八ヶ岳キリスト教会 牧師ファミリーのブログ

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主はわたしを変えてくださった

2010年07月15日 16時44分18秒 | 証し

 こんにちは。お元気ですか?
7月はどのようにお過ごしでしたか?
梅雨明けが待ち遠しいですね。
午前中は晴れ、午後には雨という毎日で、庭の草は元気に成長しています。

私は気が向くと立ちカンナででおおざっぱにザクザクと草取りをするのが大好きです。
一応やった!という達成感が心地よいです。

この草取り仕方ののとおり、私はとても大ざっぱな性格であり、又、気が向くとやる。気向かないとやらない。
そして、自分が使命を感じたことは必死にやる。そんな人間です。
さらに、生まれつき私はとてものんきで、怠け者であり、することが無ければずーっと寝ていたいという感じです。

そんな私に神様は仕事を与え、色々なすべきことを与え、”お前に眠っている暇はないよ”と鍛えてくださっています。
忙しいことは感謝です。
そうでなければ、私はきっと何時までも飲むっていることでしょう。

1年半ほど前より同居している84歳の主人の母は、私とは全く違い、早起きで、働き者です。
毎日規則正しく、自分のするべき事をきちんとしています。
母の気力はスゴイです。

主人もお母さんにそっくりの性格で、のんき者のわたしを注意することも、裁くこともなく、ただ、自分のするべき事をきちんとしている人です。
とても暮らしやすい人です。

かつて、私は幸せな家庭を持ちたいいう願望がとても強い者でしたが、神を第一とする生活をしていたら、その願いが叶っていました。

幸せになりたいと結婚したのではなく、神に自分の人生をゆだねて、ただ従っていたときに、いつの間にか幸せになっていたのです。
そして、私が幸せになることができたのは奇跡です。

以前、横浜で私が勤めていた医院の先生が、このように言いました「君は幸せになれない人間なのに、神様が幸せを与えてくれたね。」と。
「え!幸せになれない人間ってどういう事??」と思ったけど聞き返しませんでした。

私が教会に行き、イエスキリストを信じてから明るくなったり、変えられていく姿、また、幸せな結婚をした、そのことを見て、その先生は教会へ行くようになり、神をあがめ、更に、家族を連れて礼拝へ出席するようになったのです。

高知の私の母も、娘の私がイエスキリストを信じ、クリスチャンになってから、あまりにも変わったので「イエス様はスゴイねぇ!」と、いつも言い続けていました。
そして、母もクリスチャンになりました。

以前の暗かった私がイエス様によって明るく陽気に変えられた私を見て、その変化の中に神の栄光を顕されたこと、そして、その神の栄光を周りの方々に見ていただいたことが本当に嬉しいです。

神に影響をささげ感謝します。
あなたの上に、主イエスキリストの祝福がありますよう心よりお祈りしています。

これから暑さも増してきますので、お互い夏ばてしないように頑張りましょう!
それではまた!

p.s.
 5月のゴールデンウィークに主人と植えた野菜は、収穫の時を迎え、毎日美味しく食べています。

だれでもいキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です、
古いものは過ぎ去って、見よ すべてが新しくなりました。
(聖書:コリントⅡ 5章17節)

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えてこれらのものは、全て与えられます。
(聖書:マタイ 6章 33章)


2010.7.15 トマトより


御手につつまれて

2010年07月04日 16時43分20秒 | 証し

 HPをご覧の皆さん、こんにちは。
 少し重い話でごめんなさい。
 もう30余年前になりますが、結婚4年目位の頃、今思えばうつ状態だったのでしょう、私はある日自ら命を絶とうとして、神様に救われたことがあります。その時の私は命を救ってくださった方が神様だったとは全く分かりませんでした。
 それから5年ほどして、キリスト・イエス様にであって、「ああ、あの時、私を助けてくださったのは、このお方だった」と知りました。
 うつ状態になってしまった原因は言えませんが、辛いものでした。
 まだ幼い息子もいるし、何とか生きる道を探してみても、何を考えても、思いは いつも -死ぬー にたどり着いてしまいました。
 ついにある日、町内で配られた殺鼠剤を片手に、もう片手にコップの水を持って死のうとしました。
 これでやっと楽になれると、苦しいのはほんの一瞬だと、殺鼠剤を口に入れようとしたその瞬間、誰かに背中を強く押されました。
 ドンって。
 両手の中のものはこぼれ落ちて、「え!誰?」 振り向いたそこには誰もいませんでした。
 しばし呆然とした後、自分は死ぬこともできない、本当は生きたいのだ、その思いが誰かに押されたように感じただけなのだと自分自身にそう理解させました。
 そして死ぬことができないならば、完璧に生きてみよう、いや、生きてみせると思いました。
 それからは完全無欠の良妻賢母、良き嫁をめざし、次第に鉄の女に変身していきました。
 やがて小学生になった息子が近くに開かれたキリスト教伝道所の教会学校に通うようになり、家庭訪問で牧師が訪ねて来られ、聖書の学びを薦められました。
 息子が学んでいることがどんなことか知ろうと、私も聖書の学びを始めることにしました。
 ところが、かたくなになっていた私の心には牧師がどう教えてくださっても、アホくさ!という思いがありました。
 一年も学び続けたのは不思議なことです。
 そんなある朝、家事の忙しさの中、ふと目がいった洗面の鏡にほんの一瞬、十字架につけられたキリストが見えたのです。
 同時に醜い自分の姿も。
 頭の中が混乱しました。
 私はいつも正しいはずだし、自信もあったのです。
 でもやがてそれこそが私の醜さであることに、十字架のお方を見て知らされました。
 苦しげに、悲しげに、愛おしげに私を見つめる眼差しがありました。
 そして数年前私の背中を押したのはこの方だったと、やっと悟ることができたのです。
 私の背を押したその手には大きな傷が・・・神様に出会った瞬間でした。
 嬉しくて、切なくて、泣きました。やがて受洗し、その後も幾度か、経済的、精神的、肉体的なピンチがありましたが、その度に解決され、試練の道を一歩々々歩いてきました。
 この道のはるか先には希望の光が輝いています。
 こんな私でさえ主に愛され、イエス様の大きな手に包まれて生かされているのです。
 今は、全ての不安から解放されて生きることができています。


 神の愛はあなたに確かに注がれています。
 どうか、あなたもイエス様に出会って心からの喜びを感じてくださいね。
祈っています。


        2010年7月4日  八ヶ岳のティラノちゃん