憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

ごあいさつ

2013-03-29 06:03:55 | その他
 突然ですが、この3月をもちまして、教員の職を辞することになりました。
 このBlogも6年以上に渡り続けてきましたが、今後は、学校教育の場を離れますので、更新することはなくなります。
 ただ、特別支援教育関係の過去のエントリーは、まだ、いくつか読まれているようですので、もうしばらくこのままにしておきたいと思います。
 長い間のご愛顧ありがとうございました。

 桑原憂太郎
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

勤務校の卒業式だった

2013-03-17 19:34:22 | 養護学校の日常
 勤務校の卒業式だった。

 私にとっては教師になって17回目の卒業式。
 特別支援学校に移って4回目。

 知的の特別支援学校の卒業式。
 普通校との違いというのは、いっぱいあるけど教師にとっていちばんの違いは、児童生徒席に生徒と一緒にいるということだろう。これが、私にはとても新鮮なことであった。
 普通校だったら儀式的行事は、厳粛に整然と式を進めるのが理想だろうけれど、知的の特別支援学校ならそれは、望みようがない。大きなトラブルがなく、卒業生も在校生も最後まで式に参加できればOKというところだろう。

 ところで、勤務している特別支援学校には小学部、中学部、高等部があって、卒業式は一度にする。小学部の卒業生は、家庭の事情や本人の健康上に問題がなければ、そのまま中学部に入学する。だから、卒業は門出とはならない。一区切りといったところだ。
 中学部の場合は、高等部に進学するのと、高等養護学校に進学するのとに分かれる。なので、高等養護学校に進学する場合は、門出となる。高等養護学校ではなく、引き続き本校の高等部に進学するのであれば、教室こそ違うが生活環境は大きく違わない。遠方より在籍して、寄宿舎で生活している生徒であれば、平日の生活環境もそのままである。
 さて、高等部の卒業生である。普通校であれば、就職か進学かということになろうが、知的の特別支援学校の場合は、福祉的就労か生活介護施設通所(または入所)となる。高等部の卒業とは、いよいよ社会に出るということ。高校の卒業は、社会にはばたく、人生の輝ける門出ということになるのだけど、彼らの場合はちょっと違うかなあとも思う。
 多くの生徒は学校から施設への移行になる。社会にはばたくというのとは違う。夢に向かって、というのとも違う。やはり、それは移行というのがふさわしい感じがする。それから、行政の区分でいうと、障害児から障害者にかわることで福祉のかかわり方も変化する。卒業は、行政区分の変更、その始まりだ。そんなことを考えると、彼らの前途が明るいことを願わずにいられないが、さすがにちょいと切ないなあと思うのでありました。

この記事をはてなブックマークに追加

特別支援学校の勤務形態について

2013-03-09 19:46:20 | 養護学校の日常
 私が、普通中学校勤務から特別支援学校勤務に移ってかれこれ4年になるのだけど、いまだに慣れないことに、特別支援学校には、いわゆるアキ時間がないということがある。アキ時間とは、授業のない時間。生徒だったら学校に行けば、1時間目から6時間目まで授業があるが、教師は授業を持たない時間帯がある。それがアキ時間。
 同僚に話を聞いてみると、すべての特別支援学校がそうではないということだけど、私の勤務校には、アキ時間はない。アキ時間だけではなく、中休みも昼休みも10分休みもない。生徒が登校してから、下校するまでの約6時間、教師はずっと生徒のそばにいる。私は現在の勤務校に異動したとき、特別支援学校は普通中学校に比べて、生徒の登校時間は遅くて下校時間は早いから、さぞかし楽チンな職場だろうと思ったが、それは大きな間違いだった。
 知的の特別支援学校だから、多動性や衝動性の生徒がいて、そういう生徒には、授業中だけではなく休み時間から何からすべての時間、教師はそばにいる。本当にそばにいる。離れない。おそらく、この状況については、特別支援学校の日常を見ない限り、わかってもらえないだろう。なので、わかってもらえるように、わかりやすい例えを、ここ4年間ずーっと考えてきたけど、良い例えでいうと、教師は要人のそばに張り付くSPみたいなものだ。悪い例えは、いろいろあるけど、ここでは書かない。
 とにかく、生徒が学校にいる間は、教師は、生徒から離れるということはない。これが、異動した私には難しくて、はじめの数カ月は、トイレにいくタイミングがわからなかったし、モノを取りに職員室へ行くタイミングもわからなかった。もちろん、今はもう大丈夫だけど。
 そうした特別支援学校独特の身のこなし方については慣れたのだけど、アキ時間がないのは、私には今でもちょっとしたストレスだ。私にとって6時間連続で、自分が拘束されるというのはキツいのだ。当然、SP状態だから気も抜けない。もちろん、本当に気を抜かなかったら、人間は死んじゃうから、適度に緩急をつけて、生徒のそばにいながらも気を緩めることはある。ただし、緩めすぎたり、隣の教師が気を緩めているときに自分も緩めたりすると、事故やケガや生命の危険につながるので、その辺りはどの教師もまわりの状況をみて経験則で動いている。いずれにしても、こうやって6時間を過ごす。
 私が、ストレスを感じるのは、そういう6時間の間に、時間を自分でコントロールすることができないということなのだ。勤務時間なんだから当たり前だろう、と言われればそうには違いがないけど、こんな職種は、やはりSP並みに特殊じゃないかと思う。
 教師の仕事でいえば、アキ時間なんて教師が自由に使っていい時間である。勤務時間だから、休憩していいわけじゃないが、勤務に関することなら自由につかっていい。時間の使い方は、自分のペースにまかされている。授業の合間の10分休みだって、職員室にもどって自分のペースで授業準備ができる。短時間だけど、それは自分の時間だ。自分の時間だから、それに浸ることで自分を回復することができる。
 他の職種もそうだ。外回りのある営業職は言うに及ばず、対人職やサービス業の多くだって、職場には拘束されても、6時間連続で自分の時間が持てないということはないだろう。昼飯くらいは、自分のペースで食えるだろうし、トイレに行きたくなれば周りの状況をみなくたって行けるだろう。対人職ではなく、モノを相手にする仕事であれば、なおさら自分のペースで仕事ができよう。私が、事務仕事が嫌いではないのは、事務仕事には少なからず自分のペースが担保されているからだ。短い時間であろうとも、仕事の合間には、誰のものでもない、自分の時間を生み出すことができるからだ。
 そういうわけで、このアキ時間がないというのが、私の特別支援学校勤務で、最後まで慣れないことだった。
 こうした実感を持つのは、私が途中からこの職種に移ったためかもしれない。もし、大学を出てすぐに特別支援学校で勤務していたら、そんな風には考えなかったのかもしれない。けど、それは、わからない。

