憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

今年も終わりだ

2007-12-29 23:00:27 | フラグメンツ(学校の風景)
 今年も終わりである。
 昨日が仕事の納めであった。
 このBlogも1年が経った。
 当初の予定では,しばらく週1回のペースで更新して,慣れてきたら増やしていこうと考えていたが,結果的に週1回のペースの更新がやっとこさであった。それでも,休みなく更新できたのは,我ながらよく頑張ったと思う。
 さて,この1年を振り返ってみて,私の大きな出来事はというと,やはり特別支援学級の担当になったことである。4月より,普通学級の担任と社会科教師を辞めて,特別支援(情緒学級)担当となった。いわゆる教壇に立つということが無くなったのだ。
 現場でこれまでとは違うポジションに就くことになり,結果として,いろんなことを新しい視点で考える機会となった。また,より深いところまで考える機会にもなった。
 どれくらい深く考えたかというと,教育とは何か,というところまで考えた。
 もう,いい歳になって,まさか,そんな深いところまで考えねえだろうと思っていたので,私自身けっこう驚きであった。
 障害を持った子どもへの教育(学校に通えない重い障害を持った子どもにも教育を受ける権利があるわけで)とは何なのか,と考えていくと,普通一般の教育の目的とは違っていくのだ。
 学力向上ではないし,生きる力でもない。人格の陶冶も,遠い。情緒障害の子どもにそれを当てはめるのは,ツライ。
 今のところの私は,「人間の尊厳」といったようなものなのだろうと考えている。
 障害が重い子どもへの教育とはと考えていくと,人が人であるための「尊厳」みたいなものなのであろう。こんなこと,学校現場を通して実感するとは,思わなかった。
 これが深いところ。
 もちろん,こんな深いことを常に考えているわけではなく,日常では,キレた子どもをなだめる方策とか,席についていられない多動の子どもへの言葉がけとか,そんな対応で毎日を過ごしていたのであった。
 来年は,もう少し仕事も慣れてくるだろう。
仕事に慣れて,余裕も生まれれば,また,あれやこれやと考える余裕も生まれるであろう。そんな余裕が生まれることを願いつつ,このBlogのほうも,なんとか週1回以上更新できればいいなあと思うのであった。

教員免許更新制の導入が決まった

2007-12-28 21:51:03 | 教育時評
 教員免許更新制が2年後に導入されることに決まった。
 この制度,どうして導入されるのかが私には皆目わからない。
 いや,これまでの教育再生会議の議論なんかを追っていくと,更新制導入を求める経緯はわかります。それくらいの理解はできます。
 しかし,文科省の通達を読むと,その再生会議などでの議論を踏まえたものとは到底思えないのである。皆目わからない理由はそこにあるのだ。
 というわけで,以下,いかに私がこの制度についてわからないかを書く。

 まず今回,導入が決定した教員免許更新制の概要を説明しよう。
 導入の目的は,「教員として必要な最新の知識技能を得ること」。
 そして,2年間の間に,30時間以上の講習を受ける。講習の内容は,現在検討中とのことであるが,教職課程のある大学で受け大学が修了認定をする。
 これを10年毎に行い,教員免許を更新する。
 以上だ。

