憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

「個に応じた指導」なんて無理な話だ

2007-06-29 22:31:49 | 特別支援教育
 今回は,「個に応じた指導」から教育現場の矛盾について考えてみよう。この「個に応じた指導」という言葉。現場では,もうすっかりなじみの言葉だ。浸透して,10年くらいになるだろうか。
 今日の学校現場では,個に応じるというのが当然のように,教科指導をし生徒指導をしている。
 ただ,学校現場は,今日までのところはっきりとした成果を求められてはいなかったから,教師は「個に応じた指導」を心がけるというか,努力するというか,頑張るというか,そういう程度ですんでいた。 
 しかし,学校現場も成果主義の波がやってきた。今後は,「個に応じた指導」がどれだけ子どもの学力形成に寄与したか,その成果を求められるようになるかもしれない。そうなったら,それはそれで実に面白いことになるなあと思う。
 なぜならば,現場で指導の成果を求めるのは,到底無理な話であるからだ。
 無理だという理由はこうだ。
 とりあえず,学習指導がわかりやすいから,それを例にあげてみよう。
 数学でも英語でも社会科でも何でもいいのだが,「個に応じた指導」としようとする。学習指導の場合,子どもがその学習内容を理解するというのが,学校教育の目的だ。だから,教師はすべての子どもが理解できるように学習指導をする。
 けれど,それが欺瞞であるというのは,日々,教壇に立っている教師はみんな知っている。つまり,どの子も等しく教育内容を理解できるなんて思っちゃいないのだ。キレイごとというか,夢物語というか,そういう感じだ。それは,「個に応じた指導」をしても当然だ。学習内容を理解できるかどうかで,まずは能力差がでる。そのうえ,たとえ理解できたとしても,多くの学習は反復を必要とする。数学の計算問題しかり,英語の単語暗記しかり,漢字の学習しかり。この反復で確実に子どもの能力差は顕著になる。
 しかし,教師は,子どもには能力差があるとは絶対に言わない。それは,教師の力量にかかわるからだ。せいぜい,家庭での学習時間が少ないですよとか,努力が足りませんよというところまでである。これも,言い方を上手にしないと,教師の力量がないから子どもが理解できないのだなどとなってしまう。
 しかし,確実に言えるとことは,どんなにスーパー教師でも,学級のすべての子どもに学習内容を完璧に理解させ,習得させることなどはできないということである。どだい努力もしないで,学力が向上するわけがない。学習するのは,子どものほうだ。子どもに能力がなければ,教師がどんなにスーパーであっても無理に決まっていよう。ただ,そうはいっても教師はそれでいいとは思ってはいない。少しでも,子どもが理解できるようにあれこれ授業を工夫したりしている。それが一般的な教師の姿である。
 だから,教育なんていうのは,そもそも成果主義になじまないのだ。にもかかわらず,教育の現場でも成果主義が導入されるようになるわけであるが,いったいどんな風になるのだろう。私としては,導入によって,今まで主張したような教育現場の矛盾があらわになるのであれば,それはそれでいいと思っている。
 さて,特別支援教育である。
 ここでは,ほぼ100%「個に応じた指導」が実現されている。
 ここでの「個に応じた」というのは,イコール「個の能力に応じた」ということである。
 特別支援教育というのは,障害を持った子どもの教育である。障害の度合いによって,その子どもの能力はさまざまになる。であるから,その能力に見合った教育を施すというのが,特別支援教育ということになる。だから,そこでは,「個に応じた指導」をとっていくということになる。
 特別支援教育では,「個別の指導計画」というのを作成する。これは,子ども一人ひとりの能力にあった,指導の計画ということだ。であるから,一人ひとりその計画の中身は違ってくる。
 まさに,「個に応じた指導」ということになる。
 さて,通常学級を考えてみよう。通常学級では,子ども能力は等しいというのが建前だ。だから,「個別の指導計画」なんていらない。学習指導要領がすべての子どもに共通の学習内容であり,教科書に書かれてある内容というのが,すべての健常の子どもが理解すべき内容ということだ。しかし,それは欺瞞であるというのは述べたとおりだ。
 だからといって,子どもには能力差があるとは,教師としては絶対にいえない。これも,述べたとおりだ。
 そうやって学校現場は,欺瞞を持ちつつ,建前を通しつつ教育活動をしている。
 この先,成果主義が導入されることで,この矛盾があらわになるのであろうか,というのが私の現在の関心事である。