 もうひとつ。
 普通中学校から特別支援学校に異動して慣れなかったことに、完全週休2日になったことがある。それまでは、休日は普通に部活動があって学校に出勤していたから、休日が休日であるという事態に戸惑った。休日の時間をどう過ごしてよいのかわからなかった。私にとって丸2日間、職場に行かないという生活は、就職してはじめてのことだったのだ。この2日の休日を完全に持て余した。障害者支援の専門風に言えば、私は、余暇の充実に困難性がみられる事例、であった。
 それにしたって、わが国は休み過ぎじゃないか。1週間のうち2日休みということは、年間にして100日強だ。それに、祝日はいつの間にやら15日に増えているし、正月休みやお盆休みをくわえたら、1年の3分の1は休みなのだ。持て余すのも当然じゃないか。
 なんて、言ってみたりしたけど、これにはすぐに慣れた。人は易きに流れるとはよく言ったもので、今では、休日を持て余すなんてことはない。
 それに5日間の勤務でちゃんと電池が切れるようになった。多分にもれず木曜日の勤務がキツくなり、週末は2日間の休養が必要な身体になった。面白いものだと思う。
 ちなみに、私は日曜の夕方に翌日からの勤務ことを思って落ち込むという、いわゆるサザエさん症候群になることはない。新卒のころは多少あったかもしれないが、そんな昔のことは忘れた。とにかく、この10年くらい、そんな気分にはなったことはない。恐らく、いつの頃からか、自分の勤務について1年間のスパンで考えられるようになったからではないかと思っている。
 人は、鬱的な症状になると、目先のことしか考えられなくなり、長期的な予定が立てられなくなるといわれる。1日を過ごすのが精一杯という状況になるのだろう。しかし、私は、幸いにしてそういう状況にはない。
 願わくば、1年間といわず、もっと長期的、いわば残りの職業人としての人生の20年ほどのスパンで、自分の勤務をとらえてみたいと思っているのが、現在の心境である。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

卒業式のシーズンである

2013-03-03 17:12:13 | 特別支援教育
 卒業式のシーズンである。

 私が、はじめて卒業生を送り出したのは、新卒3年目のときだった。当時の、ちょうど今頃の3月、通知表の所見欄を書いて残業をしていたとき、同じく職員室にいた先輩教師と雑談とした。
 どういう会話の流れだったが忘れてしまったが、先輩教師は私にこんなことを言った。
 「中学校の教師なんていうのは、あいつらが数年後、同窓会か何かのときに久しぶりに集まって『そういえば、ウチらの担任なんていう名前だっけ。あの担任、元気かなあ』なんて、思い出される程度でいいんだよ」
 私は、正直、この先輩教師の言葉がピンとこなかった。
 ああ、そういうことかあ、とわかったのは、2度の転勤をした30歳くらいの頃だったろう。

 担任教師と生徒との関係というのは、期間限定の間柄である。卒業したらおしまいである。
 教師は、4月になると新しい学級を受け持つ。卒業した生徒は高校で、また彼らの人生がはじまる。学校はその繰り返しである。
 教師は、中学校の3年間、生徒の人生にかかわるが、その先の彼らの人生の伴走者にはなれない。
 それがわかるにつれて、中学校3年間の彼らとのかかわり方もわかってくる。生徒との距離感というか、教師は生徒の人生に対して、どこまで踏み込んだらいいかということがわかってくる。
 生徒との距離感がわかれば、教師の立ち位置もわかるようになる。
 そんな風にして、教師はプロフェッショナルになっていくのだ。

 さて、特別支援学校である。
 特別支援学校の場合は、普通中学校と大きく違う。
 生徒とは卒業後もつながり続ける。学校での出会いが、その後も続くのである。彼らの人生の伴走者になるのだ。対人援助職というのはそういうものなのだ。
 これは、学校の担任だけではない。今後、彼らが高校にいっても、働くことになっても、彼らが出会った大人たちは、彼らを支援し続けるのである。そうして、多くの支援者に見守られながら、彼らは成長し、人生を歩むのだ。
 特別支援学校の中学部担任の私は、小学校の担任が書いた彼らの「個別の支援計画」を受け取る。そこには、それまで彼らにかかわった支援者のリストがある。あるいは、支援相談の記録がある。私は、その「個別の支援計画」に中学校の3年間の支援の記録を書き足す。「個別の支援計画」はその後も、書き足され、書き直されながらも、彼らの成長とともに、次の支援者に渡っていくのだ。
 彼らの人生に寄り添っていくのが、特別支援学校の教師だ。
 普通中学校とは、まるで逆である。
 実は、こうしたことは教師の教育観に再考を迫る大きなことだ。学校教育とは何なのだろうと、今一度考えることにつながる。
 私は、こんな自分の教育観の再考を迫られるような大きな違いにでくわすたびに、自分は普通中学校から特別支援学校に校種を変更してよかったなあ、と思うのである。

この記事をはてなブックマークに追加

道徳の教科化について

2013-02-23 19:41:59 | 教育時評
 政府の教育再生実行会議で、道徳を教科にしようとする議論がなされている。
 といっても、これは教育関係者でなければ、いまひとつピンとこない話題かもしれない。

 今でも、学校には小学校1年生からちゃんと「道徳の時間」はある。これは、皆さんご存知であろう。ただ、戦後、「道徳の時間」(いわゆる「特設道徳」という)については、昭和33年に成立するまでの過程で紆余曲折があった。また、成立以後も現場では多くの教員が反対の姿勢を示した。だから、時間割に道徳があっても、授業がなされなかったり、せいぜいテレビ視聴でお茶を濁していたりとかという感じだった。けれど、そんな現場での「特設道徳」の混乱を知っている世代の教員もいなくなっているから、今では、どの学校でも担任教師が授業準備をして、そこそこの道徳授業をやっていることだろう。
 教科じゃないので、教科書はないけど、文部科学省がすべての子どもに無償配布している「心のノート」という冊子があって、道徳の時間には活用することになっている。また、多くの学校では教材会社や教育委員会の作成している副読本を用意して、こちらも道徳の時間に活用していることだろう。
 これが、現行の「道徳の時間」。これを、社会科とか国語科という「道徳科」にしようというのが、今回の道徳の教科化の議論。
 じゃあ、教科にすることによって、何が変わるのか。
 現場レベルでいえば、大きいのは教科書と評価評定ということになろう。
 教科にする以上は、検定を受けた教科書によって授業を進めることになるだろう。現在すでに「心のノート」を授業で活用しているという実績があるから、教科化すれば新たに教科書の検定をして、そいつで授業せよという方針をとるだろう。ただ、教科書で教えるといっても、「国語」や「数学」といった教科書のイメージではなく、「音楽」とか「保健体育」といった実技教科のような扱いになると思われる。ただし、「道徳科」を実技教科のような活動中心(ボランティアとか、アクティビティとか、ディベートとか)にするのか、座学でこんこんと価値注入をはかるのかは、今後の議論によるだろう。
 それから、評価評定をどうするのかというところで、大きな議論となるだろう。特に、中学校現場では、道徳の評価については大反対がなされるだろう。そのときに、教科推進側がどこまで強く評価評定を推していくかによって、評価評定化は決まるだろう。ただし、もし「道徳科」で評価評定することになったとしても、具体案が現場に下りてくるまでに、さまざまなセクションで骨抜きにしてしまうことだろう。
 つまりは、現場レベルでは、教科化によって道徳の教科書は配られるものの、実際の授業は現行の「道徳の時間」と大きく違わないだろう、というのが私の予想だ。
 今回の「道徳」教科化の議論には、現行の「道徳の時間」が年間35時間なり設定されているものの、どうも現場では35時間きちんと授業していなくて、それはいかん、という理由もあげられていよう。
 しかし、たとえ教科になって35時間きちんと授業しようにも、他の教科や領域を減らすには現実には無理なので現場では手練手管を使い、これまでのような扱いで済まそうという思惑がはたらくだろうと思われる。

