咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

『M:i:Ⅲ』&『ローズ・イン・タイドランド』

2006年07月11日 19時35分16秒 | 映画
副題「映画ファンの感想表現の裏表」

『M:i:Ⅲ』鑑賞日時・場所(07/08、ナビオTOHOプレックス)
『ローズ・イン・タイドランド』鑑賞日時・場所(07/10、梅田ガーデンシネマ)
*ストーリー説明及びネタバレなし。

映画の感想の中でよく使われる言葉で、「王道」であるとか「オーソドックス」だとか「期待を裏切らない」などという表現にはどちらかというと“褒め言葉”に属し、普通そういう言葉が入っていると、作品を気に入ったのだ思うのが普通なんだけど、映画ファンという人達が書き手の場合、注意しないと間違った読み取りをしてしまう事がよくある。(と言うのかこれは私の場合だけかも知れないのだが…f^_^;;)
私の場合も全てを褒め言葉としては書いていないし、結構微妙な感情の時によく使うかも知れない。

で、『M:i:Ⅲ』なんだけど、スパイアクション映画として上記の表現がピッタリと当てはまる作品だと思うし、大半のアクション映画好きな人は満足出来るだろうよく出来た作品だと思いますからね。この点では私もかなり満足した。
でもこのシリーズ(前二作品)を振り返り、このシリーズファンってのは、ある意味上記の表現の“逆”を期待している人の方が多いように感じている。
私もその一人で一作目のパルマ監督の起用でお馴染みのTVシリーズ「スパイ大作戦」のイメージと全く違った味わいを出して賛否両論を巻き起こし、二作目もジョン・ウー監督作品もジョン・ウースタイルで作品イメージより作家の個性を優先する方向性には、私は歓迎する側にいたので今回もそういう作家性優先を期待していた。

そして、この作品を観たら、上記の言葉しか浮かばなかった。勿論、良い意味も悪い意味も含んでいるけどね。
いくら映画が面白くよく出来ていても、何か釈然としないものが残ってしまった。
このシリーズの売りは「007シリーズ」と同一化しないところにあったように思っていたのだけど、これでは007シリーズと大差ないし、あのシリーズの「見ている最中のみ面白く、劇場を後にしたら直ぐに内容は忘れてしまう。」という形に限りなく近づいて来たように思えて、何か物足りなさを感じてしまった。
とは言うもののこれはあくまでも“ある映画ファンのつぶやき”であって、映画そのものに対してはなんの責任もないし、一般的には的外れな吐露である。

これとは全く逆の話で、昨日テリー・ギリアムの『ローズ・イン・タイドランド』という映画を観てきたのだけど、この作品を観た後の感想は「グロテスク」だとか「気持ち悪い」とか「狂ってる」「妖しい」「危ない」などという言葉が思い浮かんだのだけれど、これらの表現は上記とは逆に“貶し言葉”に属するのだけれど、それがギリアム監督作品に対しての場合だと、決して貶し言葉では無くなってしまうから面白い。

警告しておきますが、皆さんこの作品をポスターやキャッチコピーに騙されて油断してご覧になるととんでもない事になりますよ。(笑)

ということで話をまとめると、映画ファンと称する人間の感想を決して言葉通りに受け取らない方が賢明だという事ですね。


『バッシング』

2006年06月21日 18時13分52秒 | 映画
鑑賞日時・場所(06/19、シネ・ヌーヴォ)
*ストーリー説明及びネタバレなし。

作品タイトルからして、ガチガチの社会派映画と思っていたら、予想とはかなり違って、社会派映画というより純粋に人間ドラマの作風だと思った。
社会派作品にあるべき社会批判とかメッセージ性は希薄で、目線はあくまでも人間個人の問題を扱っているような気がした。
パンフレットにも書かれていたのたが、この監督は社会派映画を撮った事も無い(敢えて撮らなかった)監督だそうで、作品自体も例えば、主人公が住むアパート(社宅のような感じ)の階段を何度も何度も昇り降りするシーンがあるのだが、私にはあのシーンはホラー映画にしか見えなかった。(笑)(目に見えない何かが突如彼女を襲うような気持ち悪さなど…)
だからこの作品に正統社会派映画を期待すると少し物足りないかも知れない。だけど私には、そこら辺の社会派映画よりはずっと、ずっしりと圧し掛かられるような重さを感じてしまった。
おそらくそれは、この作品に登場する人物が私と同属の人間のような気がして、他人事として観れなかったせいもあるのかも知れない。

