憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

全国学力調査(全国学力テスト)の結果が公表された

2007-10-26 22:50:22 | 教育時評
 全国学力調査(全国学力テスト)の結果が公表された。
 ウチの学校には,クロネコヤマトさんがCD-ROMを届けてくれた。校長が留守だったので教頭がハンコを押して受け取ったら,後から電話がかかってきてちゃんと校長に渡ったか確認していた。
 このCD-ROMの扱いについては,地域の校長会や教育委員会で最終的な判断をするとのこと(まだ,判断していない)。ウチのような過疎地域は,実にノンビリしたものだ。ROMの中身をよく見てから,扱いを決めるということなのだな。
 さて,文科省からは,都道府県別のランキングが出された。全国平均の下位が沖縄県や北海道だったのは何となくわかるが,上位が秋田県や福井県や富山県というのは,意外であった。新聞報道を読む限りでは,当事者である県教育委員会のコメントも,何で上位なのかがわかっていないようだ。また,東京や大阪といった大都市圏が上位ではないというのは,やはり公立と私立間の格差ということか。くわしい分析が待たれるところだ。
 文科省が都道府県間のランクを公表した以上,当然ながら今後,下位の地域には国として何らかの支援をするべきであろう。具体的な方策としては,苅谷剛彦氏(東京大学大学院教授)がNHKニュースでコメントしていたように,下位の県に対する教員の増員がもっとも有効な方策であろう。
 ただ,都道府県別の平均点をみると,文科省サイドからのコメントのとおり地域間の格差はさほど大きくないとはいえるだろう。『産経新聞』が,トップの福井と最下位の沖縄との差が大きく開いていることをことさら問題視しているが(10月25日付社説),それはミスリードであろう。教育の機会均等という点でいうと,わが国は,とりあえずどこに住んでいても,等しい教育を受けることはできているといっていいだろう。
 しかし,下位に甘んじた都道府県については,次回の学力調査に向けた学力向上策がはかられるのは,必定である。それは,地方行政をとりまとめる教育委員会も,現場で指導にあたる教員も,意見の相違なく取り組むことになるのだろう。なぜなら,現場というのは,教育委員会からの圧力があろうがなかろうが,あまりに行政に従順であるからだ。教育委員会サイドから学力向上策が降りてくると,校長以下管理職はそのまま校内に降ろし,教員はそのまま教室に降ろしていくという,社会主義的な上位下達システムが見事に発揮されるのである。それは,教育委員会も校長も現場教員もみんな真面目だからであろう。この上意下達のシステムがいかんなく発揮された最近の例では,いじめ防止の通達や,いじめアンケートなどがそうだった。あの時,私は今さらながら,自分は教育者ではなく行政の末端であるということを思い知った。文部大臣のメッセージのFAXを淡々と教室で読み上げた教員も多かったことだろう。
 そういうシステムの下,学力向上だ。今後,わが国の子どもたちの学力は一層向上するであろう。とくに,今回,正答率が低いとされる,知識技能の「活用」に関する学力向上策がはかられるようになるだろう。そもそも,基礎的な「知識」を問う分野と知識の「活用」を問う分野では,後者の方の点数が低いのは当たり前だろうと思うのだが,とにかく低かったのだから向上させよということだ。どうして,別の分野の正答率を比較するのかが,私にはわからない。前回と比べて,「知識」分野が下がったとか,「活用」分野が上がったとかという議論なら,比較しているということになろう。ここら辺りも,新聞やテレビニュースの報道のおかしなところである。
 いずれにせよ,わが国は教育に関心が高く,教師は真面目で教える技術も高いのであるから,PISA型の学力観に基づいて作成されている今回の学力調査の向上は,現場においてはそんなに難しい課題ではないであろう。ようは,このような学力観に対応できる学習を授業で行えばよいということである。わが国の教師の腕なら,次回にでもよい結果を出せるだろう。
 また,ついでに言うと,今後現場で予想される事態としては,全国の学校長や教育委員会による日本海側の教育委員会詣でが起こるであろう。
 なお,『朝日新聞』の社説をはじめとして,識者が,今回のようにすべての子どもの調査をする必要性について疑問を呈していた。つまり,今回のような公表結果であれば,抽出調査でいいだろうという主張なのだが,これは的外れだろうと私は思う。
 公表したのは都道府県別のランキングであるが,もとのデータからは,各市町村のランキングから,各学校のランキングまですべて出せるようになっている。何なら,日本全国のすべての子どもの点数も個人データとして特定できる。ちなみに,データの持ち主は誰もが知っているあの大手教育関連会社。
 私としては,これらのデータこそ大いに活用して欲しいと思う。
 そして,地域間格差,学校間格差の要因を分析して欲しい。そのうえで,家庭の所得による格差との相関をしっかりと分析して欲しい。
 そのような分析があってはじめて,学力向上策はもとより,学校の自由化論議にも一石を投じることになるからだ。すなわち,子どもの学力形成の主要因は,果たして都道府県のような地域行政なのか,各学校の教え方によるものなのか,それとも家庭の教育力にあるものなのか,ということの分析をせずに,いたずらに制度改革をしてもしょうがないでしょうと思うのである。
 せっかくのデータであるから,有効に活用されることを望む。