 そのような制度上の議論はともかくとして、道徳の教科化の議論で私が期待するのは徳目の中身である。ありていにいえば、「道徳科」で何を教えるのか、ということだ。
 道徳教育推進派は、現在の「いじめ」問題に乗じて、命の大切さをきちんと教えるべきだという主張もあったりするが、これはバカな話だ。もし、教育研究者の肩書きでそんなことを言っているのがいれば、そいつは、研究者ではなくただの政治屋だ。バカにしていい。
 「いじめ」問題の解決は、子どもへの価値注入ではなく、教師の学級経営力の問題である。かっこよくいえば、教師が教室の中をいかにマネジメントするか、という問題なのだ。あるいは、教師集団の組織性の問題としてとらえてもいい。「いじめ」を解決できない力のない教師をどう学校全体でフォローするか、という教師組織の問題だ。こうしたことは、教育関係者なら常識の議論である。
 もし、道徳教育を推進することで「いじめ」が解決できるなら、現場はこれほど楽なものはない。だいたい「いじめ」問題が、そんな簡単なことではないことなんて、問題の深刻さから考えればわかるだろう。
 また、家庭の教育力が弱まってきているから、それを学校教育で補おうという発想で、道徳の推進をはかろうとする主張もあるが、これについても教師は反対をするべきだ。
 わが国のような、これほどまでに教育に関心の高い国で、果たして本当に家庭の教育力が弱まってきているのか、という根本の議論ももっとなされるべきであると思うが、それは措くとして、そもそも家庭教育と学校教育は別ものであると、きちんと教師は発言するべきなのだ。「しつけ」と「教育」の違いを教育のプロとして発言をすることが必要だ。もちろん、そんなもの線引きができないことなんてわかっている。けれど、家庭で身に付けるべきものを、何でもかんでも学校で受け入れているから、現場は混乱しているのである。
 昨今の「体罰」問題に絡めていえば、「体罰」をするなんていうのは教育のプロに徹していないから、他人であるはずの児童生徒に暴力をふるうのである。教師は、親ではなく、近所のおじさんおばさんでもない。職業人としての教育のプロなのである。教師の「体罰」というのは、職業人としての逸脱行為なのだ。何が「愛のムチ」だ。学校は躾をする場ではない。教育者に、そんなものはいらん。
 道徳に話を戻すと、そうした教育のプロの立場で、学校教育で子どもに注入すべき価値は何か、ということを議論すべきなのだ。
 そう考えると、戦前の「修身」の徳目は、現在の学校教育にそぐわないものが多いだろう。道徳推進派の多くは、「修身」を復活させて忠節とか孝順なんていう徳目を「道徳科」に載せるのが悲願なのかもしれないが、そういう徳目を現在の学校教育で受け入れるとデメリットの方が多くなると言っておこう。
 私は、道徳教育で教える徳目には、まさに学校でなければ培うことができないであろう徳目を、優先的に取り上げていくべきと考える。そして、その学校でなければ培うことのできない価値とは何か、について議論することが有用であると思うのだ。
 たとえば、道徳教育の議論で常に俎上にあがる「国を愛する心」なんていうのは、その筆頭である。これは、学校教育によってしか培うことはできない。「家族愛」とか「郷土愛」というのは、そこで生活をしたり住んでいたりすれば、おのずと培われるものである。家族を愛することのできない子ども、というのは、家庭教育に何らかの問題があるのであり、ごくごく普通の家庭であれば「家族愛」というのは育まれる。しかし、「愛国心」については、普通に生活していて育まれる、ということにはならない。 これは、教育による知識とともに価値の注入が必要になる。それによってはじめて「国を愛する心」が育まれるのだ。
 道徳教育の議論については、たとえば、こうした議論がもっともっとなされるべきなのだ。
 「命を大切に」とか「みんな仲良く」なんていう価値議論は、そりゃ価値としては大切だけど、そんなものは学校教育としては当たり前の話で、議論としてはあまりに低俗である、と言っておこう。

この記事をはてなブックマークに追加

自閉症当事者の講演会に行く

2013-02-17 20:13:34 | 特別支援教育
 自閉症当事者の講演会に行く。
 果たして、自閉症者は人前で講演できるのかという関心からによる。
 当日は、インタビュアーと二人でインタビュー形式の講演だった。これは、適切な手法だった。それに、インタビュアーは当事者を知っている支援職の職員だったので、これもまた非常に適切であった。

 話は変わるが、以前に脳性まひ当事者二人によるトークセッションを聞きに行ったことがある。これは、なかなか衝撃的だった。私には、二人が何しゃべってんだかサッパリわからんかった。けど、二人のまわりには彼らをよく知っている介護職が数人いて、この二人の話にどっと笑ったりしていた。おそらくとても楽しいトークが展開されていたに違いないのだが、私には全然わからない。一般参加者は私くらいで、あとは、脳性まひ当事者や関係者という小規模の場で、なおかつ非常に和やかな雰囲気で会が進められていたがゆえに、私にとっては、あたかもアングラ劇団のブラックコントに紛れ込んだような心境にもなり、どうにも深く印象に残っているできごとであった。

 自閉症者の講演会の話に戻る。
 彼は、二十代の作家であり、評論家。昨年は、大手出版社から評論集も刊行した。けど、文筆業だけでは食べていけないから、IT関連会社でアルバイトをして生計を立てている。私は、彼の書籍やブログをフォローしているが、書いてあることからは自閉症者だなんてこれっぽっちもわからない。けど、今回、話している立ち振舞いをみて、そこそこの当事者とわかる。
 いわゆる高機能の自閉症者である。福祉関連のフォーラムなので、話の内容は、おのずと当事者としての生きにくさということに流れていった。
 そんな彼の話から、考えたことをいくつか。

