咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

ブログの次はmixi?

2005年02月28日 23時47分03秒 | メッセージ
出張から帰ってPCを開くと、ネット友達のとめさんらしき人からなんだか怪しげなメールが届いていた。(爆)

どうやらmixiというものからのお誘いのメールらしい。(私はこの時まで「mixi」という名前さえ知らなかった)

で、行ってみるとなんだか最近は見かけなくなったネットの知人達のお名前が色々と出てきた。どうやらブログのような新しいネット上の媒体らしい。
で、適当にいじくっていると勝手に出来上がってしまった。これもブログと一緒だ。

まあ、懐かしい人達の文章をまた拝見出来るのは嬉しいのだけれど、今の私はホームページすらもてあまし気味なのに、それ以外にどんどん手を広げても私にとっては負担になるだけなのは明らかだ。それと、あと難しいのはHP、ブログ、などとの使い分け。
ブログの特徴はトラックバックにあるようだが、このmixiはどうやらマイミクシィという仲間の輪を広げるリンクにあるようだ。

それぞれの媒体に特色があるように、また人それぞれの使い分け(思惑)にも特色があるようだ。
だから例えばこれを隠れ屋のように利用している方も少なからずいるようだ。だから別の媒体で自分のmixiを簡単に公表していいものなのかどうかも現状において躊躇っている。
で、上にも書いたが紹介してもらって、何の予備知識も無く勝手に出来上がってしまったものだから、今ちょっと焦っている。
作って翌日位から数名の方に上記のマイミクシィをつけていただいたのだが、その際にお礼の返信メールを送られるようになっていたようなのだが、全く訳もわからず何も書かないで了承ボタンを押してしまった。
ということで、マイミクシィをつけていただいた方々にここでまとめて、お礼と失礼のお詫びをさせていただきます。m(_ _)m

もう少し勉強してから追々色々と巡回して行きたいと思っていますので、mixiでここをご覧になっている方々も、今後とも宜しくお願いいたします。m(_ _)m

『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還 スペシャル・エクステンデッド・エディション』

2005年02月28日 06時06分05秒 | 映画
私にとっては異例中の異例の再見。
これは私が前回観た後で、原作を読んだことも再見の理由の一つだと思われる。

今のところの私の評価は「映画は圧倒的に面白いが深みに欠けて、原作は(文体が私に合わず)全然面白くないが意味深なメッセージを感じることが出来た。」といった感じだ。
で、今回の特別版はノーマル版より50分も長く未公開シーンも多かったが、印象は原作に近くなったというより、映画版に厚みを増した感じであった。
結局は原作と映画版とは全く別モノであるという個人的結論は以前のままである。

でも、やっばり面白いし良く出来てるわ!、この作品。

(娯楽大作のお手本的作品)

『ビヨンドtheシー ~夢見るように歌えば~』

2005年02月28日 05時36分50秒 | 映画
ストーリー説明及びネタバレなし。(ちょっと、微妙かな?f^_^;;)

これは好き!!。
少し前に『Ray <レイ>』を観たけど「いい映画だとは思うけど、俺って伝記の類には興味が湧かないのかなぁ~」なんて思ったくらいで、『アレキサンダー』でさえスペクタクルというより伝記色が強く心底楽しんでいなかったような気がする。

で、この作品の場合は観ている時も楽しく途中で「これって伝記ではないよなぁ~」と思っていると、映画の最後に「これは事実に忠実ではないが、「思い出は月光のようなもの。後で素敵に変えればいいのさ」という台詞のように事実とは違った脚色をしている。」といった但し書きのような字幕が現れ、だから私は楽しめたんだと納得した。

伝記モノが苦手な理由に事実に忠実にしなければというのが強調され過ぎていて、観客の興味とは別の展開であったり、テーマが見えにくかったりするケースが多いのだけれど、本作品はそれが非常に明解であったのも、好きな原因の一つに上げられる。
それと、映画って基本的に楽しむモノというのが私の中にはある。私の場合アート映画だって楽しいから観ているのである。

