憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

国をあげて学力の向上をはかれ~全国学力テスト~

2007-04-27 09:31:41 | 教育時評
 今週の24日は「全国学力テスト」の日だった。
 日本全国の小学校6年生と中学3年生全員に,一斉に国語と算数(数学)と生活調査をしたのだから,国家プロジェクトだったといっていいだろう。それに,このようなテストが約40年ぶりに今回復活したというのも,驚いていいことだろう。前回はというと,1966年に実施でした。私は,もちろん生まれてはいないのだけど,聞くところによるとテスト反対の声におされて打ち切りになったらしい。
 そして,しばらくはそれっきりになっていたのだけれど,やはり最近の学力低下の批判を受けて,では,日本の子ども達はどの程度勉強ができるのか,そのデータをとりましょうと,いうことで復活したのでしょうね。
 ただ「テスト」というから,聞こえがよくないわけで,やはり正しく「全国学力・学習状況調査」というべきだろう。一般的にはテストをやったのだから「テスト」でしょ,と思うかもしれないが,教師であるなら,やはりこういう類のもとはテストではなく,「調査」と称するべきだ。生徒ひとりひとりの評価をするわけじゃなく,どの程度の学力なのかというデータが欲しいのだから,「調査」だ。
 本校も,5時間をかけて3年生が調査に協力をしていた。
 さて,この「学力調査」。調査結果は,どのように活用されるのだろう。
 まず言えることは,今回の1回きりの調査じゃあ,日本の子どもたちの出来がいいとか悪いとか判断はできないということだ。
 ここ最近は,学力が低下しているといわれているけど,今回の調査をいろんな角度から分析をしてみたところで,昔と比べられないですから何ともいえませんね。
 もちろん,現場教師には,そんな客観的なデータなんて持ってないけれど,今の子どもの学力は低下していることは,百も承知です。もし,この世の中で,子どもの学力が向上していると主張する教師がいたら,お目にかかりたいくらいなものであります。
 いやね,今の子どもは本当に勉強しなくなったよ。そりゃ私は地方都市の公立中学の教師だから,そんな“今の子ども”とひと括りにするのは乱暴な話なのかもしれない。けれど,大都市圏の有名私立中学の教師も,多分,地方都市の私と同じ感想を持っていると思うなあ。「この名門中学のわが校にして,生徒はこの程度のレベルになってしまったのか…」といったような。
 恐らく,10年キャリアを積んだ教師なら,10年前と今と比べて,いまの生徒は勉強しねえなあと思っているし,20年のキャリアを積んだ教師なら,20年前と比べて,そう思っているのだ。だからといって,教師である私達に,じゃあ今の生徒の学力が昔と比べてどう低下しているのか証拠をみせろと言われても,なかなか困ってしまうのだけど。
 せいぜい,分数のできない大学生を見つけてくるくらいかなあと思う。しかし,それもなあ,証拠にならんだろうなあ。現在の分数のできない大学生と言うのは,昔だったら大学なんかに入学できなかった低学力の18歳が入学できるように,大学の門戸が開いただけということでもあるわけだしなあ。一概に学力低下とは言えないよなあ。という感じはする。
 そういうわけで,今回の調査結果が一つの証拠になってくるのかとも思う。ただ,今回の結果だけじゃあ,今の子どもの学力が低下しているのかどうかなんてわかりようがないから,やはり,毎年行うとか,数年おきに調査して,だんだん低下しているとか,いやいや去年よりも向上したじゃあないかという比較が必要なのだ。
 そういうなかで,この調査結果が生きてくるのである。
 そうであるから,当然公表はすべきである。そして,学校ごと,それが無理ならせめて市町村なりの自治体ごとの成績を示すとなおいい。
 けど,これに世論が反対をしているんですってね。まあ,学校ごとに成績を公表するのは暴論かもしれないけれど,自治体ごとのランキングを公表することになぜ反対するのか,私には皆目わからない。なんで,自治体の学力ランキングを出したらダメなんだろう。何も問題はない。成績の低い市町村の教師のクビが飛ぶなら反対でもしようが,そんなことになりはしない。下位の公表がヤバいのだったら,じゃあせめて,上位の自治体でも公表すべきである。
 なぜか。それは,上位になった理由を,しっかりと分析するべきだと思うからである。本当なら,下位の自治体が,なぜ下位なのかの原因を分析できるともっといい。(今回の生活調査に,保護者の職業を問う項目があれば,おそらく分析精度は高まったかと思うが,いまどきそんなヘヴィな調査はできんわな)。
 それはともかく,その上位の自治体を高学力のモデル地域にでも指定して,国をあげて学力向上をはかるべきである。
 それをせずして,何の調査か。
 巨額の金を使い,国家プロジェクトとしての調査の意味がないではないか。
 けど,そうやってランキングを出すことで過度の競争をあおるという懸念をしている人がいるらしい。
 現場教師として,それは大きな誤解であると言わざるをえない。あのね,皆さんね,ほんとに,ほんとに,今の子どもたちは,勉強していないんだから。間違いなく,わが国の教育現場では,学力低下がおこっているんだから。自治体ごと,どんどん競争して,子どもの学力の底上げをはかりなさい。競争のない今の方がずっと問題である。
 何が過度の競争をあおるだ。学校現場は40年前と何も変わっていないとでもいうのか。無知もはなはだしい。
 もう,本腰を入れて,国家の事業として,学力の向上をはかる時期にきているのだよ。
 

