前々回、前回に引き続いて、今回も国歌起立斉唱の話題である。
今回は、私が、国旗国歌なんてのは、そういう感じでいいじゃない、と思ったエピソードを2つ紹介。
1つ目。私が当時勤務していた普通中学校には肢体不自由学級があった。その年、車いすの男子生徒が卒業を迎えることになり、証書授与をどうするかということが職員会議の議題にあがった。提案としては、車いす用のスロープをステージに設置することは難しいので、教師3人で車いすごとその生徒をステージ上に持ち上げて証書授与をさせたいというものだった。その提案が出されたとき、校長が、「じゃあ、俺が、ステージから降りるか」と意見した。私は、そのあまりにも気取りのない物言いに、感動をしてしまった。この校長、すごいことをさらっと言うなあ、という感じだ。学校現場で、校長が自らこういう意見をさらっと言うのは、なかなかできないことだと思う。
で、会議では、この生徒も他の生徒と同じようにステージ上で証書を受け取りたいだろう、という意見が賛同を集め、提案通りのやり方でいくこととし、校長がステージから降りるということにはならなかった。当日は、教師3人が、生徒を車いすごとステージに持ち上げ、生徒は車いすを担任に押してもらって演台の前まで行き、ただし証書は受け取れないので、校長に証書を演台で読み上げてもらった後、校長に演台を回ってもらって生徒に授与をするという形をとった。そして、そのあと、教師3人でステージから車いすごと降ろして、この生徒の証書授与は終わった。
このような授与の方式は、職員会議で校長を含め教師みんなで話し合って、こういう形になった。そこでは、ステージの国旗がどうとか、フロアで授与は認めるのか、といったことは一切話題にならず、その生徒が証書を受け取るよりよいやり方を教師みんなで話し合ったのだった。だから、校長みずから「じゃあ、俺が、ステージから降りるか」なんて言う意見が、さっと出てきたのだ。
国旗のステージ掲揚なんていうのは、そういうことでいいんだよなあと、その時つくづくと思ったのだった。
2つ目。これは、伝聞。なので、自分の目で確かめていないので、確信は持てないのだけど、わりといいエピソード。
特別支援学校には、先にあげた肢体不自由の生徒や、重度重複の生徒を対象としている学校がある。そこにももちろん卒業式があって、そこは当然ながらフロア形式をとっている。(ちなみに、私が現在勤務している知的の特別支援学校もそうである)。そして、式次第には国歌斉唱がある。
国歌斉唱では、教職員は起立をしなくてはいけない。これは、前々回から話題にしてきている通りだ。起立しないと処分の対象だ。
けど、考えてもみよ。卒業生は肢体不自由の生徒達なのである。そこで、「皆さん、ご起立下さい」などという、司会進行をすれば、それはバカである。だから、そんなことは言わない。
じゃあ、教職員が起立するのはどうだろう。起立ができない生徒の横で、教師は起立するか。これは、処分の対象とか、国際常識とか、そういうレベルのことじゃないのだ。つまり、起立したくてもできない子どもの横で、教師はどう判断するかが問われているのだ。
この場合、教師は起立をしなくても処分の対象にはならない。つまり、行政は肢体不自由の特別支援学校では、教師の国歌起立斉唱については不問としている。教師は起立をしなくてもいいのだ。
これが、常識というものだと思う。そして、国歌起立斉唱というのは、そういうことでいいんだ、と思う。
これを、今後、肢体不自由学校の教師にも国歌起立斉唱を徹底せよと行政が指導するのであれば、それはやはり教育現場としては非常識な指導だと思うし、国歌が流れたら、起立のできない子ども達の横で教師が一斉に起立する様子というのは、非常識を通り越してグロテスクであると思うのである。
今回は、私が、国旗国歌なんてのは、そういう感じでいいじゃない、と思ったエピソードを2つ紹介。
1つ目。私が当時勤務していた普通中学校には肢体不自由学級があった。その年、車いすの男子生徒が卒業を迎えることになり、証書授与をどうするかということが職員会議の議題にあがった。提案としては、車いす用のスロープをステージに設置することは難しいので、教師3人で車いすごとその生徒をステージ上に持ち上げて証書授与をさせたいというものだった。その提案が出されたとき、校長が、「じゃあ、俺が、ステージから降りるか」と意見した。私は、そのあまりにも気取りのない物言いに、感動をしてしまった。この校長、すごいことをさらっと言うなあ、という感じだ。学校現場で、校長が自らこういう意見をさらっと言うのは、なかなかできないことだと思う。
で、会議では、この生徒も他の生徒と同じようにステージ上で証書を受け取りたいだろう、という意見が賛同を集め、提案通りのやり方でいくこととし、校長がステージから降りるということにはならなかった。当日は、教師3人が、生徒を車いすごとステージに持ち上げ、生徒は車いすを担任に押してもらって演台の前まで行き、ただし証書は受け取れないので、校長に証書を演台で読み上げてもらった後、校長に演台を回ってもらって生徒に授与をするという形をとった。そして、そのあと、教師3人でステージから車いすごと降ろして、この生徒の証書授与は終わった。
このような授与の方式は、職員会議で校長を含め教師みんなで話し合って、こういう形になった。そこでは、ステージの国旗がどうとか、フロアで授与は認めるのか、といったことは一切話題にならず、その生徒が証書を受け取るよりよいやり方を教師みんなで話し合ったのだった。だから、校長みずから「じゃあ、俺が、ステージから降りるか」なんて言う意見が、さっと出てきたのだ。
国旗のステージ掲揚なんていうのは、そういうことでいいんだよなあと、その時つくづくと思ったのだった。
2つ目。これは、伝聞。なので、自分の目で確かめていないので、確信は持てないのだけど、わりといいエピソード。
特別支援学校には、先にあげた肢体不自由の生徒や、重度重複の生徒を対象としている学校がある。そこにももちろん卒業式があって、そこは当然ながらフロア形式をとっている。(ちなみに、私が現在勤務している知的の特別支援学校もそうである)。そして、式次第には国歌斉唱がある。
国歌斉唱では、教職員は起立をしなくてはいけない。これは、前々回から話題にしてきている通りだ。起立しないと処分の対象だ。
けど、考えてもみよ。卒業生は肢体不自由の生徒達なのである。そこで、「皆さん、ご起立下さい」などという、司会進行をすれば、それはバカである。だから、そんなことは言わない。
じゃあ、教職員が起立するのはどうだろう。起立ができない生徒の横で、教師は起立するか。これは、処分の対象とか、国際常識とか、そういうレベルのことじゃないのだ。つまり、起立したくてもできない子どもの横で、教師はどう判断するかが問われているのだ。
この場合、教師は起立をしなくても処分の対象にはならない。つまり、行政は肢体不自由の特別支援学校では、教師の国歌起立斉唱については不問としている。教師は起立をしなくてもいいのだ。
これが、常識というものだと思う。そして、国歌起立斉唱というのは、そういうことでいいんだ、と思う。
これを、今後、肢体不自由学校の教師にも国歌起立斉唱を徹底せよと行政が指導するのであれば、それはやはり教育現場としては非常識な指導だと思うし、国歌が流れたら、起立のできない子ども達の横で教師が一斉に起立する様子というのは、非常識を通り越してグロテスクであると思うのである。