえ、さすがに少しクタビレましたので、本日のところはずっと睡眠時間となって、夕方に工作の予定だけ立ててお終いとしました。

 写真を見ていただければ何をしたかすぐお分かりのことと思います。
 要はD51の給水温め器のディテーリングを考えたのでした。これは側面の蓋に付くボルトです。これは中身である細管の管寄せを取り付けるためのボルト頭が見えているもので、本来は蓋(薄板のカバー)は突き抜けているだけなのですが、なにしろダミーですから蓋にネジを切ってねじ込むのです。
 動輪舎のC58などは本当に給水を温めるので、実物と同じ用途のボルトがちゃんと蓋を貫通しています。D51もそうしようかと思っていたのですが、かんじんの熱源である排気を通すパイプが潤滑油でべとべとに固まってしまう、という話を聞いて「やめとこう」ということになったのでした。

 というわけで、このD51の温め器はただ重いだけのウェイトとしてしか作用しないのですが、せめて見かけだけはちゃんとしてやろうと考えているわけです。
 しかし、困ったことにここはいろいろな径の異なる配管が集中して、しかもいろいろに曲がっており、継ぎ手やらカバーやらがあったりするのでダミーのわりには気を使うところなのです。そしてD51(C58もそうですが)ではかなり目立つ場所でもあるので手を抜けないのです。完成の折には標準型のデフのほかに切り取りデフ(長野工場型)も用意して気分で着せ替え(?)をして遊ぼうかと思っているのでなおさらです。

 それでその位置決めをしようとマーキングをしたわけです。真ん中付近の5つの点が管寄せを止めるボルトで、左下に斜めになっている2つが水の入口・出口の継ぎ手の付く部分です。実物のこの部分を注意して見ていただくと分かるのですが、実はこの5つのボルトは水平・垂直になっておらず、不揃いに僅かに前傾しているのです。たぶん水の出入口が斜めになっている関係でそうなっているのでしょうが、どうも中途半端な感じに見えて困ります。模型でこれを正直に再現するといかにもいい加減な工作を行なったかのような印象を与えます。なにより自分で気持ちが悪いので弱るのです。

 たぶんここはきっちり水平・垂直にすると思います。「おかしいではないか」と指摘する人がいたらその観察眼を素直にほめてあげることにします。
 で、いつ工作するのか、ということですが、明日は妻と映画を見に行く予定ですのでたぶんやらないでしょう。来週の週末ですね。おそらく。

 ブログランキングならblogram ←台風の準備もしなければなりませんね・・・。

 
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ウヤに続いて回送・・・

2012年09月28日 | Weblog
 どうも仕事の影響で本日も何も考える力が残っておりません。申し訳ありませんが本日も回送ということでよろしくお願いいたします。

 ブログランキングならblogram ←ヤクを打ってじゃなくって飲んで寝ます。。。

 
 
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ウヤのお知らせ

2012年09月26日 | Weblog
 スミマセン。本日と明日は仕事の校了日のためウヤとさせていただきます。
 おしらせが遅くなりまして申し訳ありません。

 ブログランキングならblogram ←諸事情によりいきなり多忙です、、、まったく。。。

 

 
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交通新聞社新書『蒸気機関車の動態保存』のご紹介

2012年09月25日 | Weblog
 久しぶりに書籍の紹介です。『蒸気機関車の動態保存』(青田孝著 交通新聞社新書 2012年8月15日 840円)がそれです。新書ですから研究論文というよりは「ためになる読み物」といった位置づけになろうかと思いますが、内容は濃いと思います。
 
 蒸気機関車の動態保存にまつわる話は類書がかなりありますが、どちらかというと技術的側面や観光手段として楽しむためのガイドが主流であるのに対して、本書の切り口は在来の書籍とは少し違うようです。
 副題に「地方私鉄の救世主になりうるか」とあるとおり、蒸機の動態保存がはたしてどのくらいの経済効果をもつものか、といった経済的観点から述べられています。紙幅の制限から詳しい計量的な検討は行なわれておりませんが、必要とした経費と蒸機を運転するようになってから増加した乗客数については数値をあげて触れられています。
 それを見ることで著者は経済効果は「あり」という判断を示しています。もちろん蒸機を動態復元するための費用、運行にかかわる経費と運賃収入だけを取り上げて収支を判断すれば赤字であることは素人でも分かりますが、沿線全体に波及する「効果」として考えた場合は年間数万人に及ぶ乗客の増加(動員力)は大きいものがある、と述べられています。それは著者の結論であるとともに、運行にかかわる鉄道、沿線自治体関係者の結論でもあるようです。