「個別の指導計画」から通常教育を考えると…

2007-06-22 22:04:59 | 特別支援教育
 先日,特別支援教育研修センターで研修を受けてきたことは,既に述べた。今回も,この研修から考えたことを述べてみよう。

 特別支援教育には,「個別の指導計画」というものがある。私には,これが,学校教育を考えるうえで,実はとても重要なものじゃあないかという気がしていている。
 その理由は,こうだ。
 まず通常の学校教育一般で,特別支援教育の「個別の指導計画」にあたるものは,年間の「学習指導計画」だ。教師の世界で言うところの「教育課程」と言ってしまってもいいだろう。
 「教育課程」というのは,乱暴にいうと,各学校で1年間で子どもに何を教えるのかという,指導の内容が書かれてあるものだ。中学校なら各学年,各教科の指導内容が記載してある。これは,日本全国のすべての学校で作成することが建前になっている。けど,そんなものいちいち教師が作成するなんてことはなく,教育委員会その他,さまざまな情報ソースから資料をもらって,冊子にしているのが実際だ。そのうえ,教師は,そんなものいちいち参照して「学習指導計画」なんてつくっちゃいない。ごく普通の教師は,教科書の単元をいちばんの参考にして,年間の指導計画をつくる。そして,教科書の進み具合をつねにはかりながら,ちゃんと教科書が終わるように1年間授業をする。なかには計画性のない教師なんていうのもいて,そういうのは1年間で教科書が終わらないなんていうことになって,生徒や保護者からクレームがくるなんてことになる。
 さて,この「教育課程」なり「学習指導計画」というのは,教える内容がきちんと決まっている。そして,その教える内容に沿って,1年間で教え残しのないように授業を組み立てる。これが,通常の学校教育の「指導計画」だ。
 一方,特別支援教育の「個別の指導計画」というのは,個々の子どもの能力に合わせて,支援学級の担当教師が作成するのだ。
 この決定的な違いがわかるだろうか。
 私は,この「個別の指導計画」という存在を知ったとき,これが通常の学校教育と特別支援教育の最大の違いではないかと思ったほどだ。
 すなわち,特別支援教育の計画は,先に教える内容ありきではないのだ。
 例を示そう。例えば,知的に障害がある中学1年生の子どもを受け持ったとする。
 この子は,中学1年生だけれども,中学1年の学習内容の理解はできない。当然である。理解できれば,通常学級にいればよい。そうではなく,知的な障害があるため,通常の中1の学習は理解できない。では,小学校6年生くらいかというと,それは子どもの障害の程度による。もしかしたら,小学校低学年の知的発達なのかもしれない。その辺りを,受け持ちの教師は見極めて,その子の障害に沿った指導計画を立てるのだ。これが「個別の指導計画」というものだ。
 もう少し,くわしく考えてみよう。
 この中学1年生の知的に障害のある子ども。算数の九九も言えなかったとする。そうなると,発達段階でいうと小学校2年生の知的発達ということになる。けれど,個別で学習を進めていくと,すぐに九九を覚え,分数の掛け算などもすらすら解けるということになるかもしれない。そうなると,この子どもは,実は障害による遅れが小学校2年生というよりも,小学校段階で必要な学習技能が身についていなかっただけだったのではないか,あるいは家庭なり学校なりがその子に合った学習機会を保障していなかったのではないかという仮説が生じる。
 また,個別で学習を進めると,英語のリスニングやスピーチは健常生徒と同等の能力がみられるのに,スペルを書く能力は劣っているということがわかるかも知れない。こうなると,いわゆる知的障害というよりも,いわゆる発達障害のLD(学習障害)ではないかという仮説が生じる。
 あるいは,国語の漢字はからきし書けないが,算数はスラスラ解けるようになったとか,自閉的な傾向をもっていた場合には,歴史の年号をすべて言えたり国語の暗唱が得意だったりと,健常児よりも優れた能力があったりとか,知的な障害と一口にいっても,その能力差は様々なのだ。つまりは,個々の能力差に応じた「指導計画」を作る必要が生じるということなのだ。
 であるから「個別の指導計画」というのは障害の程度に合わせて個々に作成するということになる。
 さて,では次に通常学級の子どもたちを考える。この子ども達は,能力差がないというのが建前なのだ。みんな等しく同じ能力だ。そのうえで,発達段階に応じた「教育課程」が決められている。もちろん,子どもによって苦手な教科や得意な教科があるだろう。それに,勉強のできる子とできない子がいるというのも紛れもない事実だ。つまりは,子どもには能力差があるのだ。けれど,それは通常学級では認めたら大変なことになるだろう。通常学級の子どもは,みんな等しい能力というのが建前だ。
 ただ最近は,「習熟度別」なんていういかがわしい名称で,できる子とそうでない子をわけたりして教えたりしている。けれど,これも先に教育内容ありきだ。できない子も学習することによって,等しく学習内容が習得できるという,美しい建前のもとで進められているのだ。
 さて,特別支援教育の「個別の指導計画」と,通常教育の「教育課程」。
 片方では,障害による能力差を認め,片方は健常であるから能力差などは認めない。
 私は,ここに学校教育の大きな矛盾が内包されていると思うのだが…。
 その辺りを次回以降,考えていくことにしよう。