これは私の持論だが、もの凄く乱暴に人間のタイプに分類すると“生真面目”なタイプと“そうでない”人間とに大まかにこの二つに分けられると思っている。この映画の登場人物達はこの生真面目タイプに属する人間なんだと思う。
そして、この二つのタイプというのは基本的に絶えずた対立関係にある。これは、ひょっとしたら宗教やイデオロギーの対立以上に激しい対立かもしれないと私は常々感じている。
要するに無責任で無自覚な“悪意”との対立だ。これの為に、死ぬ事だって破壊される事だって現実にあるし、不思議でもなくて、世間ではよーくある事だと思う。
この映画のような“事件”の当事者でなくても、そういう戦いは我々の普段の生活の中でもそこかしこで行われているものなのだ。
ただ、戦争をしていないから平和だとか、幸せだとかなんてレベルの話では無く、これも立派な対立であり殺し合いなんだと私は思っている。

この作品に登場するもう一つのタイプ(バッシングする側)の描かれ方は、非常にステレオタイプの人間達のように描かれている。
この描かれ方に批判があるかも知れない。「あちらの側だってそれぞれに複雑で様々であり、個々の事情ってモノがある」ってな風にね。それは当然そうだろうと思う。
しかし、攻撃を受ける側からするとそんな事は関係ないのだ。これはステレオタイプだからこそ“リアル”なんであり、個人からすると他者がステレオタイプであることこそ現実なんだと思う。
だから彼女には、この嘘社会やあほマスコミや、それに盲目的に操られる愚民どもの(ステレオタイプ)この国に、居場所は見つけられないと感じたのだろうし、これ以上この国で生きていく為の戦いの必要性も感じられなかったのだろう。そうした彼女の決心を他者が否定することなど出来ないのだ。
ラスト近くでの彼女の台詞で「この国じゃ、みんな怖い顔をしている。私も、怖い顔をしているんだと思う。」って、そりゃぁ怖い顔にもなるさぁ、戦っているんだもん。
これって私もいつも意識している事なんだよね。ウインドウガラスなどに映った自分の顔をふと見ると「なんて怖い顔しているんだよぉ」ってね。

この作品を観て、不思議と『ジャー・ヘッド』を思い出してしまった。多分あの作品も戦争映画というより、人間ドラマと呼んだ方がいいしね。それと、自分の今居る状況(戦闘地域)の問題よりも、あくまでも個人のアイデンティティーであるとか、生き甲斐であるとか、属性であるとか、他者や社会との関わりの問題の方が強く描かれていて、あくまでも個人にとっては、そちらの方が先決問題であるって点で似ているような気がした。

『花よりもなほ』

2006年06月06日 18時58分33秒 | 映画
鑑賞日時・場所(06/04、アポロシネマ8)
*ストーリー説明及びネタバレなし。

下で書いたこの作品の宣伝で“長屋モノ”の代表作として山中監督の『人情紙風船』を挙げたけど、その他にも黒澤の『どん底』もそうだったし、市川昆の『かあちゃん』とか、おそらく昔の作品を辿ると、このジャンルの作品はきっと山ほど沢山あるに違いない。
で、私が何故このジャンルが好きか?って話だけど、多分そのジャンルの時代劇ってのは大半は落語のネタ的な話で、現代モノの人情喜劇の原点になっていると思うし、(注:『人情紙風船』に限って言えば喜劇色は一切無いが…)芯となる物語や中心となる主人公はとりあえずはいるものの、これも私の大好きな群像劇(『グランドホテル方式』)のような作りの話が殆どだからというのが大きな理由だと思う。
それと、別に江戸時代だけではなく、実際に昭和生まれの私が子供の頃5歳まで大阪の長屋に住んでいたこともありそういう世界が凄く身近に感じられ、人間の喜怒哀楽やら感情の機微などが一番ビンビンと感じられるからなんだろうな。(当然、昭和の「寅さんシリーズ」や、去年の大ヒット作品の『3丁目の夕日』も長屋こそ出てこないが、一種の“長屋モノ”と私は捉えている)

しかし、こういうお決まりのワンパターンもの(登場人物の定番キャラのステレオタイプ)で、いかにして新しい味わいを出しながら面白く惹きつける作品を作るか、というのは結構楽しい挑戦であり作業なんだろうと想像する。
“長屋モノ”の定番キャラとして、悩み多き陰のある二枚目浪人に美人の未亡人とその子供、プライドだけは高い腰抜け浪人やら、主人公に憧れる娘とその取り巻きの八つぁん熊さん的存在とか、グウタラ亭主にたくましきその女房達とか、謎の遊び人とか、意地悪でがめつい(若しくは物知り)大家に薄幸の女(若しくは粋でいなせな謎の美女とか)等々。そういう定番キャラを駒にして、殆ど同じ設定の中で何か違う物語を作り出すっていうのは面白いよね。
おそらく今回のこの作品はラストのアイデアを最初に思いつき、それにお決まりのアイテムを絡めて行き、どのようなエピソードを積み重ねてどう物語るかって作業なんだろうけど、その過程の中で隠れていたテーマも明らかになってくるって感じで、そういう作業自体が想像するだけでも実に楽しそうだし、その作る楽しさが映画を観ていて伝わってきたからね。

