憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

君が代斉唱起立条例について~その3

2011-06-26 19:56:47 | 生徒指導論
 前々回、前回に引き続いて、今回も国歌起立斉唱の話題である。
 今回は、私が、国旗国歌なんてのは、そういう感じでいいじゃない、と思ったエピソードを2つ紹介。
 1つ目。私が当時勤務していた普通中学校には肢体不自由学級があった。その年、車いすの男子生徒が卒業を迎えることになり、証書授与をどうするかということが職員会議の議題にあがった。提案としては、車いす用のスロープをステージに設置することは難しいので、教師3人で車いすごとその生徒をステージ上に持ち上げて証書授与をさせたいというものだった。その提案が出されたとき、校長が、「じゃあ、俺が、ステージから降りるか」と意見した。私は、そのあまりにも気取りのない物言いに、感動をしてしまった。この校長、すごいことをさらっと言うなあ、という感じだ。学校現場で、校長が自らこういう意見をさらっと言うのは、なかなかできないことだと思う。
 で、会議では、この生徒も他の生徒と同じようにステージ上で証書を受け取りたいだろう、という意見が賛同を集め、提案通りのやり方でいくこととし、校長がステージから降りるということにはならなかった。当日は、教師3人が、生徒を車いすごとステージに持ち上げ、生徒は車いすを担任に押してもらって演台の前まで行き、ただし証書は受け取れないので、校長に証書を演台で読み上げてもらった後、校長に演台を回ってもらって生徒に授与をするという形をとった。そして、そのあと、教師3人でステージから車いすごと降ろして、この生徒の証書授与は終わった。
 このような授与の方式は、職員会議で校長を含め教師みんなで話し合って、こういう形になった。そこでは、ステージの国旗がどうとか、フロアで授与は認めるのか、といったことは一切話題にならず、その生徒が証書を受け取るよりよいやり方を教師みんなで話し合ったのだった。だから、校長みずから「じゃあ、俺が、ステージから降りるか」なんて言う意見が、さっと出てきたのだ。
 国旗のステージ掲揚なんていうのは、そういうことでいいんだよなあと、その時つくづくと思ったのだった。

 2つ目。これは、伝聞。なので、自分の目で確かめていないので、確信は持てないのだけど、わりといいエピソード。
 特別支援学校には、先にあげた肢体不自由の生徒や、重度重複の生徒を対象としている学校がある。そこにももちろん卒業式があって、そこは当然ながらフロア形式をとっている。(ちなみに、私が現在勤務している知的の特別支援学校もそうである)。そして、式次第には国歌斉唱がある。
 国歌斉唱では、教職員は起立をしなくてはいけない。これは、前々回から話題にしてきている通りだ。起立しないと処分の対象だ。
 けど、考えてもみよ。卒業生は肢体不自由の生徒達なのである。そこで、「皆さん、ご起立下さい」などという、司会進行をすれば、それはバカである。だから、そんなことは言わない。
 じゃあ、教職員が起立するのはどうだろう。起立ができない生徒の横で、教師は起立するか。これは、処分の対象とか、国際常識とか、そういうレベルのことじゃないのだ。つまり、起立したくてもできない子どもの横で、教師はどう判断するかが問われているのだ。
 この場合、教師は起立をしなくても処分の対象にはならない。つまり、行政は肢体不自由の特別支援学校では、教師の国歌起立斉唱については不問としている。教師は起立をしなくてもいいのだ。
 これが、常識というものだと思う。そして、国歌起立斉唱というのは、そういうことでいいんだ、と思う。
 これを、今後、肢体不自由学校の教師にも国歌起立斉唱を徹底せよと行政が指導するのであれば、それはやはり教育現場としては非常識な指導だと思うし、国歌が流れたら、起立のできない子ども達の横で教師が一斉に起立する様子というのは、非常識を通り越してグロテスクであると思うのである。