「困り感」のある子どもは分離させよ

2007-06-15 21:55:48 | 特別支援教育
 特別支援教育研修センターで,3日間の研修を受けてきた。この研修を受けながら,特別支援教育についていろんなことを考えた。本稿は,そのいろんなことについて,先週に引き続いて述べていく。

 いわゆる「自閉症」と呼ばれる子どもがいる。対人コミュニケーションが苦手で,言葉をうまく繰ることができない,あるいは,こだわりが強いというのが,この障害の特性だ。最近では,知的な発達の遅れがないのを「高機能自閉症」と呼んだりする。あるいは,「高機能自閉症」のなかで,言葉の遅れがないものを「アスペルガー症候群」と呼んだりする。
 ただ,そうやって診断名でくくったとしても,「自閉症」の子どもの特性はそれぞれだ。十人十色といって差し支えないだろう。だから,「自閉症」の子どもというのは,こういうものだと決め付けることにならないのが現実だ。大まかな共通特性として,先に述べた特性があるということだ。
 「自閉症」の子どもにとって,この世の中は「困り感」がいっぱいだ。日常生活のあちこちで,困ったことに出くわしているのだろう。
 例えば「自閉症」の特性のひとつに聴覚過敏がある。字の通り,日常生活で耳に入る音が過敏に聞こえてしまうのだ。この特性をもつと日常生活を送るのは大変だ。うるさくて仕方ないだろう。無論,個人差はあるだろうが,心地よい鳥のさえずりなんかも,この症例にとっては騒音になるという。遠くで聞こえるヘリコプターの音も,大音量に聞こえるらしい。学校教育の事例でいうと,運動会のピストルの音はダメ。もう,耳を押さえて走るどころではなくなる。体育館で集会活動をするときの,マイクの音声がダメ。耳をふさいでしまう。教室の窓を開けてのよそ風や虫の声もダメ。選挙カーが通ったものなら,もう耳を押さえてパニックだ。
 こんなのが聴覚過敏の事例である。
 私たちは,こうした「自閉症」の特性を,最近になって,やっと理解するようになってきた。例えば,集会時に,耳を押さえてバタバタしている子どもに,「これ,しっかり気を付けしなさい!」と注意をして,耳を押さえている両手を無理やり下ろさせるなんてことはしなくなった。それまでは,聴覚過敏なんて知らんかったから,何もうるさくないわい,何神経質になってんだこの子どもは,てな感じで指導をしていたのだな。けれど,最近はそういう子どもの「困り感」に共感をして,聴覚過敏の子どもに寄り添いながら,耳を押さえる子どもには,そういう特性があるという理解がなされるようになってきたのだ。
 こういう聴覚過敏の子どもにとって日常生活というのは,ストレスの場だ。最近では,耳センやヘッドホンのような器具も製品化されて,できるだけ「困り感」が解消されるようになってきている。
 それにしても,やはり生きづらいだろうなと思う。
 そして,いくら共感したところで,この世の中から音は無くせない。
 そこで,特別支援教育では,そういう聴覚過敏の子どもが高ストレスにならないような配慮をする。当然である。それが特別支援教育の趣旨である。「困り感」に寄り添うのだ。
 聴覚過敏の特性を持つ子どもであれば,できるだけ静かな環境で学習できるように配慮する。基本的には,特別支援学級で個別指導ということになる。換言すると,いわゆる「分離教育」だ。
 けれど,この「分離教育」は批判の対象なのだ。学校教育で克服すべき課題なのだという。
 私は,これがよくわからない。
 いや,主張は単純だ。障害者を分離すんなということだ。統合教育(インテグレーション)を推し進めよ。障害者も健常者も等しく同じ教室で教育を受けさせよというものだ。最近は,インテグレーションから,インクルージョン(包括)教育と変化しているらしいが,根本の発想は同じだ。「共生」の思想だ。
 けれど,これも,例えば知的な遅れのない,肢体不自由や病弱であれば教室で同じ授業ができるかも知れない。が,体育は無理だし,教科書を開くことですら「困り感」は増幅されていくだろう。
 ましてや,「自閉症」のような特性を持つ子どもにとって,統合教育というのは恐怖の何ものでもないであろう。そういう特性を持ってすら「分離教育」を批判するのは,大いに無理があると思う。
 何のための特別支援教育なのかと思ってしまう。
 障害者も健常者もともに住みやすい世の中にするという理念はけっこうなことだ。見渡せは,バリアフリーが,あちこち実現化されつつある。
 しかし,だからといってこの先,「自閉症」のような特性をもった子どもが,住みやすくなる世の中には,絶対にならない。近づけようという努力はするべきであろうが,聴覚過敏の子どもが,耳栓をつけずに日常生活を送れるような社会になるというのは,現実的に考えて無理だろうと思う。
 であるならば,そういう子どもが高ストレスにならずに生活や学習を進めるなかで,少しずつでも障害特性を解消できるように支援するのが,特別支援教育ではないかと思うのだ。そこでは,当然,高ストレスの普通教室から「分離」して,特別な支援を施すことになる。これがどうしていけないことなのだろう。私には,現実に沿った教育だと思われるのだが。

