憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

Blogの話題2題

2009-08-28 00:43:58 | その他
<製本してみました>
 これまでのこのBlogに書き溜めた駄文を、本にしてみました。
 オンデマンド出版とかいうんですね。
 ものは試しとネットで発注したら、すぐに製本されて納品されてきました。
 ディスプレイ上の横のものが、紙媒体の縦のものになったわけですが、そんなに違和感はありませんでした。
 早速、ここ2年間に自分が書いたのを読み直してみました。
 感想はというと…、2年前の私の方が、ちゃんと考えて書いているなあという感じ。初期の頃の方が断然いい。
 人によっては、過去に自分が書いたものなんて恥ずかしくて読めたものではない、というように思う人もいるらしいですが、私の場合は逆でした。読み直してみて、昔の自分(といってもたかが2年前ですが)が誇らしく思えます。それに比べて、今の私ときたら…という感じでしょうか。
 Blogへのコメントも、初期の方が批判的なのが多くて、やはり刺激的な内容だったのでしょうね。今じゃあ、批判もなくなりましたね。せいぜい、中学校に勤務していた頃の生徒からコメントをもらうくらいです(それも、最近は無くなりましたが)。
 それはともかく、週1回更新している以上は、やはりもう少し深く考えなくちゃあならんなあと、昔のを読み直しながらあらためて思うのでありました。


<知り合いのBlogをみつけた>
 つい先日、かなり近しい人のBlogを見つけました。
 中学校の国語教師のBlogなのですが、一読、その人だとすぐにわかりました。
 みると、もう4年以上つづっていて、全然知らなかったことに驚きでした。
 けれど、こうやって同業者の人のBlogを読んで思うのは、勤務校のことや生徒の様子を気取らない筆致で書いて、果たして平気なのかなあ、ということです。赤裸々とまでは言いませんが、それでもネット性善説に立ってネット上に他者のプライバシーを掲載している訳でありまして、同業者として大丈夫かなあと心配してしまいます。そのうえ、自分の家庭のことや自分の心情をもつづってあるわけです。
 私は、ただただ、すげえなあと思うのでありました。
 けれど、こういう、実にほのぼのとしたBlogは学校の先生に多いのも事実であります。
 私のような、身の回りの皆さんのことに触れるのを恐れるあまり、自分の実践を語らないでいる教師のBlogの方が少数でしょう(だから、あんたのBlogは評論家のようだといういらぬ誤解を受けるのでありますが…)。
 だけどね。ネット空間上にパーソナルをさらしてしまうと、もう現状については絶対的に肯定した内容でしかBlogに書けないわけで、それは実に不自由なことに違いないわけです。
 そんな不自由な状態で、発信するなんて私には絶対無理だなあと思います。
 ただ、そういう不自由な思考空間に身をおくからこそ、書く意義があるのかも知れませんが…。私には、到底、無理なことでありますが。 

選挙戦である

2009-08-23 20:12:29 | 教育時評
 選挙戦である。

 今回の選挙は、民主党が大勝利をおさめ政権を獲得するのが確実の状勢だという。
 報道を見てみると、子育て支援にかかわるカネの話題は自民・民主ともにかまびすしいが、教育政策については今回の選挙の話題にはなっていないようだ。
 いつの選挙だったか、民主党は「金八先生倍増計画」とかいうのを選挙公約に掲げていて、それをみた私は「この政党は教育について真面目に考えてねえんだなあ」と嘆息したものだが、政権が獲得できそうな今回は、そこそこ現実的な内容に練られていて、ホッとしている。