楽しみながら何か一つでも勉強になった(この言葉は嫌いだけど)り、忘れられないシーンなり印象に残った台詞も一つでもあったら私には十分なのだ。。
そして、この作品でも非常に印象に残る台詞があった。

主人公が自由を求めスタイルを変え観客にそっぽを向かれた時に妻が言う台詞で「ピープル・ヒア・アット・ゼイ・シー」というのがあった。直訳すると「人は観たものを聞く」というらしい。(パンフレット参照)字幕では確か「観客は見た目を信じる」ってなっていたような記憶があるが、私はこれは上手い訳だと思う。
これは非常に深い言葉だと思う。凄く誤解されそうな言葉ではあるが、決して観客(大衆)を馬鹿にしたり軽視したりした言葉ではなく、私には主人公やこの物語だけではなく映画や様々なことにも当てはまるような気がした。

要するに「映画なんて全て「嘘」の塊なんだよ。」ということを前提に、でも人間(観客)は「嘘」も求めているし、「真実」も求めている。そのバランスが大事なんで、どんなに嘘だらけの物語であろうと、最終的に観客に何か大切な真実を一つでも残せれば良いわけであって、表現者の特質によりそれを生かした表現こそ真実も観客に浸透しやすく、効果的だという意味がこの言葉の真意だと思う。
ハリウッド映画などはそれをずっと実践してきた訳で、監督でもあるケヴィン・スペーイシーのそれに対する敬意のようなものをこの作品から感じ取る事が出来た。


『トニー滝谷』

2005年02月27日 09時59分01秒 | 映画
ストーリー説明及びネタバレなし。

久々の市川映画。この頃の市川作品って毎回毎回スタイルを変えている。
(でもいつも市川の絵なんだけどね。(笑))

今回は村上(春樹)スタイルの映像化への挑戦かぁ。

私は昔、彼の何かの作品を読んで挫折してそれ以降読んでいない。
別に面白くなかったって訳ではなく、多分彼の文体が私と相性が悪かったというか合わなかったのかも知れない。とにかく全く読み進めなかったのだ。10ページ読むのに一週間くらい悪戦苦闘した記憶がある。(爆)
でも、その世界が嫌いではないのが不思議な気がした。その時「これが映像だったら観れるかも知れないなぁ~」なんて思ったような気がする。しかし「これを映像化するのはよほどのセンスがないと難しいだろうな」とも思った。

で、今回の映画はそれらしく上手く映像化していると思うし成功しているのではないだろうか?。(原作も読んでないし、村上春樹自体よくわかっていないので確信はないのだが…。)

私は、この作品自体は嫌いではない。というより好きな部類にはいる。
映像も好き、役者もいい。(宮沢りえって、最近女優としてノッているという以上に何かにとり付かれたような神がかり的な存在に思えてきた)

ただ、私はこの作品の「孤独」についてより彼らの(村上春樹・市川準・トニー滝谷)世代(団塊の世代)に対して異様に敏感に反応してしまい正常な判断力を失う傾向にある。私が今までに書いてきた文章の中で、私の「団塊世代嫌悪」があるのだけれど、ただ単純に嫌っている訳ではなく、愛憎のような感じで私達のような次の世代に多大な影響を与えていることも凄く解かっていて、この作品の中の主人公も彼ら世代よりも次の世代を予感させる世代として、どちらかと言うと私側にいるタイプなんだが、それが自己嫌悪のように、その「孤独」でさえ、傲慢に思えてならないのだ。

(これも「私の映画」に分類出来る)

『ビフォア・サンセット』他

2005年02月26日 08時04分04秒 | 映画
私は、この作品は好きです。
しかし、レビューを書く前にこの作品について、私の掲示板とかオフで結構喋ってしまって、改まってUPする気力もないので今回は採点だけです。

それと、ネットのお友達であるとめさんのサイトで私との対談形式でのレビューがUPされています。

リンク先 http://tome-pko.serio.jp/impression/kansouh3.html#jump2

採点(9段階評価です)
『ビフォア・サンセット』(劇場鑑賞) :(好き)

『ニワトリはハダシだ』(劇場鑑賞) :(力作)

『アレキサンダー』(劇場鑑賞)    :(力作だが時代遅れ)