「困り感」を解消すればそれで良いのか?

2007-06-08 23:23:36 | 特別支援教育
 特別支援教育研修センターで,3日間の研修を受けてきた。別に強制ではない。希望してである。人気の高い研修で,40名定員のところ受講希望者がオーバーしたとのことであった。
 今年度より勤務校で特別支援学級担当となった私にとっては,大変有意義な3日間であった。
 この研修の各講座を受けながら,特別支援教育についていろんなことを考えた。本稿は,そのいろんなことの1つを述べる。

 小学校低学年に多いのであろうが,学級で45分間イスに座っていられない子どもがいる。
 いわゆる多動の子どもである。無理矢理座らせようとすると,高ストレス状態になって,キレたりすることもある。
 さて,こういう子どもは一体どうすればいいのか。
 どうすればいいのかってったって,事実,座っていられないのだから,しょうがない。まさか,イスに縛りつけるわけにもいかない。座らせる指導はあきらめるしかない。
 現実的な対処としては,教室内を立ち歩かれても他の子どもの学習権を侵害してしまうので,そういう子どもは別室に連れて行くしかないのだろうと思う。
 もちろん,そういう多動の子どもも成長はするから,今日は5分しか座っていられなくても,来週には6分座っていられるかもしれないし,1年経ったら45分間座っていられるようになるかもしれない。それは,個々の発達の度合いによるだろう。
 いずれにせよ,イスに座って授業を受けることが困難な子どもというのは,全国の教室のいたるところに存在しているのは間違いのないことだ。
 そこで,担任の教師は悩む。この子に授業を受けさせるにはどうしたらいいのだろうか。
 この話題は,今回の研修の協議のなかで実際に質問として出た。
 小学校の特別支援担当の教師が,受け持ちの子どもに算数を教えたいのだが,多動のためイスに座っていられずに集中力が続かない,どうしたらいいでしょうか,という質問だった。
 この質問に対して,特別支援教育の専門講師は,こう答えた。
「イスに座って教えるだけが,算数の授業ではない。子どもは生活単元学習(特別支援教育独特の領域。デューイ流の問題解決学習のようなものといっても,あながち間違いではないだろう。生活科や総合的な学習の時間に近い,という言い方もさほど間違ってはいないだろう)で算数を学ぶこともある。机やイスがなくても算数はできる。算数の学習をすることが目的なのだから,イスに座らせることからはじめなくてもいいのではないか」
 特別支援教育は,子どもの「困り感」から出発する。(この「困り感」という語は,特別支援教育独特の用語だ。狭い世界で使用する用語は,数年もたたずにその世界で一般化する。今回の研修でも,いたるところで「困り感」が飛び交っていた)。多動の子は,イスに座ってジッとすることに「困り感」がある。特別支援教育は,この「困り感」に共感をする。そのため,この「困り感」を解消するにはどうしたらいいのかと考える。そこでの結論が,上の講師先生の答えである。
 なるほどなあ,と特別支援担当初任の私は納得する。そして,特別支援教育の基本的な考え方について,理解する。
 しかし,一方で,中学校の通常学級を11年担当していた私は,別な視点から考える。
 学校教育では,生徒をイスに座らせることそれ自体が目的でもあるといえないか,と。
 私の言いたいことは,こうだ。イスに座らせての算数の授業が,算数を学習させることを目的とするというのは,その通りだ。しかし,45分間ジッとイスに座らせて,授業を受けるということそれ自体,ある意味で目的のうちなのではないか。
 そこでは,人の話はジッと聴くものだ,とか,自分のやりたくないことでも我慢してやらなくてはいけないのだ,とか,45分間くらいはイスに座っていられるくらいのストレス耐性を身につけた方が,精神発達にはいいのだとか,算数の学習のほかにも,そういう目的が加味されるのではないかということだ。
 そのように考えると,多動の子どもだって,5分よりは6分,6分よりは7分と,少しでも長く座っていられるストレス耐性を身につけたほうが,その子のためには良いことだと思われる。つまり,子どもの「困り感」に共感しつつ,その「困り感」を増幅させるように仕向けるのが,実は教育的なのではないのかと思うのである。
 もちろん,闇雲に困らせるべきだというつもりはない。ただ,子どもの発達に合わせて,負荷をかけるのが学校教育なのではないのかと私は思うのである。
「困り感」に共感するのは結構なことであるが,それを解消するだけで良いのであろうか。それをもって,特別支援教育というのであれば,学校教育そのものに何か矛盾を抱えてしまっているのではないかと私には思えるのであった。