 民主党の公約にある、教育政策の目玉はというと、私はこれをあげる。
 「教員免許制度の見直し」。教員免許の更新制度は今年度からはじまったわけであるが、政権獲得後は、早速見直しをするという。一部、報道によれば、免許更新制そのものを廃止するとあったが、是非ともそうなって欲しいものである。
 この免許更新制の問題については、このBlogでも取り上げているので、そちらを読んで欲しいが、(タイトルは「教員免許更新制の導入が決まった」)、実際今年度より実施されて問題が顕在化しているといってよいであろう。
 明らかな失政である。教師はもちろん、子どもも、納税者である国民も、おそらくは文部官僚も、だれも幸せにならない。こういう杜撰な制度が全国規模で巨大な予算を使って行われているのだ。失政なのだから、すぐに廃止するのが妥当であると思うが、民主党が政権を獲得して、どうやって文部官僚を牛耳れるかがカギとなるであろう。
 そもそも文科省は、いくら教育予算を確保するためとはいえ、実に無駄なカネの使い方をしている。
 最近の現場に直接かかわることについては、この教員免許更制がそうであるし、全国一斉学力検査がそうであるし、道徳教育にかかわる『心のノート』がそうである(これ、特別支援学校にも配布になっているとは知らなかった。現場レベルで、これを道徳の時間にきちんと活用しているという報告は、そうそう聞かない。編集するのがムダとは言わないが、それを日本全国のすべての子どもに無償配布するというのがムダなのだ)。
 これらの制度を文部官僚の抵抗を押し切って、廃止または見直しすることができれば、相当な教育予算を違うことに配分することができるであろう。
 そうなれば、民主党がその他の公約に掲げている、「教員数の増加」や「教育監査委員会」なるものの設置も現実となるだろう。

 ところで、このBlogは2007年からはじまった。当時は安倍晋三が総理だった。氏は、教育に熱心な政治家だった。教育の憲法といわれた教育基本法を改正するくらい熱心だった。この教育基本法の改正は、わが国の戦後教育のエポックだった。現在のわが国の教育は、この改正路線を歩んでいる。だから、政権が民主党になろうとも、日本の教育の思想的な筋道は安倍教基法改正路線でいくことにはかわりない。
 たとえ、民主党の教文族が日教組派であろうとも、教基法を再び改正しない限りは左旋回になるはずもない(だから、あの改正はエポックなのだ。安倍が後世に名を残す仕事といえば、あの改正くらいなのだ)。もちろん、民主党が長期にわたり政権を握ることになれば変化もしようが、4年やそこらの政権じゃあそうそう根本思想は変えようがない。
 また、いわゆる「ゆとり教育」から「学力向上」も既定路線だ。2008年の学習指導要領改訂になって打ち出されたから(もっと言えば、前回2002年改訂実施の「ゆとり教育」完成時点からすでに、次回改訂での「ゆとり」見直しは必至だった)、今回政権が変わろうとも、次回の改訂まではこの路線でいくことには変わりがない。ここに政治の入る余地は今のところはない。

 そうやって考えると、政権交代によってできることというのは、制度をいじるくらいなものなのである。そうであるなら、民主党にはいっそのこと6334制を見直すくらいの壮大な公約を打ち出して欲しかったと思う。それくらいの構想があってはじめて、学区制や教育委員会制や中高一貫制などの細かな制度改革の議論が深まろうというものだし、そこから子育て支援といったカネの使い方も議論されようにと思うが、いずれにせよ、教育制度は今回の選挙の争点にはなっていないのであるから、仕方のないことではあるのだろう。

 というわけで、選挙後の私の予想。
 民主党の政権獲得後も、一部保守派マスコミが煽動するような、教育の左旋回はおこらない。
「学力向上」路線も変らない。
 変化が期待できるのは、教員免許更新制の制度の見直し。これが官僚の抵抗を押し切って公約通り実現できれば、教員増や教育委員会制度改革のひとつである「教育監査委員会」の設置を含め、民主党が望む制度改革が実現される。
 と、いったところでしょうか。
 さて、数年後、果たしてこの私の予想が当たっているかどうか検証してみましょう(数年後まで、このBlogが続いていればの話であるが)。


