憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

教師力ブラッシュアップサマーセミナーの覚書

2012-07-28 22:06:36 | 教育時評
 今回の教師力ブラッシュアップサマーセミナーのテーマは「つながり」である。
 20代の頃だったら、「つながり」だなんで気持ちが悪い、と直感的に声に出して言っていたろうと思う。
 けど、もう私は40のオッサンとなり、そんな反射神経もすっかりなくなってしまった。最近では、何を見聞しても「ああそうなのね」という鷹揚さ加減。
 しかし、そんな怠惰な態度ではいけない。歳のせいにしてもいけない。せっかくセミナーに参加するのだから、もう反射神経はなくとも、往時のような戦闘的な態度でのぞみたい。
 ということで、「つながり」について、だらだらと考えてみることにしました。
 以下、セミナー前の覚書。

 「つながり」。
 子どもと教師の「つながり」、子ども同士の「つながり」、教師と保護者との「つながり」、そういう諸々の「つながり」について議論をしましょうというのが今回のセミナーのテーマである。こういうテーマが提出されているということは、学校現場では諸々にどうやって「つながる」かが、今日的な課題となっているのだろう。
 どうして「つながり」が今日的課題となるのか。
 まずは、現場で「つながり」が希薄になってきているという、教師の体感があるのだろう。以前に比べて子ども同士がつながっていない、とか、教師と保護者がつながらないから、予想外のクレームが学校にやってくる、というような諸々が体感としてあるのだろう。
 そこから「つながる」ことが今日的課題として提出されたということがいえそうである。
 もう一つは、社会的要請というのもあるのだろうと思う。これからの社会は人と人との「つながり」が大切だ、だから教育の現場でも「つながる」ことについて議論していきましょうということだろう。
 これが、今回のテーマの背景といったものだろう。

 しかし、「つながり」という言葉が引っかかりもなく受け入れられるというのは、学校教育くらいじゃないのかしら、と思ってもみる。
 私が「つながり」で連想するのは、左翼的運動である。みんなで「連帯」しましょう、というやつだ。最近では脱原発デモが話題となっているが、ああいうのはみんなで集まって、まさしく「つながって」いる。脱原発という「つながる」目的はすこぶる単純だが、デモをすることでどうやって脱原発に結びつけていくのかは議論はされない。もちろん、議論は必要ない。なぜなら、同じ意見の人間が「つながる」ことが目的なのだから。デモとはそういうものだ。社会的弱者の大同団結である。
 対する右翼的思想者は「つながる」ことはない。だから、右翼の「連帯」はない。党派性というのは一応あるだろうが。
 それはともかく、「つながる」ことが絶対善であるという発想に疑いを持たないこと自体、教師の怠惰だと思う。なぜ、学校現場では、つながらなくてはいけないのか、ということについて自分の頭で考えることが大切であろう。

 デモなら「つながる」ことが目的であるけど、学校教育では「つながる」ことが目的ではないだろう。「つながった」先のことを議論しなくちゃならんだろうと思う。
 似たような状況として、女子中学生の生態がある。女子中学生のある一群に、よく群れる集団がある。あれは一群の生態として「つながる」ことを欲している何らかの理由がある。しかし、群れている女子中学生本人にとって、「つながる」ことを欲している理由はわかっていない。彼女たちは、学校現場の中で彼女なりの状況判断のうえで、群れているのである。つまり、「つながる」ことが目的化している。だから、教師はそういう中学生女子の群れをよろしくないものとして、指導の対象にしている。
 学校現場では、目的のない「つながり」は胡散臭いのである。
 では、今回のセミナーでは、「つながる」ことで何を目的としているのか。それを見極めることが大切だろうし、そこを議論しなくちゃならんだろうと思う。

