八ヶ岳キリスト教会 牧師ファミリーのブログ

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人間らしく

2010年10月31日 16時48分36秒 | 証し


 あなたは小石を食べる子どもをあなたは見たことがあるだろうか。
 写真ではあったが私は20年ほど前に見たことがある。
 たぶん、エチオピアの少女だったと思う。
 茶色の大地にしゃがんで何かをつまんでいた。
 写真には飢えて空腹のため、小石を口に入れているのだとあった。
 心が震えた。

 後進国の子どもたちを支援するきっかけになった1枚の写真。
 以来、何カ国かの子どもたちに教育支援をしてきたが、無事に学校を卒業できた子は僅かにふたりだけだった。
 初めての子は4年ほど支援したが、支援団体の前から消えてしまった。
 両親は彼に働いて欲しかったらしい。
 やっと文字を覚えた彼からの手紙には勉強が楽しい、上級学校にも行きたいと書いてあった。
 現地スタッフが探してくれたらしいが、ついに見つからなかった。
 もし生きているなら私の息子と同じくらいの年になっている。
 せめてイエス様の愛を彼に伝えたかったと今も心が痛い。

 もうひとり、忘れられない子がいる。
 父親を戦争で亡くしたタイの少年で農業の母親と何人かの兄弟たちと暮らしていた。
 長子だったらしいが母親がその子の勉学に理解を示し、彼を3年余支援した。
 彼の手紙はいつも感謝と希望で溢れ、イエス様を知る子だった。
 14歳になった時、母親が過労で倒れ、彼は長男として家族のために農業の道を選んだが、その後、よく働くということで、村長さんがお嫁さんを世話してくれたと現地スタッフから連絡があった。
 さらに1年後、父親になったからと日本のお母さんに伝えて欲しいと、現地スタッフから連絡があった。
 とても幸せだとも、どの子の手紙にも必ずと言っていいほど感謝の言葉がつづられていたけれど、感謝するのはいつも私、けなげに懸命に生きる彼らにどれほど勇気をもらったことだろう。
 自分の傲慢さを気付かせてくれたのも彼らだった。
 支援など一度もしていない、共に生きてきただけだった。

 8年前の春、八ヶ岳に移り住み、秋、運転免許を取り、冬、今の職場のNGO団体から隣県の町に移転してきたので経理スタッフとして来てほしいと連絡があり、今に至っている。
 そのどの場面にも主の導きがあった。
 今、私は貧困に苦しんでいる子どもたちに教育を受けさせる活動のNGO団体に勤務している。
 かつて、教育を受けられない子どもたちとの交流を経験していなかったら、運転免許がなかったら、隣県に今のNGO事務局が移転してこなかったら、私はここで隠遁生活をしていたかもしれない。
 あなたにも地球家族として現状を知ってほしいと願っている。
 私がどれほど彼らと愛を分かち合えたか分からないけれど、人はいろいろな意味で優しくあって初めて人間になれるのではないかと今も思う。
 それには神の導きとイエス様の助けがどうしても必要なのだと確信している。
 そしてそれを素直に受け入れること。私は人間であり続けたいと思う。
 彼らが私にそれを教えた。
 かつて小石を食べる少女を私に見せたのは主であったと思う。
 欠けだらけの私を訓練し、ティラノの牙を抜いて、何とか人間らしく今の私に導いてくださった神への感謝は絶えない。

 「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、
    あわれみの心を閉ざすような者に、
      どうして神の愛がとどまっているでしょう。」
  第一ヨハネ 3章17節

 2010/10/31
  八ヶ岳のティラノちゃん


姑の信仰

2010年10月10日 16時47分21秒 | 証し


 実の母より長く、私は姑と28年の歳月を共に暮らしてきました。
その内の、10数年を介護させてもらい、姑は3年を八ヶ岳南麓の養護施設にお世話になりました。
 舅が亡くなる数年前から姑は少しずつ認知が始まっていました。多発性脳梗塞によるものでした。
家族が判別できなくなるまでの何年間、姑は本当に辛そうでしたが若き日の自分に帰っていってからはそれまでがうそのように穏やかな顔に変わりました。
姑はクリスチャンになった私に将来我が家の墓を守ってもらえるのか、口にこそ出しませんでしたがどれほど不安に思ったことか、終戦直後に亡くした長女(夫の姉)の位牌に毎朝晩手を合わせ、弱ってからはよく涙を流していました。
私は「おばあちゃん、不安にさせてごめんね。でもこのイエス様が皆を守ってくださっている、本当の神様なのよ」と何度心の中でつぶやいたことでしょう。
認知症が進んでしまう前に何とか姑にキリストの愛を伝えたいと思いながら、坂道を転がり落ちるように認知症はどんどん進んでいきました。
ある秋の日、姑を教会の礼拝に連れて行っていいか、夫に聞いてみました。
如何に認知症が進もうとキリスト・イエスが分からないとは限らない、姑にイエス様を知ってもらうことをどうしてもあきらめられませんでした。
イエス様ならきっと姑の心の中に入ってきてくださる、姑にはきっとイエス様が分かると思いました。
夫はもはや姑には何も理解できないと思ったのか、快く「いいよ」と送り出してくれました。
 そして礼拝賛美の時、足腰が弱りつつあった姑に私が「Kさん、座ったままでいいんですよ」と声をかけるとうなずきながらも立ち上がり、賛美の間中、じっと両手を合わせていたのです。
知らない曲です。
初めて聞く賛美歌でした。
説教の間中もじっと聞いていました。
1時間半、自宅では落ち着いていられない状態の日々も多かったのです。
認知症になったからこそ姑の心の垣根が取り払われて素直に良きことがわかり、イエス様が姑の心の中に来てくださったのだとその時、確信しました。
帰り道、ふたりで手をつなぎ、秋の紅葉を眺めながら我が家への道をゆっくりと歩いて帰りました。
そして当時聖書の講義を受けていた私は、師に事の次第を伝え、姑に洗礼を授けたいと相談しました。
「私は、教師でも牧師でもありません。
でも聖書のどこにも1クリスチャンが洗礼を授けてはならないとは書いてありません。
私が姑に洗礼を授けることは大それたことで主に対し罪を犯すことになるのでしょうか」と。
師は「問題ありません。もしY姉が主に罪を犯したことになるのならその罪は私が負いましょう」
と答えてくださいました。
師のその言葉で私は私自身が姑に洗礼を授ける決心をしました。
川崎の我が家で二人きりの洗礼式を執り行ったのはそれから間もなくのことでした。
私のこの行為が主への罪に値するならその罪を生涯かけて負っていこう、罰せられるのなら甘んじて受けよう、姑が救いに至るなら、と思ったのです。
お互いに色々なことがあった30年でしたが、八ヶ岳南麓のこの地に移り住んで3年、姑は天国に帰って行きました。

2010,10,10
八ヶ岳のティラノちゃん