岩波明『精神障害者をどう裁くか』

2009-08-21 00:27:43 | 教育書レビュー
タイトル通り「精神障害者」の犯罪について、わりと丁寧な議論が展開されていた。
 センセーショナルに主張せず、わからないことはわからないときちんと明示してあったりと、好感のもてる内容だった。本書から、現在のわが国の精神障害者の犯罪に対する理解度がよくわかった。つまりは、今後も大いに議論する必要のある分野なのだろうと思う。
 特に、アルペルガー障害は、近年になって注目されてきているものであるから、法にてらしても責任能力に定説はないという主張は「ああそうか」と納得した。いわれてみればその通りで、これから議論をしていくなかで、決まっていくことなのだろうと思った。

岩波明『精神障害者をどう裁くか』(光文社新書,2009年)

蔵出し~その2

2009-08-14 21:06:31 | フラグメンツ(学校の風景)
 前回に引き続き、私が以前に教育専門誌に書いた原稿を上げます。
 歴史教科書から沖縄戦に関する記述がなくなることについて、大きな話題になっていた時期のものです。
 タイトルは「太平洋戦争と“愛国心”の取り上げ方」。確か、このタイトルは雑誌社が指定したと記憶していますが、私の方で当時話題になっていた教科書記述に関連させて書いたわけです。
 ではどうぞ。
             ☆   ☆   ☆
<集団自決「軍命令」に検定意見>
 本年(2007年)三月三一日付の新聞各紙一面に、大戦末期の沖縄戦に関する教科書記述に検定意見が付けられた、という趣旨の見出しが躍った。記事によると、来春より使用される高校教科書の、沖縄戦でおきたいわゆる「集団自決」に関する「軍命令」の有無について、はじめて検定で意見が付き、修正されたということであった。
 本誌読者諸氏であれば、とっくに周知のことであろうが、先の大戦末期、沖縄の慶良間列島でおきた住民によるいわゆる「集団自決」が「軍命令」によるものであったというのは、真っ赤なウソである。日本軍が、住民に自決の命令を下したという事実は全くない。
 さて、ここで議論されているのは、「軍命令」の有無についてである。つまり、慶良間列島の住民による「集団自決」について、軍の命令は有ったのか無かったのか。この一点である。
 そして、この一点が、戦後長らくの間、真っ赤なウソとして流布していたのだ。(このウソの発端は、沖縄タイムス社発刊の『鉄の暴風』昭和二五年による)。
 自国民を守るはずの軍隊が自国民に自決を命令したという、皇軍の名誉を褒貶した虚構が、やっと今回の検定で教科書から消えることになった。社会科教師であれば、事実誤認はもう常識ですらあったこの問題、今回の修正は遅すぎたぐらいである。

<戦争こりごり国家の硬直したイデオロギー>
 しかしながら、このような歴史事象の正誤についての修正にすら、認めたがらない硬直したイデオロギーがわが国には存在する。例えば、三月三一日付『朝日新聞』社説では「軍は無関係というのか」という見出しを掲げた。何も、無関係という議論はしていない。単に、軍による命令はなかったというだけの話だ。
 社説氏は次のように述べる。

 軍の関与が削られた結果、住民にも捕虜になることを許さず、自決を強いた軍国主義の異常さが消えてしまう。それは歴史をゆがめることにならないか。

 この社説氏は何をいいたいのかおわかりであろうか。これは、命令がなくても、いわゆる軍の強制性は認められるでしょ、といいたいのだ。つまり、軍の命令があろうがなかろうが、自決の強制を軍は匂わせたでしょというのだ。捕虜になることを許さなかった以上、死を選ぶ以外に方法はなかったでしょ、手榴弾も配ったでしょ。そこまで追い込んだのは、守備もできなかった軍のせいじゃないの、というわけだ。
 このような思想というのは、当時の住民の自決が、軍に「強要」されたものだという理由しか考えられない、戦後平和主義特有の硬直思想の典型といえよう。
 そもそも、住民をそのような悲惨な状況に追い込んだのは、アメリカ軍による国際法違反のジェノサイド、すなわち沖縄県民への大量虐殺作戦にほかならないのだが、そちらの方向に議論は向かわない。沖縄戦の「集団自決」に追い込んだ矛先を、敵国であるアメリカ軍に向けず、ひたすら自国軍の悪評でしか議論ができないのだから、戦争こりごり国家の硬直したイデオロギーと言われても仕方あるまい。

