今回は,「個に応じた指導」から教育現場の矛盾について考えてみよう。この「個に応じた指導」という言葉。現場では,もうすっかりなじみの言葉だ。浸透して,10年くらいになるだろうか。
今日の学校現場では,個に応じるというのが当然のように,教科指導をし生徒指導をしている。
ただ,学校現場は,今日までのところはっきりとした成果を求められてはいなかったから,教師は「個に応じた指導」を心がけるというか,努力するというか,頑張るというか,そういう程度ですんでいた。
しかし,学校現場も成果主義の波がやってきた。今後は,「個に応じた指導」がどれだけ子どもの学力形成に寄与したか,その成果を求められるようになるかもしれない。そうなったら,それはそれで実に面白いことになるなあと思う。
なぜならば,現場で指導の成果を求めるのは,到底無理な話であるからだ。
無理だという理由はこうだ。
とりあえず,学習指導がわかりやすいから,それを例にあげてみよう。
数学でも英語でも社会科でも何でもいいのだが,「個に応じた指導」としようとする。学習指導の場合,子どもがその学習内容を理解するというのが,学校教育の目的だ。だから,教師はすべての子どもが理解できるように学習指導をする。
けれど,それが欺瞞であるというのは,日々,教壇に立っている教師はみんな知っている。つまり,どの子も等しく教育内容を理解できるなんて思っちゃいないのだ。キレイごとというか,夢物語というか,そういう感じだ。それは,「個に応じた指導」をしても当然だ。学習内容を理解できるかどうかで,まずは能力差がでる。そのうえ,たとえ理解できたとしても,多くの学習は反復を必要とする。数学の計算問題しかり,英語の単語暗記しかり,漢字の学習しかり。この反復で確実に子どもの能力差は顕著になる。
しかし,教師は,子どもには能力差があるとは絶対に言わない。それは,教師の力量にかかわるからだ。せいぜい,家庭での学習時間が少ないですよとか,努力が足りませんよというところまでである。これも,言い方を上手にしないと,教師の力量がないから子どもが理解できないのだなどとなってしまう。
しかし,確実に言えるとことは,どんなにスーパー教師でも,学級のすべての子どもに学習内容を完璧に理解させ,習得させることなどはできないということである。どだい努力もしないで,学力が向上するわけがない。学習するのは,子どものほうだ。子どもに能力がなければ,教師がどんなにスーパーであっても無理に決まっていよう。ただ,そうはいっても教師はそれでいいとは思ってはいない。少しでも,子どもが理解できるようにあれこれ授業を工夫したりしている。それが一般的な教師の姿である。
だから,教育なんていうのは,そもそも成果主義になじまないのだ。にもかかわらず,教育の現場でも成果主義が導入されるようになるわけであるが,いったいどんな風になるのだろう。私としては,導入によって,今まで主張したような教育現場の矛盾があらわになるのであれば,それはそれでいいと思っている。
さて,特別支援教育である。
ここでは,ほぼ100%「個に応じた指導」が実現されている。
ここでの「個に応じた」というのは,イコール「個の能力に応じた」ということである。
特別支援教育というのは,障害を持った子どもの教育である。障害の度合いによって,その子どもの能力はさまざまになる。であるから,その能力に見合った教育を施すというのが,特別支援教育ということになる。だから,そこでは,「個に応じた指導」をとっていくということになる。
特別支援教育では,「個別の指導計画」というのを作成する。これは,子ども一人ひとりの能力にあった,指導の計画ということだ。であるから,一人ひとりその計画の中身は違ってくる。
まさに,「個に応じた指導」ということになる。
さて,通常学級を考えてみよう。通常学級では,子ども能力は等しいというのが建前だ。だから,「個別の指導計画」なんていらない。学習指導要領がすべての子どもに共通の学習内容であり,教科書に書かれてある内容というのが,すべての健常の子どもが理解すべき内容ということだ。しかし,それは欺瞞であるというのは述べたとおりだ。
だからといって,子どもには能力差があるとは,教師としては絶対にいえない。これも,述べたとおりだ。
そうやって学校現場は,欺瞞を持ちつつ,建前を通しつつ教育活動をしている。