で、今回のそのテーマなんだけど、時代背景が今と色々重なる部分が多くて、例えば問題山積みで決してみんなが幸福に暮らせる世の中ではないけれど、戦もなくとりあえずは、個人が“生きる”という事を考えられる程度の余裕はある、平和とも呼べる社会の中で、どのような生き方を選ぶか?というのがキモだよね。
「どのような状況でどのような社会に居るかという事に関わらず、その人間がその運命をどう受け入れるかによって、人の人生ってものは豊かにも貧しくも、明るくも暗くもなるんだよ」って、私にはそう言ってるような気がしましたね。

『ヨコハマメリー』

2006年06月04日 08時44分57秒 | 映画
最近感想をじっくり書かない(書く時間がない)ので長い文章を書けなくなってしまった。
この作品も色々と思うところがあったがまとまらないので覚書程度に、今頭にある事だけを吐き出しておこう。

鑑賞日時・場所(06/03、テアトル梅田)
*ストーリー説明及びネタバレなし。

まず、この作品のメリーさんはあくまでも象徴であり主人公ではない。まあ記録映画なので、主人公は登場した人全てという事になるのだが、例えば「根岸屋」というのも含めて、失われ行くモノ(記憶)が主人公という構造の作品。
それは即ち、私にとっては“戦後”であり“昭和”という事に置き換えが可能かも知れない。
“昭和を振り返る”というこの現象(ブーム)は2000年を超えた頃からずっと続いているように思えるのだが、私が子供の頃はいうと、逆に21世紀を描かれたもので溢れていた。(私の中では“手塚漫画”などがその象徴)
それが皮肉なことに現実に21世紀となると過去を振り返るものばかりで溢れかえっている。

この映画を観ていると“自分達は当時何を夢見て何を目指そうとしていたのか?”をあらためて考えさせられる。これも逆の発想で“何を切り捨てようとしたきたのか?”ということを考えればその概要が見えてくるのだろう。
この作品では切り捨ててきたものが描かれている。メリーさん、根岸屋、それがいったい何の象徴だったのか?。“混沌”“猥雑”“人情”“エネルギー”“個性”“尊厳”“人間”様々な言葉が浮かんでくるのだが、この映画の中の写真家が語る“気になるモノ”が即ち切り捨ててきたモノなんだろう。新たな世界(21世紀)を作るために切り捨てられたモノの数々である。

そして、そういうものを捨てて行き21世紀が始まった。
それが昔、我々が夢見た21世紀の世界であったのかどうかはそれぞれの人間が感じていることだろうが、今この昔を振り返る事が“ブーム”のような時代を創ることになるとは誰も予想していなかったのではなかろうか。
しかも皮肉な事に今の時代、メリーさんを切り捨てた時代とは逆にどんどんメリーさんの孫とも呼べる人間達が増殖しているのだ。いわゆるメリーさんのように独りで生きなければならない孤独で孤高な人間がどんどん増えているということだ。(勿論、私もその一人)
この映画がその孫に当たる世代が作り、メリーさんを異形と思わなくなった人間がどんどん増えているという証でもある。

結論を急ぐ訳ではないが、早い話、人間というのは“進歩”などという幻想からそろそろ脱却して、本来の人間の求めているものを見つめ直さなければならないという事を、21世紀になって世界中のあらゆる表現者がメッセージとして発している様な気がする。

メリーさんの存在はある意味その象徴でもある。

『ダ・ヴィンチ・コード』

2006年05月22日 22時55分15秒 | 映画
最初に断っておきますが、これは感想ではなく、たんなるつぶやきです。

今日、会社帰りに近くのシネコンで観て帰ったばかり。
話題作であり公開直後だし人が多いかな、と予想していたのだけど結構空いていた。

下の記事で近年の“驚くべき質の高さ”なんて書いた後にこの作品を観たら「やっぱ、世間って奴はこの程度の作品で大騒ぎしているのかぁ~」って気持ちになり、ちょっと安心したりもする。(笑)
いや!、この作品が面白くないと言ってる訳でもないのだけれど「そんなに大騒ぎするほどのご大層なものかい」って気持ちの方がより強くなってしまった。
(ちなみに原作は未読で、予備知識もゼロに近い状態での鑑賞)
内容だってそんなにスキャンダラスなものでもなし、自称歴史愛好家が少し喰いつきたくなる程度のもの。でも、日本人がそれほど大騒ぎするほどのものでもなく、義経が実は逃げ延びて蒙古の英雄になったって位の歴史ロマンであって、それに欧米人がどれだけ反応するかってのと同じ程度の話で、本来日本人の興味やら宗教観からすると普通「ああ、そんな解釈もあるのね」といった反応くらいなものでしょう。
娯楽作品(ミステリー作品)として観た場合も、それこそ何度も言うように“ほどほど”程度に楽しめる位の(豪華キャストで大作感はあるけど)“普通”の作品なのにね。