 とはいえ、現実に蒸機を運行している地方私鉄は真岡・秩父・大井川の三社だけですから、どこの鉄道にも当てはまる一般的な意味で「救世主」として祭り上げているわけではありません。それなりの努力、苦労、覚悟が求められていることはきちんと押さえられてあります。そしてその実践事例として動態保存のパイオニアである大井川鉄道の経緯が詳しく述べられています。また、同様に多くの復元を手掛けているJRの事例についての言及がかなりのスペースを占めていますが、これはむしろ当然のことでしょう。
 著者は技術系ジャーナリストであり、ご自身ももちろん「鉄」ですから、文脈にある種の期待感も感じられることは致し方のないところですが、それは読む方にとっても違和感のあるものではありません。むしろ読者の側が持つ悲観的展望に「待った」をかけてくれるような作用すら感じられます。つまりどうしても安易に流れがちな一般世論に警告を発する一方で、動態保存の持つ前進性、積極的な側面を分析・展開されているところが読んでいて楽しくなってきます。

 いま、静態保存(とりあえず)されている蒸機を動態復元し、走らせることは並大抵な苦労ではなく、復元できても将来的に維持していくのは大変であることは本書でも繰り返し述べられています。そしてそれらに実際携わった方々の体験談も多数紹介されています。それらを読んでついつい「いつまでもつのかな」と不安に感じているわたしのような者にとって、読み進んでいくと「ひょっとしてボイラーは新製できるんじゃないか」「台枠も作れるだろう」「動輪だって大丈夫」「いっそのこと1両丸ごと新造したらどうだ」などとライブスチーマー特有(?)の楽観的な気分にさせてくれる不思議な効果も持っている一冊です。

 最初に述べたように本書は技術的な面についてはさらりとふれているだけですので、その方面に期待されている方は食い足りない感想を持たれるかもしれませんが、その技術を開花させる政治的・経済的環境づくりというソフト面のありようについて述べられている点は類書にはあまり見られないものでユニークな一冊だと思います。


 ブログランキングならblogram ←あっというまに読了してしまいました。

 
 
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秋の風情

2012年09月24日 | Weblog
 お彼岸も過ぎて、さすがになにやら秋らしい空気感になってまいりましたね。
 相変わらず回線状況が悪いので、本日は内緒で都内某所で打っております(ご想像のとおりのところです)。

 さて、秋らしいといえば一昨日あたりからわが部屋の一角で虫の声が聞こえるようになりました。チッチッチというかピッピッピというか、かすかな声に風情を感じておりました。なんという種類の虫なのか分かりません。田舎暮らしですから子どものころからいろいろな虫の声は聞き分けられるつもりでいるのですが、分からないのです。
 そもそも密閉構造のわが家にどこから入り込んだものか見当もつきません。こんな密やかな声はいままで聴いたことが無いものです。

 しかしやはり風情も程度問題でありまして、近くで夜通し鳴いておりますと、いささか耳についてまいります。有体に申せばちょっとウルサイなと思えるのです。やはり秋の虫は壁越しにかすかに耳に届いてくるというところが風情を感じるポイントでしょう。
 枕元で夜通し聞かされているとなんだか目覚まし時計のようでもあり、風情をとび超えてしまっているような気がいたします。まぁ、人間は勝手な生き物ですね。

ところで最近になって気付いたのですが、自宅の近所にススキというものを見なくなっていたのです。秋といえばお月見。お月見といえば当然お団子とススキとくるわけですが、そのススキがどうも見えないのです。
 あんなものどこにでもある、というのがわたしの認識だったのですが、気付いてみればそんなものが自生している原っぱがあるわけでなし、雑木林はあっても保存樹林ですから下草などはきれいに刈り取られているし、というわけで、あるのはネコジャラシとブタクサばかりで鼻炎の原因ぐらいにしかなりません。
 上記の虫の声も最近は鈴虫ばかり団体で鳴いていてやかましいことこの上ありません。スイッチョ(ウマオイ)とかガチャガチャ(クツワムシ)なぞついぞ見かけなくなりました。