子どもの願いに応じるのは安易なことだ

2007-06-01 22:25:10 | 生徒指導論
 子どもにとって,「あの先生は私のことをよくわかってくれている」と思われている教師はいるし,子どもにとって「あの先生は私のことを全然わかってくれていない」と思われる教師もいる。
 子どもにとって,前者は「いい先生」「好きな先生」ということになろうし,後者は「よくない先生」「嫌いな先生」ということになろう。
 他方,教師の側からすると,すべての教師は「子どもの願い」に応じたいと多かれ少なかれ思っている。つまり,どの教師も,子どもにとって「いい先生」「好きな先生」になりたいと思っている。だが,すべての教師が子どもにとって「いい先生」「好きな先生」になれるわけではなく,一定数の教師は,子どもにとっては「よくない先生」「嫌いな先生」となってしまうのが現実だ。
 さあて,これはどういうわけか?
 教師にとっては,すべての教師が「子どもの願い」に応じたいと思っているのに,現実にはなかなかそうはいかないということなのだが,その理由としては,どんなことがあげられるだろう。
☆     ☆     ☆
 先週,ウチの中学校は体育大会であった。
 中学校の体育大会は,運動会的要素と陸上記録会的要素を兼ねる場合が多いようだ。大ざっぱにいうと,都会の中学校は陸上記録会的要素が強く,田舎になればなるほど運動会的になる。ウチの学校の場合は,休日に陸上競技場を使用して,午前中は記録会,午後は団体競技が中心の運動会という,見事なバランスで行っている。
 今年でいうと,午前中は,生徒全員の100m走を計測し,その他,個人種目として200mや800mや走り幅跳びなどの記録をとった。午後は,学級対抗や学年対抗の種目が中心となる。ウチの学校の伝統種目は,1本の長縄で学級の生徒全員が跳んでその数を競うというもの。一般には,「みんなでジャンプ」といえばわかるのではないかなあと思う競技である。こういう種目を通して,学級の結束をはかろうというのが教師サイドのねらいにある。
 そのため,体育大会が近づくと,どの学級も朝っぱらからグランドに集まって練習をしたりする。また,授業時間も体育大会が近づくと大会に向けた時間割になり,体育の授業が増えてくる。しかし,体育の授業時間すべてを体育大会の種目練習にあてるわけにもいかないから,団体種目の練習時間は,学活や道徳やらであてられているのであった。この辺りも,ウチの中学校は上手にバランスをとっているといえる。
 さて,このように体育大会が近づくと,どの学校でもそうだと思うが,運動の苦手な生徒にとっては,気重になる。特に,学級の結束が必要となる種目などは,足をひっぱって他の生徒に責められたりすることだってある。そうなると,いきおい,体育大会は欠席したいなどと思うようにもなるだろう。