しかし、前の発言のように世の中傑作が溢れかえっているというのに、世間(若しくはマスコミ)が大騒ぎするのは、大体殆どがこの程度クラスの作品で足並が揃うってのも面白い現象だよね。
邦画では「踊る~」シリーズ(のマスコミの大騒ぎ)が当てはまるのかな?。(爆)
あっこれも私、決して嫌いじゃないです。(くどいf^_^;;)

『ステップ!ステップ!ステップ!』

2006年04月12日 06時46分10秒 | 映画
復活第二弾は映画の感想なんだけど、これも随分書いてないのでどう書いて良いのか分らないよぉ。(涙・涙)
まあリハビリみたいなものなので軽く読み流して下さい。

鑑賞日時・場所(4/01、ナビオTOHOプレックス)
*ストーリー説明及びネタバレなし。

今年になって『RIZE』と本作とダンスドキュメンタリー作品が続けて公開されたのだが、ストリートダンスと社交ダンスの“ダンス”の役割というのか存在の意味が対極にあるというのがよく理解できた。
一番大きな違いは、一人でも踊れるものか二人でなければ踊れないものかということで、その役割の違いが一層明らかだと思う。
この作品では、その(社交ダンス)特徴を教育にまでも生かせる(というか、元来そういう意味を持っているもの)という事の証明が主なテーマになっていると思われるのだけど、よくあるコンテストの勝ち抜きを映画の芯に持ってくると、その肝心なテーマが観客に伝わりにくいってのがちょっとマイナス点かな。

あと、もう一つ『RIZE』との比較で感じた事で、ロスとニューヨークとのイメージが、30年位前の印象とそっくり逆転している感じがした。

対談:今風戦争映画「ジャー・ヘッド」の深み(3)

2006年03月03日 08時36分07秒 | 映画
・第三章:新しい感覚の“戦争映画”から導き出されたもの

<お茶屋>
ところで、スオフが戦争が終わっても、銃を手にしている感覚があるというのは、どういうことだと思いますか?
きっと、そういう感覚は、戦争に行った人は持っているもので、スオフだけじゃないと思うのですが。

<シューテツ>
『ミュンヘン』のラストのツインタワーと同様の“終わらない”ってこともあるでしょうし、いくら望んでも絶望的に“満たされない”ものを一生背負わされたという感覚なんでしょうかね。

<お茶屋>
そうですね~。幸いなことに、その感覚がわからん(笑)。

<シューテツ>
普通映画を観る場合、登場人物の気持ちを解かろう(近づこう)と無意識になるのですが、この作品の場合、私もそういう気分にならなかったのです。
「あぁ~、こういう気持ちが解からなくて幸せだ。」って気持ちの方がより強かったのです。私が“乾いた”感覚を抱いたのは、そういう私の突き放した気持ちからなのかも知れません。
でも、「誰にも解かってもらえない」とか「誰もが理解したくない」という感覚を持たれる方がより悲壮感はあるのかもしれませんよね。
ということで、この作品が深いという事だけは大いに認めてしまうのですけどね。

<お茶屋>
深いですね~。うまいですね~。
見えない銃を手にしている感覚は、社会とか家族とかから自分ひとりが切り離された感覚でしょうかねえ。
その切り離された感じが、戦友同士でならわかるから、たまに会う必要があるのでしょうかねえ。

<シューテツ>
現在社会を考えると、これについては別に戦争体験が無くても簡単に陥る状況なので、あえてこの作品で触れる事もないような気もするのですが、“戦友同士でならわかる”というのは曲者の表現ですよね。(笑)

<お茶屋>
曲者ですか(^_^;。
自分が理解できる感覚で、スオフたちに近い感覚…と考えると、そんな感じかなと。
で、あの感覚がわからなくて幸せという風に、あっちの世界の住人にはなりたくないと思わされます。そこを描いているから『ジャーヘッド』は、「戦争は非」という映画だと思うんですね。

<シューテツ>
この人(メンデス)っていうか、この作品の場合、戦争を舞台にはしているけれど、所謂「戦争映画」を撮っている気なんて、ひょっとしたら全然無かったのかも知れませんね。(“所謂「戦争映画」”ってのは、何処かに「戦争の是非」のようなテーマが含まれているもの)そういったテーマなどは飛び越えた、人間の本質的なものに関心が向けられていましたものね。