 彼は、自分は自閉ではなく自開だという。そのために、苦しんだのだと。
 この意味がわかるだろうか。私なりに解釈すれば、これは、こういうことだ。
 彼の生きにくさの1つに、他者とのコミュニケーションの困難性があげられる。彼自身が言うには、頭の中ではいろんなことを考えているのだけど、言葉にしようとすると、口からは出てこない。アウトプットができない、と言う。だから、他者との会話に困難性が伴う。会話に困難性がともなうから、うまくコミュニケーションが築けない。他者からみれば、あいつはちょっと変わった奴とみられる。そうした、コミュニケーション能力の不全感に自分自身とても悩む。けど、その悩みは、こういうコミュニケーションの困難性を他者に晒しているからにほかならない。晒さなければ、悩むことはない。すなわち、自分が開いているからこその悩みなのだ。と、いうことだ。他者に自分を晒しているからこそ、自分は傷つき、悩む。自分が閉じていれば、悩むこともないだろう。だから、自分は自閉ではなく、自開だという。彼の発言を解釈すれば、こんな感じである。
 この発言は理解できる。しかし、私は職業柄、彼とは異なる自閉症者に多く接している。彼らはまさしく自分の世界の住人であり、自ら閉じている人々である。つまり、まさしく自閉症者なのだ。
 では、こうした自閉症者と彼の「自分は自閉ではなく自開だ」という発言との違いをどうとらえよう。
 私は、これは自閉症の診断が広がったせいだと考える。彼のような、いわゆる高機能の自閉症者と呼ばれる診断がされるようになったのは、ここ十数年のことだ。それまでは、彼のようなコミュニケーションに困難性をともなう人々を診断する症名はなかったのだ。世間では、ちょっとおかしな奴という認識だった(今でも、それはそうだろう)。けど、ここ十数年の間に、彼らは高機能自閉症と診断がされるようになった。そこで、自閉症の概念がグーンと広まったのだと思う。そうしたなかでの、高機能自閉症当事者の「自分は自閉ではない」という発言になっているのだろう。
 そう考えると、今後は自閉症の診断概念の精査が求められているのだろうと思う。彼のようなコミュニケーションに困難性をともなう当事者には、高機能自閉症ではなく、別の症名をつけるのが妥当であろう。広汎性発達障害では広すぎるだろう。最近では、ASD(自閉症スペクトラム障害)といった用法が広まっているが、例えばそうした名称で、従来のいわゆる自閉症と区別したほうがいいだろうと思った。

 もう一つ。彼の発言のなかで、会話や作文にルールが欲しい、というのがあった。自由というのが、もっとも困る、という。彼は、会話によるコミュニケーションの不全感を、書くことによって昇華することができた。自分を吐き出すアウトプットの方法として、書くことを選び成功しつつある。そんな彼でも、自由に書くのは難しい、何か型が欲しいと言う。
 これも、自閉症に関係する話題としては、何度も提出されてはきているが、重要なものだろう。
 教育の場では、そうした自閉症者の困難性を解消する方策として、構造化とか、可視化とか呼ばれる手法がある。
 もっと、直載な支援方法としては「型にはめる」というのもある。けど、これは、あまり教育的な用語ではないので、公的な場では使わない。けど、支援の場ではよく使う。自閉症者は「型にはめる」ことで、理解ができる。また、そうしたスキルを取得することで、社会で生きやすくなるということなのだ。ソーシャルスキルトレーニングもそうした発想だということがわかるし、今回の彼の発言から、自閉症者が何に困難性をもっているのかが、改めてわかった。

 さいごに。
 彼のような自閉症者当事者が、人前で講演をするような経験を積むことで、自らの困難性が解消されていくのは、支援職に従事している私の立場からすれば、とても好ましいこととは思った。しかし、その一方で、一読者として思うのは、彼が作家として生きていきたいのであれば、自分の素の姿は読者の前に晒さないほうがいいのではないかとも思い、そんな矛盾した思いを持ってしまった講演会でありました。

この記事をはてなブックマークに追加

キャリア教育雑感

2013-02-09 16:51:21 | 教育時評
 安藤美冬『冒険に出よう』(ディスカヴァー21、2012年)を読む。売れているようだ。売れているのは、25歳以下の就カツ前後の若者を購買層にしているものの、私のようなオッサン層も読んでいるからだろう。
 著者のフリーランス体験をベースに、会社組織からはなれて、自分のやりたいことをやって冒険しよう、というメッセージ。
 安藤は、「ソーシャルメディア」「フリーランス」「セルフブランディング」「ノマド」が自分を表すキーワードだという。この4つのキーワードについての詳しいことは、本書を読んでもらうとして、「ノマド」とはまさしく、存在様式なのだということを確認する。最近、ちょくちょく目にするが、こいつは「働く形態」なのではない。形態であれば「フリーランス」だ。そうじゃなく、「ノマド」は「存在様式」なのだ。安藤の言う「生き方」そのものだ。そこを、しっかり読みとらんと、冒険には出られまい。

 安藤を読んだあとは、木暮太一『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか』(星海社新書、2012年)を読むとよい。こちらもターゲットは就カツ戦線の若者層だ。こちらは、冒険にでなくてもいいから、会社組織のなかでの自己実現を目指すやり方について主張している。したたかな組織人を目指せということか。
 安藤、木暮の主張は、一見、正反対のようだが、そんなことはない。どちらも、自己実現するために働くとはどういうことか、という意識に貫かれている。

 ちなみに、安藤、木暮ときて、まだ余力はあれば今野晴貴『ブラック企業』(文春新書、2012年)を読むとよい。これ、前にも紹介したけど、企業が新卒社員を使い捨てていく有様をルポしている。もちろん、わが国の企業がすべてとはいわないけど、若年層の雇用が従来のそれより大きく変貌してしまっていることは間違いがない。ブラック今野を読んで、わが国の若年層が置かれている厳しさを知ったうえで、ノマド安藤、マルクス木暮を読むといいだろう。

 教育の話題である。
 キャリア教育の充実と言われて久しい。
 おそらく日本全国すべての学校で、規模の程度はあれ、キャリア教育の実践がなされているだろう。一昔前までの進路指導とは違う、新しい実践が行われていることと思う。
 1つ1つの実践について、私はあかるくないけれど、キャリアについて子どもに教えるのであれば、安藤、木暮は読んでおくべきだろうとは思う。

 では、それだけで、キャリアを指導できるかといえば、それは不十分である。
 次に教師は考えるのである。
 安藤も木暮も言っていることは、等しく「自己実現」である。働くことは「自己実現」のためだ、と主張する。この主張は、なかなか魅力的だ。キャリア教育にはうってつけと思う。けど、それだけでいいか。働く目的は、「自己実現」であることは事実なのだけど、実は、それだけではないのだ。
 私は、働く目的を「自己実現」だけに求めるキャリア教育は間違っていると思うし、それだけ教えていてもうまくいかないと、ずーっと考えている。
 私のいうキャリアとは、次の3つだ。
 一つは、「生活」。つまり、食うためだ。食うために働く。そりゃそうだ。働かなくても食えるのなら、誰も働かない。これが、キャリアのおおもとだ。けど、そんなこと誰もがわかっていることなので、わざわざ学校で教える必要はない。
 次が「自己実現」。ここが、キャリア教育の大きな柱だ。おそらく、学校ベースで研究、実践されているのは、ここの部分だろう。けど、もうひとつ、キャリアで大切なことを教えるべきだ。
 それが、「社会貢献」だ。この「社会貢献」のないキャリア教育はおかしい。
 そして、こいつこそ、学校教育でゴリゴリ教えるべきと思うけど、どうにも、私の主張は少数派のようです。

