憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

雨宮処凛「排除の空気に唾を吐け」

2009-04-30 22:35:46 | 教育書レビュー
 こういうエキセントリックなキャラクターで,社会運動を興していることがとてもいいと思っていた雨宮処凛の新書。
 左派的なメディアにはもはや出ずっぱりといった感がある。ただ,こんなにテレビ向けのキャラなのに,肝心なテレビには,あんまり映らない。それは,彼女のいうように,彼女が指弾しているのが,わが国の巨大自動車メーカーだったりするからなのだろうね。テレビにとってはスポンサーだから。なので,これまでの派遣切りの報道がいまいとつキレが悪いのは,そういう構造だからなのだろう。
 本書では,派遣切りはもちろん,秋葉原無差別殺人,三万人の自殺,メンヘラー,シングルマザー,イラクの傭兵などを取り上げ,わが国の格差や社会的排除について論じている。シングルマザーのネグレクトを弁護する彼女の論述については,私にしてみれば噴飯ものであり,肯定するつもりは全くないが,そういう見方で立論できちゃうんだなあと思いつつ読んだ。
 わが国の格差や社会的排除は,学校現場が抱える諸問題に直結するわけで,そういう意味では現場の困難性の背景を知っておくにはわかりやすい内容といえた。
 明日はメーデー。彼女はテレビに映るかな。

雨宮処凛「排除の空気に唾を吐け」(講談社現代新書,2009)

参観日に行く

2009-04-24 22:36:47 | フラグメンツ(学校の風景)
■このまえの土曜日は,ウチの子どもの通う小学校の参観日だった。新1年生の息子の担任は,新採用の女性教師。新採用といっても,6~7年くらい期限付であちこちの学校で代替教員をやっていたようで,経験はそこそこ豊富。授業を参観する限り低学年も受け持ったことがあるようだ。29歳だとか。独身だろう。家庭訪問のときに妻に聞いてもらおう。
■しかしなあ,この期限付という制度もなんとかならないのかなあ。ようは,教員世界の非正規雇用なわけである。教師になるには,都道府県ごとの教員採用試験に受からなくてはならないのだが,こうやって何年も代替教員として1年単位の使い捨ての立場の期限付が正規雇用目指して毎年試験を受けているのだ。期限付といったって,一般教員と処遇は同じ。バイトやパートタイムではない。業務内容も公務員としての服務規定もすべておんなじである。それで,毎年試験を受けろというのだから,相当にひどい話と思えるけどね。
■それはともかく,参観日。授業は算数。はじまりの部分,おそらく単元名は「かず」とかいうのだろう。「かずをかぞえる」ことから算数教育は始まるようだ。ブロックが教具。昔はタイルだったけど,最近はマージャン牌のようなしっかりしたブロック10個で数を数える学習をする。
■今日がそのブロックをはじめて使う時間だったようで,先生が指示をだす。この指示をみて,あれまあずいぶんとしっかりした先生だと思った。まず,「ふたの開け方はこうやります」と実際に開けてみせる。そして,ひとつひとつ中に入っているものを確認する。「今日は,これは使いませんから箱にしまいます」。指示をだして,子ども達の動きを確認して,次の指示を出す。そうして,今日の授業に必要なブロックとケースを机の上に出させていた。
■こういう指示が,私は最後までできなかった。私だったら,すぐ「はい,ブロックだして」と言ってしまうのだ。そして,言ってしまってから,子どもが混乱する様子をみながら,「ああと,ふたの開け方はわかる?こうやんだよ」,「そうそう,他のものはみんなしまえ。そう,しまえ,それはいらん。これも,いらん。ブロックだけだ。ああと,ブロックとこのケースだ。そうそう,それらを出すんだ。あとしまえ」「できたか?隣と確認しろ。そう。隣と同じか?どうだ?」…,そりゃ,騒然となるわな。
■これはいわゆる「一時一事の原則」というやつで,教師の世界じゃあイロハのイともいえる指示原則。同じときに,二つも三つも指示をだすなという原則だ。けども,これだって13年中学校教師をやっていながら,そしてそんなことはイロハのイだってわかっていながら,いざ子どもの前になると,騒然とさせてしまう私のような教師がいっぱいいる。一方,新採用の女性教師のように「一時一事の原則」なんてコトバなんて知らなくたって,ちゃんと,子ども様子を見ながら,鮮やかに指示を通してしまう新任教師もいるのである。
■つくづく,教師の力量と言うのは,はじめから決まっていると思わずにいられない。力のある教師というのは,新卒から力があるのだ。そうして,この新採用の女性教師は45分間の算数の授業をやりきった。これもまた,学校現場では,すごいことである。新1年生に45分の授業終わりまで,教師の話を聞かせていたのだ。何と言うことはない,ごく普通の対教師の授業風景である。それで,終わりまでちゃんと子どもに話を聞かせることができるとはね,すごいね。ただ,それは,子ども集団も立派なのだろう。ぱっとみて,強烈な多動や注意欠陥の子どもがいなかったのだから。それは,上の娘の集団もそう。4年生なのだが,みんな席についている。ウチの校区は,そうとう落ち着いた子ども集団なのかね。新しい住宅地なのだけどね。
■ちなみに,4年生の授業も少し参観する。こちらも算数の授業。担任は40代の男性教師。スモールユニットでつくられたソツのない授業。起立しての教科書の一斉読み,各自音読,「問題をノートに書きなさい。書けたら持っていらっしゃい」。マルツけ。続いて問題3問。「できたら持っていらっしゃい」。パッとできた子どもにマルをつけ,その子どもを教師代わりのマルつけ係にさせて,教師は個別指導。それも10秒以内。私が見たのはここまでだったが,もう十分。算数はこうでなくっちゃのテンポ感。素敵な学習空間。
■そういうわけで,そこそこ落ち着いているウチの校区の小学校の授業参観でありました。

