憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

堀裕嗣『一斉授業10の原理100の原則』(学事出版、2012年)を読む

2012-10-28 16:43:02 | 教育書レビュー
 教師の授業力を上げるいちばんシンプルな方法。それは、向山洋一氏のこの提案だ。
「教科書を開いて、見開き2ページで百問を作る」(『授業の知的組み立て方』明治図書、1994年)

 私は、これが授業力アップの簡潔にしてわかりやすい方法だと思っている。
 教科書の見開き2ページというのは、1時間の授業で扱う内容ということだ。教師が1時間の授業をつくるにはどうするか。それには、教科書から100の発問を作れという。
 教材研究をしろというのではなく、指導案を書けというのではなく、はたまた先行実践にあたれというのではなく、必要なのは教科書だけでいい。とにかく、集中力にモノをいわせてエイヤッと100問つくっちまえば、それで力はつくといっているのだ。アタマに汗をかかせるようなわかりやすい努力を求めているということもいえよう。
 こうやって言ってしまうと、ずいぶんと乱暴な提案のようにもみえるが、そんなことはない。向山は何も100問つくることが目的であるとは主張していないのだ。そこを読み間違えてはいけない。そうではなく、要は何を向山は言っているかというと、「テキストを読め」と言っているのである。この主張が、「見開き2ページで100問」の真の意味なのだ。
 すなわち、1時間の授業をつくるのであれば、まずは、教科書に何が書いてあるのかを、授業者は理解せよ、それが授業づくりの王道だ、ということ。けど、それを言ってもピンとこないから、発問を100コつくれと言ったわけである。さすがである。
 私も、授業づくりの出発は、いかに授業者がテキストを理解するかだろうと思う。だから、向山氏のこの提案は本質的な議論たり得ると思うのである。

 堀裕嗣『一斉授業10の原理100の原則』(学事出版、2012年)を読む。堀氏は、向山氏のような乱暴な物言いはしない。向山氏よりも、読者の知的水準が高いことを期待している分だけ、紳士的であるといえようか。
 ここに書かれてある10の原理はレベルが高い。読者が自分で考えなくてはいけない内容である。何も考えずにエイヤッと実践はできない。「授業とは何か」「指導とは何か」「教育内容とは何か」を自分の頭で考えないと、この10の原理に書かれてあることは理解ができない。
 ただし、後半の100の原則の方は、スキルの部分であるので、さほどアタマを使わずに実践しても身につくだろうと思われた。

 10原理の1つ「ブリーフィングマネジメントの原理」。ここで、氏は教師の指導言を「発問」「指示」「説明」の3つに分ける。そして、この3つで最も大切なのを「説明」であるとし、「説明」こそ授業の「重要な<ブリーフィング>なのです」と位置づけている。
 この位置づけ自体については、議論することでもない。授業の原理の1つを「ブリーフィングマネジメント」であると主張するのであれば、おのずと「説明」が「発問」「指示」よりも重要になるのは当たり前だからである。
 議論すべきは、この前段、すなわち指導言のなかで「説明」が「発問」よりも大切であるという主張である。これは、これまでの指導言の議論とは異にする主張である。つまり、これまでは「発問」が授業のなかでは大切であり、だれもがそう主張していた。しかし、氏は、それに異を唱える。「発問」ではなく「説明」が大切なのだと主張するのである。だから原理の1つに「ブリーフィングマネジメント」を持ち出しているのだ。この主張については、今後、議論の余地がある部分と思った。
 ただ、私見を述べるなら、私はこの氏の主張を首肯しない。やはりこれまでの授業論で展開されていたように、「発問」が授業づくりでは核なのだ。「説明」より「発問」の方が授業では断然重要だ。
 どんな「発問」が授業づくりでは有効なのか、それを教師は考えることだ。考えるのがキツければ、エイヤッと100問づくりにチャレンジすればいい。そのうちに、発問の有効性が体得できるであろう。 
 なぜ、「説明」よりも「発問」の方が重要と考えるのか。それは、「発問」はそれだけをもって十分に授業研究の対象になるのだが、「説明」は教師のスキルにすぎないからである。

 もう一つ10原理のなかから。「パーソナライズの原理」。これは、10原理の1つに位置づけているが、氏の授業づくりのなかでは最も根幹となっているものと読んだ。
 この原理は、私の解釈でいえば、「書かせる」ことが、子どもの学力形成には最も重要なのだということ。
 子どもに「書かせる」。氏は明言していないが、氏はこれを子どもの学力形成の根幹に据えている、と私は思う。
 それだけ、ここの論述は強い説得力があり、実践の蓄積も深い。やはり、「書かせる」ことを重要視しているというのは、まさしく中学国語教師の発想なのであろう。同じく人文系の社会科にも、こうした発想に親和性が感じられようが、数学や理科や英語はどうだろう。おそらく、理科や数学では、この原理の活用は難しいのではないか。というか、それは理科や数学の授業づくりの原理とはならないのではないだろうか。
 そういう意味では、この原理の汎用性はうすいと感じた。
 
