今回の教師力ブラッシュアップサマーセミナーのテーマは「つながり」である。
20代の頃だったら、「つながり」だなんで気持ちが悪い、と直感的に声に出して言っていたろうと思う。
けど、もう私は40のオッサンとなり、そんな反射神経もすっかりなくなってしまった。最近では、何を見聞しても「ああそうなのね」という鷹揚さ加減。
しかし、そんな怠惰な態度ではいけない。歳のせいにしてもいけない。せっかくセミナーに参加するのだから、もう反射神経はなくとも、往時のような戦闘的な態度でのぞみたい。
ということで、「つながり」について、だらだらと考えてみることにしました。
以下、セミナー前の覚書。
「つながり」。
子どもと教師の「つながり」、子ども同士の「つながり」、教師と保護者との「つながり」、そういう諸々の「つながり」について議論をしましょうというのが今回のセミナーのテーマである。こういうテーマが提出されているということは、学校現場では諸々にどうやって「つながる」かが、今日的な課題となっているのだろう。
どうして「つながり」が今日的課題となるのか。
まずは、現場で「つながり」が希薄になってきているという、教師の体感があるのだろう。以前に比べて子ども同士がつながっていない、とか、教師と保護者がつながらないから、予想外のクレームが学校にやってくる、というような諸々が体感としてあるのだろう。
そこから「つながる」ことが今日的課題として提出されたということがいえそうである。
もう一つは、社会的要請というのもあるのだろうと思う。これからの社会は人と人との「つながり」が大切だ、だから教育の現場でも「つながる」ことについて議論していきましょうということだろう。
これが、今回のテーマの背景といったものだろう。
しかし、「つながり」という言葉が引っかかりもなく受け入れられるというのは、学校教育くらいじゃないのかしら、と思ってもみる。
私が「つながり」で連想するのは、左翼的運動である。みんなで「連帯」しましょう、というやつだ。最近では脱原発デモが話題となっているが、ああいうのはみんなで集まって、まさしく「つながって」いる。脱原発という「つながる」目的はすこぶる単純だが、デモをすることでどうやって脱原発に結びつけていくのかは議論はされない。もちろん、議論は必要ない。なぜなら、同じ意見の人間が「つながる」ことが目的なのだから。デモとはそういうものだ。社会的弱者の大同団結である。
対する右翼的思想者は「つながる」ことはない。だから、右翼の「連帯」はない。党派性というのは一応あるだろうが。
それはともかく、「つながる」ことが絶対善であるという発想に疑いを持たないこと自体、教師の怠惰だと思う。なぜ、学校現場では、つながらなくてはいけないのか、ということについて自分の頭で考えることが大切であろう。
デモなら「つながる」ことが目的であるけど、学校教育では「つながる」ことが目的ではないだろう。「つながった」先のことを議論しなくちゃならんだろうと思う。
似たような状況として、女子中学生の生態がある。女子中学生のある一群に、よく群れる集団がある。あれは一群の生態として「つながる」ことを欲している何らかの理由がある。しかし、群れている女子中学生本人にとって、「つながる」ことを欲している理由はわかっていない。彼女たちは、学校現場の中で彼女なりの状況判断のうえで、群れているのである。つまり、「つながる」ことが目的化している。だから、教師はそういう中学生女子の群れをよろしくないものとして、指導の対象にしている。
学校現場では、目的のない「つながり」は胡散臭いのである。
では、今回のセミナーでは、「つながる」ことで何を目的としているのか。それを見極めることが大切だろうし、そこを議論しなくちゃならんだろうと思う。
そういえば去年は「教室ファシリテーション」の提案がなされた。今日の教育現場に疎くなっている私は、これが現場の最前線なのかあと感嘆していた。「教室ファシリテーション」のような学習活動というのは、今回「つながり」の一形態と捉えられているのかもしれないが、それは違う。あれは議論を促進するための「ツール」であって、別に「つながり」を目的とするものではない。ファシリテーションは、社会科だったら「社会的な思考判断」をねらうために活用する「ツール」であるし、国語科なら「聞く、話す力」の向上をねらうために活用する「ツール」である。道徳でファシリテーションを活用してもいいけど、それは道徳の徳目を生徒に身につけさせるために「ツール」として活用するものだ。つまり、議論を促進するというのは、それだけ自分の頭で考えたり判断したりする力を養うことであって、「つながる」こととは何も関係がない。もし、ファシリテーションで学級経営や教科経営を活性化しようと考えている教師がいたら、それはファシリテーションを誤解していると思う。
過日とあるセミナーで、教室ファシリテーションと戦後の経験主義的カリキュラムは類似性があるという話題があって、私はその通りだと思った。教室ファシリテーションは、生徒に習得させるべき教育内容がはじめにあって、その習得に必要な「ツール」として活用するべきなのだ。そうじゃないと、間違いなく教室ファシリテーションも這い回ってしまうことだろう。もし、今後、教室ファシリテーションを授業で取り入れることで、這い回っているという批判がでるのであれば、それは「ツール」としての使い方がおかしいのであって、教室ファシリテーションの批判にはあたらないのだ。
そういうわけで、今年のブラッシュアップサマーセミナーに興味を持たれた人は、こちら。