給食指導のひとこま

2009-04-17 21:01:27 | 養護学校の日常
■偏食の強い自閉傾向の女子生徒に「給食を全部食べ終わるまで,帰しませんよ」と冗談めかしていったら,同じ特別支援担当のA先生に「懐かしい指導ですね」といわれた。昨年の,特別支援学級での給食時間のひとこまである。
■学校現場で,給食を残さず食べさせる指導をしなくなったのはいつ頃からか。私が小学校の低学年だった頃は,まだ担任が強い指導をしていたと思う。30年くらい前の話だ。それがいつの間にかなくなったのは,子どもがアレルギーによる急性ショックで亡くなってしまうというような,痛ましい事故が契機となったこともあったろう。あるいは,飽食の時代を迎えて,食べ残しが「ばちあたり」とはいえなくなったというわが国の風潮もあるだろう。それから,指導する教師自身,好き嫌いがあって指導しづらいということもあるだろう。そんなこんなで,残さず食べさせるような給食指導はなくなったように思われる。
■それでも,小学校の低学年や中学年あたりなら,嫌いなものをひとくちでもいいから食べなさい,とソフトに指導する良心的な教師も多いことだろう。これだって,何も指導しないよりはずーっとすばらしいことだと思う。だけど,それでも平気で残す子どもはいるだろうし,そのことについて,強い指導はできなくなっているだろう。
■そこで,冒頭の給食時間のひとこまだ。女子生徒にはわかるわけがなかろうが,「給食を全部食べ終わるまで,帰しませんよ」の私の言葉が,現在の給食指導への皮肉なら,「懐かしい指導ですね」と返した同僚の言葉も同様の皮肉だ。出されたものを平気で残していいわけがない。
■なんて大層立派なこと言っているけど,私が中学校の学級担任を持っていたころ,給食指導は一切しなかった。なぜか。理由は,ひとつ。好き嫌いをなくすのは,家庭教育だろうということ。中学校の学校現場ではそんな指導はする必要がないという,私の勝手な信念による。だから,ウチの学級が他と比べて残食が多かろうと,私はへっちゃらであった。学級懇談のときに,ある保護者がトナリの学級では給食を残さない指導をしているようですがと言ってきたところで,「ああ,そうですか」と微笑みたたえて対応しつつ,腹の中ではアッカンベーをしていた。
■なんなことを思い出しながら,養護学校の子どもと給食を食べる。そこは,まさしく指導の時間。究極の目標は偏食をなくすこと。いやいやをする子どもには,時には押さえつけてでも食べさせる。ただし,人間,本当に腹がすいたらどんなものでも食べるであろうから,この指導はさほど切実感はない。押さえつけるといっても,遊びの範疇だ。
■好き嫌いのある子どもも,寄宿舎で生活するようになれば,何でも食べるようになるという。その点,自宅から通う生徒は,学校で指導をするけどなかなか偏食がなおらないという。ほらね,だから偏食の指導は,家庭教育っていってるでしょ。

