憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

公立学校で教職員数が多い学校はどこ?

2011-02-25 21:37:03 | 養護学校の日常
 唐突ながら問題。
 公立学校でいちばん教職員の数が多い学校はどこ?
 残念ながら、私も正確な答えはわからないんだけど、多分、ここ。
 愛知県のとある特別支援学校。教員だけで193人。そのほかの職員を含めたら200人はゆうに超える。児童生徒数は468人で、81学級。教職員の数もすごいけど、81個も普通教室が確保されているということにも驚きである。
 この学校、私も話に聞いているだけで、詳しい状況はわからないのであるが、朝の登校時は相当すさまじいらしい。登校時の決められた時刻に、スクールバスや自家用車が児童生徒玄関前にどっとやってくるから、教員が構内の交通整理を行うのだが、児童生徒の安全確保がとにかく大変らしい。もちろん、一事が万事、こうした朝の登校に限らず、学校生活のいたるところで超大規模校ならではの大変さがあるのだろうと思う。
 もちろん、どんなに規模が大きくとも1個の学校だから、校長は1人。教頭も1人。職員会議はどうやってやるんだろうとか、校長の教員評価はどうするんだろうとか、いろんな疑問がすぐに浮かぶ。
 ちなみに、私の手元にある資料によると、児童生徒数が400人以上いる特別支援学校(知的)は全国に8校あるとのこと。200人以上は110校とのこと。この規模になると教員の数は100人位だろうと思う。
 私の勤務校は、児童生徒数は100人弱。教員の数は60人位か。この教員数に、寄宿舎職員や事務職員などを含めると勤務校の教職員数は100人を超えるということになる。これでも相当な大所帯である。
 こういう大規模校というのは、もし校務が均等に分担がされれば、教員1人あたりの校務は、中小規模校に比べると少なくなる。ただし、あくまでも、うまくシェアリングできればの話。
 私も、久しぶりに大規模校に勤務することになって、この校務の減少は実感できた。ただ、担任を持っているから、校務の少なさも相殺されようか(ちなみに、特別支援の場合は、生徒数とその生徒にかかわる担任業務は正比例の関係になっているととらえてよい。つまり、生徒2人の学級担任と、4人の学級担任の業務はごく単純にいって2倍の差がある)。しかし、大所帯で、なおかつ特別支援学校のような完全チームティーチング制のような形態だと、打ち合わせにかかる時間が半端でないのだ。この打ち合わせというのは、全校規模のものから、学部規模、学年規模にいたるまで、多種多様にある。ほぼ毎日打ち合わせがある。
 というわけで、世の中はうまくできていて、どこかの学校だけが忙しいというわけではなく、大規模校だろうが小規模校だろうが、学校というのは忙しくできているということを今さらながらに思うのでありました。

特別支援学校公開研でのひとコマ

2011-02-18 00:11:35 | 特別支援教育
 ウチの学校(とある特別支援学校)の公開研究会でのこと。
 参加された公立中学校の特別支援学級の教師が、公開した中学部の作業学習について質問をした。
「このような長い時間繰り返しおこなう作業というのは、私の受け持ちの生徒にとっては難しいと思うのですが、どういう特性の生徒に向いていますか?」
 この問いに対し、授業者は向いている生徒の特性を述べたあと、次のように聞き返した。
「先生の受け持ちの支援学級は何ですか?」
「情緒学級です」
「ああ、情緒の生徒だったら、こういう作業は向いていますよ」
「ああ…そうですか…?」

 このやりとり、このようにして噛み合わずに終わった。さて、どうして噛み合わなかったかわかるだろうか。

 この噛み合わなかった原因は「情緒学級」にある。
 質問した特別支援学級の教師の受け持ちの生徒は、ADHD傾向の多動の生徒なのだ。だから、長時間の繰り返しは難しいと教師は思ったのだ。
 一方、授業者である養護学校の教師は、「情緒学級」と聞いて、自閉傾向の子どものいる学級と早合点したのだ。だから、長時間の繰り返しは向いていると発言したのである。
 早合点したウチの学校の授業者の側が、悪いといえばそうなのだが、養護学校の教師が「情緒=自閉」と考えたのはベテランであればなおさらである。養護学校の用語としては、それが一般的だからだ。
 けれど現在、普通中学校の特別支援学級の「情緒」には、知的な遅れがない生徒で、特別な支援を必要とする生徒が在籍しているわけだから、高機能自閉だけではなく、ADHD傾向の生徒もいることには違いがないのである。
 そんなやりとりを聞きながら私は、やはり、「情緒」で生徒を括るのが混乱の元なんだろうなあと思った。

