我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

結城一平  パリは燃えずに東京は焼け野原

2009年08月25日 | 歴史

 

 


 

8月25日は「パリ解放記念日」です。1944年8月25日に、ルクレール指揮下のフランス第2機甲師団がパリに入城して、ディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍を降伏させました。

有名なノルマンディー上陸作戦は1944年6月6日に開始されましたからそれから、およそ2ヶ月半の後のことです。『パリは燃えているか』は1966年の仏米合作映画です。

 

                                                   

 http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/Paris%20brule%20t%20il.htm

から少し紹介いたします。(^_^)
 
1944年8月、パリ。
「連合軍が進攻して来たら、パリを焼き払え」 ヒトラーが叫んでいた頃、ドイツ軍下のパリでは、地下組織に潜ってレジスタンスを指揮するドゴール将軍の幕僚デルマス(アラン・ドロン)と、過激派の自由フランス軍の首領ロル大佐(ブルーノ・クリーマー)がパリ防衛についての意見を戦わせていた。

すなわち、ロル大佐は武器弾薬を手に入れ次第決起すべきだと主張。一方、ドゴール派のデルマスは、連合軍到着まで待つべきだと主張した。そうしなければ、パリはワルシャワのような廃墟と化してしまう。

その頃、ドイツ軍のパリ占領司令官コルティッツ将軍(ゲルト・フレーベ)は、「連合軍の進攻と同時にパリを焼き払え」という、ヒトラー総統命令を受けていたのだ。
コルティッツ将軍は工作隊に命じ、パリのエッフェル塔、ルーブル美術館をはじめ、あらゆる工場、記念碑、橋梁、地下水道などに爆薬を設置させていった。

一方、イギリスからは、レジスタンス本部に、“連合軍はパリを避けて進軍する”という知らせが入って来た。
過激派のロル大佐は、自力でパリを奪回しようと動き始めた。それを知り、デルマスは、今は政治犯としてドイツ軍に捕虜となっているラベを動かすことを考え、ラベの妻フランソワーズ(レスリー・キャロン)とスェーデン領事ノルドリンク(オーソン・ウエルズ)を誘導した。
だが、ノルドリンクの働きも空しく、ラベは妻の目の前でドイツ軍に銃殺されてしまった。

ドゴール派と左翼派の会議の結果、決起と決まる。市街戦が始まった。市民達は武器をてに立ち上がった。
そして、いちはやくドゴール派は市の要所を占拠していく。

一方、パリを廃墟にせよとの総司令部指令を受けていたコルティッツ将軍の心中は揺れていた。しかも、市街戦が長引けば独軍の爆撃機が出動することになっていた。
“ドイツ軍は負ける” その上、歴史の都市パリを焼け野原にするには耐えがたい。

(^_^;)以上で紹介終わりです。

 

結局ドイツ軍のパリ占領司令官はパリを焼くには忍びなかったのです。自由フランス軍第2機甲師団を指揮して進軍、ルクレール将軍はドイツ軍司令官コルティッツ将軍を降伏させました。彼の師団と、同時にノルマンディーに上陸したジョージ・パットン将軍の米第3軍と共に電撃的なパリ入城でした。8月1日がノルマンディーに上陸した日でしたのでそれから一月は掛かりませんでした。数百㎞の道のりを25日で制覇したのです。

そのルクレール将軍は、1945年9月2日には、東京湾のミズーリ号の艦上で日本軍の降伏調印の式に臨んでいます。

 

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