ボタンとファスナーとホックと

2009-04-10 00:43:05 | 特別支援教育
■ボタンとファスナーとホックのつけはずし。どれがいちばん難しい?ボタンか?ファスナーか?ホックか?そもそもこれら3つに難しさの順番はつけられるのだろうか。それとも,子どもによって得意不得意があったりするのだろうか。ボタンはできるがホックはできない子がいたり,ボタンはダメだがホックはできるという子がいたりというような。
■もし,ボタンとファスナーとホックに確固とした難易度があるのなら,系統だった生活指導ができるだろう。けど,そんなものがなければ,生徒を観察して個々に目標を決めて指導するしかないだろう。それから,私が思うに,おそらくこの3つができないと,ベルトのとりつけは無理ではないだろうか。そして,ボタンもファスナーもホックもベルトも無理な子どもは,ヒモ結びは確実に無理だろうとも思う。
■そんなことを考えながら,着替えの介助をする。自立を目指すのだから私の役目は介助ではなく指導なのだが,生徒は自分では着替えができないのだから,やっていることは字義通りの介助だ。彼らの着替えを手伝いながら,着替えができるかできないかというのは,人間として自立できるかどうかの関門ということを実感する。
■衣類の着脱が自立の関門というのなら,ボタンやファスナーやホックのない衣類を着用すればいいだろうと思うだろう。例えば,トレーナーやジャージズボンには,ボタンもファスナーもホックもない。これらを着れば自立できよう。しかし,トレーナーやジャージズボンだって難しいのだ。何が難しいかわかるだろうか?それは,衣類には前と後ろの違いがあるのだ。あるいは裏と表の違いがあるのだ。この違いがわからなければ,トレーナーもジャージズボンもシャツもパンツも自分では着用できない。つまり,自立できないのである。
■それにくらべて,食事というのはずっと平易だ。はしが使えなければ,スプーンですくい,フォークで刺せばいいのだ。それもできなければ,いっそのこと手でつかんで食べればよい。もちろん,手づかみでいいわけがないのだが,とりあえず食べるという目的は達せられよう。そういうわけで,着替えと食事だったら,難易度でいえば着替えの方がずっと難しいと私は思う。

特別支援学校の教科書とは

2009-04-03 21:24:05 | 特別支援教育
■特別支援学校で使用する教科書が,準拠していればどのような図書でもいいというのは,知らんかった。特別支援学校用の教科書も教科書会社でつくられてはいる。けれど,子どもの障害の程度を考えれば,子どもにあわせた図書で学習したほうがいいだろう。そこで,準拠教科書として,子どもの障害の程度にあわせて,図書を選定できるのである。なので,教科書といっても,それは,ひとりひとり違っている。
■教科書が運ばれてきたということで,体育館に向かったら,「のんたん」や「ぐりとぐら」や「はらぺこあおむし」や「五味太郎の123」などがフロアにいっぱいとなっていた。それを,子どもの教科書カルテをみながら1冊づつ見付けて仕分けていった。
■教科書なので,すべて教委に報告をあげる。この報告は,やった人ならわかると思うが,結構面倒な業務だったりする。この業務が,特別支援学校では,子どもごとに,全教科の教科書すべて図書が違うわけであるから,子どもごとに報告をあげることになる。すべての図書の報告は,さぞかし大変な業務になることだろうなあと思っていたら,その業務は私の受け持ちとなった。