 探せばまだ秋のシルシはあるかもしれませんが、農業地帯だと思って油断しているといつのまにか都会と大して変わらないことになっているのだなぁ、と感じたことでありました。

 ブログランキングならblogram ←JCOMで調べたら回線はモデムまでは正常だそうです。。。といういことはやはり・・・。

 
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悪天候につき中止に

2012年09月23日 | Weblog
 本日の臨時運転会&ボイラー班作業&BBQは悪天候につきボイラー班作業以外は中止となりました。ボイラー班は屋根の下での作業ですから雨でも寒くても関係ありませんので実行されました。
 わたしも写真撮影に行こうかな、と思いましたが、昨日に続いて寝坊したため休日になってしまいました。

 正確には寝坊ではなくて二度寝だったのでした。どうも二度寝というと変な夢を見るのがわたしの悪い習性でありまして、本日も妻に思いっきり意地悪される夢を見て「くぅ~~悔しいな!!」と思ったところで目が覚めました。起きてしまえばいつもの妻ですからなんだか騙されたような損したような気分になりました。

 さて、相変わらずパソコンの調子がおかしくて、本日はネットに全然つながらなくなって困りました。回線状態を調べようとしてJCOMに連絡しても向こうからはナシのつぶてで確認もできません。
 回線周りがいけないのか、パソコンに異常があるのかどうも特定できません。特定できないままに20回ぐらい再起動を繰り返したところ、やっとつながりましたので、つながっているうちに大急ぎでブログを打っているところ、というわけです。

 なにか工作を、と思いますが、本日は湿度が非常に高く、わが工房はそこにいるだけで水滴まみれになるような状態ですからあきらめた方がよさそうです。

 というわけで、取り急ぎ本日のご報告(内容はありませんが)といたします。

 ブログランキングならblogram ←なんとか打つ間はもってくれました。。。不便だなぁ。

 
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飲酒疲れの鬱

2012年09月22日 | Weblog
 本日は昨夜の飲酒で鬱です。
 とはいってもこれは鬱病の鬱ではなくて「カッタルイなぁ」という方の鬱ですからそれほど大したものではアリマセン。
 昨夜は今月いっぱいで退職し、沖縄に移住する後輩の送別会だったのでした。職場の部署を挙げての飲み会というのは実は大変久しぶりです。いままでは2、3人で小規模に繰り出すばかりでしたので、なんだかいつも以上に力が入って、二次会にカラオケに行きました。職場関係では10年ぶりぐらいです。わたしも当然ZARDの曲を熱唱いたしました。
 しかし、送られる当人が一番歌がうまいので他のモノはちょっと圧倒されながら参加している状態でした。

 そこでやおら登場したのが最年少の青年で、彼はAKBの熱狂的なファン、というよりヲタクなので数曲にわたって踊り付きで歌い続けてわれわれをあ然とさせたのでした。こやつは仕事はいまいちなのですがこういう能力は大したもので、大喝さいでありました。しかし、この青年はわたしのセガレと同い年なので、ウチのもひょっとすると職場でこんなことやってるんではなかろうか・・・とちょっと心配になってしまったのでした。まぁ、当家のセガレはAKBファンではありませんが(たぶん)。。。

 といった次第で、本日はすっかり疲労困憊して11時近くまで目が覚めない状態でした。こういう日は薬もことのほか良く効きますから、余計に眠いのです。

 明日は第二レイアウトで臨時運転会+ボイラー班の作業+バーベキューを行ないます。車ですから飲酒はしませんが、それなりにまた疲れそうです。

 ブログランキングならblogram ←相変わらずパソコンの調子が悪くて困ります。。。

 
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胆嚢ポリープの結果

2012年09月20日 | Weblog
 昨日はパソコン騒ぎで忘れておりましたが、エコー検査の結果、胆嚢ポリープはあるにはあるものの若干小さくなっており、その他の数値もやや「H」ではあるけれど取り立てて精密検査を要するほどでもない、という診断でした。