 そういうとき,生徒によっては,足が痛くなったり,お腹が痛くなったりする。病院で診察を受けるほどではないが,競技には参加するのはキツいという感じだ。ただ,こういう生徒にとって,さほどでもなかったら,まわりの生徒から仮病と思われてもしまうので,ここらあたりの加減は実に絶妙の痛み具合となる。
 さて,運動苦手な生徒が,足が痛いとか,お腹が痛いとか言ってきたとき,教師はこの生徒にどんな指導をするだろう。
 もっとも簡単なのは,「生徒の願いに応じた」指導である。運動が苦手な生徒だっているのだから,その生徒の願いに応じて,競技は見学でいいよというものだ。足が痛いんだろ,無理するなとフォローしてやる。これは,指導としてはもっとも安易なケースといえる。しかし,大方の教師は,このケースは回避したいと考える。そのうえ,結果的にこのような指導になったときには,忸怩たる思いをする教師もいたりする。
 やはり,教師は「生徒のためを思って」なんとか,競技に参加させたいと願うものなのだ。
 見学という安易な道は生徒にとらせたくないと思うし,教師もとりたくないと思う。
 そこで,教師は自分のキャラクターに応じた指導技術を駆使して,なんとか生徒へ説得をはかるということになる。コワモテ教師は厳しさを出しながら,母性型教師は包み込むような優しさで生徒の気持ちを汲みながらと,そのキャラクターに応じつつも,指導のゴールは「頑張って参加しなさい」ということになる。
 あるいは,もう少し力量のある教師だったら,学級の集団の力を使うなんてこともするだろう。学級委員なり,仲のいい生徒なりに声をかけさせたりして,苦手生徒に少々足が痛くても頑張ろうかなあなんていう気にさせようとする。
 もっと力量のある教師は,学級全体を体育大会モードにさせてしまって,参加するのが当然のごとくの雰囲気にさせてしまうということもある。もう,空気を作ってしまうということだ。ここまでくると,苦手生徒も,いつしか体育大会が楽しみになってしまうということになる。
 こういう一連の生徒指導を通して,苦手生徒を競技に参加させていく教師の指導力というのが,つまりは教師の力量なのだと私は思う。
 つまり,「生徒の願い」に応じるというのは,生徒指導力の議論以前の安易な方策なわけである。
 そして,おそらく学校現場には,教師がおいそれと「子どもの願い」に応じない場面が多いというのが私の実感だ。それは,教師の性分としての「子どもため」 という思いによるところが大きいと思われる。
 そこで,必要となるのが,生徒指導上の教師の技術ということなのだと思う。
 さて,冒頭に戻ろう。「いい先生」「好きな先生」と「よくない先生」「嫌いな先生」の存在だ。
 この違いというのは,つまるところ,そのように子どもに思わせるかどうかの違いなのだと私は思う。そして,子どもにそう思わせるかどうかというのは,多分に教師の技術的な要素が大きいのではないかと私は思うのである。