<お茶屋>
そうですね。
そして、本質を突いているので、自ずから戦争は非であるという映画になっているのだと思います。
なんかもう、戦争のアホらしさを感じずにはいられない映画でしたもん。メンデスも戦争をアホらしいと思っていると思います。

『ディア・ハンター』で行方不明だったニック(ウォーケン)は、普通なら二度としたくないと思うはずのロシアンルーレットの賭博場にいたじゃないですか。
スオフとニックが、すごくダブるんですよね~。

<シューテツ>
“戦争”ってものを否定する前に、そういう世界と別世界(社会)とがあって、軍隊であるとか戦場であるとかそういう処に一度身を置くと、本質的に自分がどっちの世界の住人なのかの発見はあるのかも知れないですよね。

<お茶屋>
あ、これは想定外のお返事(笑)。
そうか~、そういうふうにも考えられるのか~。

<シューテツ>
へへへ、読まれている方の大半が多分そういう風に感じたかも知れませんね。(笑)
でも、仰る通り「戦争の是非」を問うのでは無くて「前提としての戦争は非である」というのは踏まえて置いての話ですけどね。
私の中では“本質的に自分がどっちの世界の住人なのか”という思いは“戦争の是非”論から一度抜け出さないと至らなかったもので、切り離せなかったのです。

現在進行形で、戦争に参加している国の作品が今更「戦争の是非を問う」作品なんて作ってはいけないようにも感じています。
戦争が非なんて当たり前の話であって、しかし自分達はいまだに戦争を止められないで自ら参加している。そういう国が作る映画なら、更にその先の「何故?」を求めた作品を作るのが筋のように思うし、この作品はそういう作品になっていましたので納得できるのですけどね。

<お茶屋>
なるほどぉ。
ところで、スオフとニックが同じに見えると書いたことについてですが。
例えば、昨年洪水で一晩立ち往生したバスの屋根で励まし合いながら乗り切った人たちがいましたよね。あれは身が縮むような恐怖の一夜だったと思うのですが、あのような恐怖体験は助かった後もフラッシュバックしたりすると思うんです。もし、周りにそういう恐ろしさを理解してくれる人がいないとしたら、当然、共に恐怖の一夜を過ごした人たちとの連帯感が強まるだろうと。
これが、戦争体験とかロシアンルーレットになると、周りの人も想像はできたとしても、当人が周囲から理解してもらえていると感じられるかどうか。誰にもわかってもらえない、わかるのは戦友だという流れになるんじゃないでしょうかねぇ。世間との断絶感は、並じゃないような気がします。

「本質的に自分がどっちの世界の住人なのか」というより、ああいう体験をすると誰でもがあっちの世界の住人になれるような気がするなあ。それが本質?(ニュアンスは異なるけど、もしかしてシューテツさんと同じこと言ってます?(^_^;)

<シューテツ>
おそらくかなり近い内容だとは思います。(笑)
で、私はどちらかというと、ジェイミー・フォックス演じる兵士の台詞などが印象に残っていたこともあり前回の発言になったのですが、元々「自分の居場所はここである」なんて思ってもいなかった筈の他の兵士達にも(個人差はあれど)、帰国して始めて気づく自分の本質(?)(未体験の人間は後遺症と呼ぶのでしょうけど…)のようなものがあったようにも思えました。

<お茶屋>
これは全くシューテツさんのおっしゃるとおりだと思います。何も考えないよう、命令だけを聴くよう人殺しの訓練(一応身を守る訓練もありましたね)をされ、戦場を経験すると、人は皆スオフのように戦後も見えない銃を持つようになる、というのが人間の本質と言えば本質(傷ついた状態と言えば傷ついた状態)だと思います。

蛇足ですが、サイクス(J・フォックス)の言った「自分の居場所はここである」というセリフについては、黒人差別があるゆえこのセリフにつながったと言うケイケイさんの意見に賛成です。
除隊後もジャーヘッドを辞められなかったトロイ(P・サースガード)もサイクスに近いものがあると思います。刑務所あがりで、なかなか社会に受け入れられず、軍隊しか居場所がなかったのでしょう。
だから、スオフとトロイとでは、持っている見えない銃の重さが違うのかもしれませんね

