30年前横須賀市が選定した『横須賀風物百選』をめぐるこの企画、今回は浦賀にあります
『咸臨丸出港の碑』です。(“かんりんまる”と読みます。)
まずはその碑がある“愛宕山公園”へ向かいます。横須賀の公園は“うみかぜ公園”の
ように広く、キャッチボールができたりする公園もありますが、単に小高い山だったりする
公園もあります。ここ愛宕山公園は・・・

地図を見て行ったのですが、入り口がどこなのかなかなか分かりませんでした。
そして発見した公園入口。以前は『浦賀園』と呼ばれていたそうです。
奥には階段が・・・ここから“登り”ます。

軽く登ると、ちょっとした広場に出ます。そこに『咸臨丸出港の碑』がありました。
公園といっても、いるのは私一人。手入れされてるとは言い難く、自然そのままの公園です。

『嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。
我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。
それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も
寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で
新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に
備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、
運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。
途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。
それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、
咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を
39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、
故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に
伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、
ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
なを、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。
また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。』

もう少し上がると、“与謝野晶子夫妻の文学碑”がありました。
『黒船を怖れし世などなきごとし 浦賀に見るはすべて黒船』 寛
『春寒し造船所こそ悲しけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く』 晶子

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そしてこちらが1893年(明治26年)に建立された、浦賀奉行所与力『中島三郎助の招魂碑』
これを機に公園として整備されました。愛宕山公園は市内で最も古い公園です。

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Wikipedia→中島三郎助

訪れてみると、ここ愛宕山公園は、市内で最も古い公園であったり、
『咸臨丸出港の碑』があったり、『与謝野晶子夫妻文学碑』、そして『中島三郎助招魂碑』と、見所は多くありました。
“咸臨丸”につきましては、下記参照サイトの他、多くの充実したサイトがありました。その一つ一つの話は当時の日本の様子が伺え、大変興味深いものでした。
ペリーの来航によって、鎖国していた日本に激震が走り、その7年後に日本人初の太平洋横断を果たす。乗組員には
勝海舟、
福沢諭吉 小栗忠順、
ジョン万次郎らが名を連ね、異国の文明を目の当たりにして帰ってきます。激動の歴史の中で咸臨丸の太平洋横断は、日本という国においても重要な出来事であり、それに伴った“人間”にも大きな出来事であったように思えます。
そしてここ浦賀では毎年4月下旬か5月上旬頃『咸臨丸フェスティバル』があります。
関連サイト
Wikipedia→
咸臨丸
咸臨丸ホーム→
咸臨丸
咸臨丸子孫の会→
こちら
せなうん→
咸臨丸の歴史
当ブログ横須賀風物百選特集は→
こちら

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