 

学級崩壊をハインリッヒの法則に当てはめると…

2007-10-19 22:47:21 | 学級経営論
 先日,思うところがあって,学級崩壊関連の書籍を読み直した。
 古いところで,奥付をみると1998年発行。そうか,学級崩壊現象が社会を賑わせてから,もう10年になろうとしているのか,と思った。最近は,学級崩壊の話題もすっかり影をひそめた感がある。だから,もう学級崩壊現象は,学校現場では解決したのかと思う人もいるかもしれないが,そんなことはない。単に,ニュース性は薄れたというだけで,崩壊学級が減少しているわけではない。学級崩壊現象は,学校現場で日常となったのだ。
 教員によっては,学級崩壊の憂き目にあい,自殺したり,そこまでにならずとも退職や病休となってしまうというのが,現場の現実だ。
☆       ☆       ☆
 ハインリッヒの法則というのをご存知の方も多いだろう。
 労働災害の分析から導き出されたこの法則は,次のような概要だ。
 すなわち,1件の重大災害(死亡や災害)が発生した場合,その背景には29件の軽症事故とともに,300件のヒヤリ・ハットがある,というもの。
 さて,このハインリッヒの法則,これを,学級崩壊に当てはめてみるのもあながち的外れではないと思う。
 すなわち,1件の学級崩壊が発生した場合,その背景には29件の生徒指導事例とともに,300件の指導ミスがある。
 異論もあろうかと思うが,私は,学級崩壊というのはかなり偶発性の高いものであると考えている。つまり,起こるべくして起こったというわけでは決してない,という考えだ。学級が崩壊するにいたるまでの過程,あるいは崩壊後の原因を振り返ると,その道のりは崩壊へ一直線に続いていると思いがちであるが,多分に偶然が作用していると思うのだ。
 力量のない教師だからといって,必ず崩壊させてしまうということでもない。崩壊にはいたらないで,崩壊寸前でとどまっている場合もあるだろう,という解釈だ。
 しかし,だからといって,学級崩壊が単に偶然の産物かというとそうでもない。崩壊する素地というのは,十分にある。それが300件の指導ミスということだ。
 私も,そこそこ教師経験をつんでいるので,これまでに学級崩壊の場面に何度かでくわした。その限りでは,ある日臨界点を迎えて,一挙に崩壊に向かうということが多いと思う。雪崩を打つようにくずれるということだ。しかし,その臨界点に達するまでは,担任教師の「ヒヤリ・ハット」的な指導が,積もり積もっているのは間違いない。すなわち,1度や2度の生徒指導上のミスでは崩壊にはいたらない。積もり積もってというところが肝心なところだ。
 そう考えると,生徒指導上の「ヒヤリ・ハット」のミスをいかに最小限に抑えられるかどうかが,崩壊教師になるかならないかの境目なのだと思う。
 さて,ここまで主張して,次の問題にぶつかる。
 では,どうやったら,「ヒヤリ・ハット」のミスを最小限に抑えられるのだろう?
 私自身を振り返ればよくわかる。
 新卒の頃なんて,生徒指導上のミスはしょちゅうだ。振り返ると,生徒指導で行き詰まったり,学級経営で行き詰まったりというのは,今にして思えば,当然の報いといえる。あの行き詰まりは,なくべくしてなったのだ。しかし,そんなこと新卒の当時はわからない。当時の私にして,最善の判断で指導をしていたつもりなのだ。それがことごとく上手くいかないのだ。そうやって,失敗していくなかで経験を積んでいく。そうすることで,「ヒヤリハット」のミスが減っていく。また,「ヒヤリハット」のミスをしても,すぐにフォローをしてミスを帳消しにできるようになる。
 つまりは,数多いミスというか,失敗経験というか,そういう積み重ねによって,だんだんとミスを減らすことができるわけである。
 私が問題だと思うのは,いい歳して,ミスを連発する教師である。こういう教師は,どうすればいいのか?
 こういうミスを連発する教師というのは,ミスをしているという自覚がとても薄いのだ。だから,ミスの分析ができない。ミスだと思っていない。周りの教師が,その指導は「ヒヤリ・ハット」だと思っていても,本人だけがわかっていない。その結果,そういう教師は,自分がどうしてうまくいかないのかがわからず,崩壊を繰り返すということになる。
 このように考えると,崩壊しないためのスキルアップというのは,そもそも可能なのかという疑問にぶつかる。つまり,もういい歳した教師の場合,学級崩壊をし続けてしまうのではないか,あるいは崩壊寸前の状態で学級経営をし続けてしまうのではないか,という悲惨な結論に達してしまうのだ。
 やはり,力量のない教師は救われない,ということなのでしょうかね…。

