憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

保護者と学校の悲しい関係

2011-02-11 22:11:10 | 教育時評
 内田樹が『街場のメディア論』(光文社新書)のなかで、今日の医療崩壊や教育崩壊というのは、医療や教育を商取引のモデルとしてとらえるようになった帰結であるとし、わかりやすい例として、病院が患者を「患者さま」と呼びはじめてから患者のモラルが低下した、というようなことを述べている。そして、こうやって医療側から「患者さま」と呼ばれることにより、患者は、「消費者的にふるまうことを義務づけられる」と言うのである。
 なるほどなあ。私は、これまで内田氏については、教育論以外だったら「凄い見方をする人だなあ」と感嘆してしまうけど、この人、こと教育論になると途端に頓珍漢な論述になってしまう人だと思っていた。けど、今回は違った。この内田氏の論述、教育論の文脈ではこれまで誰も言っていないと思う。   
 教育論の文脈に、この内田氏の論述をあてはめるとこういうことになる。
 これまでの保護者の理不尽なクレームに関する論述は、諏訪哲二や諸富祥彦などが指摘していることだけど、学校にやってくる保護者の理不尽なクレームの多くは、学校側の指導の内容に対する「消費者」としてのそれであって、学校側はあくまでも「教育」の文脈で保護者と対峙していたために、保護者と学校の溝は深まっていく一方だったというものである。そのため、保護者と学校はわかりあえない、という悲しい結論になってしまっていた。けれど、内田氏の論述でいけば、今後、学校が保護者を「消費者」としての対応をすればするほど、保護者はより「消費者的にふるまうことを義務づけられる」ということになり、なおのこと学校と保護者はわかりあえない、というもっと悲しい結論になるのである。
 ただ、この指摘、言われてみれば、現場ではすでに実感していることじゃあないかと思う。
 学校現場は、すでに保護者の理不尽クレームについて、「教育」の文脈で対峙することは完全に降りている。じゃあ、現場では、理不尽クレームについて、何をやっているのかというと、マニュアルによる対応の徹底である。まさしく「お客様相談窓口」的な対応なのだ。つまり、保護者とのガチはするな、ということ。
 学校では、電話は誰に取り次ぐか、どういう言葉遣いをするか、電話で言ってはいけない禁句は何か、保護者が来校したらどこに通して、どこに座らせて、はじめに誰が対応するか、しまいにはコーヒーとお茶とどちらを出すのが良いかなんてのに至るまで、こと細かなマニュアルが作られて、(恐らくは)「教育計画」のなかに「危機管理対応マニュアル」と共に綴じられている。学校は、理不尽なクレームについて、保護者には「教育」の文脈で語らず、とにかく「消費者」として扱うということになっているのだ。
 しかし、そういう保護者対応をすればするほど保護者は「消費者」として、学校の指導の内容に対して「消費者的にふるまうことを義務づけられていく」ということになり、いっそう「消費者的」になる。つまり、理不尽クレームを今後も過大に突きつけていくという予想がたつのである。
 ちなみに、こうした人間の行動を、行動分析の世界では「強化」という。つまり、学校が保護者を「消費者」として扱うほど、保護者の「消費者的」な行動が「強化」される、というような言い方をする。
 それはともかく、学校は、理不尽なクレームをつけてくる保護者に対して「消費者的」な対応をしたとことで、何も問題の解決にはならないということなのだ。これを解決するためには、学校は今一度「教育」の文脈で保護者とガチンコしなくてはいけないのであるが、そんなことは、もう今さらできることじゃあない。時代は変わったのだ。時計の針は戻らないのである。つまり、どうにもならないという、やっぱり悲しい結論になるのでありました。
 なお、特別支援教育でも、保護者からの理不尽クレームは多いと聞く。
 私は、客観的な資料は持ってないから、ここから先は、私見にしか過ぎないんだけど、特別支援教育のほうが、理不尽クレームは多いんじゃあないかなあと思っている。それは、これまでの文脈に沿って言えば、保護者は、子どもが幼少の頃より「消費者的」にふるまう場面が多かったため。すなわち、特別な支援に関する福祉的サービスを受ける経験が比較的多いので、子どもの養育全般について「消費者的」なふるまいが強化されたのだろうと思う。そして、そうした「消費者的」なふるまいが学校への要求としてあらわれるのだろうと思う。
 だから、私は個別懇談などで、「教育」の文脈で子どものことについて話をする保護者については(というか、私は「消費者的」なふるまいをする保護者にはまだ出会っていないのだけど)、とにかく尊敬をするのである。