<シューテツ>
この辺りの個人的意見ももう少し説明しておきますね。
アメリカは(若しくはアメリカの兵士達は)自国は平和であり正義であり、敵対国に対しても自国と同じ平和を持ち込むというのが建て前としてあるじゃないですか。でも、個々の兵士達が本当にそのような建て前を持って最前線に立っているのか?、というとそんな事は有り得ないと思うし、自国への不満(不安)とか、個々の現状への不満(不安)とかがある中で、ああしたギリギリの緊張状態の中に放り込まれると、こここそ自分の居場所だと思う人間がいても私は全く不思議に感じませんでした。(というか、私だってそういう場の放り込まれたらひょっとしたら、そう感じるかも知れない。)
だから差別意識も勿論あるのですが、それだけでは収まらない様々な問題が社会にありながらの、建て前的“正義の闘い”なんだから、駒である兵士の精神状態なんて千差万別であり、戦場へ向かう事は即ち狂気への道しか救いが残っていないのだろうなぁ~。
という思いを、“所謂「戦争映画」”より強く感じたので、これは戦争批判以上に自国の社会批判の方が強いという、変わった方程式が成り立つ新しい「戦争映画」(又は「社会派映画」)という風に感じられました。

<お茶屋>
う~ん、そうか~。否定できない……。する気もないけど(笑)。
「そうだなぁ」と思えることが、すごく悲しいし、重いです。

<シューテツ>
これが、今の戦争たる所以なんでしょうね。
でも、逆に全ての兵士が今の時代でも、“お国のため”“正義の為”と思い込んで戦場へ…、というのももっと気持ち悪いし、恐いですよね。(苦笑)

で、一番最初に戻りますが、この作品を観た後のもやもや感は、そういう「戦争は非」だけでとどまらない、やるせなさやら絶望感がそう感じさせたのかも知れません。
で、私的には“あの感覚がわからなくて幸せと”も感じながらも、更には映画作りとしてはそれが真っ当なやり方と思いながらも、作品としての結末のどうしようもなさは、一観客として答えの見つからない辛さがありましたね。

もう一つ新しく感じた処で“所謂「戦争映画」”には必要不可欠の“憎悪”という感情もこの映画では希薄でしたね。

<お茶屋>
そう言えばそうですね!気がつかなかった!
戦争映画としては、異色中の異色ですね。
シューテツさんと私とでは、異例ともいえる長い遣り取りで異色の戦争映画を語れて、本当によかったです。ありがとうございました。

<シューテツ>
“憎悪”の希薄さについては、こツリーの最初に言ったようなアメリカンニューシネマなどに感じた「怒り」の希薄さと同等のものですが、そうした虚無感が後味の悪さとか薄ら寒さとかに繋がったのかも知れません。
“憎悪”や“怒り”というのは映画の登場人物の感情だけではなく、映画そのものから発する感情も含めての発言なのですが、これも今の戦争たる所以ですね。
この映画の戦地で既に空撃かミサイルで焼け焦げた死体と対面するワンシーンに、敵としての感情は皆無であり、焼け焦げ死体と沈黙の会話をしているような絵作りは象徴的でした。
で、本当に殺した人間は敵の顔さえも認識出来ないのが、(よく言われているように本当にゲームのようにボタンを押しただけなんだと思う)今の戦争だって事をよく伝えていましたね。
兵士にとって敵に対する憎しみも怒りも無く、ただ訓練の成果を試したいだけの戦争、社会逃避の為の戦場、っていったい何なんだ!。ってメッセージは今になって感じてきました。(遅いよ>自分f^_^;;)

人間ってものは新しい作品に触れると、ある種の戸惑いを感じると思うのですが、私がこの映画の最初に感じたのはこれだったのかと、お陰様でかなり明確になってきました。ツリーならではの、会話でしか導き出されない色々な考えがまとまりましたので、お相手していただいたお茶屋さんには大変感謝しております。本当にありがとうございました。

お茶屋さんの感想
http://homepage1.nifty.com/cc-kochi/jouei01/0602_1.html

対談:今風戦争映画「ジャー・ヘッド」の深み(2)

2006年03月03日 08時26分26秒 | 映画
・第二章:先人キューブリック作品の先見性と作風とその比較

<お茶屋>
もしかしてシューテツさんの仲間?>わたくし
なぜかはわかりませんが、ちっとも感動しなかったのですよ。
作り手の言っていることは明確で、その描き方も完璧で文句はないのですが、どうして感動できなかったのでしょう?
私の場合は、映画に色気がなかったせいだと思っているのですが。色気というか味というか…。自分の感想では、「可愛げがない」とスッキリ書いてしまいましたが(^_^;。

<シューテツ>
優等生過ぎるってことなんでしょうかね。でも、そんなに薄っぺらくもないし…。
『ロード・トゥ・パーディション』では、情感豊かなのに反対の乾いているように感じられたり、今回の『ジャー・ヘッド』では深いテーマなのに胸に刺さってこない、イラつきのようなものを感じました。