 そういえば去年は「教室ファシリテーション」の提案がなされた。今日の教育現場に疎くなっている私は、これが現場の最前線なのかあと感嘆していた。「教室ファシリテーション」のような学習活動というのは、今回「つながり」の一形態と捉えられているのかもしれないが、それは違う。あれは議論を促進するための「ツール」であって、別に「つながり」を目的とするものではない。ファシリテーションは、社会科だったら「社会的な思考判断」をねらうために活用する「ツール」であるし、国語科なら「聞く、話す力」の向上をねらうために活用する「ツール」である。道徳でファシリテーションを活用してもいいけど、それは道徳の徳目を生徒に身につけさせるために「ツール」として活用するものだ。つまり、議論を促進するというのは、それだけ自分の頭で考えたり判断したりする力を養うことであって、「つながる」こととは何も関係がない。もし、ファシリテーションで学級経営や教科経営を活性化しようと考えている教師がいたら、それはファシリテーションを誤解していると思う。
 過日とあるセミナーで、教室ファシリテーションと戦後の経験主義的カリキュラムは類似性があるという話題があって、私はその通りだと思った。教室ファシリテーションは、生徒に習得させるべき教育内容がはじめにあって、その習得に必要な「ツール」として活用するべきなのだ。そうじゃないと、間違いなく教室ファシリテーションも這い回ってしまうことだろう。もし、今後、教室ファシリテーションを授業で取り入れることで、這い回っているという批判がでるのであれば、それは「ツール」としての使い方がおかしいのであって、教室ファシリテーションの批判にはあたらないのだ。

 そういうわけで、今年のブラッシュアップサマーセミナーに興味を持たれた人は、こちら。
 まだ間に合います。


「いじめ」を積極的に認定せよ

2012-07-22 21:27:11 | 教育時評
 前回の続きである。
 ただし、大津市のいじめ事件に触発されてはいるけれど、事件について書いているのではなく、「いじめ」全般についての私の意見であるので誤解のなきよう。
 大津市の事件については、どうにも、きちんとした情報が集められなくて、まとめることができないでいる。

 いじめられている生徒がいじめられていると思ったらそれはいじめである。

 言葉遊びをしているのではない。私が新卒の頃から、つまりかれこれ17年以上前から、学校現場で言われているフレーズである。
 これを聞いたとき、20代の私は、なんとまあ独善的な決め事だろうとあきれてしまった。だって、いじめられているとされる側の論理で「いじめ」が認定されるのだから。「いじめ」かそうでないかは、あくまでもいじめられているとされる側の主観的な判断に委ねられているのである。
 新卒の私は、こういう非論理的なことが学校現場で堂々と幅を利かせていることに、大きな違和感を持っていた。
 これでは、何でもかんでも「いじめ」と言いつけてしまえば、言った生徒は絶対安全圏にいられるじゃあないか。そんなアジールを学校現場につくると現場は大混乱になるんじゃないか、と思っていた。

 しかし、現場は、私が思ったようには全くならなかった。
 なんと、生徒たちにとって「いじめ」という言葉は、タブーとなっていたのだ。私は3つの中学校に勤務して、それらは、それぞれ校風や生徒の様子の違う学校だったけど、こと「いじめ」については、同様だった。
 それは「いじめ」がいけないこと、という倫理感や道徳感によるというものよりも、もっと情緒的に口にするのも「ヤバい」という感覚のようなものだ。まさしく、触れてはいけないものなのだ。それは、小学校入学時から、「いじめはいけません」と常に学校で言われていたためでもあろうし、もちろん家庭や社会でも「いじめはいけない」といわれていたからでもあろう。生徒にとっては、「いじめはヤバいもの」ということが完全に刷り込まれているのである。
 だから、生徒は「いじめ」という言葉に恐れていた。これは、いじめている側もいじめられている側もそうである。両者にとって、両者のかかわりが「いじめ」と呼ばれてしまうのは、ものすごく「ヤバい」ことなのだ。
 なので、私が、いじめられている側の生徒に、「いじめを受けているんじゃないの?」と聞くと、生徒は色をなして「違います」と否定した。もし、「いじめ」と認定されると、自分にはどんな厄災がくるのか、恐れているのだった。いじめている側もそうである。「君たちのやっていることは、いじめである」と教師が言うと、少なからず生徒は怯える。「いじめ」という言葉は、現場では強烈な言葉になっていた。
 こうした現象は、教師の「いじめ」指導を困難にしているわけではなかった。むしろ逆である。容易にしていた。なぜなら、「君たちの行為はいじめである」と、教師が言えば、生徒は怯むのであるから。もし、怯まずに「いいえ、違います」といっても教師は、「いじめ」としての指導をすると宣言すればよい。
 学校現場では教師もまた「いじめ」という言葉には恐怖を覚えている。滑稽なことだけど、教師もやはりタブー視していたというのが、私の実感だ。たとえタブー視しなくとも、「いじめ」を放置していて何か事故や事件があったら、たいへんなことになるという想像力くらいは持っているから、なんとかしようと考えた。力量のある教師であれば、一人で片付けるし、力量がなければ教師団チームでやればよかった。
 もし、チーム力が欠けている場合はどうすればいいか。それは校長に「うちの学校にはいじめがある」と進言すればいい。校長は「いじめ」という言葉に怯え、学校をあげていじめの解決にのりだすだろう。この校長の怯えは、実態をみえない者が恐怖する感覚と同様だ。つまり「いじめ」の実態に怯えているのではなく、「いじめ」があるかどうか分からないが、あったらヤバい、と怯えているのだ。「オバケ」に怯えるのと同じ論理だ。

