教育をめぐる今日的問題では、大阪府だけが気を吐いているという感じである。
橋下大阪市長率いる大阪維新の会による大阪府教育基本条例のことである。
ひところ全国的にさかんであった教師バッシングも今ではすっかり終焉し、おかしな教育言説によって現場が混乱せずに済もうかというところに、これである。私には、橋下氏が、大阪府の行政改革のために「教師の質が低下している」という誤った言説を煽っているようにしかみえない。
大阪維新の会が主張している教育改革というのは、大阪の教育をよくして、子どもの成長の向上につなげたい、という発想ではないようである。究極的にはそうだろうが、それよりも、大阪府の地方行政の構造改革という大きな地方行政改革の一環として、教育行政をいじっているというのが妥当ではないか。つまり、純粋に大阪府の学校教育をよりよくしていこうというのではなく、現在進行中である、地方行政への権力移譲や、大阪府の行政改革のなかで課題となっている公務員改革や組合改革をやっていくなかで、そうした牙城ともいえる学校現場を変えてしまおうということなのだろう。
維新の会の主張している、国旗掲揚国歌斉唱の強制についても、国家主義思想的な発想というよりも、多分に組合つぶしというように私には見える。だから、維新の会が国歌国旗にこだわるのは、会の主義思想というよりも、政治的な判断によるものと思う。
教育委員会の改革についても、国家から地方への権力移譲という発想から生まれてきたものだろう。教育委員会が形骸化していることは正しいが、それをわざわざ統治機構をいじって改革をする必要はない。文科省と一戦交えなくても、大阪府行政のなかで十分やっていけるし、その方が実のある改革になる(そういう改革をしている地方自治体が結構存在していることは、反橋下陣営が主張している通りである)。
と、いうような文脈で大阪府教育基本条例は読むべきであろう。そうでないと、なぜ大阪府で教育改革が必要なのかの説明がつかない。大阪の学校教育はそんなにヒドいのか。大阪の教員はそんなにヒドいのか。他府県と比べて質が低下しているとでもいうのか。
大阪の教育がヒドいという数値化されたものとしてよく話題になるのが、全国統一学力テストの結果だ。全国統一学力テストの成績が最下位に近いというのが、もっともな大阪の教育現場はヒドいという言説を生み出し、現場改革の理由となっていよう。しかしながら、この指標をもってのみで大阪の教育荒廃を言うのは、明らかに無理がある。すでに、本ブログでも数年前に触れているし、おそらく教育統計学の研究者も同様の結論を出していると思うが、統計学的にみて、わが国に学力格差が生まれているという主張はなりたたない。つまり、学力格差は統計学的には存在しないのだ。だから、この指標を持って、大阪の教育は他と比べて劣悪であるということにはならない。しかしながら、現在のところ、これが一番わかりやすい指標には違いがないから、橋下氏の主張は説得力をもってしまうのだろう。
なお、ついでにいえば、この学力テストの順位を上げるのは、そんなに難しいことではない。教員評価制度を持ち込まなくても、すぐに全国順位なんて上げることができる。学力テストに応じた学力に特化して子どもの学力向上をはかればいいだけのことなのだ。けれど、そんな学校教育は、すぐにおかしいと思うだろう。であるならば、学力テストをもって教育の荒廃を説くおかしさも、わかると思う。
そういうわけで、大阪府教育基本条例も、純粋に大阪の教育を向上させるものではなく、行政機構の改革の発想で生まれていると視点で読まなくてはならない。
条例のなかで、話題となっていのるのが、教員評価のところだ。
条例原文は、こうなっている。
(人事評価)
第十九条 校長は、授業、生活指導及び学校運営等への貢献を基準に、教員及び職員の人事評価を行う。人事評価はSを最上位とする五段階評価で行い、概ね次に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。
一 S 五パーセント
二 A 二十パーセント
三 B 六十パーセント
四 C 十パーセント
五 D 五パーセント
