30年前、1977年に選定された「横須賀風物百選」を巡るこの特集。
今回は浦賀港への入り口、西浦賀にあります『燈明堂跡』です。

慶安元年(1684)に建てられ、明治の初めごろまでの約220年間にわたり
灯火をともし続けました。その光は房総半島までも届いたと言われています

以下市のガイドより
燈台の先祖というべき施設で、慶安元年(1648)に建てられ、明治の初め頃までの
約220年間にわたり燈火をともし続けた。当時の構造は、高さ6尺、2間四方の石垣の上に
7尺2階建燈明堂を建て、菜種油を燈火の原料としていた。維持費は、浦賀商人の負担であった。

石垣は当時のものそのまま。現在の燈明堂は昭和63年(1988)に石垣の上に復元

慶安元年(1648)より、明治5年までの223年間、浦賀への出船、入船の安全を守った燈明堂。江戸時代の燈台です。燈台は夜間航行の道しるべです。
江戸時代の浦賀港の繁栄をしのぶ記念物です。対岸、東浦賀には、後北条氏の山城、浦賀城があります。
復元なった、浦賀燈明堂の建つ、この場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた燈明堂跡地である。
燈明堂は、今日の燈台のような役割をする、航路標識の施設であった。
燈明堂は、慶安元年(1648)、幕府の命によって、幕使・石川文左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられる。石垣を土台にして、上に二階建ての建物があった。
階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に、金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に、灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2km)に達したという。
当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に、浦賀奉行に所管替えとなり、明治になって、神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは、徳川幕府が賄っていたが、同四年から、東浦賀の干鰯問屋が、一切負担するようになった。
明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって、1日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の燈台史の上で、極めて貴重なものである。
建物は明治20年代まで、残っていたというが、風雨で崩壊してしまい、一抱えもある、大きな石で、高さ約1.8m、幅3.6m、四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。
燈明堂跡は、大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。
この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の粋を結集して、当時の姿そのままに復元された。

江戸時代この辺りに浦賀奉行所の処刑場があり、この場所を「首切場」と呼ぶ人も多い。
処刑された人の供養の為の石像。

ここの場所はとても海の綺麗な場所でもあります。訪れた時は海水浴をしている方もいました。
海の安全を見守り続けた「燈明堂跡地」であり、浦賀奉行所の「首切場」でもあったこの場所。
今は綺麗な海岸ですが、その昔はいろいろあった場所なのですね。
関連サイト
google画像検索→
横須賀 燈明堂
観音崎の自然&あれこれ→
燈明堂とその周辺
wikipedia→
燈明堂
横須賀散策→
燈明堂
ふるさと横須賀→
灯明堂 『夜船の安全を守る』

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画像追加2008年1月
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