<戦時の国民感情に迫れ>
 ここで、読者諸氏に次のような問いを出そう。

 果たして、住民は「自決」を「強要」されたのか

 現在の平和な社会に暮らす私たちは、戦時中の国民の心情にどこまで迫ることができるのだろう。これは、難しい課題だ。けれど、戦争の教材化、特に先の大戦の教材化をはかるのであれば、この課題を避けるわけにはいかない。
 そもそも、戦時中というのは、国家の存亡をかけた非常事態だ。そこでの国民の心情というのは、平時とは大きく異なってくることも容易に予想されよう。そのような非常事態の国民感情にどこまで迫れるかが、戦争の教材化には重要だ。そして、この国民感情に迫っていくことこそが、戦争を教材化する醍醐味ともいえる。
 さて、「愛国心」だ。この感情も、平和な現在の「愛国心」とは大きく異なるだろう。
 戦時の「愛国心」とはどのようなものか。
 近代において、戦争の真っ只中ほど国民の「愛国心」は先鋭化する。それは、少し考えればわかることだが、自国の存亡、すなわち自分の生命や財産の存亡がかかっているのであるから、平時のときとは比較にならないくらい、国を愛する心情は強くなる。そこには、敵国に対する隣人愛などは微塵もない。あるのは、偏狭な自国中心主義の「愛国心」にほかならない。
 しかし、だからといって、こうした「愛国心」をよからぬものとして否定してはいけない。否定すべきは戦争なのだ。「愛国心」が戦争につながるわけではない。もしつながるのであれば、地球のあちこちで戦争だらけだ。そんなことにはなるわけがない。そうではなくて、戦争時にファナティックな「愛国心」が先鋭化するのだ。
「愛国心」に批判的な論者は、この点を決定的に誤解する。だから、「愛国心」をいう言葉を聞くだけで、戦前回帰だとか、軍靴が聞こえるだとか、教え子を戦場に送らないだとかといった短絡的な議論で終結する。
 違うのだ。偏狭な「愛国心」のせいで戦争がおこるのではない。戦争が「愛国心」を狂信的にさせるのだ。
 そこをおさえないと、戦時における「愛国心」の教材化というのは、否定されるべきものとして構成されてしまう。
 
<「集団自決」こそ壮絶な「愛国心」の発露だ>
 現在の平和な社会に生きる私たちが、戦時中の国民の悲惨な状況を知れば知るほど、無辜の民を不幸におとしいれた犯人を糾弾したいという思いにかられるのも無理からぬ話だ。『朝日新聞』の社説氏は、その典型だ。しかし、そのような立論は議論を大きく誤らせる。なぜなら、それは、現在の平和な社会からの一方的な断罪であるからだ。そのうえ、現在の知見から過去を裁くという、歴史学習ではやってはいけない愚さえおかしているのだ。
 沖縄で命を絶った住民の心情より、イデオロギーが先走ってしまっている。だから、今回の検定で、軍の関与が削られたことは歴史の歪曲にあたると主張するのだ。事実の正誤よりも、「自決」の強制性を問題とする。
 しかし、住民の死を「強要」ととらえてしまっては、愛国に殉じた住民の心情を推しはかるのを放棄し、さらには住民の名誉をも結果的に貶めることになるだろう。なぜなら、住民は、まさに壮絶な「愛国心」で自らの命を絶つことを決断したのであるから。
 教師は、この心情に迫るのだ。
 すると、戦時であるからこその、壮絶な「愛国心」の発露が見いだせるのである。この発露を教材として授業を組み立てるのだ。
 では、どのような発露か。
 はじめて、「集団自決」の「軍命令」の虚構を証明した曽野綾子氏の著書『ある神話の風景』(文藝春秋、絶版。現在は、『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』と改題、ワックより出版。次の引用もワック版による)に次のような記述がある。
 「集団自決」があった渡嘉敷島で生き残った元少尉の発言である。