2 教員の評価に当たっては、学校協議会による教員評価の結果も参照しなければならない。
3 府教育委員会は、第一項に定める校長による人事評価の結果を尊重しつつ、学校間の格差にも配慮して、教員及び職員の人事評価を行う。人事評価はSを最上位とする五段階評価で行い、概ね第一項に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。
4 府教育委員会は、前項の人事評価の結果を教員及び職員の直近の給与及び任免に適切に反映しなければならない。
5 府教育委員会は、第三項の人事評価の結果を教員及び職員の直近の期末手当及び勤勉手当に適切に反映して、明確な差異が生じるように措置を講じなければならない。
なお、ここには記載がないが、人事評価の結果が2回連続してDであった教員等には、分限処分(最終的にはクビ)をするというのが別表3にある。
一般に教育現場に持ち込まれる人事評価というのは、次のような発想に基づく。すなわち、適切な人事評価をすれば、教員の質があがり、結果、教育の質があがる、という発想だ。しかし、今回の条例案は、そういう発想ではない。繰り返すが、地方行政改革の一環としての教育改革だ。
であるから、人事評価が絶対評価ではなく相対評価になっていたり、とか、2年連続Dはクビにしたり、とか、というユニークな条文になっているのである。
人事評価を給与に反映させるのは、実は教員にとって、大きな関心事ではない。教員のニンジンはカネではない。もちろんカネが無いと喰っていけないし、給与は多いほど嬉しいけど、教員が教員として一生懸命なのは、カネではない。つまり、それに見合う報酬を目的として仕事を頑張るという図式は、教員世界にはない。だから、評価を給与に反映させても、現場には大きな衝撃はない。
だけど、人事評価をする以上、給与に反映させないと、評価そのものがおろそかになることは行政としては明らかだから、評価と給与をリンクさせなくちゃあいけない。しかし、営利を目的とする企業のように、社員が頑張れば企業の業績も上がり、その結果、企業が儲かり、その儲かった分が社員の給与に反映されるというのが、人事評価の発想であろうが、教育現場はそうなっていない。子どもの学力が上がったら、教育予算が増額されて教員の給料も上がるなんてことにはならない。そうなると、決められた人件費のなかで、やりくりすることになるから、当然ながら人事評価は相対評価とならざるを得なくなるのである。つまり、決められた予算内で給与に差をつけようというわけだから、相対評価にして配分をあらかじめ決めておくしかない。
だから、なんで教育の現場に相対評価を持ち込むのか、という教育現場的批判は、残念ながら的が外れる。だって、これは教育の発想じゃあないのだ。
それから、2年連続D教員をクビにするというのも、落ちこぼれは排除するという教育現場らしからぬことだけど、構造改革としてはコスト削減ということからすると、真っ当なことである。人件費の安い新卒教員をどんどん送り込んで、人事評価で給与に差をつければ、コストダウンにはつながるであろう。
ただし、これ、どんどんクビにしたら、大阪の教育現場は大混乱になろう。例えば、毎年2.5%の教員をクビしたら、大阪府の教員の質はそれこそ急激に下がるだろう。ただでさえ、教師のなり手は少なくなってきているのである。そんななか新規採用枠を大幅に増やせば、試験をほとんどフリーパスで入ってくる新人だらけになるわけで、そんな試験制度になったら、だれも真面目に教師を目指して勉強なんてしなくなるだろうから、ますます不真面目な新卒で現場は混乱するだろう。だから、2連連続D教員のクビは、実際にはほとんど適用されないだろうというのが、私の予想だ。
というわけで、人事評価の相対評価と2年連続D教員クビのところは、センセーショナルな改革案かと思いきや、そんなに現場は変わらないだろうというのが、私の見方である。
さて、この人事評価、何よりも注目されるのが、子どもや保護者に評価をさせようというところのようだ。ここについても、よくよく主張を見聞する限りでは、教育改革をうたうわりには、たいしたことを言っていないと思うのだけど、それについては、次回にしたい。
