先週末に通り掛った静岡県周智郡森町、つまり「遠州・森町」と言えば、そう――、
「あんた、江戸っ子だってねえ。食いねえ、食いねえ、寿司食いねえ」で有名なご存知「森の石松」の生まれ故郷――だと、てっきり思っていたら、
違ったようです。
その説もあるにはあるようですが、
石松の出身地は三州半原村、現在の愛知県新城市との説が、どうやら正しいことを、
恥ずかしながら、帰ってきてネットで調べて初めて知りました、愛知県人なのに…。
石松は、代々続く村の庄屋のお坊っちゃん。甘やかされて育ったためか、ガキの頃から乱暴者で、「家庭内暴力の元祖でもあった」とどなたかがブログに書いていらっしゃいました。
ある時、気に入らないことがあって自宅に放火し、それが原因で家が没落してしまったといいますから、昔から居たんですねえ、どうしようもないバカ息子が。
このため新城を出た石松の父親は森町に移り、きこりをして生計を立てていたようですが、そんなある日、森町の天宮神社の祭りに来た石松親子が人込みに逸(はぐ)れ、石松が迷子になってしまったんだそうです。
その時、地元の侠客「森の五郎」に助けられ、拾われた石松は、そのまま五郎の家で育てられ、やがて五郎と親しかった清水の次郎長の子分となって……という生い立ちを書き始めるとキリがないので、やめておきます。
ともあれ、森町は石松の生まれ故郷ではなかったようですが、しかしお墓が、町内の「橘谷山大洞院(きっこくさんだいとういん)」にあるというので、見てきました。
「大洞院」は応永18年(1411年)年に開かれた古刹で、秋には紅葉の名所だそうです。
そして、
「石松の墓」が、これ。
ただし、
「石松の墓」も、実は生まれ故郷の愛知県新城市の「洞雲寺」にもあって、さてどちらが正墓なのか、確定できないんだそうですよ。
それはともかくとして、お気付きになりました?
万延元年(1860年)没という、今から150年近く前に亡くなった石松の墓にしては、墓石がずいぶん新しそうなことに。
実は、写真の墓は昭和54年に建立され、平成7年に修復もされた、3代目のお墓なんだそうです。
昭和10年に建てられた1代目のお墓は、「石松の墓の石を持っていると、勝ち運に恵まれる」というウワサがいつしか広まったため、昭和30年前後から墓石を削って持ち帰る人が増え、50年ごろにはすっかり丸く削られてしまったんだそうです。
その1代目の墓石の、見るも無残な姿が、これ。
いまは鉄の柵でガッチリ保護されています。
やむなく52年に2代目が建立されましたが、
その2代目はなんと、54年に、削るどころか墓ごと盗まれてしまったのだそうです。
そこで同年再々度建てられたのが現在の3代目。
今度は硬くて削りにくいアフリカ産の石で作ったそうですが、
それでも削る者が後を断たず、
3代目も、元々は長方形だったのに、角がかなり丸くなっていました。
ちなみに、石松の墓の右に建っているのは、親分・次郎長の碑です。
さて、
ネットで調べているうちに、「そう言われれば…」と後になって気付いたことがもう1点ありました。
それは、
「石松の墓」が、「大洞院」の境内ではなく、
敷地の外の、道端に建っていたことです。
身分が「侠客」、つまり「ヤクザ」だから、
境内には建てさせてもらえなかったのだそうです。
なるほど。
そういう「身をわきまえる」という、一本筋の通った考え方が、
昔は社会的にきちんと出来ていたんですよね。
それに引き替え、現代は……と、
複雑な思いを禁じ得ません。
ところで、
昨日のブログに書いた「桔梗寺」から、
今日の「石松の墓」がある「大洞院」に通じる道――。
こういう道を走るのが、大好きです。
とても快適なドライブに、
愛車「マツケン・サンバ号」も喜んでいました。
「あんた、江戸っ子だってねえ。食いねえ、食いねえ、寿司食いねえ」で有名なご存知「森の石松」の生まれ故郷――だと、てっきり思っていたら、
違ったようです。
その説もあるにはあるようですが、
石松の出身地は三州半原村、現在の愛知県新城市との説が、どうやら正しいことを、
恥ずかしながら、帰ってきてネットで調べて初めて知りました、愛知県人なのに…。
石松は、代々続く村の庄屋のお坊っちゃん。甘やかされて育ったためか、ガキの頃から乱暴者で、「家庭内暴力の元祖でもあった」とどなたかがブログに書いていらっしゃいました。
ある時、気に入らないことがあって自宅に放火し、それが原因で家が没落してしまったといいますから、昔から居たんですねえ、どうしようもないバカ息子が。
このため新城を出た石松の父親は森町に移り、きこりをして生計を立てていたようですが、そんなある日、森町の天宮神社の祭りに来た石松親子が人込みに逸(はぐ)れ、石松が迷子になってしまったんだそうです。
その時、地元の侠客「森の五郎」に助けられ、拾われた石松は、そのまま五郎の家で育てられ、やがて五郎と親しかった清水の次郎長の子分となって……という生い立ちを書き始めるとキリがないので、やめておきます。
ともあれ、森町は石松の生まれ故郷ではなかったようですが、しかしお墓が、町内の「橘谷山大洞院(きっこくさんだいとういん)」にあるというので、見てきました。
「大洞院」は応永18年(1411年)年に開かれた古刹で、秋には紅葉の名所だそうです。
そして、
「石松の墓」が、これ。
ただし、
「石松の墓」も、実は生まれ故郷の愛知県新城市の「洞雲寺」にもあって、さてどちらが正墓なのか、確定できないんだそうですよ。
それはともかくとして、お気付きになりました?