この先,成果主義が導入されることで,この矛盾があらわになるのであろうか,というのが私の現在の関心事である。
今日の学校現場では,個に応じるというのが当然のように,教科指導をし生徒指導をしている。
ただ,学校現場は,今日までのところはっきりとした成果を求められてはいなかったから,教師は「個に応じた指導」を心がけるというか,努力するというか,頑張るというか,そういう程度ですんでいた。
しかし,学校現場も成果主義の波がやってきた。今後は,「個に応じた指導」がどれだけ子どもの学力形成に寄与したか,その成果を求められるようになるかもしれない。そうなったら,それはそれで実に面白いことになるなあと思う。
なぜならば,現場で指導の成果を求めるのは,到底無理な話であるからだ。
無理だという理由はこうだ。
とりあえず,学習指導がわかりやすいから,それを例にあげてみよう。
数学でも英語でも社会科でも何でもいいのだが,「個に応じた指導」としようとする。学習指導の場合,子どもがその学習内容を理解するというのが,学校教育の目的だ。だから,教師はすべての子どもが理解できるように学習指導をする。
けれど,それが欺瞞であるというのは,日々,教壇に立っている教師はみんな知っている。つまり,どの子も等しく教育内容を理解できるなんて思っちゃいないのだ。キレイごとというか,夢物語というか,そういう感じだ。それは,「個に応じた指導」をしても当然だ。学習内容を理解できるかどうかで,まずは能力差がでる。そのうえ,たとえ理解できたとしても,多くの学習は反復を必要とする。数学の計算問題しかり,英語の単語暗記しかり,漢字の学習しかり。この反復で確実に子どもの能力差は顕著になる。
しかし,教師は,子どもには能力差があるとは絶対に言わない。それは,教師の力量にかかわるからだ。せいぜい,家庭での学習時間が少ないですよとか,努力が足りませんよというところまでである。これも,言い方を上手にしないと,教師の力量がないから子どもが理解できないのだなどとなってしまう。
しかし,確実に言えるとことは,どんなにスーパー教師でも,学級のすべての子どもに学習内容を完璧に理解させ,習得させることなどはできないということである。どだい努力もしないで,学力が向上するわけがない。学習するのは,子どものほうだ。子どもに能力がなければ,教師がどんなにスーパーであっても無理に決まっていよう。ただ,そうはいっても教師はそれでいいとは思ってはいない。少しでも,子どもが理解できるようにあれこれ授業を工夫したりしている。それが一般的な教師の姿である。
だから,教育なんていうのは,そもそも成果主義になじまないのだ。にもかかわらず,教育の現場でも成果主義が導入されるようになるわけであるが,いったいどんな風になるのだろう。私としては,導入によって,今まで主張したような教育現場の矛盾があらわになるのであれば,それはそれでいいと思っている。
さて,特別支援教育である。
ここでは,ほぼ100%「個に応じた指導」が実現されている。
ここでの「個に応じた」というのは,イコール「個の能力に応じた」ということである。
特別支援教育というのは,障害を持った子どもの教育である。障害の度合いによって,その子どもの能力はさまざまになる。であるから,その能力に見合った教育を施すというのが,特別支援教育ということになる。だから,そこでは,「個に応じた指導」をとっていくということになる。
特別支援教育では,「個別の指導計画」というのを作成する。これは,子ども一人ひとりの能力にあった,指導の計画ということだ。であるから,一人ひとりその計画の中身は違ってくる。
まさに,「個に応じた指導」ということになる。
さて,通常学級を考えてみよう。通常学級では,子ども能力は等しいというのが建前だ。だから,「個別の指導計画」なんていらない。学習指導要領がすべての子どもに共通の学習内容であり,教科書に書かれてある内容というのが,すべての健常の子どもが理解すべき内容ということだ。しかし,それは欺瞞であるというのは述べたとおりだ。
だからといって,子どもには能力差があるとは,教師としては絶対にいえない。これも,述べたとおりだ。
そうやって学校現場は,欺瞞を持ちつつ,建前を通しつつ教育活動をしている。
この先,成果主義が導入されることで,この矛盾があらわになるのであろうか,というのが私の現在の関心事である。