橋下大阪市長率いる大阪維新の会による大阪府教育基本条例のことである。
ひところ全国的にさかんであった教師バッシングも今ではすっかり終焉し、おかしな教育言説によって現場が混乱せずに済もうかというところに、これである。私には、橋下氏が、大阪府の行政改革のために「教師の質が低下している」という誤った言説を煽っているようにしかみえない。
大阪維新の会が主張している教育改革というのは、大阪の教育をよくして、子どもの成長の向上につなげたい、という発想ではないようである。究極的にはそうだろうが、それよりも、大阪府の地方行政の構造改革という大きな地方行政改革の一環として、教育行政をいじっているというのが妥当ではないか。つまり、純粋に大阪府の学校教育をよりよくしていこうというのではなく、現在進行中である、地方行政への権力移譲や、大阪府の行政改革のなかで課題となっている公務員改革や組合改革をやっていくなかで、そうした牙城ともいえる学校現場を変えてしまおうということなのだろう。
維新の会の主張している、国旗掲揚国歌斉唱の強制についても、国家主義思想的な発想というよりも、多分に組合つぶしというように私には見える。だから、維新の会が国歌国旗にこだわるのは、会の主義思想というよりも、政治的な判断によるものと思う。
教育委員会の改革についても、国家から地方への権力移譲という発想から生まれてきたものだろう。教育委員会が形骸化していることは正しいが、それをわざわざ統治機構をいじって改革をする必要はない。文科省と一戦交えなくても、大阪府行政のなかで十分やっていけるし、その方が実のある改革になる(そういう改革をしている地方自治体が結構存在していることは、反橋下陣営が主張している通りである)。
と、いうような文脈で大阪府教育基本条例は読むべきであろう。そうでないと、なぜ大阪府で教育改革が必要なのかの説明がつかない。大阪の学校教育はそんなにヒドいのか。大阪の教員はそんなにヒドいのか。他府県と比べて質が低下しているとでもいうのか。
大阪の教育がヒドいという数値化されたものとしてよく話題になるのが、全国統一学力テストの結果だ。全国統一学力テストの成績が最下位に近いというのが、もっともな大阪の教育現場はヒドいという言説を生み出し、現場改革の理由となっていよう。しかしながら、この指標をもってのみで大阪の教育荒廃を言うのは、明らかに無理がある。すでに、本ブログでも数年前に触れているし、おそらく教育統計学の研究者も同様の結論を出していると思うが、統計学的にみて、わが国に学力格差が生まれているという主張はなりたたない。つまり、学力格差は統計学的には存在しないのだ。だから、この指標を持って、大阪の教育は他と比べて劣悪であるということにはならない。しかしながら、現在のところ、これが一番わかりやすい指標には違いがないから、橋下氏の主張は説得力をもってしまうのだろう。
なお、ついでにいえば、この学力テストの順位を上げるのは、そんなに難しいことではない。教員評価制度を持ち込まなくても、すぐに全国順位なんて上げることができる。学力テストに応じた学力に特化して子どもの学力向上をはかればいいだけのことなのだ。けれど、そんな学校教育は、すぐにおかしいと思うだろう。であるならば、学力テストをもって教育の荒廃を説くおかしさも、わかると思う。
そういうわけで、大阪府教育基本条例も、純粋に大阪の教育を向上させるものではなく、行政機構の改革の発想で生まれていると視点で読まなくてはならない。
条例のなかで、話題となっていのるのが、教員評価のところだ。
条例原文は、こうなっている。
(人事評価)
第十九条 校長は、授業、生活指導及び学校運営等への貢献を基準に、教員及び職員の人事評価を行う。人事評価はSを最上位とする五段階評価で行い、概ね次に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。
一 S 五パーセント
二 A 二十パーセント
三 B 六十パーセント
四 C 十パーセント
五 D 五パーセント
2 教員の評価に当たっては、学校協議会による教員評価の結果も参照しなければならない。