 まぁ、要は「このまま来年のドックまで推移を見ていきましょう」ということで終わりました。無罪放免、というわけではありませんが、「白に近いグレー」ということで、墨10%ぐらいというところでしょうか(分かる人は分かる)。

 今週は週刊の新聞が休刊でしたので残務整理やら予習やらで比較的のんびり過ごせたのですが、予習し始めるとついついあれもこれも調べだして結局一日中マシンの前から離れないことになり、けっこう疲れることとなりました。

 実は、いますでにもう睡魔に襲われております。本当はもっとまじめなお話を書こうと思っていたのですが、どうもダメそうです。
 パソコンも壊れそうですし、今日のところはこれにご勘弁を・・・。

 明日は仕事の関係で深夜帰宅となりますのでウヤとさせていただきます。

  ブログランキングならblogram ←瞼がくっつきそうです。。。

 

 

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パソコンが不調に

2012年09月19日 | Weblog
 まだ買って1年半にしかならないわがパソコンが早くも不調になりかけていて、わたくしは不安な日々を過ごしております。
 前々から少しずつおかしくなってはいました。まずはカードスロットにコンパクトフラッシュを常に差しこんでおかないと何かアクションを起こすたびに「スロットにメディアを挿入してください」というメッセージがガンッという音とともに現れるようになったのです。これは今もって解決できず、結局CFカードが常時入れっぱなしになっています。カメラを買い替えてSDカードになってもCFを差しておかないと警告が出て作業ができないのです。

 次にサウンドが明らかに劣化してきました。同じメーカー(HP)の古いマシンを妻が使っているのですが、そちらの方がはるかにクリアな音が出るのです。しかもウェブサイトを立ち上げるとダウンロードしている間中ザザザッというノイズが入るようになりました。また、最近は音量が勝手に大きくなったり小さくなったりするのです。夜中など、うっかり音楽も聴けません。

 さらに画像処理が目に見えて遅くなりました。クラブ通信を作っているときなどの「待ち時間」がやたら長くなって、まるでかつてのウィンドウズMeで作業しているみたいです。これはアドビのイラストレーターをインストールしてからさらに顕著になりました。編集途上で保存をかけるとしばらく時間がかかります。ページメーカーではこんなことはありませんでした。モニター(IODATA)には特に異常は発生していませんが、本体がこんな調子では大いに困ります。

 今まではドスパラの画像処理等に特化したマシンを2台続けて使っていたのですが、いささか高価であったのと昨年3月に突然クラッシュしてすぐにニューマシンが必要だったことから、通販でフツーの廉価なマシンにしました。それがこんな調子ですからやはり一般に販売している「なんでもパソコン」はこんなものなのかな・・・と考えています。
 専門家の友人T野氏に言わせると「そこらで売ってるパソコンなんてそんなものさ」だそうです。「3年もったら拾いモノ」ということですから、1年半でアヤシゲながらまだ実用になっているのは普通のことなのでしょうか。

 いっそのことT野君に丈夫なのを作ってもらおうかと思ったら「いいけど20万ぐらいするよ」というサービス精神のまったくない一言であっさり取りやめになりました。。。

 最近はパソコンが安くなってきましたが、「安かろう悪かろう」では困るんですけどね・・・。。。

 ブログランキングならblogram ←またセッティングしなおすのも面倒ですしね~~。

 
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早期発見!

2012年09月18日 | Weblog
 ええ・・・毎度バカバカしいお笑いを申し上げます。
 昨日『蒸気機関車の角度』失踪の件をご報告しましたが、本日あっさりと発見しました。見つかってみれば「なぁんだ」と思わず脱力してしまうようなところでした。
 どこかといいますと、ズバリ書棚でした。しかも自室の!
 皆さまさぞ「こいつ馬鹿が固まっちゃったんじゃないか」と思われるでしょうね。わたし自身がそう思っているのですから。そういえば3年ほど前に現在の自室に引っ越して来たときに、大型の書籍の置き場所をどうするかということになって、急きょ書棚を二つばかり購入し、ほとんどのものは収めたのでしたが、「角度」だけは居間で見ようとしてそのままにしておいたのでした。しかしどうも掃除の邪魔になるからどこかへ仕舞うように、と妻から命じられて自室の棚の見直し作業を行ない、あまり視聴率(?)の高くない大型の写真集をそこに収めたのでありました。