「今の考えの風潮にはないかも知れませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといなりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持ちはあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、という面もあると思います。(中略)むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強要されたものだ、というような言い方をして、死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません」(前掲書、一九三頁)

 引用した文章を、じっくりと読んで欲しい。この発言が戦時における「愛国心」を取り上げるポイントだ。
 果たして、住民は「自決」を「強要」されたのか
 この問いの答えも、この発言にある。
 答えは明らかだ。
 このような、あの時代にしか考えられないような壮絶な「愛国心」の発露に対し、現在の硬直したイデオロギーで断罪する愚を、社会科教師はおかしてはならないのである。

(2007年9月号『社会科教育』明治図書)

 

蔵出し~その1

2009-08-12 22:44:53 | その他
 終戦記念日を前に、私が社会科教師だった頃に書いた雑誌原稿を上げてみようと思う。先の戦争に関するもので、数年前に掲載されたものだから、今頃上げたところで出版社にも迷惑はかからないだろう。
 題して「蔵出し」。
 原稿のタイトルは「中学校歴史の学習用語と指導のポイント“近現代の日本と世界”の重要用語と指導のポイント」といういかにも、教育専門誌らしい原稿なのですが、要は「先の戦争」を授業でどうやってとりあげたらいいか、その提案であります。では、どうぞ。
            ☆    ☆    ☆

<「太平洋戦争」のとらえ方>
 太平洋戦争(大東亜戦争)を私たちは,どうとらえたらよいのだろう。戦後五〇年以上過ぎてなお,私たちは先の戦争について,国民共通の物語を紡げないでいる。善悪の価値判断はもとより,肯定論・否定論を含め,さまざまな思想・立場から,先の戦争について論じられ,論点は輻輳している。戦争の呼称すら統一できていない現状からも,今後,国民が共通の歴史認識としてあの戦争をとらえるには,膨大な時間がかかることが予想されよう。
 本稿では,“近現代の日本と世界”の重要用語のなかから,国民の共通の了解を得るには,まだしばらくの時間と議論が必要であろう「太平洋戦争(大東亜戦争)」を取り上げ,現時点での指導のポイントを提案したい。

<日米開戦の原因>
 なぜ,日本はアメリカと戦争をしたのだろうか

 この発問の解答は,開戦の直接原因から遠因まで,多岐にわたる。
 まず,開戦の直接原因がハル・ノートの要求であったことは論をまたない。
 では,開戦に至るまでの日米関係はというと,ハル・ノートの前には,ABCD包囲網があり,日中戦争におけるアメリカ側の中国支援も,日米関係悪化の大きな要因であった。
 さらに,その日米関係悪化の遠因を探るならば,中国利権における日米の対立,あるいは日米両国の太平洋の覇権争い,アメリカの人種偏見などをあげることができよう。
 ただ,関係が悪化している状態と戦争状態とには,ずいぶんと大きな開きがあるのも事実である。そもそも戦争状態になるには,なにより相手に戦意がなければ起こりえないのである。
 つまり,当時アメリカには明らかに日本に対し戦意があったのである。