<お茶屋>
『ジャーヘッド』に関しては、期待値はそれほど高くないつもりでしたが、皆さんのレビューを読むうちに高くなっていたんでしょうかね~(?)。

私は『ロード・トゥ・パーディション』の方は、好きなんですよ。でも、『アメリカン・ビューティー』は面白かったけど好きというほどではなかったです。
サム・メンデスの作品て、節度というか分別があって、登場人物や描いている対象から距離をとっているでしょう?その距離がそのまま作品と私の距離になっていると思います。メンデスは、3作品とも同じ距離で取っているのでしょうが、『ロード・トゥ・パーディション』については、私は父親二名に感情移入できたので感動したんだでしょうね。3作品の中では一番「作っている」感が強い作品だとは思いますが。

<シューテツ>
興味深いお話ですね。
『ジャーヘッド』についてはよくキーブリックの『フルメタル・ジャケット』との比較話が出てきているようですけど、(個人的には、どちらかというと『時計仕掛けのオレンジ』と比較した方がピッタリときます)いわゆるキューブリックの冷徹で俯瞰した見方というのは、今の時代をひょっとしたら先取りしていたのかも知れませんね。
彼の作品が感傷に溺れないのは一つの個性として見なされていましたが、今だと完全に時代に則した表現なのかも知れません。

しかし、彼の作品にも同じような距離があるのですが、私の場合キューブリックは「作品と私の距離」にならないのが不思議です。

で、このような(社会派映画の)作風がこれからも増えていくような(いや、主流となるような)気配が感じられます。
ということは、益々世の中に希望が持てなくなるって事の裏返しでもあるのですけど…。

<お茶屋>
「キューブリックと私」(笑)については、ずっと前から考えたことがあって、キューブリックって映画狂というか映像狂でしょ。巨匠とか鬼才とか言われるけれど、私にとってはどうしても「映画小僧」としか思えないんです。ユーモアもあるし。対象への距離感やクールな映像表現から冷徹とも言われますが、映画というものへの懲り具合は、トリュフォー、ゴダール、ヴェンダースといっしょ。アメリカならスコセッシとか。というのが私なりの分類です。

<シューテツ>
あっ、これは「目から鱗」かも知れません。(笑)
でも、いわれて見ればそういう見方も十二分に理解出来ます。
ただし、フィルムグラフィーを眺めると他の作家よりジャンル的に拘り無く色々なアプローチで哲学的なテーマを扱っているように感じられますので、私的には「映画小僧」よりついグレードを高くしてしまっているようです。f^_^;;

<お茶屋>
確かに選んだテーマは、キューブリックの高尚な一面が現れていると思います。でも、テーマよりもそれを映像でどのように表現するかに重きが置かれているように見えて、しかも映像表現が心底楽しそうなので私にとっては「映画小僧」になっちゃったんですね。
受け手によって巨匠になったり鬼才になったり小僧になったり、これからは変幻監督と呼びましょうか(笑)。

<シューテツ>
それって映画だけでなく、あらゆる分野の優れた芸術家に通じるもののような気がします。それは取りも直さず、技術(才能?)を天から授けられた表現者の“性”の様な気がしますけどね。

対談:今風戦争映画「ジャー・ヘッド」の深み(1)

2006年03月03日 08時24分00秒 | 映画
私のHPの掲示板は映画サイトでは不思議なくらい映画の話題が上がらないのですが(笑)今回珍しく掲示板で映画の話題で盛り上がりましたので、対談風に編集し直しまとめてみました。
ツリー参加のぼのぼのさん、ケイケイさん、お茶屋さんには感謝です。m(_ _)m

・第一章:傑作なのに違和感が生じた訳

<ぼのぼの>
劇場はガラガラですが『ジャーヘッド』は傑作です。
やはりサム・メンデスは本当の天才です。『アメリカン・ビューティー』『ロード・トゥ・パーディション』に続き、この人の監督作にハズレ無し。
好き嫌いは分かれる映画だと思いますが、見逃し厳禁。
たとえ気に入らなくても何かしら考えさせられるものを持った映画だと思います。

<シューテツ>
ぼのぼのさん、こんばんは。紹介ありがとうございました。
これは昨日の夜観て来ました。
一昨日の『ミュンヘン』の後、直ぐにこの作品を観たのは正解でした。
ぼのぼのさんの感想にも触れられていましたが、この二作品を比べると“殺していく狂気”と“殺せない狂気”が対極的に描かれていました。
「殺すも地獄、殺せないのも地獄」というところですね。

それと、仰るとおり二人とも映画作りの天才かもね。
作品的には両方とも完成度が高くて好き嫌いは別にして、“誰も文句言えない出来”と言っても良いでしょうね。
ただし、両作品とも私の中で何か引っかかるものがあるのです。
それの正体はまだハッキリとは掴めていないのですが、なにやらその洗練された完成度の高さ故の引っかかりの様な気もしています。
たえず問題の発信地(根源)である“アメリカ”そのアメリカが目指すグローバリズムとは映画の完成度にまで及んでいるのか?。でも、「あんた(アメリカ)が一番の問題なんだよ!。なのにこんな達観したような作品を作るなよ!。」って気分が私の何処かにあるのかも知れませんね。
だから、作品単体の問題でも引っかかりでも無いのですけどね。f^_^;;