 その後B20やらフォルテやらにかまけてD51がお留守になっていたときがあって、その間の記憶がどこかへすっ飛んでいたのですね。それで昨日申したように居間を中心に家じゅうの書棚や物陰を探しまくったのですが、普段見ない棚は視線が通過扱いになっていたのです。意識の上ではちゃんと見ていたのですが、見ていなかったのですねぇ。。。。

 まったくお恥ずかしい次第で、この数ヵ月どこを探していたのかと自分で呆れ果ててしまいました。

 ということで、上の写真がその探し出された現物です。40年間の愛読によってすでに函の写真はボロボロですね。しかし中身はけっこうきれいな状態でホッとしました。D51やC59、C62など一部の良く見るページはさすがに取れかかっていますが、実用上はまったく支障ありません。やれやれです。

 かような次第でお恥ずかしい限りですので長話は止めにして本日はこれにて失礼させていただきます。。。

 ブログランキングならblogram ←あわてて古本を買わなくて良かったです・・・。。。

 
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蒸気機関車の角度

2012年09月17日 | Weblog
 写真集『蒸気機関車の角度』(機芸出版社)といえば鉄道模型を趣味とする人なら知らない人はいない(たぶん)有名な本です。発行は、ときあたかも「鉄道100年」の1972年で、箱のカバーや表紙には梅小路に集合したばかりの保存機群と、C62とB20のツーショットが使われていました。当然わたしも大金をはたいて初版を予約して購入したものでした。以来、模型作りをしているときはもちろん、ただのヒマツブシのときにも開いては時間も忘れて見入っていたものでした。

 5インチのD51を作るようになって各種の解説本を入手しましたが、設計図の類を別にすれば結局この写真集に勝るものはなくボロボロになってページも取れかけていますがそれでも見続けていました。今回師匠のところでも給水温め器のディテールを、この『角度』で確認しながら仕上げて行ったことはいうまでもありません。なんといっても1形式で何種類もの機関車のディテールがいろいろ比較できるのがこの本の最大の特長です。後発の解説本は特定機か少数のそれもディテールのはっきりしない走行写真や漫然と撮影したようなカットが中心で、模型作りにはたいして役に立たないのです。

 ところが!本日温め器の端面にいくつもあるボルトの位置関係を確認しようと角度を探したところ、どこにもないということに気付いたのでした!
 いつも居間のソファの後の本棚に置いてあったのです。つまりすぐに手に取れる位置に置いていたのです。当然門外不出の本ですからどこかよそへ置き忘れるということはあり得ません。絶対に家のどこかにあるのです。にもかかわらずどこを探しまわっても見当たらないのです。これは一大事です。

 妻がよく思いついたように書棚の本を整理したりしますが、こと鉄道に関する本についてはわたしの許可なくどこかへしまいこむことはありませんし、第一大きく重い本ですからそんなに移動するはずもなく、高いところに上げられていることもあるはずがありません。ではいったいどこに行ってしまったのでしょうか・・・???
 可能性としてはわたしが何かの作業の際に参考にしようとして見ていてそのままどこかへ置き忘れている、というのが最もありそうなことです。わたしはそれほど整理整頓好きというわけではないのですが、かといって散らかし屋でもなく、たいていはもとあった場所に戻して終了するのですが、全然記憶にないのです。あんなにしょっちゅう見ていた本が忽然と姿を消すなんて、自分で自分が信用できなくなってきました。早くも痴ほう症になったのでしょうか??

 最悪の場合を考えて古本での相場を調べてみたところ、普通程度のもので2万円前後もするのです。現在の財政状態ではちょっと手出しできません。もちろん新本が入手できる可能性は限りなくゼロに近いでしょう。当分の間大捜査線が敷かれることになりそうです。

 ブログランキングならblogram ←ほかのことが手に着きません。。。

 
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給水温め器本体が完成

2012年09月16日 | Weblog
 昨日は山梨の師匠のもとでD51の製作の続きを行ないました。
 この間、旋盤の修理は終わったものの、連日の猛残暑でまったく作業をする気にならず進捗がありませんでした。本来なら温め器は自宅で完成させてマッチングを見たりその後のディテーリングのために出かける予定だったのですが、どうも仕方ありません。

