咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

対談:今風戦争映画「ジャー・ヘッド」の深み(2)

2006年03月03日 08時26分26秒 | 映画
・第二章:先人キューブリック作品の先見性と作風とその比較

<お茶屋>
もしかしてシューテツさんの仲間?>わたくし
なぜかはわかりませんが、ちっとも感動しなかったのですよ。
作り手の言っていることは明確で、その描き方も完璧で文句はないのですが、どうして感動できなかったのでしょう?
私の場合は、映画に色気がなかったせいだと思っているのですが。色気というか味というか…。自分の感想では、「可愛げがない」とスッキリ書いてしまいましたが(^_^;。

<シューテツ>
優等生過ぎるってことなんでしょうかね。でも、そんなに薄っぺらくもないし…。
『ロード・トゥ・パーディション』では、情感豊かなのに反対の乾いているように感じられたり、今回の『ジャー・ヘッド』では深いテーマなのに胸に刺さってこない、イラつきのようなものを感じました。

<お茶屋>
『ジャーヘッド』に関しては、期待値はそれほど高くないつもりでしたが、皆さんのレビューを読むうちに高くなっていたんでしょうかね~(?)。

私は『ロード・トゥ・パーディション』の方は、好きなんですよ。でも、『アメリカン・ビューティー』は面白かったけど好きというほどではなかったです。
サム・メンデスの作品て、節度というか分別があって、登場人物や描いている対象から距離をとっているでしょう?その距離がそのまま作品と私の距離になっていると思います。メンデスは、3作品とも同じ距離で取っているのでしょうが、『ロード・トゥ・パーディション』については、私は父親二名に感情移入できたので感動したんだでしょうね。3作品の中では一番「作っている」感が強い作品だとは思いますが。

<シューテツ>
興味深いお話ですね。
『ジャーヘッド』についてはよくキーブリックの『フルメタル・ジャケット』との比較話が出てきているようですけど、(個人的には、どちらかというと『時計仕掛けのオレンジ』と比較した方がピッタリときます)いわゆるキューブリックの冷徹で俯瞰した見方というのは、今の時代をひょっとしたら先取りしていたのかも知れませんね。
彼の作品が感傷に溺れないのは一つの個性として見なされていましたが、今だと完全に時代に則した表現なのかも知れません。

しかし、彼の作品にも同じような距離があるのですが、私の場合キューブリックは「作品と私の距離」にならないのが不思議です。

で、このような(社会派映画の)作風がこれからも増えていくような(いや、主流となるような)気配が感じられます。
ということは、益々世の中に希望が持てなくなるって事の裏返しでもあるのですけど…。

<お茶屋>
「キューブリックと私」(笑)については、ずっと前から考えたことがあって、キューブリックって映画狂というか映像狂でしょ。巨匠とか鬼才とか言われるけれど、私にとってはどうしても「映画小僧」としか思えないんです。ユーモアもあるし。対象への距離感やクールな映像表現から冷徹とも言われますが、映画というものへの懲り具合は、トリュフォー、ゴダール、ヴェンダースといっしょ。アメリカならスコセッシとか。というのが私なりの分類です。

<シューテツ>
あっ、これは「目から鱗」かも知れません。(笑)
でも、いわれて見ればそういう見方も十二分に理解出来ます。
ただし、フィルムグラフィーを眺めると他の作家よりジャンル的に拘り無く色々なアプローチで哲学的なテーマを扱っているように感じられますので、私的には「映画小僧」よりついグレードを高くしてしまっているようです。f^_^;;

<お茶屋>
確かに選んだテーマは、キューブリックの高尚な一面が現れていると思います。でも、テーマよりもそれを映像でどのように表現するかに重きが置かれているように見えて、しかも映像表現が心底楽しそうなので私にとっては「映画小僧」になっちゃったんですね。
受け手によって巨匠になったり鬼才になったり小僧になったり、これからは変幻監督と呼びましょうか(笑)。

<シューテツ>
それって映画だけでなく、あらゆる分野の優れた芸術家に通じるもののような気がします。それは取りも直さず、技術(才能?)を天から授けられた表現者の“性”の様な気がしますけどね。