教師の質が低下しているというのだな

2007-04-20 08:13:26 | 教育時評
 つまりは,教師の質が低下しているというのだな。
 安倍首相の肝いりによる教育再生会議での提言を読む限り,つまりはそういうことなのであろう。教育再生会議の提言を読まなくても,世間一般のいわゆる教師バッシングなんていうのも,つまりは教師の質が低下していると認識によるということなのであろう。
 では,その教師の質というのは,どういうものなのだろうと,教師の私は考える。
 相対的に昔の教師に比べて,今の教師の質が低下したとでもいうのであろうか。
 昔というのも,一体いつの昔のことかと思うけど,昔の教師が立派だったなんて,そんなことは全然ないだろう。むしろ,この逆風のなか職責を全うしている今の教師のほうがちゃんとしていると私は思う。授業にしたって,教師の教え方は,今のほうが各段に向上しているに違いない。なぜだかわかるだろうか?それは,昔の子どもと比べて今の子どものほうが,扱いが難しくなっているからである。そうなると,教師としては,技術を向上させなくてはならないのだ。授業の腕だけではない。学級経営にしてもそう。生徒指導にしてもそう。すべては,昔よりも難しくなっている。だから,私は昔と比べて今の教師の質が低下しているとは思わない。
 それとも,教師の質の低下というのは,モラルの低下ということなのだろうか。モラルが低下していると言われると,それはその通りでしょうね。昔の教師と比べて,今の教師のほうが各段に低下しているに違いない。けど,それは教師だけの話ではないだろう。親のモラルだって,昔と比べたら各段に低下しているだろう。別に親と言わなくても,日本の社会全体のモラルが昔と比べて低下しているのだ。そういうなかで,教師のモラルが低下していると言われても,それはその通りでしょうねとしか言いようがない。ただ,それでも教師の立場として言わせてもらうと,他の職種と比べたら教師のほうがモラルは高いのだろうと思うよ。まあ,これは,職業柄当然のことではあるけれどね。
 そういう状況を踏まえて,教育再生会議の提言を読む。
 たとえば,教員免許の更新制の議論。たとえば,教師の能力給の議論。
 これらの議論の前提は,教師の質が低下しているということ。これが議論の前提。そして,教師の質の向上を目指して,これらの提言がなされているわけである。
けれど,そのような提案が実現したとして,本当に教師の質は向上するのだろうか?
 たとえば,教員免許の更新制。
 もう既に,10年たった教師をあつめて年間40日程度の研修は制度化されている。恐らく,免許更新制が実施されたら,この研修(いわゆる10年研修と呼ばれているもの)が,そっくり更新のための研修に代わるだけの話であろう。もう既に導入されていることだから,別段大改革とは思わない。だから,この導入によって教師の質の向上がはかられるとも思わない。
 運転免許を考えたらわかりやすいと思うが,運転免許の更新によるドライバーの質の向上が,どの程度の効果としてあるかということだ。教員免許も同じだ。私は,さほど効果はないだろうと思う。
 しかし,中にはこの更新を厳しくすればいいという考えもあるだろう。しっかり研修しないと,免許を剥奪すればいいという厳しい考えだ。けれど,これもちょっと考えればわかることだけど,更新を厳しくすればするほど,クビになる教師は増える。厳しくするということはそういうことだ。しかし,現役の教師をクビにしていくと,新しい教師を新規採用しなくてはならなくなる。新しく採用するというのは,教師経験のない低品質の新米教師を量産するということだから,結果的に教師の質は低下してしまうのだ。だから,この更新制でクビにできるのは,ドライバーにたとえると,飲酒運転して人身事故を起こしてしまうようなよっぽどひどい教師に限られるのだ。けれど,そもそも,そういうヒドい教師というのは,現在でも懲戒免職なりの処分でクビになっている。だから,わざわざ更新制でクビにする必要もないということだ。
 次に,教師の能力給の導入。
 これ,個人的には,導入は難しいだろうと思うが,もしかしたら安倍政権のメンツにかけて制度化されるかもしれない。けれど,給料に差をつければ,教師はやる気になるなんてなあ。ことはそう単純ではないと思う。
 現在,教師の給料は年功序列である。若い教員の給料は安くて,年寄りの教員の給料は高い。けれど,年寄りの教員が,給料に見合った仕事をしているかというと,そんなことはない。30代40代がやはり中心となって仕事をしているといえる。けれど,年寄り教員の給料を減らせとは誰も言わない。なぜかというと,そのうち自分も年寄りになればもらえるからである(終身雇用制)。けれど,それが良くないとは思わない。年功序列賃金制(と終身雇用制)が確定しているから,教師は組織として仕事ができている。
 もし,この教師の組織性を崩すことも踏まえて能力給を採用するなら,教師の質の向上がはかられるかもしれないが,そこまで深く議論をしているとも思えない。
 教師にとって,自分は能力が高いから給料アップしてもらって自分でどんどん仕事をするということよりも,組織として仕事にあたるほうが有益であるということは,経験を積めば積むほど,実感としてわかるものだ。つまり,学級経営ひとつとっても,特に中学教師は多くの教師との連携のもとで経営しているのだ。そのような学校現場の組織性を崩してまで,自分だけやる気をもって自分だけ給料を上げていこうとする教師は恐らくいない。
 基本的にキャリアを積んだ教師は,優れた組織の維持を優先する。そう考えると,たとえ能力給が導入されたところで,組織を崩していこうという教師はいないだろうから,結果的に教師は今まで以上にやる気になるということは考えにくいのだ。つまり,能力給が導入されてもあまりかわらないということだ。
 このように考えると,教師の質を向上させるのはなかなか難しいのがわかる。
 だから,教師の私としては,教師の質が低下しているという前提をやめて議論した方が得策のような気がするのであるが,そうはならない。
 つまりは,教師の質が低下しているというのだな。