 というわけで、先に結果からお話すると温め器の本体は上の写真のようになんとか完成しました。出来上がっていた蓋を固定するネジ穴を開け、蓋を固定した状態で外径を本体のパイプと合わせて削り、端面を仕上げて肩にRをつける・・・という、いかにも簡単そうな仕事だったのですが、結局1日がかりの作業になってしまいました。

 自宅での工作でしたら「まぁ、こんなところかな」といういつものアバウトな進行でテキトウに仕上げてしまうのですが、それが師匠のところでの工作となりますと、そのようないい加減な仕事はできません。きちんと機械をつかってキッチリとした工作をしなければなりません。そうなると自分で手に負えないことになりますから、セッティングを師匠に決めていただいて「じゃああとは自分でね」ということで工作する、という具合になります。下の写真は蓋の固定を終えて端面の仕上げと外径の旋削を行なっているところです。

                                      

 さすがに師匠の旋盤はきっちりと工作が来て気持ちが良いものです。なにしろ60mm径の本体が楽々と収まるチャックでがっちりくわえて大変よく切れるバイトで回転を上げてさぁーっと削れるのですから工作も楽しくはかどるというものです。
 ちなみに蓋の固定は片側4個所でM2の皿ビスを使って行ないました。このための位置決め、孔開け、皿モミ、タップ立てはすべてフライスにサーキュラーを固定して割り出し、そのまま工作してしまいます。タップもフライスのチャックをフリーにしてチャッキングして切っていきますからふらついたり折れたりという心配はありません。
 今回ちょっと予想外だったのは温め器全体の長さがちょっと違っていたということです。「長いんじゃないか」という師匠の一言で、明細図に当たってみると、確かに6mmぐらい長くなっています。このうちには仕上げしろも入っていますから、実際は4mmほど余計に長いということになります。ということで明細図の寸法で仕上げて、帰宅後改めてスタイルブックから寸法を拾ってみると、こちらの方はどうも4mm長いのです。ちょっと謎ですが、原設計図と1/80模型設計図との違いですので、今回は原設計図の方にしたわけです。煙室に取り付けてみるとおそらくほとんど気にはならないとは思うのですが。

                                      

 さて、前回6月にご報告したように、D51はシリンダーを別物に交換することになっています。今回は上の写真のように右側について取り付けをしていただいてありました。左側は折れ込んだタップがあったとかで、業者に抜き取りを依頼しているところでまだでした。併せてシリンダー部分の台枠の補強もしていただいてありましたので、この点も安心できることとなりました。

 次回はまた来月、ということになりますが、それまでに温め器のディテーリングぐらいはやっておきたいと思います。
 
 ブログランキングならblogram ←帰ってみたらやはりまだ暑いですねぇ。。。

 
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大人の散歩道(4)

2012年09月14日 | Weblog
 今回は浜町堀の続きを申し上げます。前回ご紹介した緑橋の架かっていた本町通り辺りの堀沿いは「緑河岸」と呼ばれていたようで、現在は緑通りと呼ばれています。
 大伝馬町のエリアを抜けますと富沢町、久松町と進みますが、この辺りに来ると堀跡は少々広くなって左右に庶民的な木造建築が並ぶようになります。

 上の写真のようにかつてはどこにでも見られた裏町の雰囲気です。ここでは主に食べ物関係のお店が多いようです。写真でもパン、寿司などという看板が見えますが、そのほかにも豆腐、うなぎ、弁当、小料理などのお店が並びます。その間には純然たる住宅、というか仕舞家風の家もあります。
 ただ、残念なのはどうも人けがないことです。僅かに弁当屋さんと豆腐屋さんに人影があったくらいで、あとはしんとして猫が昼寝をしているようなのどかさです。看板はあってもどうも廃業したらしいお店もあって、ちょっと寂しいところでもあります。まぁそれでも暗くなったら看板に灯りが点いて勤め帰りの人が立ち寄ったりするのでありましょうが。。。最近のデンでいくと「再開発間近」という印象を受けます。やがてここもビルの裏側になってしまうのでしょうか。

