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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

藤田嗣治

2010-02-17 | 日本人作家

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藤田嗣治【日本人作家】1886 ~ 1968 藤田嗣治 日本人作家

 

 藤田 嗣治 ( ふじた つぐはる )

Léonard Foujita または Fujita, 1886年11月27日 – 1968年1月29日
は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の 「乳白色の肌」 とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ (パリ派)の代表的な画家である。


生涯 [編集] パリに至るまで [編集]1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)の各項目に掲載されている系図を参照。藤田もこの系図に掲載されている。

藤田は子供の頃から絵を描き始め、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し[1]、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。

なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。

 

 

 

 

サイパン島同胞臣節を全うす【作品】

 サイパン島同胞臣節を全うす

藤田嗣治1944年作

 

1944年7月初め、マリアナ諸島サイパン島の日本軍守備隊玉砕を描いた作品。米軍の死傷者1万5000名に対して日本軍将兵2万300名,民間人1万名が死亡している。軍民が一体となって防戦したが、衆寡敵せず,捕虜を出さずに潔く全員玉砕したといわれた。この作品は,軍民一体となった徹底抗戦,最後の全員玉砕を悲劇的に表現した英雄譚、国体に忠義を尽くした赤子の殉教画をのように感じられる。
http://www.geocities.jp/torikai007/war/1944/saipan.html

 

 

 

戦 争 画

戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。

戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ばスケープゴートに近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい、生涯日本に戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」、と手記の中でも嘆いている。取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。

パリでの成功後も戦後も、藤田は存命中に日本社会から認められる事はついになかった。また君代夫人も没後 「日本近代洋画シリーズ」 「近代日本画家作品集」 等の、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになった。
(wikipedia)

 

 

日本は祖国防衛戦争を戦った。

そして藤田画伯は、この正義の戦いに協力して従軍画家となった。

その彼が終戦となって、米軍支配に陵辱された、この日本に於いて自分の節度を失わなかった。だが、米軍支配に媚びた者たちは、侵略軍の狗となって彼に吠えかかり、貶めることに専念した。あこがれのフランスで成功した画伯と、絵を描くよりも敵方のイデオロギーに染まり、日本国の精神を攻撃する、狗となったものたち。このブログの投稿者・左近尉も、あまりにも教職専攻の者たちがおのれ等だけの利権保持に汲々とする浅ましき様をみて、ほとほと嫌気がさした。そのことを、想い出しては、そのときの藤田画伯の心情が、痛いほど判る気がする。 

 

猫【藤田嗣治】 

 

 

 

藤田嗣治・家系図 (外部リンク)

 

 

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