万延元年(1860年)没という、今から150年近く前に亡くなった石松の墓にしては、墓石がずいぶん新しそうなことに。
実は、写真の墓は昭和54年に建立され、平成7年に修復もされた、3代目のお墓なんだそうです。
昭和10年に建てられた1代目のお墓は、「石松の墓の石を持っていると、勝ち運に恵まれる」というウワサがいつしか広まったため、昭和30年前後から墓石を削って持ち帰る人が増え、50年ごろにはすっかり丸く削られてしまったんだそうです。
その1代目の墓石の、見るも無残な姿が、これ。
いまは鉄の柵でガッチリ保護されています。
やむなく52年に2代目が建立されましたが、
その2代目はなんと、54年に、削るどころか墓ごと盗まれてしまったのだそうです。
そこで同年再々度建てられたのが現在の3代目。
今度は硬くて削りにくいアフリカ産の石で作ったそうですが、
それでも削る者が後を断たず、
3代目も、元々は長方形だったのに、角がかなり丸くなっていました。
ちなみに、石松の墓の右に建っているのは、親分・次郎長の碑です。
さて、
ネットで調べているうちに、「そう言われれば…」と後になって気付いたことがもう1点ありました。
それは、
「石松の墓」が、「大洞院」の境内ではなく、
敷地の外の、道端に建っていたことです。
身分が「侠客」、つまり「ヤクザ」だから、
境内には建てさせてもらえなかったのだそうです。
なるほど。
そういう「身をわきまえる」という、一本筋の通った考え方が、
昔は社会的にきちんと出来ていたんですよね。
それに引き替え、現代は……と、
複雑な思いを禁じ得ません。
ところで、
昨日のブログに書いた「桔梗寺」から、
今日の「石松の墓」がある「大洞院」に通じる道――。
こういう道を走るのが、大好きです。
とても快適なドライブに、
愛車「マツケン・サンバ号」も喜んでいました。
こちらで勉強させていただいて、かなり賢くなったのではないかと思っております(笑)
歴史あり、花あり、公園あり、勤務先ありと毎日楽しませていただいています。
森の石松とはガッツ石松のことではないのですね(かなり滑りましたか?)
名前だけは良く知っている石松について色々教えていただきました。
ありがとうございます。
また寄らせていただきます。
とんと、分からないお話だった…
おバカさ加減がハッキリと出てしまいます…トホホ
ただ言える事は…
ビビリなmori-kumaとしては、果たしてお墓を
勝負事にて、あやかりたいが為に、削っていく人達は、
のちのち祟られたりしないんでしょうかねぇ?
あぁ
怖い怖い・・・
ちゃんと奉ってこそ、ご利益が授かるのでは?と思うのですがねぇ・・・
「森の石松」をご存知ないのは当たり前ですよ。なにしろ「浪曲」の世界の話題ですから。あのNHKでさえ、最近は浪曲の番組をほとんど放送しなくなりましたもんね。
ただ…、日本固有の文化・芸術が廃れていくのは、寂しい気もしますが。
それだけの労苦を厭(いと)わないなら、一攫千金の賭け事などせず、まっとうに稼ぐことを考えたらどう?――などと、博才のない私は思うのですが。
>こういう道を走るのが、大好きです
高速道路を走るより、こういう道、好きですね。
2日間、ライオンズの応援に。今日、ブログにのせます。
ドラゴンズと日本シリーズで戦いたいです。ね。
野球のほうは、わが中日ドラゴンズ・ファンは、まだまだ楽観はしていません。過去に苦い経験もしていますからね。
でも、もし西武と対決できるようになった暁には、さてその後も遺恨なくお付き合いしていただけるだろうかと、少しばかり不安でもありますが。
前に勝っているので、少々、強気ですが。