君が代斉唱起立条例について~その2

2011-06-19 11:27:11 | 教育時評
 前回の話の続きである。
 大阪府で、卒業式と入学式で教職員の国歌斉唱と起立を求める条例が可決した話題であった。
 私は、卒業式入学式での国歌起立斉唱というのは、そこは、こだわるところじゃないだろうと思っている。そりゃ、国歌斉唱の時に起立しないのは、国際常識からみておかしなことには違いがないが、だからといって無理矢理立たすことでもないだろう。あいつは、国歌斉唱時に起立をしなかった非常識な奴である、という合意形成ができればそれでいいじゃないか。
 国旗国歌という国家の象徴に愛着を持たせるのは、何も国歌斉唱時に起立させることだけじゃないだろう。だから、卒業式の国家斉唱の起立にこだわるのは、行政側の戦略としてはよろしくないと思っている。そこにこだわっちゃうから、「押しつけ反対」といった組合運動が隆起して、教職員の結束が固くなったりして逆効果なのだ。
 確かに学校現場で、教職員組合が「君が代」に反対した歴史は事実であるが、現在の組合の組織率低下をみても、今後、組合の思想は学校現場では絶対に主流にはならないのであるから、行政が強い指導に乗り出す必要もないのである。
 強い指導が現場にやってくると、教職員側はそれに反発をして、骨抜きにかかる。卒業式は、そんなことの繰り返しなのだ。そして、それは滑稽ですらある。
 例えば、体育館に国旗を掲揚せよという強い指導がやってくる。ここでの強い指導というのは、掲揚したかどうかを報告させる義務がついてくる。そこで、組合側は、まずは断固反対し、対立し、それでもダメなら最終的には骨抜きにかかるという戦術をとる。どう骨抜きにかかるかというと、体育館の隅っこの目立たないところに国旗をポールで架けるということで、これで掲揚したということにしたわけである。数年前、行政は国旗の掲揚率がほぼ100%という発表をしたけど、そうやって骨抜きにして報告をした学校も多かったのである。
 で、行政側としては、それじゃあ掲揚とはいえないから、今度は体育館のステージ正面に国旗を掲揚せよというさらに強い指導を出す。すると、教職員側は、卒業証書授与式をステージでやらず、フロアに演台を降ろして、そこで授与をさせた。これをフロア形式という。あるいは、卒業生と在校生を対面させて、ステージ上の国旗に向かせないように生徒の配置を変えた。これを対面形式という。
 こういう風にして、行政からの指導がくれば、反対し、対立し、無理なら骨抜きにするというのが、教職員側の戦術なのである。これは、国旗掲揚だけにとどまらず、国歌起立斉唱を含めてこうした卒業式をめぐる行政と教職員の対立については、膨大な対立の蓄積がある。これが、わが国の卒業式の歴史なのだ。行政が、指導に従わない教職員に対し処分をチラつかせると、教職員はその指導を骨抜きにかかる。こんなことの繰り返しがわが国の卒業式をめぐる、国旗国歌に関する歴史なのである。こうした行政側と教職員側の双方の膨大な労力に対し、私はやはり滑稽だと思う。
 だから、今回、大阪府が条例を作って教職員を締めつけようとしても、また、骨抜きにしていくであろうとことは、想像に難くない。
 こうした対立に互いの労力を費やすのは不毛だろう。例えば、国歌斉唱時に起立をしなかった教職員を職務命令に反したとして処分の対象にするというのは、滑稽を通り越してクレージーな感じさえ私にはする。けれど、それがわが国の卒業式をめぐる対立の歴史の帰結なのだ。そして、行政が強い指導をすれば、今後も、対立、骨抜きが繰り返されるだろう。こうした不毛な対立を繰り返す、その根源というのは、私は、やっぱり卒業式での国歌起立斉唱や国旗掲揚といった、数々のこだわりだと思っている。
 国旗国歌に対してこだわるのは、そこじゃないだろう。もっと、別のところにあるだろう、というのが、現場にいる私の主張である。

君が代斉唱起立条例にについて

2011-06-12 21:38:35 | 教育時評
 大阪府で教職員の国歌斉唱起立を求める条例が成立した。
 これによって、大阪府の公立学校では、卒業式・入学式での「君が代」斉唱のときに、教職員の起立を条例によって義務づけたわけである。
 ちなみに、現在すでに、国歌斉唱のとき起立しなかった教職員というのは、日本全国、原則として処分の対象になっているから、今回の大阪府の条例は、そうした処分にお墨付きを与えるというものととらえてよかろう。
 この条例については、憲法で保障されている思想信条の自由に反するとか、条例までつくって教職員を縛り付けなくてもいいではないかという意見が出されている。しかし、そうした意見は少数だろう。やはり趨勢は、教育公務員のくせに、そんな条例が出されるまで反権力を気取るな、というところではないか。
 つまり、残念ながら、憲法違反だろうが何だろうが、国歌斉唱のときに起立しないのは国際人として非常識もはなはだしく、そんなのが教職員であればなおさらで、そうであるなら処分されても当然であるというのが、現在の多数の意見なのであろう。
 このような意見については、私も、仕方あるまいと考える。
 ただし、こうした条例が成立する背景については、今後はしっかり議論した方がよいと思う。
 つまり、こういう条例は何も、教職員の服務をきちんとさせるためだけではないということである。こういう条例が成立するというのは、今後も学校現場にこうした強制性を求めていくということなのだ。ここで言う強制性というのは、何も教職員に対してではなく子どもに対しても同様だ。
 現在の学校現場が、管理主義的かそうではないかは、思想的な背景によって意見が分かれるところであろうが、いずれにせよ、学校現場は今後一層、管理主義的な方向にシフトしていくということだ。こういう背景について、一般世論がどこまで認識しているのかはわからない。しかし、今回条例を推進した大阪維新の会は、学校現場に強制性を含む管理主義的な教育を求めているということは間違いがなく、そうした教育行政の一つとして、今回の教職員への君が代起立条例推進があるとみるべきであろう。
 今回成立した条例は、見方によってはかなりクレージーな側面を持っているとも思うけど、そうしたクレージーさも目立たないくらい、今後学校現場はより管理主義的な方向へシフトしていくのだろうと思う。