 ここから先は、4年前、私が2009年に掲載したキャリア教育についてのお喋り。
 この歳になると、4年前に喋っていたことと、今、考えているととに、大きな隔たりはない。それは、主張の一貫性とかいう格好のいいものではなくて、単に、成長がなくなったということに過ぎない。
 それはともかく、再掲します。

 中学校の社会科公民分野には,経済と労働とのかかわりで,「終身雇用制」や「年功序列賃金制」や「ワークシェアリング」などを教えるところがある。
 私が社会科教師だったころ,ここの部分はこんな風に授業を流していた。
「はじめにきくが,何で,人は働くんだい?」
 生徒からは,答えはすぐに出る。
「給料をもらう」「お金をかせぐ」「生活をする」など,表現は違えどおおむねこんな答えが返ってくる。私は,「そうだね」などといいながら,黒板に「収入を得る」と板書する。
「まだ,ある。さあ,何だ」
 ここからは,すんなりとは出てこない。「考えろ」と言って,少しの時間,考えさせる。
 さーて,皆さんも考えてみてください。いうなれば「労働の意義」です。「収入を得る」ほかに,「労働の意義」って何でしょうか。
 授業では,なかなか出てこない場合は,「みんなは,収入を得るためだったら,どんな仕事でもいいのかい」などと,ヒントを与える。
 そうするうちに,「夢をかなえる」「自分のやりたいことをする」などの答えがやっとでる。そこで,「自己実現」と板書をする。
「さて,2つでた。実は,人が働くのはもう1つ理由があるのだ。わかるか」
 この最後はまず答えられない。私の記憶では,過去に1~2人の生徒が答えたくらいだったはずだ。皆さんはわかりますか?
 正解は,「社会に役立つため」。
 以上,「収入を得る」「自己実現」「社会に役立つため」の3つが「労働の意義」である。

「ニート」「フリーター」の増加というのは,今おさえた「労働の意義」についての3つ目「社会に役立つため」すなわち「社会貢献」という意義がスッポリ抜けているせいだ,と私は考える。なので,授業でもそんなことを生徒に話していた。     
 ときには,「職業に貴賤なし」ということについて教えたり,当時売れていた村上龍の『13歳のハローワーク』を話題にして,「あれは「労働の意義」を「自己実現」に特化してんだよ,あんなもの読んだら「ニート」になるぜ」などと,脱線していた。

 いわゆる「キャリア教育」を「総合的な学習の時間」などでおこなう学校が増えた。
 「総合的な学習の時間」の導入がなされた時,私は当時の勤務校で研修を担当しており,ご多分にもれず「キャリア教育」の年間計画をつくり,3年生の生徒を「職業体験」と称して地域に放した。
 「キャリア教育」のねらいを,「ニート」や「フリーター」にならないように中学生のうちから「労働」について体験させておく,とするのは極論に過ぎようが,「ニート」や「フリーター」の増加が社会問題化したとき,教育界ではにわかに「キャリア教育」の必要性が議論されたわけでもあるから,あながち間違いではないであろう。ただ,計画を立ててみればわかることだが,「キャリア教育」というのは,「労働の意義」を「自己実現」とすることに大きくウェイトをおいている。つまり,中学生のうちに自分のやりたいことや適性がわかれば,大人になったらしっかりと働くだろうという理屈となっているのだ。
 けど,当時の私は,「労働の意義」を「自己実現」に特化しているから,「ニート」は増加しているのだと思っていた。すなわちここでも「労働の意義」として「社会貢献」という視点は抜け落ちていたのだ。
 担当として計画を立てながら「キャリア教育なんてのは,高校に入ってバイトをやってみれば,すぐにわかることなのに,それをわざわざ中学校で授業時間削ってやる意義はねえよなあ」などと,うそぶいていた。けど,実際にやってみたら,消防署へ体験に行った生徒が集合時間にほんの少し遅れただけで,署員から「そんな気持ちでは消火活動はできるか!」と説教をうけたりして,それはそれで,地域に放すのはいいことだと思った。

 そうこういっているうちに今じゃあついに「派遣切り」のご時世だ。
 そもそも派遣社員というのは,正社員になれなくて仕方なく派遣で糊口をしのいでいるのだという主張もあり,そういう労働者も多いだろうことは想像に難くないのだが,ともかく「労働の意義」の3つのうち「収入を得る」ことが大きなウェイトとなっていることはいえるであろう。「派遣」が「自己実現」としての労働というのは無理のある主張と思われるし,ましてや「社会貢献」の意義は正社員より小さいだろうと考える。
 ただ,今回の「派遣切り」問題は,労働者側の自己責任とはとても言えない。
乱暴な議論を承知で言うなら,「労働の意義」を「収入を得る」だけでいいと労働者ならず雇用主までもが認識した結果が,今のような冷酷な惨状となっているのではあるまいか。
 雇用側が,派遣をあっさりと切るのは法的には問題はないのであろうが,倫理的には大いに問題であろう。ああやって平気で人をクビにする風景を見せられて,会社はなんのためにあるのかと思った人も多かったろう。
 そういうなかで,現在,派遣切りで職を失った者への救済は労働運動的発想でしか議論が生まれていないが,そもそも倫理的に考えて会社の方に非があるという議論も多いになされるべきであろうと思う。
 すなわち,雇用主も「労働の意義」として「社会貢献」の意識を持つことが,今回の雇用問題の議論には必要なことだと思う。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

部活動という名の教育活動

2013-02-02 17:08:29 | 生徒指導論
・無料奉仕が生き甲斐となる

 部活動というのは、言うまでもなく放課後に生徒があくまでも自主的に行う活動である。教育行政上もこれといった規定はなく、教師にとっても特に服務上の決まり事は何にもない。実は、部活動というのは教師の職務ではないのである。だから、学校長が教師に部活動の顧問を職務として命令することはできない。では、どうするかというと、学校内に部活動委員会という組織を立ち上げ(これはPTAで組織する。PTAだから保護者と教師の組織ということである)、委員会より、該当教師に部活動の顧問をお願いするという形式をとるのである。ただ、実際には教師が仕事として部活動の顧問を担当するというのが実情であろう。
 中学校の現場では、部活動が教師の仕事として大きなウエートを占めるケースが多い。仕事といっても、部活動の指導が教員の給料に含まれるかどうかは微妙である。そもそも、教員には残業手当はない。けれども、一応、部活動手当というものはある。北海道では私が新卒の時は750円だった。17年前のことである。これを人に話すと、口を揃えて「時給ですか」と言われたものだが、日給である。現在は2400円にまでベースアップした。しかし、この手当は、土日の勤務外に部活動の指導で学校に出かけた時に支払われるのであって、平日どんなに遅くまで指導をしても、それは全くの無償奉仕ということになる。
 けれど、この無償奉仕は、中学校教員にとっては、かけがえのない生き甲斐となったりするのである。