普通の学級経営を目指せ

2007-04-13 07:46:40 | 学級経営論
 新学期がはじまって1週間が過ぎた。
 学級担任をもった教師にとっては,1年間でいちばん忙しい1週間だったといっていいだろう。
 今後,学級担任を持つことはないんじゃないかなあと思われる特別支援担当の私にとって,日本全国の学級担任の皆さんに,忙しいうちが華なんだよとエールを送ろう。
 それはともかく,新学期。学級開き。
 心身ともに張り切って学級経営にあたる教師も多いことだろう。
 どんなにキャリアを積んだって,やっぱり4月は新鮮な気持ちで仕事にあたるのだろうと思う。
 ウチの職員室も同様。20代の教員と転勤してきた教員は,張り切っているのがはっきりとわかる。30代以降の古参教員は,そんなに目立ちはしないが,やはり3月とは違うはつらつさがある。
 こういう姿を見るにつけ,学校現場というのは,たとえ2週間前まで学級が崩壊していて教師もグッタリしていても,4月は心機一転できるわけで,いいことだなあと思う。けれど,これを持続していくのは難しい。やっぱり,そのうちグッタリする教師も多い。
 4月,張り切ることは結構なことだが,中にはちょっと無理しているんじゃないかなあ,と他人事ながら心配になる教師がいる。そういう無理をしてしまう教師というのは,やはり20代に多い。
 無理をしている原因としては,2つある。
 1つは,仕事のペースがわからないということ。これは仕方のないことだ。けど,新卒ならいざしらず,いくら若いといったって,前年度の1年間をしっかり振り返って自分の仕事を冷静に考えられる教師は,ペースをつかむのがはやい。
 もう1つは,自分流の学級経営をやりたいという願望が強い場合。自分なりのイロを出そうなんて考えてしまう場合だ。こういう教師は,学級開きや授業開きをとても張り切る。なかには,学級開きにギターを持ってきて歌を歌ったりする教師もいるだろう。それはそれで否定はしない。ただ,そのテンションで1年間やっていけるのかということだ。こういうところに,学級が崩れている原因があるということに気づくことが大切だ。無理をするということは,それだけリスクを負うことなのだ。
 そこで,私は,次の提案をする。
すなわち,「普通の学級経営を目指せ」という提案だ。
 目立つ必要は全くない。担任のイロを出すなんてもってのほか。当たり前に,テンションを上げずに普通にやっていくのである。今年こそは,いい学級経営をやっていきたいという願いがあるなら,なおさらだ。1年は長いのだ。無理をしちゃいけない。1年間を見据えるのだ。打ち上げ花火はいらないのだ。
 というようなことを,私は,ここ数年来ずーっと思っていたのだが,私と同じようなことを考えている教師がほかにもいるようで,中学校国語教師である石川晋氏の教育ブログ<すぽんじのこころで教育を考える>に次のような主張があった。
 短い主張だから全部載せてしまおう。