 この更新制ついて,私がわからないのは,大きく2つだ。
 1つ目。そもそも,教員免許の更新が議論されたのは,「指導力不足教員」や「不適格教員」の問題がクローズアップされたためではなかったか。すなわち,授業ができない教員,生徒指導ができない教員の存在が明らかになって,その対策ではなかったか。そして,教育再生会議をはじめとする,各種会議では,そういう教員は排除,すなわち教壇に立たせない方が望ましいというトーンで議論されたのではなかったか。
 そうであるならば,この更新制は,当初の議論からは大きく外れたものとなっていよう。運転免許の更新と同じようなものだ。更新時講習を受ければ,誰もが免許の書き換えが完了するのと同じシステムではないか。つまり,不適格教員を排除する目的にはなっていない。
 何のための更新なのか?
 いままでのシステムでは,問題があるから導入するんだろう。そして,導入することにより,その問題が解決されなくては意味がないじゃないか。
 不適格教員の議論は措くとして,それでは,先に掲げた目的,すなわち「教員として必要な最新の知識技能を得ること」,これが果たして達成できるか。
 2年間で30時間以上の講習というのだが,これは,日数にすれば5日間ないしは6日間の講習ということだ。夏休みの1週間大学に通えば修了認定というわけである。
 これ,講習の内容にもちろんかかわるが,この程度の受講で,不適格教員を含めたわが国の教員がレベルアップすると思っているのであれば,随分とまあオメデたい話である。
 たかだか1週間の講習で,たとえ教科だけに特化したとしても,それでどれだけの質の向上がはかられると思っているのだろう。本当に,わが国の教員の質を向上させたいのであれば,最低でも6ヶ月は現場から離れて,研修をさせる必要があるだろう。大体,30時間という数字は,一体何の数あわせなのだろう。
 2つ目の問題に移る。2つ目は,すでにある研修との整合性である。
 例えば,私は教職12年目であるが,私の場合でいうと,教員になった年に初任者研修があり,教員11年目だった昨年度に10年研修というのがあって,それぞれ40日間の研修を受けた。
 初任者の時の40日間はいいとして,10年目研と今回の更新制とは,どう整合するのかがわからない。
 更新制の導入後も,40日間の10年研は継続されるというから,教職10~12年目の教員といううのは,ダブルで研修があたるわけである。では,10年研での研修と,更新制での研修と,内容はいったい何が違うのだろうか。
 去年の経験でいえば,私は夏休みの間,母校である教員養成大学に5日間通って,専門である中学社会科の講座を受講した。その他にも,冬休みには,教育心理の講座や生徒指導関連の講座を受講した。この10年研の大学での講座と,免許更新制での大学での講座はどう違うのか?
 おそらく,違いなど持たせようもないのだ。そうであるなら,10年研は廃止ないしは,更新時講習と同様にするなどでいいように思うが,今のところはそのような措置にはなっていない。
 また,免許更新制が導入されるときに,当然ながら,現在ある初任者研修や10年研の研修について,何らかの成果なりを議論すべきであろうが,そのようなことにもならない。
 つまり,10年研が導入されて,確か5年くらいになると思うが,その研修では,免許の更新に足る研修になりえていないのか。もし,なりえていないのであれば,10年研なんてやめてしまえばいいではないか。あるいは,なりえるのであれば,そもそも10年研とさらに免許の更新は,抱き合わせでいいだろうと思うのだ。