 さて、現在。
 いじめられている生徒がいじめられていると思ったらそれはいじめである。これは、17年前はずいぶんと独善的に思えたものだけど、現在は、これでは通用しなくなった。
 だって、いじめている側はもとより、いじめられている側だって「いじめ」とは思わなくなっているのだから。そんな厄災が自分に降りかかっているとは思いたくないのだから。
 精神科医の香山リカのコラムによると、不登校やうつ病で彼女のもとを受診する中高生から話を聞いて「それって、いじめられているんじゃないの?」と聞いても、「いじめ」とは思っていない生徒がいるのだという。つまり、いじめられている当事者は、自分がいじめを受けているとは思っていないのだ。現在は、ここまで「いじめ」の言葉の魔力が生徒に浸透しているということだ。
 これはいじめている側もそうだろう。自分たちがやっていることは「いじめ」とは思わずに、いじめているのだ。
 そうなると、現場は、いじめを受けている側の生徒の言い分を尊重するというなんて物わかりのいいことを言わず、積極的に「いじめ」を認定して、解決に当たるというのが現実的な対応となるだろう。
 つまり、教師の介入がより必要となってきているのが、現在の「いじめ」問題ではないかと思うのである。


いじめ自殺事件について

2012-07-15 19:26:04 | 教育時評
 大津市のいじめ事件。
 一人の生徒が自ら命を絶ったことについて、当事者でないものが報道をもとに安易に意見を言うのは慎むべきであろうが、今回の事件は、私にとってまだまだ不明なことが多い。

 校長や教育委員会が「いじめ」を認めたがらないのは、今回に限った事ではなく、こうした痛ましい事件後の会見ではいつものことで、これについては私も理解ができるのだが(なぜ、そういう会見になるのかは、「いじめの可視化」で詳しくのべた)、わからないのは、現場のアンケート調査にいたるまで、現場での指導をとにかく隠そうとしていることである。これが私にはわからない。
 被害者家族が、被害届けを出している以上、(遺書についての報道がないのが、ちょっと引っかかるが)いわゆる「いじめ」が原因で自ら命を絶ったとして、学校側は情報を公開してもよかったはずである。
 学校が情報を隠したがるのは、事件が「いじめ」以外の原因の場合で被害者側(加害者ではない)に不利益が生じる場合である。今回は、そういうことはないだろうから、学校の指導内容を含めて、情報を公開したうえで事件を検証するのが通常である(大津市に、そういう危機管理マニュアルがなかったのだろうか。北海道の田舎の教育委員会でさえ、そういうマニュアルは揃っているのであるが)。
 こうした学校側の情報の隠蔽によって予想されるのが、現場でいじめの指導が全くなされていなかった、ということだ。つまり、現場で明らかな「いじめ」行為があったにもかかわらず教師が傍観していたということだ。もしかしたら、教師も「いじめ」に加担していた可能性もある。こうなると、学校や教育委員会は、何もかも隠そうとするだろう。しかし、これも私には理解がしがたいのだ。
 今日、「いじめ」については、上は文科省から下は現場の末端まで、相当な危機管理がなされている。それは、完全に上意下達。現場の自主性とは信頼性とかは微塵もない。完全なる行政の通達。そうした「いじめ」の対応というのは、私に言わせれば、行き過ぎといってもいい対応である。行き過ぎというのは、それによって、別の教育的な問題が浮上しているという意味での行き過ぎである。とにかく、現場にいる者としては、それが「いじめ」指導の実感だ。そんなご時世に、果たして教師が「いじめ」行為を傍観するのだろうか。まして、加担したりするのか。それでは、1986年の「葬式ごっこ」に逆戻りではないか。
大津市のこの中学校に限って、こうした日本全国の危機管理から蚊帳の外になっているとは考えにくい。指導していたのなら、県警の家宅捜索が入るまでの隠蔽をする必要はあるまい。ここが私の理解ができない点なのだ。
 もしも、本当に教師が「いじめ」に加担していたというなら、おそらく教師は逮捕されるだろう。
 それにしても、今回の事件は限られた情報をあれこれ考えてみても、現場の実感として理解しにくいことが多くある。いましばらく情報を待つしかないのだろう。