「ブラウン管ランナー」という言葉があった。世界選手権やオリンピックの陸上競技(マラソンなど)で、最初にあり得ないスピードで飛び出し、ブラウン管を占領(笑)した後、ずるずると後退して、姿が見えなくなっていく選手を揶揄する言葉だ。今思えば、私も新卒からの数年間、ずっと「ブラウン管ランナー」だった。4月、スタートダッシュは素晴らしい。しかし、6月ぐらいにはずるずると先頭集団から後退していく…学級も授業もだ。最初に無用に力を使うので、後退も激しい。たしかに、私たちの仕事の素晴らしい点は、4月1日にリセットできることだ。新しい仲間、新しい教室、新しい生徒…気持ちも新鮮になって、頑張れる。でも、結局教師に求められているものは通年で働ける力だ。仕事はアベレージでするものなのだ。ブラウン管ランナーにならないようにしたい。

<すぽんじのこころで教育を考える>より
http://suponji.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_9407.html


 石川氏のいうアベレージで仕事をするというのは,いいネーミングだ。私の「普通の学級経営を目指せ」よりも,ずっといい。このアベレージというのは,私が主張していることと同じことだ。
 石川氏が,近年になってブラウン管ランナーを卒業したというのは,やはり仕事のペースをつかんだことが大きいのだろうと思う。
 さて,日本全国の学級担任の皆さんのスタートダッシュはどうだったろうか。
 あり得ないスピードで飛びだした人は要注意だ。ブラウン管ランナーにならないことを願う。
 少々出遅れても大丈夫。学級経営はアベレージでするものだ。1年間を見据えて経営する。その際のコンセプトは「普通の学級経営」だ。
 別にスーパー学級経営をしようなんてリスクを背負うことはないのだ。
 1年間,生徒と楽しく過ごせれば,それでもう十分ではないか。無理せず,1年間のんびり走って欲しいと思う。
 


教師は「徳育」新設に手放しで歓喜せよ

2007-04-06 22:17:26 | 教育時評
 教育再生会議で「徳育」を教科として新設すべきという提案がなされた。
 3月30日付で,次のように報道された。

 政府の教育再生会議は29日の学校再生分科会(第1分科会)で、「道徳の時間」を国語や算数などと同じ「教科」に格上げし、「徳育」(仮称)とするよう提言する方針を決めた。「教科」になれば、児童・生徒の「道徳心」が通信簿など成績評価の対象になる可能性があるうえ、教材も副読本でなく教科書としての扱いとなって文部科学省の検定の対象となりうる。ただ、反対論も予想され、再生会議での議論は過熱しそうだ。   
(2007年3月30日付『朝日新聞』)

 戦後60年,子どもに道徳心を身につけよという議論は,今回に始まったことではない。古くは昭和30年代にもあった。いわゆる特設「道徳」の議論だ。ただ,この時代のことについては,当然ながら,私は生まれちゃあいないので,時代の雰囲気は実感としてわからない。
 仕方ないので,過日,亡くなられた植木等氏を偲びながら,クレージーキャッツの『学生節』の3番の歌詞を載せてみよう。(作詞 西島大)

ひとこと文句を云う前に
ホレ先生よ ホレ先生よ
あんたの生徒を信じなさい
ホレ信じなさい ホレ信じなさい
道徳教育 こんにちは
おしつけ道徳 さようなら
あんたの知らない明日がある
ホレ明日がある ホレ明日がある(以下略)