・正月以外は休みがない

 率直にいって、中学校には部活動が好きな教師は多い。自分が学生の頃、燃えていたバスケットでも野球でもサッカーでもいいのだけれど、教師になってまた子どもたちと一緒にできるというのは、喜びであるようだ。おそらく、中学校あるいは高等学校教師になりたいなあと考える教師志望者は、部活動を教える楽しみというのも教師を志望する理由のなかにあると思う。実際、部活動で息抜きをし、ストレスを発散するということだってあるだろう。であるなら、無償奉仕でもいいか、という気持ちになるかもしれない。
 私の場合は、学生の頃より吹奏楽をやっていて、初任校では幸運にも吹奏楽部を担当することができたが、そうでない教師も多い。私が勤務していた中学校のサッカー部顧問は、新卒で赴任した中学校にサッカー部はなかった。次の転勤も小規模校だったためサッカー部がなかった。3校目の転勤で我が校にやってきて、念願のサッカー部顧問になれるかと思ったら、そこにはすでにサッカーの指導者がいて、あえなく陸上部を1年間持って、やっとサッカー部の顧問になれたのであった。サッカー顧問になるまでに、十余年の月日が流れたのであった。このようなケースはわりとある。
 また、新人教師は、基本的に指導者がつかない部活を持たされるというケースも多い。いくら自分が学生の頃、エースで4番だったとしても、卓球部を持つということはあり、その部活が弱小ならまだお守り役としていいかもしれないが、強かったりすると大変で、指導できないのに持たされて悲惨な目にあうという場合も多い。特に、新卒者は部活動でうまくストレスを発散できればいいが、部活動で心が折れてしまうという場合もあるのである。
 さて、その部活動は、学校の規模によっても異なるであろうが、普通の中学校の場合、土日も平気で指導する。これは、やはり生徒がヤル気になるからである。普段の授業では静かな生徒が、部活動になると生き生きするということはよくあることで、教師は教師で、生徒が生き生きするのは嬉しいから、夜も遅くまで指導をし、休日も学校に来て指導をする。こういうところに、教師の生態があらわれている。
 私の知っているなかで、バドミントンで全国大会に出場させた経験を持つ教師がいたが、このバドミントン顧問は、正月以外は休みなく練習があったというのが半ば伝説のようになっている。
 身近なところでは、私のいた中学校のテニス部顧問は、毎日7時から朝練習をやっていた。もちろん、放課後も毎日練習するからなんとも健康的な教師である。冬になると、北海道はテニスコートが雪で埋まるので、体育館で練習する。体育館で朝練をやって、放課後は廊下。休みの日は、朝6時から朝練をやっていた(8時になると、バスケット部やバレー部が体育館を使用する)。あるいは、夜に練習する場合もあった。
 ちなみに、私の吹奏楽は、体育館を争奪することがないので、それこそ生徒は弁当持ってきて1日練習であった。運動部は1日やったら疲れるが、吹奏楽はそうでもないので、夏休みや休日は9時に始まり5時までやっていた。
 熱心な教師の部活動伝説はいくらでもあって、サッカー部のある先生は、夕方7時になってもういい加減ボールが見えなくなったら、自分の車のヘッドライトつけて8時までやっていたとか、いろいろある。
 こうして部活動に心血を注ぐのは、やはりそれだけ子どもが頑張るからということだ。子どもは、大げさに言えば部活に命を懸けているのである。ちょっとくらい熱出したって、部活は休まない。よく、「熱血教師」なんていう呼ばれ方をするが、教師が「熱血」になるのは、生徒が燃えているからである。教師がやる気を出せば、生徒がそれに応えてくれる。これこそが、教育の醍醐味と思ってしまうのであり、普段の授業はいかに生徒にやる気を起させるかが重要なのだけど、部活動ではやる気になっているのが相手だから、教師も喜んでやってしまう、という図式である。
 このように、部活動は生徒も教師も頑張るのであるが、あんまり頑張っていると、教師の本分は何なのかと陰でいわれたりするので、あんまりやりすぎるのもよくないので要はバランスである。
 しかし、大会前になると教師にとっては授業や学級どころではなくなる。もちろん、生徒も授業なんて上の空になる。本当に教師の職分というのはなんなのかと思うのだが、スポーツにしろ吹奏楽にしろ、大会というのは競争である。優劣がはっきりするものであり、学校内には自由と平等の欺瞞が蔓延しているなかで、唯一部活動だけが健全な競争を認めているのであって、そんな健全さにも私は大いに惹かれている。

・熱心にやれば注意され、適当にやっても注意され

 そんな部活動であるが、子どもが命をかけると当然親も熱心になる場合が多い。これがうまくいくと、非常に部活動はスムーズにできるのであるが、そうならないケースもある。
 あんまり遅くまでやっていると学校に保護者から電話がかかってくる。そうかといって、緩くやっていると、それはそれでクレームがつく。塾に通っている生徒に、まさか塾は休めなんて言うのは言えるわけが無く、そんな部員を抱えているとなかなか部活は強くならないわけで、そうなるとこの顧問ではだめだなんていうクレームがついたりする。
 特に、強い部活は顧問のプレッシャーは計り知れない。中学校の教師は当然ながら転勤があるから、もし新しい学校で強い部活を受け持ったりすると、担任業務以上に大変なのである。結果をださなければダメ教師の烙印を押されるということにもなる。
 団体競技の場合は、レギュラーを決めるときにもめることがある。レギュラーを決定するときの基準は大きく分けて2つある。一つは能力重視。1年生でも強い生徒はレギュラーにする。という考え方。これは、一番納得できるやりかたである。ただし、そのレギュラーになるのが、素行が悪かったり、練習サボったりする場合があって、それでも試合に出すかどうかが教師の悩みどころになると思う。また、そういう生徒の生徒指導をやるのも部活の顧問の役目となる。
 もう一つは、真面目に練習する生徒を中心にだすという考え。この場合は、かなりのポリシーを持ってやっていかないと、生徒からも父母からも、文句がくる場合がある。そのように考えると、やはり能力重視でやっていって、ただし練習をサボるのはいかんとう折衷案になると思うが、生徒と顧問が部活動に対して同じ考えを持っていないと、うまくいかないことになる。