 ともかくも、一斉授業というバカでかい研究領域を1冊にまとめてしまうのであるから、これは随分と挑戦的な書であるということもできよう。それだけに、これまでの氏の10原理100原則シリーズにはない、独自性、提案性の高いものとなっている。

堀裕嗣『一斉授業10の原理100の原則』(学事出版、2012年)


雑誌原稿の思い出

2012-10-21 20:22:03 | 特別支援教育
 私が、はじめて教育専門誌に自分の文章が載ったのは、新卒のとき。1996年のことである。
 あの頃は、近現代史教育の分野で論争が起っていた時期で、そうした関係の雑誌に載った。ほかにも、この年は、明治図書『現代教育科学』や『産経新聞』に文章が掲載されたりした。今にして思うと、全国紙である『産経新聞』に掲載されたのだから、なんとまあ凄いことだけれど、当時の私は現場の仕事がとっちらかっていたから、たいした感慨はなかった。慌ただしい日々を過ごしていた。

 教育雑誌の原稿依頼ではじめて緊張したのは、学級経営についての依頼がきたとき。依頼を受けるかどうか、ちょっと考えた。今は廃刊になっている明治図書『心を育てる学級経営』という雑誌からだった。社会科教育なら、教育内容の面でいくらでも好きなことを書けるのだけれど、学級経営はそれなりの実践が伴わないと書くことはできない。教員5年目くらいのときだったと思うけど、おそるおそる書いた。学級経営で提案するほどのことは何もやっていないから、ただの拙い実践報告の作文だった。掲載されて、嬉しいどころか、恥ずかしい、という感じ。
 それでも、学級経営や生徒指導については、この後も数本の依頼がきた。だんだん慣れてきたというか、厚かましくなってきたというか、気楽に書けるようになった。

 別に私は売れっ子のライターじゃないから、雑誌原稿はこれまでで20本程度。平均して1年に1本という感じ。
 これも今は廃刊になった明治図書の『現代教育科学』では、年に1回愛国心教育がらみの特集を企画していて、そういうときに私に原稿依頼がきた。掲載された雑誌をみると、執筆者は、研究者と現場の教師が半分くらい。読めば基本文献をおさえているかどうかで、研究者と現場教師の差は歴然としていた。研究者はすべて、清水幾太郎『愛国心』(岩波新書、1950年)をちゃんとおさえて議論していた。
 愛国心教育を肯定するにしろ否定するにしろ、とにかく清水を踏まえて論じなければ、愛国心教育の議論は進まないのである。もちろん掲載された各執筆者の論文のなかに清水の名があろうとなかろうと、私のような人間が読めば、そいつが清水を知っているかどうかはわかった。研究者はすべて、清水を押さえた上で、論を展開していたし、現場の教師は清水を読まずに愛国心教育を語っていた。
 世の中に社会科教育や歴史教育を専門と名乗る研究者はいても、愛国心教育が専門なんていうそんな偏狭な研究者はいない。にもかかわらず、ちゃんと議論に必要な基本文献を押さえている。という点が、研究者と実践者の違いなんだなと思った。
 ちなみに私が、こんな風な感想を持つことができるのは、私が愛国心教育について、研究者並に勉強して議論ができる程度にわかっているからである。
 これが、社会科教師だった私の、今に残された唯一の自慢である。えへん。

 さて、特別支援学校に移ってからは、『社会科教育』も『現代教育科学』も読まなくなった。『現代教育科学』が廃刊になったことは、ツイッターで知った。
 雑誌原稿の依頼もここ2年ばかりは途切れていた。
 けど、今年、久しぶりに依頼がきた。明治図書『授業力&学級統率力』誌。特別支援教育枠での依頼である。私は、申し訳ないがこの雑誌の存在は知らなかった。けど、この雑誌は、私が特別支援学校にいることを知っていた。これが、どうにも可笑しかった。
 はじめての特別支援についての雑誌原稿。と、いったところで何か感慨に浸る歳でもない。書いて送って、過日雑誌が献本された。
 開くと、私が普通中学校の往時より存じ上げているお名前がいくつか。もちろん、その当時からライターとして活躍されていた方々。今現在、まだまだ雑誌媒体で活躍していらっしゃるのだった。ちょっと懐かしい気持ちになった。