 現在、特別支援学級の区分は「知的」「情緒」「弱視」「難聴」「肢体不自由」「病弱」「言語」の7区分となっている。
 一方、特別支援学校はというと、「知的」「盲」「聾」「肢体不自由」「病弱」という従来の区分をやめて(すなわち、養護学校、盲学校、聾学校という名称をやめて)、等しく「特別支援学校」という名称に統一をした。その結果、重度の障害を持った子どもや、重複の子どもも、最寄りの特別支援学校に通学ができるようになりつつある。これは、特別支援教育の理念を反映しているものであり、今後は、さらにそのようになっていくと思われる。
 このような特別支援教育の理念からみて、特別支援学級の現行の7区分というのは、時代にそぐわないものといえよう。
 しかし、だからといって、特別支援学級の7区分をやめた方がいいという意見は学校サイドからは出てこないだろうと思う。

 それは、教職員定数の関係による。特別支援学級というのは学年編成で学級の数が決まるのではなく、学級区分によって学級数が決まるのであるから、この区分を無くしてしまうと、特別支援学級数は現行よりも大幅に減少するのは間違いがないわけで、学級数が減れば、それだけ教員の数も減ることになるから、こうした意見は学校サイドからは出るわけがないということになるのだ。
 ちなみに、特別支援学校も学級編成というのは同様で、学年ではなく障害区分(知的な特別支援学校だったら「知的学級」と「重複学級」の区分がある)によってなされている。

 そういうわけで、今後も、同じ特別支援教育に携わっていながらも、特別支援学級教員と特別支援学校教員の間にある、今回の「情緒」の障害概念の食い違いのようなことが、特別支援教育の現場では頻繁起こるのだろうなあと思ったのでありました。