まだ間に合います。
20代の頃だったら、「つながり」だなんで気持ちが悪い、と直感的に声に出して言っていたろうと思う。
けど、もう私は40のオッサンとなり、そんな反射神経もすっかりなくなってしまった。最近では、何を見聞しても「ああそうなのね」という鷹揚さ加減。
しかし、そんな怠惰な態度ではいけない。歳のせいにしてもいけない。せっかくセミナーに参加するのだから、もう反射神経はなくとも、往時のような戦闘的な態度でのぞみたい。
ということで、「つながり」について、だらだらと考えてみることにしました。
以下、セミナー前の覚書。
「つながり」。
子どもと教師の「つながり」、子ども同士の「つながり」、教師と保護者との「つながり」、そういう諸々の「つながり」について議論をしましょうというのが今回のセミナーのテーマである。こういうテーマが提出されているということは、学校現場では諸々にどうやって「つながる」かが、今日的な課題となっているのだろう。
どうして「つながり」が今日的課題となるのか。
まずは、現場で「つながり」が希薄になってきているという、教師の体感があるのだろう。以前に比べて子ども同士がつながっていない、とか、教師と保護者がつながらないから、予想外のクレームが学校にやってくる、というような諸々が体感としてあるのだろう。
そこから「つながる」ことが今日的課題として提出されたということがいえそうである。
もう一つは、社会的要請というのもあるのだろうと思う。これからの社会は人と人との「つながり」が大切だ、だから教育の現場でも「つながる」ことについて議論していきましょうということだろう。
これが、今回のテーマの背景といったものだろう。
しかし、「つながり」という言葉が引っかかりもなく受け入れられるというのは、学校教育くらいじゃないのかしら、と思ってもみる。
私が「つながり」で連想するのは、左翼的運動である。みんなで「連帯」しましょう、というやつだ。最近では脱原発デモが話題となっているが、ああいうのはみんなで集まって、まさしく「つながって」いる。脱原発という「つながる」目的はすこぶる単純だが、デモをすることでどうやって脱原発に結びつけていくのかは議論はされない。もちろん、議論は必要ない。なぜなら、同じ意見の人間が「つながる」ことが目的なのだから。デモとはそういうものだ。社会的弱者の大同団結である。
対する右翼的思想者は「つながる」ことはない。だから、右翼の「連帯」はない。党派性というのは一応あるだろうが。
それはともかく、「つながる」ことが絶対善であるという発想に疑いを持たないこと自体、教師の怠惰だと思う。なぜ、学校現場では、つながらなくてはいけないのか、ということについて自分の頭で考えることが大切であろう。
デモなら「つながる」ことが目的であるけど、学校教育では「つながる」ことが目的ではないだろう。「つながった」先のことを議論しなくちゃならんだろうと思う。
似たような状況として、女子中学生の生態がある。女子中学生のある一群に、よく群れる集団がある。あれは一群の生態として「つながる」ことを欲している何らかの理由がある。しかし、群れている女子中学生本人にとって、「つながる」ことを欲している理由はわかっていない。彼女たちは、学校現場の中で彼女なりの状況判断のうえで、群れているのである。つまり、「つながる」ことが目的化している。だから、教師はそういう中学生女子の群れをよろしくないものとして、指導の対象にしている。
学校現場では、目的のない「つながり」は胡散臭いのである。
では、今回のセミナーでは、「つながる」ことで何を目的としているのか。それを見極めることが大切だろうし、そこを議論しなくちゃならんだろうと思う。
そういえば去年は「教室ファシリテーション」の提案がなされた。今日の教育現場に疎くなっている私は、これが現場の最前線なのかあと感嘆していた。「教室ファシリテーション」のような学習活動というのは、今回「つながり」の一形態と捉えられているのかもしれないが、それは違う。あれは議論を促進するための「ツール」であって、別に「つながり」を目的とするものではない。ファシリテーションは、社会科だったら「社会的な思考判断」をねらうために活用する「ツール」であるし、国語科なら「聞く、話す力」の向上をねらうために活用する「ツール」である。道徳でファシリテーションを活用してもいいけど、それは道徳の徳目を生徒に身につけさせるために「ツール」として活用するものだ。つまり、議論を促進するというのは、それだけ自分の頭で考えたり判断したりする力を養うことであって、「つながる」こととは何も関係がない。もし、ファシリテーションで学級経営や教科経営を活性化しようと考えている教師がいたら、それはファシリテーションを誤解していると思う。
過日とあるセミナーで、教室ファシリテーションと戦後の経験主義的カリキュラムは類似性があるという話題があって、私はその通りだと思った。教室ファシリテーションは、生徒に習得させるべき教育内容がはじめにあって、その習得に必要な「ツール」として活用するべきなのだ。そうじゃないと、間違いなく教室ファシリテーションも這い回ってしまうことだろう。もし、今後、教室ファシリテーションを授業で取り入れることで、這い回っているという批判がでるのであれば、それは「ツール」としての使い方がおかしいのであって、教室ファシリテーションの批判にはあたらないのだ。
そういうわけで、今年のブラッシュアップサマーセミナーに興味を持たれた人は、こちら。
まだ間に合います。