憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

自閉症当事者の講演会に行く

2013-02-17 20:13:34 | 特別支援教育
 自閉症当事者の講演会に行く。
 果たして、自閉症者は人前で講演できるのかという関心からによる。
 当日は、インタビュアーと二人でインタビュー形式の講演だった。これは、適切な手法だった。それに、インタビュアーは当事者を知っている支援職の職員だったので、これもまた非常に適切であった。

 話は変わるが、以前に脳性まひ当事者二人によるトークセッションを聞きに行ったことがある。これは、なかなか衝撃的だった。私には、二人が何しゃべってんだかサッパリわからんかった。けど、二人のまわりには彼らをよく知っている介護職が数人いて、この二人の話にどっと笑ったりしていた。おそらくとても楽しいトークが展開されていたに違いないのだが、私には全然わからない。一般参加者は私くらいで、あとは、脳性まひ当事者や関係者という小規模の場で、なおかつ非常に和やかな雰囲気で会が進められていたがゆえに、私にとっては、あたかもアングラ劇団のブラックコントに紛れ込んだような心境にもなり、どうにも深く印象に残っているできごとであった。

 自閉症者の講演会の話に戻る。
 彼は、二十代の作家であり、評論家。昨年は、大手出版社から評論集も刊行した。けど、文筆業だけでは食べていけないから、IT関連会社でアルバイトをして生計を立てている。私は、彼の書籍やブログをフォローしているが、書いてあることからは自閉症者だなんてこれっぽっちもわからない。けど、今回、話している立ち振舞いをみて、そこそこの当事者とわかる。
 いわゆる高機能の自閉症者である。福祉関連のフォーラムなので、話の内容は、おのずと当事者としての生きにくさということに流れていった。
 そんな彼の話から、考えたことをいくつか。

 彼は、自分は自閉ではなく自開だという。そのために、苦しんだのだと。
 この意味がわかるだろうか。私なりに解釈すれば、これは、こういうことだ。
 彼の生きにくさの1つに、他者とのコミュニケーションの困難性があげられる。彼自身が言うには、頭の中ではいろんなことを考えているのだけど、言葉にしようとすると、口からは出てこない。アウトプットができない、と言う。だから、他者との会話に困難性が伴う。会話に困難性がともなうから、うまくコミュニケーションが築けない。他者からみれば、あいつはちょっと変わった奴とみられる。そうした、コミュニケーション能力の不全感に自分自身とても悩む。けど、その悩みは、こういうコミュニケーションの困難性を他者に晒しているからにほかならない。晒さなければ、悩むことはない。すなわち、自分が開いているからこその悩みなのだ。と、いうことだ。他者に自分を晒しているからこそ、自分は傷つき、悩む。自分が閉じていれば、悩むこともないだろう。だから、自分は自閉ではなく、自開だという。彼の発言を解釈すれば、こんな感じである。
 この発言は理解できる。しかし、私は職業柄、彼とは異なる自閉症者に多く接している。彼らはまさしく自分の世界の住人であり、自ら閉じている人々である。つまり、まさしく自閉症者なのだ。
 では、こうした自閉症者と彼の「自分は自閉ではなく自開だ」という発言との違いをどうとらえよう。
 私は、これは自閉症の診断が広がったせいだと考える。彼のような、いわゆる高機能の自閉症者と呼ばれる診断がされるようになったのは、ここ十数年のことだ。それまでは、彼のようなコミュニケーションに困難性をともなう人々を診断する症名はなかったのだ。世間では、ちょっとおかしな奴という認識だった(今でも、それはそうだろう)。けど、ここ十数年の間に、彼らは高機能自閉症と診断がされるようになった。そこで、自閉症の概念がグーンと広まったのだと思う。そうしたなかでの、高機能自閉症当事者の「自分は自閉ではない」という発言になっているのだろう。
 そう考えると、今後は自閉症の診断概念の精査が求められているのだろうと思う。彼のようなコミュニケーションに困難性をともなう当事者には、高機能自閉症ではなく、別の症名をつけるのが妥当であろう。広汎性発達障害では広すぎるだろう。最近では、ASD(自閉症スペクトラム障害)といった用法が広まっているが、例えばそうした名称で、従来のいわゆる自閉症と区別したほうがいいだろうと思った。

 もう一つ。彼の発言のなかで、会話や作文にルールが欲しい、というのがあった。自由というのが、もっとも困る、という。彼は、会話によるコミュニケーションの不全感を、書くことによって昇華することができた。自分を吐き出すアウトプットの方法として、書くことを選び成功しつつある。そんな彼でも、自由に書くのは難しい、何か型が欲しいと言う。
 これも、自閉症に関係する話題としては、何度も提出されてはきているが、重要なものだろう。
 教育の場では、そうした自閉症者の困難性を解消する方策として、構造化とか、可視化とか呼ばれる手法がある。
 もっと、直載な支援方法としては「型にはめる」というのもある。けど、これは、あまり教育的な用語ではないので、公的な場では使わない。けど、支援の場ではよく使う。自閉症者は「型にはめる」ことで、理解ができる。また、そうしたスキルを取得することで、社会で生きやすくなるということなのだ。ソーシャルスキルトレーニングもそうした発想だということがわかるし、今回の彼の発言から、自閉症者が何に困難性をもっているのかが、改めてわかった。

 さいごに。
 彼のような自閉症者当事者が、人前で講演をするような経験を積むことで、自らの困難性が解消されていくのは、支援職に従事している私の立場からすれば、とても好ましいこととは思った。しかし、その一方で、一読者として思うのは、彼が作家として生きていきたいのであれば、自分の素の姿は読者の前に晒さないほうがいいのではないかとも思い、そんな矛盾した思いを持ってしまった講演会でありました。