保護者と学校の悲しい関係

2011-02-11 22:11:10 | 教育時評
 内田樹が『街場のメディア論』(光文社新書)のなかで、今日の医療崩壊や教育崩壊というのは、医療や教育を商取引のモデルとしてとらえるようになった帰結であるとし、わかりやすい例として、病院が患者を「患者さま」と呼びはじめてから患者のモラルが低下した、というようなことを述べている。そして、こうやって医療側から「患者さま」と呼ばれることにより、患者は、「消費者的にふるまうことを義務づけられる」と言うのである。
 なるほどなあ。私は、これまで内田氏については、教育論以外だったら「凄い見方をする人だなあ」と感嘆してしまうけど、この人、こと教育論になると途端に頓珍漢な論述になってしまう人だと思っていた。けど、今回は違った。この内田氏の論述、教育論の文脈ではこれまで誰も言っていないと思う。   
 教育論の文脈に、この内田氏の論述をあてはめるとこういうことになる。
 これまでの保護者の理不尽なクレームに関する論述は、諏訪哲二や諸富祥彦などが指摘していることだけど、学校にやってくる保護者の理不尽なクレームの多くは、学校側の指導の内容に対する「消費者」としてのそれであって、学校側はあくまでも「教育」の文脈で保護者と対峙していたために、保護者と学校の溝は深まっていく一方だったというものである。そのため、保護者と学校はわかりあえない、という悲しい結論になってしまっていた。けれど、内田氏の論述でいけば、今後、学校が保護者を「消費者」としての対応をすればするほど、保護者はより「消費者的にふるまうことを義務づけられる」ということになり、なおのこと学校と保護者はわかりあえない、というもっと悲しい結論になるのである。
 ただ、この指摘、言われてみれば、現場ではすでに実感していることじゃあないかと思う。
 学校現場は、すでに保護者の理不尽クレームについて、「教育」の文脈で対峙することは完全に降りている。じゃあ、現場では、理不尽クレームについて、何をやっているのかというと、マニュアルによる対応の徹底である。まさしく「お客様相談窓口」的な対応なのだ。つまり、保護者とのガチはするな、ということ。
 学校では、電話は誰に取り次ぐか、どういう言葉遣いをするか、電話で言ってはいけない禁句は何か、保護者が来校したらどこに通して、どこに座らせて、はじめに誰が対応するか、しまいにはコーヒーとお茶とどちらを出すのが良いかなんてのに至るまで、こと細かなマニュアルが作られて、(恐らくは)「教育計画」のなかに「危機管理対応マニュアル」と共に綴じられている。学校は、理不尽なクレームについて、保護者には「教育」の文脈で語らず、とにかく「消費者」として扱うということになっているのだ。
 しかし、そういう保護者対応をすればするほど保護者は「消費者」として、学校の指導の内容に対して「消費者的にふるまうことを義務づけられていく」ということになり、いっそう「消費者的」になる。つまり、理不尽クレームを今後も過大に突きつけていくという予想がたつのである。
 ちなみに、こうした人間の行動を、行動分析の世界では「強化」という。つまり、学校が保護者を「消費者」として扱うほど、保護者の「消費者的」な行動が「強化」される、というような言い方をする。
 それはともかく、学校は、理不尽なクレームをつけてくる保護者に対して「消費者的」な対応をしたとことで、何も問題の解決にはならないということなのだ。これを解決するためには、学校は今一度「教育」の文脈で保護者とガチンコしなくてはいけないのであるが、そんなことは、もう今さらできることじゃあない。時代は変わったのだ。時計の針は戻らないのである。つまり、どうにもならないという、やっぱり悲しい結論になるのでありました。
 なお、特別支援教育でも、保護者からの理不尽クレームは多いと聞く。
 私は、客観的な資料は持ってないから、ここから先は、私見にしか過ぎないんだけど、特別支援教育のほうが、理不尽クレームは多いんじゃあないかなあと思っている。それは、これまでの文脈に沿って言えば、保護者は、子どもが幼少の頃より「消費者的」にふるまう場面が多かったため。すなわち、特別な支援に関する福祉的サービスを受ける経験が比較的多いので、子どもの養育全般について「消費者的」なふるまいが強化されたのだろうと思う。そして、そうした「消費者的」なふるまいが学校への要求としてあらわれるのだろうと思う。
 だから、私は個別懇談などで、「教育」の文脈で子どものことについて話をする保護者については(というか、私は「消費者的」なふるまいをする保護者にはまだ出会っていないのだけど)、とにかく尊敬をするのである。

ラーメン屋は地デジじゃなかった

2011-02-04 22:34:28 | フラグメンツ(学校の風景)
 今回は、メールが証拠となったというのがポイントだろう。
 だって、そういうことをやっていたなんて、みんな、わかっていたことじゃあないの。けど、証拠がなかっただけのことだったのだから。
 それが今回、動かぬ証拠が出たということで、騒動となったわけだ。けれど、それにしたって、今回の問題をスクープ記事のように報道するマスコミもどうかと思うけどね。NHKだって、そんなこと、知ってたくせにね。わが国では公然の秘密だったわけだしね。それを信じられないような論調で報道するのをみて、わが国のマスコミのカマトトぶりには呆れてしまった。私だって、中学生の頃から知っていたし、日本人なら誰だってわかっていたことだったと思うけど。
 というわけで、メールというのは、今世紀の恐ろしいアイテムなったものだと改めて思った次第。と、ここまで考えて、次に私が関連して思ったことは、こんなこと。バカな教師の、いかがわしい行為の摘発というのは、大体が補導された少女のメール履歴からアシがつくというもの。1年前の買春容疑で出勤直前にいきなり逮捕されるとか、そんなことが普通に起こっている。たとえ、金銭のやりとりがなくとも、写メのデータが残っていたことで、わいせつ画像所持だか何だかの容疑で逮捕された教師もいる。もちろん、これら教師には全く同情の余地はないので誤解なきよう。ただ、これもメールがなければ、そういう行為は摘発されないだろう、とは思っただけのことである。と、いうか、メールがなければ、出会い系自体、存在しないだろうけど。

 なんてどうでもいいことを、ラーメン屋のカウンターでアナログ放送のテレビ画面を観ながら思ったのでありました。