教師は生徒に期待させるべきではない

2007-10-12 06:33:26 | 生徒指導論
 生徒と教師の関係性のなかで,教師は生徒に期待を持たせるような言動は慎むべきである。
 しかし,学校生活の中で,教師が生徒に期待を持たせることの何と多いことだろう。それは,ほとんどの場合,教師の浅はかな善意によってもたらされている。生徒の期待に満ちた表情をみて,教師は幸せな気持ちになっている。つまりは,教師の自己満足だ。
 生徒に期待を持たせて,その期待通りにことが運べば,それはよい。オーライだ。けれど,多くの場合,期待通りになんてことは運ばない。そうなると,それは全く罪な話で,生徒はガッカリしてしまう。そして,そのことに鈍感な教師の何と多いことか。
 私が前に勤務していた中学校でのこと。
 ちょうど中学校では,学習評価が,相対評価から絶対評価に移行したときだった。
当時の勤務校の校長が,朝会で生徒に次のような話をした。
「絶対評価というのは,みんなが努力すれば,全員が5をとることのできる評価のことです」
 理屈としては正しいのだが,この説明はないよなあ,と私は思った。少なくとも,朝会で全校生徒の前で校長が話すことではなかった。だって,そんなこと現実にはありえないでしょう。もちろん,校長だって,現実にはありえないとはわかっている。けど,理屈上はそうだよ,だから,みんな頑張ればいいんだよ,と生徒に期待を持たせたのである。期待を持たせて,それっきりだ。多くの生徒が学期末に通知票を見てガッカリしようが,校長は知ったことではないのだ。
 これが私の言う,教師の浅はかな善意である。私が予想するに,当時,この校長のような説明をした教師が,けっこういたんじゃないかなあと思う。少なくとも,「みんな努力を怠れば,全員が1になる評価方法だ」と,説明をした教師よりはいただろう。そのように考えると,教師は,基本的姿勢として,子どもに浅はかな期待を持たせるのを常としているといえるだろう。
 もう1つ例を示そう。
 生徒が入学したての4月の頃を想像して欲しい。
 かわいい新入生。生徒は期待に胸をふくらませて入学してくる。けれど,教師だったら,そんなに中学校生活に期待したところで,期待通りになんてことは運ばないということを知っている。なので,私だったら,どうやって現実の生活に慣れさせるかを考えながら生徒との関係を築いていこうとする。けど,そんな私も中学教師。そうは思いつつ,その生徒の期待に応えたいなとも思う。
 それはともかく,授業だって,4月の初めは集中している。中学校の学習はどんなのだろう,と期待している。陳腐な表現で言えは,生徒の瞳は輝いているのだ。けど,そんな瞳の輝きも,1学期の定期テストが終わるまでということも,教師なら誰でも知っている。けど,知っているのだけれど,やっぱり教師は大喜びである。そして,教師も生き生きと授業を進める。
 そして,1学期の定期テストが終わったあたりから,生徒はダレはじめ,授業に集中もせず,教師もそんな生徒を相手に注意したりして,つまらない授業の道へ進むわけである。
 生徒が授業に期待をしなくなるのは,授業がわからなくなるからである。あるいは,授業を受けてもテストの点数が上がらなくなるからである。もちろん,それは生徒の努力不足といえるだろう。生徒にしても,できる子とそうでない子の差があることはわかっているのであるから,自分の努力不足を認めてはいる。
 であるなら,教師として,4月に瞳を輝かしている生徒たちに,生き生きと授業を進めるだけでいいのだろうか。そんな,浅はかな善意で数ヵ月後には生徒をガッカリさせていいのだろうか。
 つまり,私の主張はこうだ。
 教室にいる大方の生徒は,そのうち自分の努力不足で学習成績が伸びなくなるのであるから,教師も生徒に過度の期待はかけずに,淡々と学習内容をこなすべきであるということである。
 ついつい教師は,生徒にとって楽しい授業をしたいという,甘い願いをもって授業にのぞむ。しかし,その願いは多くの場合かなえられない。なぜなら,多くの教師は,そこまでの授業を構築する(または,構築し続ける)力量がないからである。自分の力量はあまり高くないと自覚するのであれば,そのような甘い願いを持つことは,リスクが大きいことを知るべきである。そして,そんなハイリスクな授業を,生徒が瞳を輝かしているからといってやっていくより,まずは,しっかりと学習のルールを教え,徹底させていくことに重心をおくべきなのだ。その上で,楽しくやりたければやればよいのだ。
 まずは,生徒に浅はかな期待を持たせるような言動を慎むことが,生徒と教師のお互いの幸せにつながることを知るべきである。