第8回教師力BRUHS-UPセミナーin札幌 のお知らせ

2012-07-08 19:37:58 | その他
教師力BRUSH-UPセミナー旭川が終了しました。
関係各位の皆様、ありがとうございました。
次は、これです。

第8回教師力BRUHS-UPセミナーin札幌
「明日が楽しみになる学級づくり・授業づくり」
『子どもが“つながる”集団づくりと話し合い活動』

私も参加します。
なんとか、最新の教育の議論についていけるように頑張りたいと思います。
せめて、ついていっているフリくらいは、し続けられるように、頑張りたいと思います。
以下、詳細です。
どうぞ、ご参加下さい。


第8回を迎えた教師力BRUSH-UPサマーセミナーin札幌。
今年も開催いたします。
今年はのテーマは、「つながり」。
教室の中の「つながり」について、様々な角度から検討、提案します。
講師として、ミニネタ、フォロー術で、
全国を駆け回っている山口県の中村健一先生をお招きしています。
学びの深い2日間になること、間違いなしです。


日 時:平成24年8月2日(木)3日(金)
    9時15分から16時45分
場 所:札幌市産業振興センター
      (札幌市白石区東札幌5条1丁目1-1)
参加費:参加費3000円(通し参加は5000円)
後 援:北海道教育委員会(予定)札幌市教育委員会(予定)

お申し込みは、こちらから。
http://kokucheese.com/event/index/42638/

以下詳細日程です。

【1日目】8月2日(木)

09:15~09:25 受付

09:25~09:30 開会セレモニー

09:30~10:45 全体講座「子どもと“つながる”、子どもが“つながる”フォロー術」
岩国市立平田小学校教諭  中村 健一

10:45~11:15 全体セッション「“つながる”生むあの場面・この場面」
ファシリテーター…三浦将大(福島・小)

11:30~12:30 分科会・選択講座
「“つながり”を生み出す3つの取り組み~具体的な映像から検討するメソッドの有
効性~」
A「話し合いの見える化が子どもたちをつなげる」
水戸ちひろ(室蘭・小)
B「ファシリテーションで子どもたちをつなげる」
山寺 潤(今金・小)
C「アクティビティで子どもたちをつなげる」
大野睦仁(札幌・小)

13:30~15:00 分科会・選択講座
「3つの“つながり”を生み出す教室の具体的展開」
 13:30~14:30
A「先生と子がつながる日記指導を考える」
増澤友志(札幌・小)山口淳一(札幌・小)
B「保護者とつながる4つの場面(家庭訪問・懇談会運営・個人懇談・電話対応)の
運営とその対応」
三浦将大(福島・小)山下 幸(札幌・中)
C「子と子がつながる”しかけ”」
岸本まり(帯広・小)細山 崇(名寄・小)
 14:30~15:00「学びのシェア」

15:15~16:45パネルディスカッション
「“つながり”の見える化について考える~学びのシェアリング」
ファシリテーター…山下幸(札幌・中)
パネラー…中村健一先生 桑原 賢(旭川・養)小林 智(旭川・中)
     高橋裕章(札幌・小)藤原友和(函館・小)

16:45~16:50 閉会セレモニー

【2日目】8月3日(金)

09:15~09:25 受付

09:25~09:30 開会セレモニー

09:30~10:00 全体提言「授業の今を語る~課題と方向性」
             南山潤司(札幌・小)

10:15~12:00 分科会・選択講座「授業の今を考える~理論&模擬授業~」
A「一斉授業を作る」
講師…斎藤佳太(登別・小)授業者…坂本奈央美(函館・中)指定討論者…桑原賢
(旭川・養)
B「話し合いの授業をつくる」
講師…小林智(旭川・中)授業者…大野睦仁(札幌・小)指定討論者…森岡達昭(中
札内・小)
C「活性化する授業をつくる」
講師…高橋裕章(札幌・小)授業者…太田充紀(富良野・小)指定討論者…中村健一
先生