 特設道徳が指導要領で記載されたのが1958(昭和33)年。この歌は,1963(昭和38)年。当時の時代状況がなんとなくわかる。
 また,最近はというと,2000(平成12)年に教育改革国民会議で,道徳性について議論があった。この時期なると,私も教員になっていたから,興味深く議論を追っていた。曽野綾子氏が,奉仕活動について持論を展開していたのが印象に残っている。けどこの提案は,ついぞ教育の潮流にはなりえなかった。
 さて,今回の再生会議の議論であるが,戦後,何度かあった保守化の揺れ戻しの一形態,特に安倍政権下の保守化の流れのなかで出てきたものという論評は正しいと思う。
 ところで,反動的な主張のひとつに,教育はときの政治的な思惑からフリーであるべきだという議論があるが,これはおかしい。そもそも,学校教育というのは,国家が運営するものである。であるから,その時代の国家の思惑が体現されるのは,至極当然のことなのだ
 私たちは,日本に生まれ,21世紀という現代に生きている。現代の日本人にとって,そこからは絶対にフリーにはなれない。時代性や国家の枠内にとらわれて生きていかざるを得ない。教育もそう。アメリカならアメリカの教育があり,中国なら中国の教育がある。あるいは,日本なら昭和の時代の教育があり,現在の時代に沿った教育がある。それを無視して,何か理想の教育があるような論調をとるのは,私に言わせれば空想的教育主義である
 誰も時代や国家からフリーにはなれない。教育政策もしかり。だから,今回の再生会議の提案が,現在の政治的潮流に沿っているのは当然なのだ。
 そういうなかでの「徳育」新設の提言。現場教師は,どのようなスタンスをとるべきか。
 今回の提案は,行政から現場教師へのありがたーい援護射撃,教師はこの提案に手放しで歓喜すべきである,というのが私の意見だ。
 なぜかというと,こういうことだ。
 そもそも,私たち教師は,現場で「徳育」を生徒に施していないであろうか。
 私は夢想する。
 もし,教師の仕事が,教科の指導だけだったら,どんなに楽チンだろうと。
 毎日毎日,授業だけやっていればいいわけだ。何か,生徒が問題行動を起こしても,知らんぷり。校内でけんかがおこれば,警察に電話。不登校生徒は,児童相談所におまかせ。いじめが起きても,見てみぬふり。いやー,楽チン楽チン。学級崩壊に悩む教師はひとりもいなくなるだろう。だって,崩壊しても放っておけばいいのだから。
 現実は,そういうわけにはいかない。問題行動が起きないように,教師は生徒に指導をする。
「いじめ」の指導を考えたらわかりやすいだろう。教師は「いじめ」防止のために指導する。あるいは,「いじめ」が起きたときにも指導をする。その指導には,当然,徳育的な要素がたっぷりとある。
 先日,NHKの『プロフェッショナル』というテレビ番組に,中学校教師の鹿嶋真弓氏が紹介されていた。http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/070403/index.html
 彼女は,学級経営に構成的グループエンカウンターを活用する。これが,プロフェッショナルな教師の仕事というわけだ。
 こういう構成的グループエンカウンターなども,十分に徳育的要素が詰まっている。あえて,徳目で提示すれば「協力」「信頼」「共生」というところか。つまり,このような徳育的要素を,エンカウンターという活動を通して,生徒に体感させる。そういう一連の活動を通して学級経営を進めているというわけだ。このような学級経営を「徳育」といわずして何と言おう。テレビの鹿嶋氏は,このようなエンカウンターを「特活」や「道徳」のなかでやっているのだろう。今度,「徳育」教科が新設になれば,教科のなかで大手を振ってエンカウンターを推し進めることができるだろう。
 また,今回の「徳育」新設の報道では,評価について記事が載っていた。おそらく,記者が「教科にする以上,どうやって評価するのか」とか質問したのだろうが,バカな質問だ。5段階のような数値化ができるかどうかというような話ではないことくらい,誰だってわかる。「徳育」の評価であるが,簡単に言えば,今までだって教師は評価しているのだ。すなわち,教師の指導それ自体が,生徒への評価なのだ。この意味がわかるかどうかが,プロフェッショナルな記者かどうかの違いだ。つまり,教師が生徒に向けて言う指導の言葉,これが生徒への評価の意味合いを持っているのだから,なにもそんなに難しく考えることではないのだ。
 そういうわけで,「徳育」特設の提案は,現場での指導の追い風である。今まで,学校現場でやっていたことが,大手を振って教科として新設されるのだ。教師は,諸手をあげて「徳育」新設に賛成しようではないか。