咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

対談:今風戦争映画「ジャー・ヘッド」の深み(3)

2006年03月03日 08時36分07秒 | 映画
・第三章:新しい感覚の“戦争映画”から導き出されたもの

<お茶屋>
ところで、スオフが戦争が終わっても、銃を手にしている感覚があるというのは、どういうことだと思いますか?
きっと、そういう感覚は、戦争に行った人は持っているもので、スオフだけじゃないと思うのですが。

<シューテツ>
『ミュンヘン』のラストのツインタワーと同様の“終わらない”ってこともあるでしょうし、いくら望んでも絶望的に“満たされない”ものを一生背負わされたという感覚なんでしょうかね。

<お茶屋>
そうですね~。幸いなことに、その感覚がわからん(笑)。

<シューテツ>
普通映画を観る場合、登場人物の気持ちを解かろう(近づこう)と無意識になるのですが、この作品の場合、私もそういう気分にならなかったのです。
「あぁ~、こういう気持ちが解からなくて幸せだ。」って気持ちの方がより強かったのです。私が“乾いた”感覚を抱いたのは、そういう私の突き放した気持ちからなのかも知れません。
でも、「誰にも解かってもらえない」とか「誰もが理解したくない」という感覚を持たれる方がより悲壮感はあるのかもしれませんよね。
ということで、この作品が深いという事だけは大いに認めてしまうのですけどね。

<お茶屋>
深いですね~。うまいですね~。
見えない銃を手にしている感覚は、社会とか家族とかから自分ひとりが切り離された感覚でしょうかねえ。
その切り離された感じが、戦友同士でならわかるから、たまに会う必要があるのでしょうかねえ。

<シューテツ>
現在社会を考えると、これについては別に戦争体験が無くても簡単に陥る状況なので、あえてこの作品で触れる事もないような気もするのですが、“戦友同士でならわかる”というのは曲者の表現ですよね。(笑)

<お茶屋>
曲者ですか(^_^;。
自分が理解できる感覚で、スオフたちに近い感覚…と考えると、そんな感じかなと。
で、あの感覚がわからなくて幸せという風に、あっちの世界の住人にはなりたくないと思わされます。そこを描いているから『ジャーヘッド』は、「戦争は非」という映画だと思うんですね。

<シューテツ>
この人(メンデス)っていうか、この作品の場合、戦争を舞台にはしているけれど、所謂「戦争映画」を撮っている気なんて、ひょっとしたら全然無かったのかも知れませんね。(“所謂「戦争映画」”ってのは、何処かに「戦争の是非」のようなテーマが含まれているもの)そういったテーマなどは飛び越えた、人間の本質的なものに関心が向けられていましたものね。

<お茶屋>
そうですね。
そして、本質を突いているので、自ずから戦争は非であるという映画になっているのだと思います。
なんかもう、戦争のアホらしさを感じずにはいられない映画でしたもん。メンデスも戦争をアホらしいと思っていると思います。

『ディア・ハンター』で行方不明だったニック(ウォーケン)は、普通なら二度としたくないと思うはずのロシアンルーレットの賭博場にいたじゃないですか。
スオフとニックが、すごくダブるんですよね~。

<シューテツ>
“戦争”ってものを否定する前に、そういう世界と別世界(社会)とがあって、軍隊であるとか戦場であるとかそういう処に一度身を置くと、本質的に自分がどっちの世界の住人なのかの発見はあるのかも知れないですよね。

<お茶屋>
あ、これは想定外のお返事(笑)。
そうか~、そういうふうにも考えられるのか~。

<シューテツ>
へへへ、読まれている方の大半が多分そういう風に感じたかも知れませんね。(笑)
でも、仰る通り「戦争の是非」を問うのでは無くて「前提としての戦争は非である」というのは踏まえて置いての話ですけどね。
私の中では“本質的に自分がどっちの世界の住人なのか”という思いは“戦争の是非”論から一度抜け出さないと至らなかったもので、切り離せなかったのです。

現在進行形で、戦争に参加している国の作品が今更「戦争の是非を問う」作品なんて作ってはいけないようにも感じています。
戦争が非なんて当たり前の話であって、しかし自分達はいまだに戦争を止められないで自ら参加している。そういう国が作る映画なら、更にその先の「何故?」を求めた作品を作るのが筋のように思うし、この作品はそういう作品になっていましたので納得できるのですけどね。

<お茶屋>
なるほどぉ。
ところで、スオフとニックが同じに見えると書いたことについてですが。
例えば、昨年洪水で一晩立ち往生したバスの屋根で励まし合いながら乗り切った人たちがいましたよね。あれは身が縮むような恐怖の一夜だったと思うのですが、あのような恐怖体験は助かった後もフラッシュバックしたりすると思うんです。もし、周りにそういう恐ろしさを理解してくれる人がいないとしたら、当然、共に恐怖の一夜を過ごした人たちとの連帯感が強まるだろうと。
これが、戦争体験とかロシアンルーレットになると、周りの人も想像はできたとしても、当人が周囲から理解してもらえていると感じられるかどうか。誰にもわかってもらえない、わかるのは戦友だという流れになるんじゃないでしょうかねぇ。世間との断絶感は、並じゃないような気がします。

「本質的に自分がどっちの世界の住人なのか」というより、ああいう体験をすると誰でもがあっちの世界の住人になれるような気がするなあ。それが本質?(ニュアンスは異なるけど、もしかしてシューテツさんと同じこと言ってます?(^_^;)