 巨額の税金が投入されるのであろう。
 果たして,世論の批判に耐えられるのだろうか。
 実に,不可解なまま「教員免許更新制」は2年後に導入されていくのである。
 

やはり教師の組織力は必要なのだ

2007-12-21 22:46:11 | 生徒指導論
 人というのは,実に手前勝手なもので,自分の寄って立っている場の都合のいいようにものを考える。特に,私のような輪をかけて手前勝手なものは,当然のようにいかにして自分の都合がよくなるかということだけで,ものを考える。
 私が新卒から30歳にかかるまでの頃,私は次のような主張をしていた。すなわち,学校教育というのは,何といっても教師の組織力が重要である,と。つまり,学校現場では,一人ひとりの教師の力なんてたかがしれているのだ,教師間の組織力で生徒指導をしなければ,もう立ち行かなくなってきているのだ,というようなことを主張していた。
 どうして,こんな主張をしていたのかというと,当時は単に私がまだ一人前ではなかったということに尽きる。一人前でなかったから,教師集団という組織に頼らないと生徒指導力を発揮できていなかったのだ。だから,組織の力を利用して,自分の生徒指導力を発揮せよという主張になっていたのだ。
 さて,時は流れて現在の私。教員生活12年目。おかげさまで,何とか一人前の教師になりました。当たり前である。だいたい,36歳にもなって,私はまだまだ半人前ですなんて言おうものなら,教員辞めちまえというものだ。
 ここで言う一人前というのは,つぎのようなレベルのことを言っている。それは,生徒指導なり学級経営なり,大きなミスもなく,つつがなく仕事ができますよ。学級経営に関しては,この先,絶対に学級崩壊はしないという保障はありませんが,…多分,しないと思いますよ。あるいは,崩壊学級の後任を任されたとしても,嫌ですが,断りませんよ。学年・学校経営も,与えられた仕事は,無難にこなしますし,何か提案せよといわれたら,自分なりの方策を持って提案しますよ…。と,何のことはない,ごくごく普通の平々凡々の教師のことである。
 普通の教師が学級経営・教科経営をする場合,学級の成員によって経営がしやすいとか,しづらいということはあるが,経営できない(=崩壊してしまう)ということは,(多分)ない。(絶対ないとは言い切れないという意味で,“多分”ない)。同様に,普通の教師が生徒指導をする場合,生徒によって指導がしやすいとか,しづらいとかはあるが,指導ができないということはない。ただ,自分が指導したっていいけれど,隣りの席のA先生に指導してもらったほうがうまくいくだろうとか,まずは養護教諭のB先生に話を聞いてもらって,その後に私のほうから指導を入れたほうがいいだろうとか,そういう判断のもと自分が指導するのを避けるというのは,中学校の現場ならままある。こういった自分が指導するよりも,他の教師に指導してもらうほうがより良い結果になるだろうという判断ができるというのも,一人前の教師の資質のうちである。もちろん,現場において,本当はこういう生徒は,養護教諭がしっかりと母性的な優しさで話を聞いてやったらいいんだけどなあ,と思うものの,現任校の養護教諭にはそういう力量がないと判断する場合は,自分で包み込んでやるしかない。そういう他の教師の力量を見極めた上で,他の教師に指導を頼めるというのも,一人前の教師の資質のうちである。
 そして,一人前の教師といえるためには,やはり自分のケツは自分でふけなくてはならない。たとえ,生徒指導や学級経営でミスをしようとも,自分のことは自分でなんとか対処できなくては一人前とはいえない。他の教師の手をわずらわせたり,ましてやケツをまくるなんてのは許されないことだ。