<アメリカの戦意>
 アメリカは,日本との戦争をファシズムに対するデモクラシーの正義の戦争とした。これが,開戦当時から現在にいたるまでの先の戦争におけるアメリカ側の公式見解のようなものである。
 しかし,それはアメリカが,自国の戦闘行為を正当づける口実に過ぎないことを,現在の私たちは知っている。
 当時アメリカがわが国をずっと仮想敵国にしていたことは,オレンジ計画からも明らかである。では,なぜ日本を敵国とみなしていたのかと考えるならば,わが国の存在はアメリカが太平洋・中国の利権を獲得する際の障壁であったためである。当時のアメリカはとことん覇権主義だったのである。
 また,人種偏見も,日本を敵国にすることへの踏み台となった。F・ルーズベルトが,日本人が狂暴なのは頭蓋骨の形態にあると信じていたという逸話が示す通り,当時は世界のあちこちで無邪気な優生学信仰があった。自民族至上主義(エスノセントリズム)は,当時としてはごくごく普通の感覚であった。アメリカにとって,有色人種国家であるわが国は,開戦前から叩くに足る国であり,実際開戦後は,東京大空襲や原爆投下が示す通り,まさに有色人種であるからこその非人道的行為をわが国は受け続けたのであった。

<指導のポイント>
 戦争は相手に戦意がなければ起こらない。
 わが国が大国ロシアに辛勝した日露戦争後,アメリカは,日本と戦争する計画を立て,日本を挑発し,結果,アメリカの計画どおり事は運んだ。
 なぜ,アメリカは日本と戦争をしたのだろうか
「太平洋戦争(大東亜戦争)」について指導する際のポイントとして,わが国ではなく,アメリカの立場でこの戦争をとらえることを提案する。
 そのようにとらえるなら,当時,わが国のおかれていた状況が,世界史的な視点から客観的にみえてくる。つまり,アメリカとわが国の覇権のぶつかりあい,当時としては当たり前だった人種偏見,それらが世界史の一つの事象として浮かんでくる。
 すくなくとも,日本の覇権主義・軍国主義による「侵略性」という観点だけで,先の戦争の原因をとらえようとする,偏狭で単純な単眼的思考を排除することができる。

(2001年10月『社会科教育』明治図書)


苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書、2009年)

2009-08-07 16:04:09 | 教育書レビュー
 苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書、2009年)を読む。
 まさしく研究者の仕事だなあと感服する。
 大きくいえば、戦後日本教育史の書き換えの試みである。けれど、それが圧倒的なデータに基づいて論述されるので、実に説得的なのである。
 ところで、私は、2年前の2007年に「全国一斉学力調査」の結果が公表されたとき、わが国は教育の機会均等がなされているというようなことをこのBlogで主張した(タイトルは「全国学力調査(全国学力テスト)の結果が公表された 」2007年10月)。このとき、『産経新聞』は社説で、都道府県間において学力格差が生じているという主張をしていて、その原因が日教組の組織率とさも相関関係があるような論陣を張っていたのだが、そんな問題になるほどの格差じゃないと私は主張したのだった。だけど、それは何らかのデータにもとづいた主張ではなく、あくまで報道された公表による私見に過ぎないものだった。
 この「全国一斉学力調査」について、苅谷氏はきちんとデータを示し、わが国は「教育の機会均等」が見事に達成されたと結論づける。すなわち、わが国では教育の地域間格差は解消されているのだ。ああ、よかった。
 ただ、このあたりの議論は、さほど仰天するほどのことでもなく、私のような普通の教師が普通に思っていたことをデータで示したということになろうが、この著書には私の見解が改まる議論がいろいろとあって、それはそれは楽しく読んだ。
 例えば、昭和33年版学習指導要領の対立。<試案>の2文字が消えたいわゆる「逆コース」の論争。
 あるいは、昭和36年の学テ闘争。
 これらの教育界の定説となっている対立・闘争を、歴史をひもときながら新たに意味づけしていくのだ。40年の時を経て、氏によって、教育界の定説がくつがえっていくのである。まさしく戦後日本教育史の書き換えである。
 また、第5章の「標準化のアンビバレンス」の論述は実に鮮やか。氏の駆使するデータによって、これまでの教育言説がバラバラと崩れ、新たなロジックが創出されていく様は圧巻であった。
 これまでも氏の研究は、現在の教育言説に少なからず影響を与えてきたといえようが、今後、氏は教育界のオピニオンリーダーとなっていくんじゃなかろうかと思えるくらいの労作である。
 研究者の仕事とはこうでなくちゃあ。