 『授業力&学級統率力』11月号:特集「保護者が納得!通知表の言葉100選」(明治図書) 

田中真紀子の文部行政

2012-10-13 16:59:29 | 教育時評
 田中真紀子が文部科学省の大臣になった。
 年内に解散がなかったとしても、来年の夏には総選挙があろうから、1年足らずの任期のなかで、一体何ができるのかとも思うが、一方で、短期政権とわかっているからこそ、何するかわからんという気もしている。
 田中真紀子がこれまで文部行政でやらかしたことといえば、15年ほど前に教員免許取得に対して、7日間のボランティア(介護等の体験という)を義務づけたことである。これは、予算の計上が必要とされなかったこともあったためと考えるが、すんなり法案が通ってしまって、当時の私は、そんなものが制度化されたことすら知らなかった。
 これが田中真紀子の采配と知ったのは、特別支援学校に勤務するようになってから。毎年、特別支援学校には、教員免許を取得するための学生が2日間やってきているのだ。ボランティアといっても義務化であるので、意識の低い学生が少なからずいる。受け入れるこちらも義務であるので、教育実習とは違ってお客さんの扱いである。もちろん、受け入れに際しての業務はある。大学側も業務はある。困った学生に対して、大学側と現場側の双方に軋轢も生じる。軋轢が生じても、大学と特別支援学校には利害関係は何ら生まれないので、軋轢だけが残る。
 そういうわけで、現場にいるものとして、この介護等体験制度は、あまり意義のある制度には思えない。廃止しても、誰も困らない。
 私としては、田中真紀子の文部行政というのは、こうした印象である。やはり、政治家が何かやろうと思ったら、何かしらの予算をつけんと、たいしたことはできないし、現場がとばっちりを食うということなのだろう。
 今回、田中真紀子は文部大臣になったとしても、末期といっても民主党政権には違いないので、彼女の保守的な教育思想が実現できる余地はないだろうと思う。けれど、短い任期とわかっているからこそ、何をしでかすかわからないということに、現場にいるものとしては一抹の不安を覚えるのである。

カツカレーと教育

2012-10-06 20:44:54 | 教育時評
 旧聞になるが、自民党総裁選のとき安倍晋三氏が3500円のカツカレーを食べて、その値段が庶民感覚とかけはなれていると、ちょっとした話題になった。
 たしかに3500円は、庶民の食うカツカレーの値段じゃあないだろう。だから、庶民感覚とかけ離れているという指摘も正しかろう。けれど、そのことで安倍晋三をバッシングの対象にしたがる庶民というのは、いったい自分たちがどれだけ「さもしい」のか、わかっているのだろうか。
 おそらくは、そんな「さもしさ」も気にしないまま、庶民は3500円のカツカレーを食う安倍晋三にネガティブな感情を持ったのだろう。
 私は、こうした庶民の為政者に対する「さもしさ」感情の醸成というのは、ここ20年くらいのものではないかと思っている。
 20年前のバブル期、あの狂乱の時期の為政者が3500円でも1万円でもなんでもいいが、そんなカツカレーを食ったとしてもバッシングはおろか話題にもならんかったろう。私はバブル期がわが国にとって良い時期だったというつもりはさらさらないが、少なくとも、今のような「さもしい」感覚からほど遠かったであろうことについてならば、国民感情としては今よりマシだったと思う。
 3500円のカツカレーを食う為政者に対して、不景気で低収入の庶民の生活とかけ離れている、とバッシングするよりも、そういう俺たちにも3500円のカツカレーが食えるように景気をよくしろ、という主張の方が、よっぽど健全だと思う。もし、そんな成長神話なんてとっくに信じられないというくらいに、わが国は成熟したというのであれば、そんな成熟なんて、国民感情という感情のレベルでいえば、健全ではなかろうと反論しよう。
 さて、教育現場である。
 教師が、為政者が3500円のカツカレーを食うことについて、学級の子ども達に、どう伝えよう。
「私たちが普段食べることのできない3500円のカツカレーを政治家は普通に食べるんだから、日本という国はおかしいよね」とネガティブに伝えるか。
 それとも、「3500円のカツカレーって、すげえよな。普通の生活じゃあ食べられないよな。みんなも、そんなカツカレーが食えるような大人になるために、がんばれよ」と伝えるか。
 こういうのって、実は、教師の教育観の根幹にかかわることでもあって、教師の皆さんは自問するのも結構面白いと思うよ。