 普通の教師なら,いわゆるモンスターではない限り保護者とトラブルになることもないが,たとえ保護者からクレームがきたとしても,自分で対処できますよということである。ただ,自分が対処したっていいのだけど,学年代表なり,教頭が間に入ったほうが,うまく対処できると判断する場合には,当然のごとくお願いをすることに躊躇するべきではない。もちろん,教頭が間に入ったほうがいいけれど,この案件の場合は,ウチの教頭に頼んでもなあという場合もある。これは,先程の養護教諭の例の場合と同じで,他の教師の力量を見極めたうえで判断するということになる。
 さて,こういう一人前になった私が夢想するのは,教育現場で,私のような自分で自分のケツをちゃんとふける教師だけの集団だったら,どんなにいいだろうということだ。現場で働くすべての教師が,他の教師のフォローなく仕事ができるのであれば,誰も組織に頼らなくてもよくなる。そうなると,自分の仕事はどんなにか楽チンになるだろうということだ。
 もちろん,一人前だから自分ひとりで生徒指導や学年経営をしたっていいのだけれど,他の教師と組織的に指導をしたほうが効率がよいと判断した場合は,組織的に指導すればいいだろう。そういう判断ができるのも,一人前の教師の資質のうちである。ただ,教師集団として組織に頼る教師がいない分,教師集団が組織にかかずらうこともなく,ましてや他の教師の生徒指導の足を引っ張るなんてようなこともなくなるので,教師の仕事はとてつもなくやりやすくなるに違いない。
 と,ここまで主張して,では現在の私は,教師の組織力なんて必要ないという立場なのかと思われるかもしれないが,そんなことはない。
 やはり,現場では教師の組織力は必要なのだ。
 なぜなら,一人前の教師だけで学校現場は成り立っていないからである。
 現場には,経験不足の新卒の教師がいる。彼らには,まず間違いなく他の教師のフォローが必要である。
 また,いい歳して自分で自分のケツをふけない教師が存在するのも事実である。
 こういう教師は放っておいてもいいのだけれど,たちが悪いことに,放っておくと一人前教師の仕事の領域に必ず侵入してくる。それは,事務的な仕事しかり,生徒指導案件しかり,である。であるから,私たちは,自分の身の安寧のためにこういう教師をフォローしなくてはいけない。そこに必要となるのが,教師の組織力ということになる。
 最近,こういうケツのふけない教師を不適格教員として排除していこうという主張がある。
 どこからを不適格とするかで,議論はわかれるところであるが,中には教員の20%を不適格とするというものすごい意見もある。私は,そこまでの排除には反対である。排除したいんだったら,多くて5%,20人に1人くらいにしておけ,と思っている。というのは,それだけ排除した分だけ,教員をどこかから補充しなくてはいけないからである。どこからか補充するにしろ,当然ながら教師の経験のないのがやってくるわけであるから,教員全体の質はもっと下がっていく。そうなると,現場では一人前教師のフォローがますます必要になっていくということである。であるなら,現場教師だったら,不適格教員の排除については,声高に主張しない方がいいですよと私のようなものは思っている。
 しかし,現役教師の主張をみると,やはりデキる教師ほど,不適格教員はクビにしろと強く主張している。やはり,できる教師というのは,いろんな場面でよっぽど他の教師のフォローさせられてんだろう。
 そうでない私のような普通の教師は,不適格教員をクビにすることは反対しないけど,そこそこにしておきなさいよと主張する。
 じゃあ,不適格教員のクビに反対する教師というのは,どの程度の教師かというと…。
 そういうわけで,人というのは自分の立場によって,都合のいいようにものを考えるわけなのである。
 