生徒に諦観を持たせよ

2007-10-05 23:40:04 | 生徒指導論
 生徒と教師の関係性のなかで,生徒に「諦めの気持ち」を持たせることは教育的である。
 私のいう「諦めの気持ち」というのは,例えばこういうことを言う。
「うーん,困ったな。桑原先生に相談してみようかな…。けど,あの先生じゃあ相談しても,頼りになりそうもないな…。桑原先生じゃあダメだな」。
 これが,私の言う「諦めの気持ち」だ。
 あの先生じゃあダメだ。と,生徒があらかじめその教師にダメ出しをしてしまうことを言う。
 もちろん,何でもかんでも「諦めの気持ち」を持たせればいいというわけではない。持たせていい場合と持たせてはいけない場合の違いはある。
持たせてはいけない最たるものは「イジメ」のケースだ。こういうのは,すぐに教師に相談できるようにしておなかなくてはならない。そして,何としても解決できるように学校全体として取り組むことは言うまでもないことだ。
 そうではなく,私が主張するのは,例えば女子同士の人間関係のトラブルといったような事例だ。
 女子生徒同士の人間関係のトラブルというのは,中学生ともなればよくあることだ。
 普通の学級担任であれば,今,学級のなかの誰と誰がケンカしているとか,そういうことは逐一わかっている。このとき,教師はそのトラブルに介入すべきかどうかという判断に迫られたりすることがある。
 もちろん,そんなことはケースバイケースなのだが,一般的な傾向として,ベテラン教師ほど静観の構えをとり,キャリアの浅い教師ほど介入する。そして,介入して失敗する。
 まあ,ベテランの教師になると,そこそこの失敗経験をつんでくるから静観の構えをとるということもいえるのであるが。
 どうして,この女子同士の人間関係のトラブルに教師が介入すると失敗するかというと,端的に言えば,解決できないからということに尽きる。もちろん,解決できるかどうかなんて,やってみないとわからないじゃないか,という反論も成り立つ。多くの若い教師は,そうやって無謀な行動にでて,失敗をするのである。人間関係のトラブルは解決されず,ますますこじれていくということになる。
 けれど,こじれていくだけなら,まだよい。実は,この失敗によって,何が地に落ちるかわかるであろうか。
 それは,教師への信頼である。
 生徒は,いっとき教師を頼るのだ。「このトラブルを,桑原先生なら解決してくれるかもしれない!」そして,期待へとつながる。「桑原先生は,私の悩みを聞いてくれた。そして,何とかするように頑張ると言ってくれた。桑原先生って,生徒の立場で考えてくれるいい先生なのかも…!」
 そして,期待はあっけなく外される。教師が介入したって,解決なんてできやしない。人間関係はますますこじれるばかり。すると,教師はあせって,コンコンと教育相談をもったりする。そして,ついうっかり,君にも非があるなんてことを言おうものなら,生徒の教師に対する信頼なんて,あっというまに霧散する。そして,期待した分だけ,教師への不信感は増大するのだ。