『ゼブラーマン』(録画鑑賞)     :(想像以上に楽しめた)

最近の事柄

2005年02月20日 14時26分25秒 | 独り言
しかし、折角作ったブログも全く更新もしなくて放置状態だよ。
書くネタは結構あるのだけれど書く時間が殆ど無くて結局はこうなってしまうのね。(涙・涙)

で、今日は外に出て行く気力もないし、久々にゆったりとした休日を過ごしているので色々とまとめ書きしておこう。(笑)

まず、近況というと今月は二回もオフした。
先々週はKaoriさんが香港から戻られていたので忙しいスケジュールの中、とめさんと三人で軽く梅田でお茶をした。で、Kaoriさんのブログにも書かれていたけど、このブログってKaoriさんのような人のためにあるのだろうな。
私はどんなに書くことがあっても、文章そのものがかなりの気力と気合を入れないと書けないので、こんなに放置状態になってしまう。
先週はヤマさんが研修のため来阪されたので、タンミノワさんとヤマさんはまだ会っていないということで、またとめさんをお誘いしての四人オフ。そして、この日はバレンタインデー。強調しておかなくてはならないのだけれど、これはあくまでも偶然で狙っていたわけではありません。(笑)
という事をヤマさんと二人で説明しあったのが可笑しかった。(これは本当。f^_^;;)
しかし、オフっていうのはネットの延長でありながら、また違った新鮮な空気があって刺激的で面白いな。


次は、足の状態の事だけど、去年の末からずっと足の指の皮がめくれて一ヶ月以上全く治る気配がなかったので、先々週についに病院に行って診て貰ったのだが、さすがに病院には行くもんだね。
ひょっとしたら今つけている薬が合わないのかも知れないと言って違う薬を貰ってつけたら今はもう殆ど治ってしまったよ。(笑)
これならもっと早く行けばよかった。病院嫌いも困ったもんだ。f^_^;;


次は少し前私の掲示板で話題に出た、「私が劇場で映画鑑賞する作品の優先順位」についても書いておこう。
しかし、こういうネットで映画ファンと言ってる人の月平均の劇場で鑑賞する映画の本数ってどれくらいなんでしょうね?。
それと今の日本(とは言っても場所によっても随分違ってくるとは思うが)で一ヶ月に公開される作品数って平均して何本くらいになるのだろう?。
私個人としては経済的・時間的な事を考えて、月に大体10本くらいをメドに劇場鑑賞をしている。これでも観たい作品の何分の一にしか過ぎないので、当然観たい作品の優先順位をつけなければならない。
で、必ずしも嗜好とか作品の質の高さが優先順位の高さと一致している訳ではないのでその辺りの説明をすると、劇場鑑賞の場合の付加価値というかメリットを最優先する傾向が私にはある。例えば音響を生かした作品であるとか、大画面ならではの映像だとかそういう作品の方が本当に観たい作品より上にくる場合が多くある。逆に言うと、テレビのモニタで観てもその作品価値が殆ど変わらないものは、観るのが少しくらい遅れても十分我慢できるという事なんだろうな。
といいながら、劇場で見損なった作品って中々テレビでは観ない傾向にあるのも事実なのでその辺りが痛し痒しで、映画もやはり「縁」の様なものも感じてしまうなぁ。

『ステップフォード・ワイフ』

2005年02月06日 23時15分03秒 | 映画
ストーリー説明なし、ネタバレなしといつものように書きたいのだが、この作品の場合何を書いてもネタバレになってしまう可能性があるので、まだご覧になっていなくて気になる方は読まないでいただきたい。
(まあ、相変わらず殆ど物語には触れませんけどね。f^_^;;)

ということでのっけからネタに関する事かも知れないが、この作品ってスリラーでありブラックなコメディーと思っていたのだけれどそれにSF作品だったとは知らなかった。(爆)