ホメるということ~その4

2007-12-14 22:57:53 | 生徒指導論
 あまりにも当たり前すぎて気にもなっていないのであろうが,教師は生徒が自分の近くに寄ってくるということに,もっともっと幸せを感じるといいと思う。
 私は,生徒が近くに寄ってくるだけで嬉しい。それだけで,もうニコニコしてしまう。もちろん,生徒にとっては私に用事があるから寄ってくるわけで,用事がなければこんなオッサン教師には一瞥だにするわけがない。だからこそというか,寄ってきたときには嬉しくなってしまうのである。
 恐らく,この私の感覚は,学級経営なり生徒指導なりで苦い経験をしたことのある教師なら,よーく理解してくれるんじゃないかなあと思う。あの,生徒との関係がうまくいかないときに,生徒に避けられる,嫌悪されるという経験を積んだ教師であれば,生徒が自分のまわりに寄ってくるというのは,それだけで幸せと思うのではないか?
 私も人並みの教師であるので,かように学級経営で失敗した経験を持っている。
 その経験を踏まえていえることは,とにかく生徒が寄ってくるだけで嬉しいということだ。で,嬉しいので,生徒にはニコニコして接する。それは,生徒と接するときは常に笑顔でいなさいとか,そんな教師の指導技術レベルの話ではなく,単純に生徒と接するのが嬉しいというレベルの話である。
 また,私は,生徒に寄ってきて欲しいと常に思っているので,意図的に生徒が私のもとに寄ってくるような活動を仕組むこともする。
 社会科の授業を持っていたとき,社会科の連絡係を学級ごとに決めておき,必ず授業前に職員室の私のもとに寄らせるようにする。もちろん来た以上は何からかの仕事を与える。このとき,私は間違いなくニコニコしている。そして,「これをお願いします」とか「いつもどうもありがとう」とか,必ず敬語で接し,お礼を言う。それは,自然に出る。
 あるいは授業中,生徒が私のところに寄ってくる方法を考える。私が,わりと出した指示は「ノートに書けたらもっていらっしゃい」というやつ。この指示の本意は別のところにあるのだが,私の場合は,意図的に私のところに寄ってくるための指示として使う。
 で,わざわざ見せに寄ってきた生徒に対して,私はとても嬉しい気分になるので,高圧的な態度にはならない。「ああ,いいねえ」とか,「ちゃんと書けているね」とか,言っても言わなくてもどうでもいいようなことを言ってニコニコしているということになる。
 教師が机間指導をするのと,生徒が教師のもとにノートを持っていくのと,生徒にとってどっちが気分いいだろう?本当のところは,生徒に聞かないとわからないが,おそらく教師にノートを覗き見られるのと,自分から見せに行くのでは,やはり後者のほうが気分いいんじゃないかなあと私は自分に都合よく思っている。
 あるいは,学級の時間。生徒が私のところに寄ってくる方法を考える。今時期であったら,2学期の反省とか,冬休みの計画表づくりとか,そんな時間が学級内で持たれることと思う。私は,アリエルだとかいうキャラクター(生徒には,「先生の好きな人魚のねぇちゃん」と言う)のハンコを用意して,「プリントができたら持っていらっしゃい」といって教卓で待つ。そして,持ってきた生徒からペタンペタンとハンコを押して,その場で返す。(提出した生徒のチェックはしておく)。そのときも,私はニコニコしている。生徒が自分からプリントを見せにくるのだから嬉しいのだ。で,2学期の反省プリント(作文)なら,その場でサーっと読んで「2学期は頑張ったんだね」とか言う。また,冬休みの計画表だったら「いい計画だね。計画通り過ごせたらいいね」とか,まったくもって箸にも棒にもかからない,実に言ってもいわなくても,どうでもいいことを笑顔で言って生徒に返すのだ。
 さて,前回より「ホメる」議論をしている。今回が最終回だ。
 ここまでの私のしょーもない実践を踏まえて,「ホメる」議論をしよう。
 社会科の授業での「ああ,いいねえ」「ちゃんと書けているね」とか,学級での「2学期は頑張ったんだね」「いい計画だね」という言葉,これは,まさしく「ホメている」状態である。けれど,私にしてみると,そんなに大上段から「ホメている」つもりはない。それに,かけている言葉としては,実に適当などうでもいい言葉である。もちろん「おだてる」つもりもないし,「評価」や「期待」も,まあ,うわべだけといっていいだろう。
 では,この「ホメる」は,どういう意味合いか。
 ここでの「ホメる」は,すなわち「共感する」である。これが,前回から続いた「ホメる」の作用の3つ目にあたる。
「共感する」というのは,生徒の活動に対して,「ああ,いいねえ」「ああ,そうなんだ」と教師が感じることである。そして,その共感している様子を生徒に伝えることがすなわち「ホメる」ということなのだ。
 と,今回もまた,たいそうな主張をしているかもしれないが,恐らく教師なら日常ごくごく普通にやっている教育行為であろう。だから,今回もまた,これといって斬新なことは述べていない。
 それに,「共感する」なんていうのは,そんなに意識してすることでもない。「いいなあ」と思えば,それは生徒にはすぐに伝わる。逆に,共感したことを言葉に尽くせば尽くすほど,「共感」の感情は離れていく。だから,あんまり言葉はいらない。「いいなあ」と思うだけでいいのだ。
 では,その「いいなあ」という「共感」の感情を持つにはどうすればいいか?
 それは,例えば,生徒が寄ってくるだけで嬉しいなあと思いながら生徒に接したりすることだろう。
 だから,この「ホメる」=「共感する」という行為は,これまで述べた,「ホメる」=「おだてる」,「ホメる」=「評価する」より,ずっと簡単なことだと思う。だって,生徒が寄ってきたら,ニコニコしながら「嬉しいなあ」「幸せだなあ」と思えばいいのであるから。だから,私のような面倒くさがりやの教師でも,普通にできるのである。
 ただ,その「共感」している状態がすなわち,「ホメる」行為の1つであるという認識はしておくとよい。なぜなら,自分の教育行為をこうやって意識することが,いわゆる生徒指導力の向上につながるであろうと思われるからだ。
 以上,「ホメる」について,ひとまずおしまいです。