うつのつぶやき

2011-06-05 21:25:50 | フラグメンツ(学校の風景)
 菅直人首相が辞意を表明しながら、まだ首相に居座ろうとしたことは、私には意外だった。
 ひとたび辞めると宣言すれば、糸がプッツリと切れたようにやる気を無くすものだと思っていたし、そのうえ、ここ最近の1年ほどで辞めてしまうわが国の歴代総理の醜態をみてもそうだと思っていた。だから、一両日中にでも政権を投げ出すだろうと予想していた。
 しかし、違った。菅氏は、辞めると言いながら、なお総理の座に居座ろうとしている。この強靱な精神力というか、執着心というのは、それはそれで立派なものだろうと思う。ただし、だからといって菅氏がそのまま首相に居座るのは、わが国の国益には何も良いことがないので、早く辞めた方がいいだろうとは思うけれども。

 菅首相は一部報道にもある通り、うつ的な病状を患っているのは、氏の言行を知る限りその通りだろう。私が興味を覚えるのは、そんな心の病になっているのにもかかわらず、いまだ総理の座に執着したがるということだ。投げ出した方が楽になるのに、どうして執着するのだろうか。
 うつ的な症状の典型として、「決断ができない」ということと、「見通しを持てない」というものがある。簡単な仕事でもダラダラして片づけられなかったり、些細なことにクヨクヨして長期的な展望を持てなかったりするという症状だ。
 菅氏も心の病を患っているのであれば、当然そういう症状はでているハズである。しかし、一国のリーダーである以上、常に「決断をする」「見通しを持つ」場に身を置いているのに、どうやって症状をやり過ごしているのか、私のような一般人にとって、そこが謎である。
 もしかしたら、総理の座に対する執着心が高じてしまっているから、辞めるという決断ができないでいるということなのか。あるいは、長期的な展望が持てずにいるから、現状維持を求めて、ただ一日をやり過ごしているということなのか。もし、そうであるならば、菅氏は総理に居座り続ける限り、病状は悪化し続けると思うのだが、どうなのだろう。

 私も職業柄、これまでにうつ的な同僚を何人も見てきた。
 ある同僚は、学級が崩壊の最中に、「○○が、××の態度をとっているのは、△△の理由なんだな」とか「私に対して、あのように言ってきたということは、つまりは、こういう気持ちなんだな」とか、しきりに生徒の分析を職員室で誰に話すことなく、ただブツブツとつぶやいていた。
 つまり、些細な出来事に彼の精神がはまりこんでしまっていたのだ。そして、分析することで、学級経営上の隘路から脱しようともがいていたわけだ。しかし、分析をしたところで、教師がアクションを起さなければ意味がない。それはそうなのだが、うつ的な病状がでてきているから、自己決定をして行動に移すことができないのだった。だから、彼は、結局のところ職員室で、ずーっとつぶやき続けるということになってしまっていた。
 あのつぶやきは、自分の気持ちが折れまいとする悲しいまでの振る舞いには違いないのだけど、ハタで見て、やはり、その姿は病的だった。
 私は、彼の痛ましい姿を見てから、生徒の分析はしたところで、行動に移さないことには意味がないという、当たり前のことを確認した。そして、気持ちがしんどいときには、行動に移すことは難しいということも確認し、であるなら、そういう時は、できるだけ生徒の分析はやめようと思った。
 ただ、教師である以上、そうした意味のない分析をついついしてしまうことがある。そういう時、私は、あの同僚を思い出す。そして、私自身、気持ちが疲れていないかどうか、生徒ではなく自己の分析を誰に話すこともなくブツブツとつぶやくのだった。