 過度に期待した分だけ,その反動は大きい。次の日から,もうこの女子生徒は,担任をシカトする。そして,「桑原って,キモイよね」などと友達に言ったりするという,中学校の日常的光景が完成する。
 こうやって,若い教師は,女子生徒の揺れ動く心がわからないなどと悩むわけである。
 さて,「諦めの気持ち」であった。
 もし,生徒が,はじめから「桑原先生に相談しても,ムダだ」と私を評価しているのであれば,相談しに来ないだろう。相談しに来ないということは,「いい先生だ」と思われていないということだが,「キモイ」教師にもならないということだ。
 なお,それでも生徒が,私に相談をしに来たらどうするか。私なら,親身になって十分に話をきいてやり(フリをして),「なるほどなあ,よくわかったよ。じゃあ,どうしたらいいと思う?」と,生徒に逆に相談を持ちかけるだろう(バカみたいな話だが,こうやって聞き返してやると,生徒ははじめて考えるような顔をして,自分で解決策を提示したりするのだ。つくづく,教育相談というのは面白いと思うよ)。間違っても,「先生にまかせなさい」なんて言うことはないだろう。
 生徒が,「桑原先生に相談してもムダだ」と諦めれば,生徒は自分で解決するようにあれこれ考えるであろう。そうなると,私のような教師は,結果として,生徒に自分で考える力をつけさせ,自己解決力を育てているのだな。なんて,すばらしい教師だろう!エヘン。
 それはともかく,あらかじめ「諦めの気持ち」を持たせることで,教師に期待をしない分,不信感も生まれないのである。
 しかし,まわりを見渡してみよう。生徒に期待を持たせる教師の何と多いことか!
 特に,若い教師ほど多い。もう,「若い」というただそれだけで,生徒には期待なのだ(実は,うらやましかったりする)。
 皆さんのまわりはどうだろう。生徒に過度な期待を持たせる教師が,あちこちにいやしないか。
 4月の学級開きで,生徒に過分の期待を持たせる教師は実に多い。中には,ギターを持ってきて歌まで歌ってしまう教師までいる。もう,それだけで生徒の期待度は急上昇だ。そんな,リスクを4月のあたまから背負って1年間学級経営するなんて,私には全く信じられない。
 これは,特殊な例としても,学級担任は4月の学級開きにあれやこれや準備をしている。
 私は,他の教師の頑張りを見るたびに,ハラハラする。そんなに,生徒に期待を持たせて大丈夫なのと,思ってしまう。
 そして,そうやって頑張る教師の多くが,生徒の期待を裏切ってしまい,結果,学級がおかしくなっていくのだ。学級経営に失敗するというのは,教師が何もしないからではなく,見通しもなく生徒の期待にこたえようとするから失敗するのだ。
 特に若い教師は,「諦めの気持ち」を生徒に持たせることが,教育的であることに早く気付くべきである。そして,若いことがうらやましいと思っているオッサン教師の存在にも気付くべきである。