3 府教育委員会は、第一項に定める校長による人事評価の結果を尊重しつつ、学校間の格差にも配慮して、教員及び職員の人事評価を行う。人事評価はSを最上位とする五段階評価で行い、概ね第一項に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。
4 府教育委員会は、前項の人事評価の結果を教員及び職員の直近の給与及び任免に適切に反映しなければならない。
5 府教育委員会は、第三項の人事評価の結果を教員及び職員の直近の期末手当及び勤勉手当に適切に反映して、明確な差異が生じるように措置を講じなければならない。
なお、ここには記載がないが、人事評価の結果が2回連続してDであった教員等には、分限処分(最終的にはクビ)をするというのが別表3にある。
一般に教育現場に持ち込まれる人事評価というのは、次のような発想に基づく。すなわち、適切な人事評価をすれば、教員の質があがり、結果、教育の質があがる、という発想だ。しかし、今回の条例案は、そういう発想ではない。繰り返すが、地方行政改革の一環としての教育改革だ。
であるから、人事評価が絶対評価ではなく相対評価になっていたり、とか、2年連続Dはクビにしたり、とか、というユニークな条文になっているのである。
人事評価を給与に反映させるのは、実は教員にとって、大きな関心事ではない。教員のニンジンはカネではない。もちろんカネが無いと喰っていけないし、給与は多いほど嬉しいけど、教員が教員として一生懸命なのは、カネではない。つまり、それに見合う報酬を目的として仕事を頑張るという図式は、教員世界にはない。だから、評価を給与に反映させても、現場には大きな衝撃はない。
だけど、人事評価をする以上、給与に反映させないと、評価そのものがおろそかになることは行政としては明らかだから、評価と給与をリンクさせなくちゃあいけない。しかし、営利を目的とする企業のように、社員が頑張れば企業の業績も上がり、その結果、企業が儲かり、その儲かった分が社員の給与に反映されるというのが、人事評価の発想であろうが、教育現場はそうなっていない。子どもの学力が上がったら、教育予算が増額されて教員の給料も上がるなんてことにはならない。そうなると、決められた人件費のなかで、やりくりすることになるから、当然ながら人事評価は相対評価とならざるを得なくなるのである。つまり、決められた予算内で給与に差をつけようというわけだから、相対評価にして配分をあらかじめ決めておくしかない。
だから、なんで教育の現場に相対評価を持ち込むのか、という教育現場的批判は、残念ながら的が外れる。だって、これは教育の発想じゃあないのだ。
それから、2年連続D教員をクビにするというのも、落ちこぼれは排除するという教育現場らしからぬことだけど、構造改革としてはコスト削減ということからすると、真っ当なことである。人件費の安い新卒教員をどんどん送り込んで、人事評価で給与に差をつければ、コストダウンにはつながるであろう。
ただし、これ、どんどんクビにしたら、大阪の教育現場は大混乱になろう。例えば、毎年2.5%の教員をクビしたら、大阪府の教員の質はそれこそ急激に下がるだろう。ただでさえ、教師のなり手は少なくなってきているのである。そんななか新規採用枠を大幅に増やせば、試験をほとんどフリーパスで入ってくる新人だらけになるわけで、そんな試験制度になったら、だれも真面目に教師を目指して勉強なんてしなくなるだろうから、ますます不真面目な新卒で現場は混乱するだろう。だから、2連連続D教員のクビは、実際にはほとんど適用されないだろうというのが、私の予想だ。
というわけで、人事評価の相対評価と2年連続D教員クビのところは、センセーショナルな改革案かと思いきや、そんなに現場は変わらないだろうというのが、私の見方である。
さて、この人事評価、何よりも注目されるのが、子どもや保護者に評価をさせようというところのようだ。ここについても、よくよく主張を見聞する限りでは、教育改革をうたうわりには、たいしたことを言っていないと思うのだけど、それについては、次回にしたい。