 久松町に入ると堀の跡が児童公園となっています。公園の中に子ども用のプールがあって、ちょうど幼稚園児がきゃっきゃと水遊びに興じていました。河岸の通りを挟んで久松小学校があります。その小学校の南隣が久松警察署です。
 ここに架かっていたのが小川橋ですが、その由来の碑が橋跡の中央に建っています。それによると明治19年(1886)に馬喰町でピストル強盗が発生し、久松署の小川巡査が犯人を浜町河岸に追い詰め、格闘の上逮捕しました。このとき小川巡査は重傷を負い、それがもとで死亡してしまいます。
 この強盗は、当時東京一円を荒らしまわっていた大悪党で、余罪が80余件、5人を殺害していた兇賊だったとのことです。そこで市民が小川巡査の功績を称え、その死を悼んで小川橋と名づけた・・・とのことです。下の写真は小川橋跡です。左手前の四角いシルエットが由来碑です。

                             
                                         
 小川橋跡から先は堀跡が「浜町川緑道公園」として整備されています。公園の幅から、かつての堀の規模が想像されます。このあたりは左岸が日本橋浜町、右岸が同・人形町となります。江戸時代には右岸の堺町、葺屋町に中村座、市村座があり、さらに人形芝居の小屋やその制作・修理にあたった職人が多数住んでいました。それが人形町の町名の起こりでもあります。
 水野忠邦の天保の改革で芝居小屋は浅草に強制移転させられますが、明治6年(1873)久松橋際に明治座の前身・喜昇座が開場し、再び芝居の火が点りました。上の小川橋跡の写真は、その喜昇座のあったあたりに向かっています。現・明治座は少し移転して浜町公園の方にありますが、新ビルに建て替えて盛業中であることは皆さまご存知のとおりです。また、緑道公園の入口には芝居町であった記憶をとどめるべく歌舞伎十八番『勧進帳』の弁慶像が建っています。

                        
                                   

 神田八丁堀でも触れた、悪名高い「町名変更」はここでも同じで、今は人形町で一括されてしまっていますが、江戸時代(嘉永年間)の地図を見ると元吉原地区には上記の堺町、葺屋町のほか住吉町、芳町、高砂町、難波(浪花)町等々がありました。緑道公園にある防災倉庫には写真のように「人形町浪花会」といった形で旧町名が残されています。

                             

 この路地裏散歩で唯一ほっとできるエリアである緑道公園ですが、残念ながらあまり長くは続かず、すぐに眼の前に首都高の浜町ランプが出現します。この高架下にも公園はあるのですが、所詮は高架下ですからあまり楽しい空間ではありません。
 その先が大川端の中州横の河口となるわけですが、ここは完全に埋め立てられて中州と一体化され、さらに河口の位置には下の写真のように首都高の箱崎ジャンクションと東京シティエアターミナルが出来てまったく昔日の面影はありません。ちょうどバスが停まっているあたりが河口だろうと思われます。そしてその先は隅田川のカミソリ堤防に突き当たって散歩も終点となります。

                             

 今回のコースはなにも知らずに歩くと単なる路地から路地への面白くもない景色ばかりですが、かつてここに幅広い堀があって舟が行き交い様ざまな人が住み暮らしていたことを思いながら行くとなかなか味わいのあるコースです。
 一気に歩くと2.5kmほどありますので、行ってみようという方はJR神田駅あるいは都営新宿線の馬喰横山駅から歩かれるのが良いかと思います。

 ブログランキングならblogram ←明日は山梨へ行き不在となりますのでウヤとさせていただきます。

 
 
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大人の散歩道(3)

2012年09月13日 | Weblog
 やっと大人の散歩道(3)をお届けできます。今回は竹森神社から大川端へと至る浜町堀跡をたどってみることにいたします。前回の到達点・竹森神社の背後で神田八丁堀は直角に南方向に曲がって浜町堀となり、大川端をめざします。こちらも一直線です。
 写真は浜町堀の起点付近で、右側の建物が竹森神社です。
 この堀が造られた時期ははっきりと分かりませんが、江戸時代の初期にはあったようですから、この付近が埋め立て造成された時代に設けられたのでしょう。この堀近くに元吉原が許可されたのが元和3年(1617)だそうですから、そのちょっと前ぐらいかもしれません。                            