<シューテツ>
おそらくかなり近い内容だとは思います。(笑)
で、私はどちらかというと、ジェイミー・フォックス演じる兵士の台詞などが印象に残っていたこともあり前回の発言になったのですが、元々「自分の居場所はここである」なんて思ってもいなかった筈の他の兵士達にも(個人差はあれど)、帰国して始めて気づく自分の本質(?)(未体験の人間は後遺症と呼ぶのでしょうけど…)のようなものがあったようにも思えました。

<お茶屋>
これは全くシューテツさんのおっしゃるとおりだと思います。何も考えないよう、命令だけを聴くよう人殺しの訓練(一応身を守る訓練もありましたね)をされ、戦場を経験すると、人は皆スオフのように戦後も見えない銃を持つようになる、というのが人間の本質と言えば本質(傷ついた状態と言えば傷ついた状態)だと思います。

蛇足ですが、サイクス(J・フォックス)の言った「自分の居場所はここである」というセリフについては、黒人差別があるゆえこのセリフにつながったと言うケイケイさんの意見に賛成です。
除隊後もジャーヘッドを辞められなかったトロイ(P・サースガード)もサイクスに近いものがあると思います。刑務所あがりで、なかなか社会に受け入れられず、軍隊しか居場所がなかったのでしょう。
だから、スオフとトロイとでは、持っている見えない銃の重さが違うのかもしれませんね

<シューテツ>
この辺りの個人的意見ももう少し説明しておきますね。
アメリカは(若しくはアメリカの兵士達は)自国は平和であり正義であり、敵対国に対しても自国と同じ平和を持ち込むというのが建て前としてあるじゃないですか。でも、個々の兵士達が本当にそのような建て前を持って最前線に立っているのか?、というとそんな事は有り得ないと思うし、自国への不満(不安)とか、個々の現状への不満(不安)とかがある中で、ああしたギリギリの緊張状態の中に放り込まれると、こここそ自分の居場所だと思う人間がいても私は全く不思議に感じませんでした。(というか、私だってそういう場の放り込まれたらひょっとしたら、そう感じるかも知れない。)
だから差別意識も勿論あるのですが、それだけでは収まらない様々な問題が社会にありながらの、建て前的“正義の闘い”なんだから、駒である兵士の精神状態なんて千差万別であり、戦場へ向かう事は即ち狂気への道しか救いが残っていないのだろうなぁ~。
という思いを、“所謂「戦争映画」”より強く感じたので、これは戦争批判以上に自国の社会批判の方が強いという、変わった方程式が成り立つ新しい「戦争映画」(又は「社会派映画」)という風に感じられました。

<お茶屋>
う~ん、そうか~。否定できない……。する気もないけど(笑)。
「そうだなぁ」と思えることが、すごく悲しいし、重いです。

<シューテツ>
これが、今の戦争たる所以なんでしょうね。
でも、逆に全ての兵士が今の時代でも、“お国のため”“正義の為”と思い込んで戦場へ…、というのももっと気持ち悪いし、恐いですよね。(苦笑)

で、一番最初に戻りますが、この作品を観た後のもやもや感は、そういう「戦争は非」だけでとどまらない、やるせなさやら絶望感がそう感じさせたのかも知れません。
で、私的には“あの感覚がわからなくて幸せと”も感じながらも、更には映画作りとしてはそれが真っ当なやり方と思いながらも、作品としての結末のどうしようもなさは、一観客として答えの見つからない辛さがありましたね。

もう一つ新しく感じた処で“所謂「戦争映画」”には必要不可欠の“憎悪”という感情もこの映画では希薄でしたね。

<お茶屋>
そう言えばそうですね!気がつかなかった!
戦争映画としては、異色中の異色ですね。
シューテツさんと私とでは、異例ともいえる長い遣り取りで異色の戦争映画を語れて、本当によかったです。ありがとうございました。

<シューテツ>
“憎悪”の希薄さについては、こツリーの最初に言ったようなアメリカンニューシネマなどに感じた「怒り」の希薄さと同等のものですが、そうした虚無感が後味の悪さとか薄ら寒さとかに繋がったのかも知れません。
“憎悪”や“怒り”というのは映画の登場人物の感情だけではなく、映画そのものから発する感情も含めての発言なのですが、これも今の戦争たる所以ですね。
この映画の戦地で既に空撃かミサイルで焼け焦げた死体と対面するワンシーンに、敵としての感情は皆無であり、焼け焦げ死体と沈黙の会話をしているような絵作りは象徴的でした。
で、本当に殺した人間は敵の顔さえも認識出来ないのが、(よく言われているように本当にゲームのようにボタンを押しただけなんだと思う)今の戦争だって事をよく伝えていましたね。
兵士にとって敵に対する憎しみも怒りも無く、ただ訓練の成果を試したいだけの戦争、社会逃避の為の戦場、っていったい何なんだ!。ってメッセージは今になって感じてきました。(遅いよ>自分f^_^;;)

人間ってものは新しい作品に触れると、ある種の戸惑いを感じると思うのですが、私がこの映画の最初に感じたのはこれだったのかと、お陰様でかなり明確になってきました。ツリーならではの、会話でしか導き出されない色々な考えがまとまりましたので、お相手していただいたお茶屋さんには大変感謝しております。本当にありがとうございました。

お茶屋さんの感想
http://homepage1.nifty.com/cc-kochi/jouei01/0602_1.html