・部活で人事がおこなわれる

 私の地区では、一つの学校で6年過ぎると異動の対象になった。この異動、当然ながら様々な駆け引きが巡り巡って行われるということになるが、部活の指導者という要素も重要になる。
 弱小な部活なら、それほど問題ではない。適当な教師にお守りをさせよということになる。部員はかわいそうであるが、人事には影響は与えない。問題は、強い部活の顧問が異動する時である。この時は、周到な根回しが必要になる。その教師が抜けた穴を代わりの教師に埋めてもらわないといけないわけで、そういう教師を引っ張ってくることができるかどうかが、校長の力量ということになる。
 強い部活動の顧問が異動になるときに、しっかりした後任の顧問が学校に残っていればいいが、そういうことはあまりなく、新たに教師を引っ張ってくる必要があるのである。これが校長の力量である。
 すぐに後任がやって来そうもなければ、いまいる教師の異動をもう1年延ばしたりする。であるから、教師によっては、部活動の関係で10年以上同じ学校にいる場合がある。一番いいのは、後任と1年くらい一緒に指導して異動する場合。これだと、強い顧問が異動しても、次の年はそのまま地区大会優勝なんてことができる。
 それは無理でも、ちょうど入れ替わりで顧問が替わる場合。この場合は、変わった年は無理でも、次の年あたり力をつける場合がある。もちろん、教師に力があれば、異動してすぐ優勝なんてこともあるが、それは本当に難しいことで、中学校の部活動はやっぱり3年計画と決め込んで、今の1年生が3年生になった頃には、俺のやり方も浸透するだろうと腹を括って指導するのが一般的であろう。
 最も悪いパターンが、後任を引っ張ることができなかった場合。これは、教師も生徒も不幸に陥れることになる。私の前任校の男子バスケット部がまさにこのパターンであった。この年の男子バスケット部はなかなか強く、中体連では地区大会優勝のレベルであった。この時の顧問は新卒3年目の教師で、私のいた地域は、新卒は3年で異動するという決まりがあったので、この顧問は4月に異動するのは明らかだった。3年生引退後、1、2年生の新たな体制で部活が始まり、普通だったらもう異動することがわかっているから、バスケの指導は副顧問の教師に譲るものなのであるが、前任校は人材不足で、その教師が異動する3月まで指導していた。で、新人戦では県大会に出場するなど、1、2年生も強かった。
 そうして、このような輝かしい成績ながら、この教師の異動先は、バスケット部のない郡部の学校であった。さて、問題はこの教師の抜けた後である。校長は、後任探しをしなかったのである。そうなると、新しく来た教師から、バスケットのできそうな若い教師を男子バスケットにはめるということになった。私も、その年に異動したので、詳しくはわからないが、新人戦で県大会まで進んだ選手が、次の年の中体連では、何と地区1回戦負けという結果に終わった。
 絵に描いたような人事ミスである。おそらく、男子バスケ部員のことを思うとかわいそうでならないが、異動してバスケを持たされた教師も気の毒である。心労察するに余りある。おそらく、キツかったと思う。
 親ももしかしたら、校長あたりに部活のことで話をしているかも知れない。と、いろんな想像をしてしまう。校長の力量のなさは、様々な人間を不幸にするのである。
 もっというと、部活動がしっかり指導できない学校は荒れるということは多い。実際、無策の人事で荒れたと言われる学校は数校ある。
郷土に錦を飾るなんていう言葉があるが、部活動はまさに学校の誉れである。高校野球なんかは、甲子園に出場すると学校や地域をあげて応援するが、あの感覚と同じで、自分の学校の部活動が勝ち進むというのは、教師にとっては単純に嬉しい。全国大会に出場したりすると、「祝 全国大会出場」といったような一文字を学校の屋上から垂らしたりする。
 卒業式の学校長の祝辞では、部活動が何らかの成績を残せたら、やはり誇らしげに言うだろう。部活動は、学校の教育活動では、はみだした存在にもかかわらず、学校の誉れという名誉ある位置についているといえよう。

この記事をはてなブックマークに追加

大阪市立高校体罰事件の余波あれこれ

2013-01-27 17:29:14 | 教育時評
 余波、その1。
 旧聞になるが、尾木ママこと尾木直樹氏が、橋下市長の打ち出した桜宮高校体育科の募集停止を支持したということが話題になった。多くの人は、あの「子ども第一主義」の尾木ママが、橋下強権主義に汲みしたことを意外に思ったようだ。
 これについては、私も意外であった。
 これまでの尾木ママであれば、「入試できなくなった受験生が可哀そう。橋下氏の大人の都合によって、子どもの人生を変えるのは許されない」程度のコメントを言ったろう。けれど、今回は、「橋下市長に賛成します」と明確に言ったわけではないけど、募集は停止すべきと言ったことで、結果、橋下氏の政策に賛成するのと同じになってしまった。
 これを、尾木ママの変節とみることもできよう。
 けれど、私は、尾木ママが変節をしたというよりも、尾木ママはこれまでよりも自身の言動が格段に世論に影響をもたらすことを自覚したゆえに、発言がより慎重になってきたのだと考える。自分の思想信条に基づいてオカシナことを言うのではなく、世の中のことをよく考えて、発言するようになったのだ。なので、今回については、体質としてこれまで左に大きく振れていた尾木ママが、自分の言動がわが国の世論に影響を与えていることを自覚し、発言がニュートラルな地点にやってきた、とみている。つまり、言っていることがマトモになったのである。
 そんな風に考えると、尾木ママのテレビでの賞味期限も、そろそろ終わりかもしれないなあ、とも思ったりした。
 以上、尾木直樹氏が読めば100%否定するであろう、私の戯言でした。

 余波その2。
 これも旧聞であるが、部活動での体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄氏が体罰反対派としてテレビなどでコメントを求められ、そのいくつかが話題になっていた。
 そのなかの最初期のコメントとして、アマチュアは勝利至上主義よりも、人材育成主義であるべきという主張があった。この主張は明快であったし、多くの賛同を得たようだ。
 しかしながら、この主張は明快ではあるのだけど、残念ながら空論に過ぎないと、私は思った。
 学校現場の活動が人材育成主義であるべきというのは、至極当然のことである。それは、部活動だって同様であり、指導する教師もそんなことは自明である。教師は、生徒の良き成長のために部活動指導をしている。勝つためだけに指導をしている、という教師はいるわけがない。今回、事件当事者であるバスケット顧問ですら、勝利至上主義とは言わないだろう。少なくとも、人材を育成するために、体罰を加えていたに違いがない。
 しかし、部活動には大会があり、そこには勝ち負けがある。そうなると、やはり勝つための指導がなされるというのも、仕方がないのだ。生徒や保護者だって、勝利至上主義とはいわないが、勝負に勝てる強い指導者を求めるのは当然だろう。そういう部活動の場に、指導者の体罰を許す土壌ができてしまうことは、否めないことなのだろうと思う。
 私は、普通中学校教師だったころ、長らく吹奏楽部顧問をしていたが、この世界には吹奏楽コンクールという全国大会につながる大会が開催される。吹奏楽部に所属している以上、このコンクールの勝ち抜けを目指して、練習をする。近年では、テレビでも放映されていたから、関係者以外でも結構なじみになったようだけど、コンクール時期というのは、全国の吹奏楽部はいわばコンクール至上主義となる。
 こうしたコンクール至上主義を、あれは音楽ではない、と否定するプロの演奏家は何人もいる。口には出さないけど、苦笑している演奏家も多くいることだろう。否定する理由はそれぞれあって、私は、それぞれもっともだと思うし、私に限らず、多くの指導者もそう思っているだろう。また、自分たちの指導していることは実は音楽から相当離れているよなあと、自嘲している指導者も多いと思う。しかし、そんな自嘲する指導者が、コンクール至上主義を否定して、コンクールに出場するのをやめるか、といえば、そんなことはないだろう。つまり、コンクール至上主義は、今後もなくなることはないだろう。その理由は、明快で、毎年コンクールがあるからである。
 もし、コンクールがなくなるのなら、こうした至上主義は消えるし、プロの演奏家たちの言う本当の音楽が部活動で指導されるかもしれない。しかし、しばらくは、わが国からコンクールがなくなることはないだろう。
 それと同様に、運動部から大会がなくなることはありえないし、大会がある以上、勝利至上主義でいくしかないのである。
 今回の体罰事件を教訓とするなら、勝利至上主義でも何でもいいから、きちんとコーチングの手法を学んだ指導者を育成することだ、と主張しよう。すなわち、指導者の人材育成である。