 こちらも神田八丁堀同様地下に東京都の下水道管が埋設されていますが、神田八丁堀にはなかった「東京都管理地につき自転車・バイク等の放置禁止」という看板があちこちに立っています。ということはこちらは「都道」なんでしょうか??
 路地の作りも神田とはいささか異なっていて昔の裏長屋の路地のように真ん中を雨水が流れるようになっています。幅はさらに狭く、文字通りビルの隙間です。

                                 

 その隙間を抜けていきますと突然江戸通りに出ます。ここに「鞍掛橋」という橋が架かっていました。上の写真がその跡地です。橋の位置に信号があり、信号名も「鞍掛橋」です。橋詰跡に立ってじっと歩道を見てみると橋があった部分が微妙に盛り上がっています。車道部分はさすがに平らになっていますが、歩道部分は明らかに橋の形状をとどめています。

 この江戸通りを西(日本橋方向)に行くとほどなく「小伝馬町の牢屋敷」跡に着きます。現在は元刑場跡に大安楽寺という寺院が建てられています。これは刑死者の霊を弔うために大倉喜八郎と安田善次郎が寄進したもので、両人の頭文字をとって大安楽寺となったそうです。境内には延命地蔵があります。牢屋敷跡はほかに身延山別院、区立十思小学校(現在廃校)と区立十思幼稚園、十思公園となっています。この十思公園に「石町の時の鐘」が移設されています。
 明治8年(1875)に牢屋敷が廃止されたときは場所が場所だけに引き取り手がなく、「牢屋が原」などといわれて小屋がけ興行などが行なわれていたようです。下の写真が元十思小学校と大安楽寺です。十思小学校の校舎は典型的な震災復興建築ですね。

                      
                               


 以前にご紹介した長谷川時雨さんの『旧聞日本橋』にもこのへんの情景が詳しく描かれています。実はその長谷川時雨さんのお父上(日本最初の弁護士にして東京市会議員)にこの刑場跡地を無料で払い下げる話があったのだそうですが、お父上は断ってしまわれたとか。。。お父上はすぐ近くの通油町(とおりあぶらちょう)の育ちで、無実を訴えながら処刑される人を何度も見ているので、とてももらう気にはなれなかった、と漏らしていたそうです。しかし貧乏御家人の出身でしっかり者である母上のお多喜さんは「せっかくの一等地をタダでくれるというのにもらわなかったんだから」と後々まで残念がっていたということです。
 実はこの牢屋敷は浜町堀より前回の神田八丁堀の待合橋(後に火除橋)からほんの数十メートルで、むしろそちらの方が近かったのですが、いちおう旧日本橋区ですから浜町堀の段でご紹介した次第です。
 
 さて、その時雨さんのご実家のあった通油町は鞍掛橋の次の「緑橋」が架かる「本町通り」の一角にありました。今では江戸通りがメインストリートですが、元々はこの本町通りが本線で、日本橋側から本町1丁目、2丁目・・・大伝馬町、通油町、横山町と続いていました。
 お城から浅草御門へ一直線につながる文字通りお江戸の目抜き通りであり、かの大丸の江戸店もここの大伝馬町にありました。広重の『名所江戸百景』にも「大伝馬町ごふく店」として描かれています。現在は「大伝馬本町通り」となって、ちょっと裏道然としているのが残念なところです。下の1枚目の写真は緑橋のあった場所から本町通りの日本橋方向を見たものです。
 この一帯は通称「木綿店(もめんだな)」と呼ばれ呉服のほか太物(木綿や麻織物)を扱う問屋が軒を連ねていたそうです。下の2枚目の写真が大丸江戸店の跡地です。広重の絵もこれとほぼ同じ画角になっています。前後に通るのが本町通り、交差するのが元吉原の大門通りです。そして背後が時雨さんのご実家の跡になります。

                            
                                         

 余談ながら、『半七捕物帳』の半七親分のお父っつぁんもこのあたりの問屋の番頭さんだったことになっています。
 もうひとつ余談を付け加えると、この通油町には江戸後期に蔦屋重三郎が開いた「耕書堂」という書舗があり、『吉原細見』や歌麿・写楽の画集、山東京伝・十返舎一九などの戯作本もそこから出版されたのでした。

 ちょっとお話が長くなってきましたので、この続きはまたこの次、ということにさせていただきます。

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コメント
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