少しこの映画とは関係ない話からさせていただくと、最近のSF映画って本当に「SF映画」と呼んでいいのだろうか?。私の個人的な意見を言わせてもらうと、かなり疑問を感じている。
SFってやはり未来(というより現時点のリアルワールドではない)の世界の話でなければならないと思うのだが、今ハリウッドなどで作られているSF映画の元ネタというのが、私が子供の頃(3,40年前)にSFと呼ばれていたネタと全く変わっていないのだ。いや、もっと酷いのはSF(小説などで)というジャンルが出来た100年以上前の頃のネタをいまだに相も変わらず使い回ししているのって、元来の「SF」とい言葉の意味からもう完全に外れてしまっている事にならないだろうか?。もっと分りやすく言うと現時点において発想される未来(異世界)こそが本来のSFなんだろう!。
特に最近の映画界はCGという玩具の発明により、それを使いたいだけの古い使いまわしネタが多過ぎるに様に感じている。

そうした中でこの作品的SF要素は非常に好感が持てるものかも知れない。
作品そのものはアメリカ映画の得意とするところの、そして私好みのブラックユーモアたっぷり含んだ作品で楽しめたのだけれど。これもちょっとネタの古さは感じてしまった。というか、この作品も原作モノでウーマンリブって言葉が出始めた頃の作品だそうで、それを今風にアレンジしたそうだが、ちょっと甘さを感じてしまった。個人的には主人公達にもっと厳しいラストにして欲しかった。

もう殆どネタバレだけど、この作品って自分がロボット的人生に憧れ挫折した主人公が本当のロボットを見て本来の自分を発見するってのが主軸の筈なんだけど、あのラストだと結局何も発見出来ていない事になってしまうよね。ただ、違う種類のロボットをやっつけ元のロボットの生活に戻れただけの(今度は反省出来る自覚あるロボット)話になってしいまっている気がしないでもない。(ロボット人間が人間ロボットを気持ち悪がっても、「目糞、鼻糞を笑う」ってことでしかないのでは…)
だから、元いた世界を皮肉りたいのなら元の世界に戻してハッピーエンドではダメでしょう。でも、言いたい事は分るけどね。



『ヴィタール』

2005年02月06日 09時10分55秒 | 映画
ストーリー説明及びネタバレなし。

映画も30年以上観続けていると、勿論好きで楽しくて観続けているのだけれど、十代の頃に味わった映画を見る前の高揚感というかワクワク感はもう殆ど無くなってしまったようだ。それだけ擦れてしまったということだろう。(笑)
それでも全く無くなったという訳でもない。
所謂、ハリウッドのジャンルムービーだとか、制作費○○○億円だとか、○○No1だとかの宣伝文句には、私の高揚感を全く誘発しなくなってしまったけど、まだまだ未知の国の作品だとか、未知の監督作品で口コミなどで評判が良い作品などには少しワクワクしてしまう。

そういった中で塚本監督作品というのは、彼独特のスタイルはあるのだが毎回毎回どんな作品を提供してくれるのか全く予想つかないし、いつも白紙の状態で観れるし、私にとってはある種の高揚感を感じさせてくれる非常に稀で貴重な監督なのだ。
今回の塚本作品も、観た後の今でも誰かにどんな映画だったのか、自分が何を感じたのかを説明するのも凄く困難な物語なのだが、でも確実に私の感性を激しく刺激するのだ。

生と死を見つめた作品は数多くあるのだが、こういうアプローチの仕方の作品は始めてだったので、完全に作品にのめり込まされてしまった。
何度も言うが、私が何故このような作品にのめり込んでしまうのかという理由は、私の表現力では言語化不可能だが、この作品に美しさを感じたことだけはハッキリしている。
というか、塚本作品にはいつも美醜を織り交ぜて描かれているのだが、観客が「美」か「醜」か、どちらをキャッチするのかを試されている感じもする。で、私は塚本作品にはいつも作品毎に違った「美」を感じるのだ。

この作品では実際に美しく描かれているのは幻想部分のみなのだが、その幻想部分が生(生命)の美しさなのか、死の美しさなのか、はたまた、美というのは人間の想像力(頭の中)だけのものなのかよく分らないのだけど、それが人間だけが感じられる特権であり、苦しみなのかも知れない。ということを薄っすらと感じた。

もう何回か観ないといけない作品なんだろうな。