<ぼのぼの>
確かにそのような引っかかりはあって当然だと思いますが、同時にアメリカ映画自身の自浄作用の芽も潰すべきではないと思います。

<シューテツ>
勿論誤解されていないとは思いますが、それは重々承知しての発言で、私の引っかかりというのはくどいですが、作家に対して向けられたものではありません。
これらの作品を作る事については、映画作家としては凄く真っ当であり、評価されるべき事だとも思っていますよ。

<ぼのぼの>
ただしサム・メンデスはイギリス人です。そして今年のオスカーで『ミュンヘン』は作品賞候補になっていますが、『ジャーヘッド』は見事なまでに無視されています。
アメリカ人のスピルバーグが、イスラエルとパレスチナの暗闘を描いた『ミュンヘン』はオスカー候補。
イギリス人のサム・メンデスが、湾岸戦争に行ったアメリカ人を描いた『ジャーヘッド』はオスカーから徹底無視。
そもそも湾岸戦争を批判的に描いた映画は、すでに15年もたつにもかかわらずこの『ジャーヘッド』と『スリー・キングス』の2本くらいしか存在しない。
こういう構造に着目すれば、いかに遅ればせであっても『ジャーヘッド』のような映画が作られたこと自体に、僕は感動を覚えます。

<シューテツ>
私が思ったのは、社会派映画として例えば昔のニューシネマなどのような作品と見終わった後の感覚が全く違ってきたということです。
当時夢中になって観た作品にはどんな絶望的な作品であっても、観終わった後に何故かスッキリしたような感覚があったように思えたのですが、それは何故かというと恐らく作品に作者の怒りなどの感情が表れ、観客もそれを大いに感じ取る事が出来ていたからだと思います。カタルシスとい言ってもいいのかな。
しかし、今回紹介した二作品に関しては、もう怒りとかカタルシスとかも飛び越えてしまって、絶望と諦観しか残らないような気がしたのです。
だから作品の質とか素晴らしさに反比例して、後味の悪さとか薄ら寒さとかが残る作品ではあるなと感じた次第です。
これは、映画を社会の鏡として観た場合、こうした社会派作品が出来上がる背景の社会としては最悪の時期であるということの証のような気がしてなりません。
それと、今の時期だからこそ、こういう新たな感覚の社会派映画が出現したとも言えると思います。

<ケイケイ>
今「ジャーヘッド」の感想読んで回っているのですが、皆さん視点が微妙に違ってすごく興味深いです。是非シューテツさんの感想も拝読したく思います。ではよろしく~。

<シューテツ>
えぇ~~、今回のぼのぼのさんとのやり取りで、私の大体の感想になっていると思うのですけど、あれではダメですかぁ~。f^_^;;

ぼのぼのさんの感想
http://bonobono.cocolog-nifty.com/badlands/2006/02/post_9960.html#more
ケイケイさんの感想
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060217

『RIZE』

2006年02月16日 08時56分17秒 | 映画
鑑賞日時・場所(2/11 梅田ブルク7)
*ストーリー説明及びネタバレなし。

この監督って映画は初監督であり、本職はフォトグラファーであり、ミュージックビデオなども作っているようだ。
で、作品は同系の『8マイル』『ダンス・レボリューション』『ユー・ガッタ・サーヴド』などの劇映画と構造やテーマはほぼ同じだと思う。
内容についてはドキュメンタリーにしては極端過ぎるの(映画的“嘘”即ち“演出”過多)がマイナス点なんだが、では何故ドキュメンタリーにしたのかというと、きっとダンスシーンの部分でドュキュメンタリーのタッチが欲しかったからだと思われる。
おそらく通常のダンス映画(劇映画)のような洗練されきっちりと構成されたものでは無く、今回のダンスについては“生のダンス”を見せたいという判断で、あえてこの手法を選んだのだろうと思われる。
そして、この選択は成功している。とにかくこの作品はそれが見所で圧巻だった。
ショーアップされたものとはまた違った、生の身体が自然と動き出す踊りの迫力といったものが凄く感じられた。

あとダンスというジャンルの際立った特色というのは「カテゴライズされたプロの現場では無く、こういうストリートからでしか新しいダンスは生まれない。常に発信元になっているのがストリートだ。」という、原因というか根拠が何となく理解出来た。

ダンスとは本来、身体から自然に出てくるものであり、見せるというより勝手に身体が動くもの、それがダンスなんだってメッセージを強く感じた。