 余波その3。
 今回の事件に関連して、学校教育としての部活動を見直そうという議論も高まってきた。
 私は、そうした動きについて、改革するのは良いとは思うが、肝心の教師からは改革の機運が高まらないだろうと予想しよう。
 部活動は教師の負担が実に大きい。教師の時間外勤務に頼っているというのが現状である。その時間外勤務にしても、金銭的な手当ては無きに等しいから、結果、教師の心意気に拠っているのが実情なのだ。こうした状況が、体罰のような非教育的活動のまかりとおった遠因であることは事実だ。だから、今回の事件を契機に、これまでの教師の心意気によっていた部活動の在り方を改革していこうという議論がなされるのも、自然な流れであろう。
 では、改革の議論としてどういうものがあるかというと、大きくは2つだ。1つは学校教育としての部活動を縮小するという考え方。グラウンドや用具は学校にあるものを使っていいけど、指導者や運営は地域でやって、という考え。すなわち、部活動を学校教育から社会教育に移譲するということだ。
 もう1つは、外部指導者を積極的に登用するという考え方。教師の心意気ではなく、地域住民の心意気に期待しようという考えだ。
 これらは、どちらも教師の負担を軽減する発想にもとづく。この2つが現在、部活動の見直しで議論されている潮流である。
 けれど、このどちらも、教師はあまり乗らないだろうと私は思う。その理由は単純で、教師は部活動が好きなのだ。好きな理由は、次回以降ここでおしゃべりしようと思うけど、好きだから、無償だろうが、時間外勤務だろうが、指導してしまうのである。そして、そういう教師の心意気をいいことに、これまで部活動については、議論としてあまり触れないようにしていたというのが現状である。
 だから、私の今後の予想としては、今回の体罰事件をめぐって、部活動の在り方について議論が深められるかもしれないが、そうしたところで結局、何も変わらないだろう。これが私の予想その2だ。
 ただし、中学校の部活動に限っていえば、今後のわが国は、中長期的にみて少子化になっていくから、学校が統廃合されるとともに、部活動も統廃合されていくだろうと思う。そして、学校単位での運営が難しくなって、広域の社会教育に移譲されていくことになるだろうと思う。つまり、放っておいても、いずれ部活動は学校から消えるだろうというのが私の予想その3だ。

この記事をはてなブックマークに追加

部活動無期限停止のことなど~体罰自殺事件~

2013-01-19 17:25:42 | 教育時評
 大阪市立高校体罰自殺事件の続きである。

 橋下大阪市長が、この高校の入試制度や教師の人事権に介入し、改善がなければ予算を執行しないという強行姿勢を打ち出している。
 こうした橋下市長の権力発動について、橋本市長のやっていることは、教師の暴力による権力行使と構造としては同じであり、結果として今回の体罰教師と同じことをやっているという論調がある。それはその通りである。やっていることは、暴力が介在していないだけで、同じ構造だ。
 私は、橋下市長の今回の権力発動に積極的に賛成はしないけど、否定的でもない。それは、今回の体罰自殺事件のようなエキセントリックな事件に対しては、エキセントリックな対応こそがふさわしいという論理にもとづく。橋本市長のような奇矯な政治家には、今回のような事件は、実に相応しいといえよう。
 それと、もうひとつ。これは、現場にいる者としてきちんと主張したいのであるが、今回は教育現場で尊い命が失われているのだ。これは、何にもまして重い事実だ。だから、当該高校の部活動の無期限停止は当然として、私は廃部もやむなしとまで思っている。なぜなら、あそこで行われていたのは教育活動ではなかったのだから。そういう活動をしていた組織は一度解体して、教育現場から排除すべきであると考えるのだ。これを突き詰めていくと、廃部にとどまらず、高校そのものを廃校にするという意見にも続くだろう。私は、廃校にするまではどうかなあとは思うけど、こうした意見は橋下市長のいう体育科の募集停止という措置にも通じていこう。であるから、私は、橋下市長の強行姿勢に積極的ではないけど、一応はうなずけるのだ。
 そういうわけで、今回、橋下市長のとっている権力介入について、教育関係者が批判的な論調を示していることについて、私は、おやっと思っている。

 今回の橋下市長の権力介入について、「入学を希望していた受験生がかわいそう」「通っている生徒に罪はない」という意見がある。それは、その通りであろう。受験生や在校生には罪はない。だから、生徒が不利益を被るのは、おかしいことだし、可哀そうなことであろう。それは、その通りである。けれど、そういうときこそ、教育者を含めた大人は、きちんと生徒に次のように諭すべきなのである。
 世の中に不条理というものは、つきものなのだ。今回、せっかく受験しようとしていた体育科が、あたかも大人の都合で募集停止になるというのは、不条理には違いない。けど、世の中というのは、そんな条理にあわないことが溢れているのだ。だから、今回は、そういうものの一つなんだよと、受験生には説明すればよい。あるいは、お前が希望していた高校は、あれは教育機関じゃねえ、入学前にわかって良かったと思え、バカ、と身も蓋もなく一喝して終わらしてもいい。
 バスケット部ほかすべての部活が無期限停止になってしまった、ということについてはどうか。部活動が高校生活の糧であった生徒も多いことだろう。まさしく、命懸けで部活に取り組んでいた生徒もいたことについては、現場の人間として理解している。そうした、生徒の生きる糧を奪っていることについて、どう説明するか。
 高校生活の部活動だけがすべてじゃあないのだと、大人は諭すべきだろう。バスケットやバレーが本当に好きなら、高校卒業した先でも続ければいいだけの話だ。この先も、大好きなバスケやバレーに命を懸けて熱中できる時間も場所もちゃんとあるから、安心しろ。それに、もし、生徒に才能や資質があるのであれば、高校卒業したって十分に開花できる。あわてることはない。
 それに、高校生活が部活動一色になってしまうのは、生徒の成長にはよくない。熱中するのはよいが、それが生活のすべてになっては弊害がでる。もっと、部活を相対的に考えるべきである。部活動だけが高校生活のすべてというのは、あまりに淋しいと考えよ。その分、勉強しろ。勉強しないのであれば、バイトしろ。あるいは、人生の愉しみの一つがなくなっただけと思え。部活がなくなった分、他の愉しみをみつければ、いいでないか。大人は、そうして生徒に諭すべきだ。
 私は、社会経験の豊富な大人が、生徒と一緒になって部活ができないのは可哀そうと言っているのをみるにつけ、どんどん視野狭窄をおこしているように思える。そうした部活動のとらえ方自体が、今回のいたましい事件につながっていると、どうして考えないのだろう。
 たかだか部活動ではないか。
 という、相対的な視点を教師も生徒も持つことができたのであれば、今回のような体罰自殺事件もおこらなかったのになあと、つくづく思う。

この記事をはてなブックマークに追加