13:00~14:45 全体講座「子どもの思考が見えて、『つながる』授業を提案する」
特別支援…湯藤瑞代(紋別・養)
小学校…藤原友和(函館・小)
中学校…高橋和寛(岩見沢・中)

15:00~16:30「授業へのQ&Aと学びのシェア」
ファシリテーター…山寺 潤(今金・小)
指定討論者…中村先生(山口・小)桑原 賢(旭川・養)木下尊徳(陸別・小)
重堂真也(音更・小)山口淳一(札幌・小)

16:30~16:40 閉会セレモニー

第46回教師力BRUSH-UPセミナーin旭川のお知らせ

2012-07-01 07:32:09 | その他
第46回教師力BRUSH-UPセミナーin旭川

日時:2012年7月7日(土)
    9:00~16:45
場所:旭川市勤労者福祉会館


明日から使える授業づくり講座です。
「熱心な先生方必見!あなたの授業がグーンとうまくなる!!」

毎日の授業、いまいち子どもがのってこない、この題材はどうやって教えたらいいのだろう、ああ授業が崩壊しそうだ…。そんな悩みを持った先生いらっしゃいませんか?
授業の悩み解決や授業力アップのためのセミナーです。一流の講師陣が「授業」づくりの発想法について提案します。
近隣の先生方、是非ご参加を。

講師
松田剛史(ソーシャルベンチャー「あんじょう家本舗」代表、旭川大学経済学部教職課程講師)
堀裕嗣(札幌市立北白石中学校教諭)
小林智(旭川市立第二中学校教諭)
桑原賢(北海道鷹栖養護学校教諭)


9:00~9:15 受付
 9:15~9:45 開会式、オリエンテーション「授業づくりの発想」
10:00~12:00 講座1/松田剛史「教室ファシリテーション入門」
13:00~13:40 模擬授業/堀裕嗣、森岡達昭「1枚の写真から授業をつくる」
13:40~14:15 トークセッション/堀、桑原「私の授業のつくりかた」
14:30~15:00 講座2/小林智「統率を意識した授業技術5つのポイント」
15:00~15:30 講座3/桑原賢「授業のユニバーサルデザイン5つのポイント」
15:30~16:30 学びのシェアリング
16:30~16:40 閉会式

申し込みは、こちらです。

武井明『ビミョーな子どもたち』

2012-07-01 06:42:34 | 教育書レビュー
 旭川市の児童精神科医のエッセイ集。総合病院の思春期外来を20年担当していて、その臨床経験による中高生のこころの病について著者の感じたことが丁寧に書かれてある。

 タイトルがいただけない。あまりに皮肉めいていて、タイトルだけみると、内容を誤解してしまいかねない。内容はいたって真摯なのに。どうして、こんなタイトルをつけたのか理解に苦しむ。

 著者が勤務している思春期外来はいつでも満員御礼だった。だから、私が中学校教師だった頃は、教え子を診てもらおうにも、それはかなわなかった。私としては、教え子の診療にかこつけて、著者にお目にかかりたいという、いささかヤマシい気持ちもあったことは確かであるが。
 ただ、2回ほど講演会を聞く機会があって、その時に氏の人柄を伺うことができた。穏和で朴訥な方という印象を受けた。ときに、くだけた感じの方という風でもあったけど、この著書はいたって真面目であり、読みながら私のなかでは少々のギャップがあった。

「精神科外来というのは、家庭でも学校でもどうしようもなくなって、最後にやって来るところなんですね」と教師相手の講演会で言っていたのが、私の記憶にある。
 続いて、「そういう最後に来るところが、こんなに忙しいというのは、まあ、どうなんでしょうねえ」という感じで、言っていた。
 現在、私は特別支援学校の教員。こちらも、最近は生徒の在籍が増加傾向にある。
 精神科も特別支援学校も、子どもの変容ということが増加の要因とはいえよう。けれど、私は、いちばんの要因は、それらの敷居が低くなってきたせいだろうと思う。


武井明『ビミョーな子どもたち』(日本評論社、2012年)