Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

元旦に思うくだらないこと

2017-01-01 23:59:46 | つぶやき

 今年も昨年同様に家族で母のところを訪れた。昨年は老健に入所していたが、今年は特養と、昨日も触れたように同じようにも見えるが環境は明らかに変わっている。老健ならできることは自分で、という具合に言ってみれば冷たくされているようにも見えたが、特養ともなるとそういう気配はなくなり、人に頼ってしまう傾向だ。したがってまだ特養に移ってそれほどではないが、幾分自分で動くという意識が弱っているようにも思う。わずかな間でそれが見えるということは、今後が心配にもなる。

 話はまったく変わるが、骨折した左手薬指はどらかというとあまり用のない指ではあるが、使わないと思うとけっこう厄介なもの。そう意識的に感じたのはものに限らず身体も含めて洗う際にそう思う。わたしは右利きだから左手薬指がどういう立場にあるかはわかる。利き腕優先になるのは誰しも同じだろうが、必ずしも利き腕とふだんの生活スタイルが常識化しているわけではないだろう。それぞれの人の習慣によってそれは形成される。実はわたしは左手で箸を持つことができる。もちろん持つだけではなく、左手に持った箸で右手同様に食べ物をつまむこともできる。これはかつて右手を怪我をして、箸を持つことができなかったときに一時的に左手で箸を持とうとしていたときにできるようになったもの。仕方なくそんな経験をして、そして右手同様に真似事でも箸を持つことができるようになった。やはり習慣なのである。そうした仕方なくそんな環境になったときに、工夫して厄介なことにトライをしたわけであるが、今回のように少しばかり不自由になった場合、あえて利き腕でしていたときと同様にもういっぽうでトライすることはない。もちろん「洗う」という場合左手が使えなければ右手を使うだけのことであるが、人間は左右対称の身体を持ち合わせている。したがっていつもの反対側から相手側の作業をすることは不可能だ。それを意識的に感じるのが、こうした不自由さを体感するとき。

 そんな意味で捉えると、たとえばシャワーを片手に頭髪を洗う際に、わたしは右手にシャワーを持って左手で頭髪を洗おうとする。したがって左手が不自由だと意識すると、左手にシャワーを持って右手でまず頭髪全体を濡らす。ところがこれがとても違和感がある。そもそも利き腕でシャワー持つのが一般的なのかどうかもはっきりしない。動作的にはシャワーを持つだけの手と、髪を洗う側の手であれば、後者の方が動作としては細かく、激しい。これはかつてシャワーが一般的になかった時代に、風呂桶を右手に持った習慣がそうさせているのかもしれない。また最も洗い物で困るのが、茶碗などを洗うときのこと。左手に持って右手でしっかりと洗おうとする。左手にしっかり持つことができないと、この作業がとてつもなく厄介になる。ようは箸のような力を要しない作業にくらべると、力を少しでも入れる作業は、ふだんとは正反対の動作は簡単ではないというわけだ。左右対象でありながらそれを反対に成すことの違和感は、まさに身体の習慣的なもの。そりゃあ、何十年とやってきているのだから、当たり前と言えば当たり前のことだが…。

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