ホメるということ~その3

2007-12-07 23:05:49 | 生徒指導論
 ホメ上手か,そうでないかと問われれば,私はやはり後者であった。
 常々,もう少し上手に生徒を「ホメる」ことができればなあ,と思っていた。
 そもそも,教師というのは,生徒の悪いところはすぐに目がいくものだ,とよく言われる。であるからこそ,きちんと生徒の良いところに目がいくように,そして,生徒の良いところをすかさず「ホメる」ことができるように日々生徒と接しなさい,というわけである。なるほどなあ,全くその通りだなあと,素直な私は納得していた。うら若き20代の青年教師の頃のことである。
 あるいは,ホメるにはタイミングが大切であるなんて言われたりする。そんなこと言われると,ますます尻込みしてしまう。ホメるというのは,実に高等な教育行為なのだなと謙虚な私は納得していた。前途有望な新卒教師の頃のことである。
 さて,そんな前途有望な青年教師も,10年すれば普通にフケこむ。教師修行をしようがしまいが,ただ年だけはとっていく。気がつけば,私はどこにでもいる普通のオッサン教師になってしまった。
 もうこの年になると,うら若き頃の素直さなんてとっくに霧散する。だいたい素直さや謙虚さは教師のキャリアには役に立たないとわかるのには,10年を要するということだ。この年になると,いかに最小限の労力で最大限の教育効果を上げようかなどと,小賢しいことばかり考えるようになる。そんなオッサン教師になって思うのは,「ホメる」というのは,そもそも小賢しい教育行為ではないかということだ。
 だいたい,心にもないことを言って,生徒をその気にさせようなんていう魂胆が実に浅ましいではないか(ホメる=おだてる)。教育行為のなかでも全くもって下等な行為である。
 と,そのような考えに及んで,フト気がついた。そうか,「ホメる」という浅ましい教育行為は,そもそも浅ましい私にピッタリなのだ。
 そういうわけで,最近は全く自然体で生徒を「ホメる」ことができるようになった。
 別に,生徒の良いところ見つける必要なんてないのだ。良ければ「ホメる」(=評価する),悪ければ「ホメない」(=指導を入れる)それだけのことだ。タイミングなんてどうでもよろしい。ホメ言葉も「いいね」でじゅうぶんである。言うのすら面倒だったら,笑顔でうなずけばよい。
 浅ましい教育行為なのであるから,努力とか修行とかはなじまない。せいぜい必要なのは,小賢しさというか,計算高さというか,そういうよからぬ発想である。
 と,言ってはみたものの,恐らく,多くの教師もまた私のように,「ホメる」ことである程度の計算は働かせていると思う。すなわち,この生徒にはこういう言葉をかけると,こいつはこんな風に思うだろう,というような計算である。あるいは,学級指導のような場において,こんな言葉をかけると,こんな学級になるだろう,というような計算である。
 このような計算高い教育行為が,いわゆる「ホメて育てる」という本質的な意味なのだと思う。
 だから,「ホメる」議論でよくいわれる,生徒の良いところを探しましょうとか,ホメ言葉をシャワーのように浴びせましょうとかというのは,私には実に表層的な議論に思えてしまうのだ。なんというか,ナイーブな教師の主張だなあ,と私なんかは思うのだ。
 なんて,ここまで書いてみましたが,皆さんはどうお考えになるでしょうか。
 この主張には,どうも違和感があるなあという方も多くいることが予想されます。
 なかには,「ホメる」という行為が,浅ましいなんて,とんでもない!と思われた方もいることでしょう。
 それは,もっともなことです。
 実は,「ホメる」という教育行為には,「おだてる」「評価する」のほかに,もう1つの側面があるのです。
 そういうことで,次回,ホメることのもう1つの側面について,議論します。