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リアルな本でなくなる

リアルな本でなくなる

 リアルな本でなくなることは、当然、書き方が変わってきます。シリアルであることも一つの塊であることもなくなる。コンテンツをバラバラにすることを著者が行なうことが可能になる。

 実際のバラバラなことを無理矢理一つにしている。その過程を一番知っているのは著者でしょう。エッセイ集の場合は、その間をどう感じるかがポイントになる。池田晶子さんの場合は、それらの関係が彼女の内側を構成している。

OCR化した本の感想

 『公民館を創る』

  豊田市の公民館(交流館と称している)は指定管理者制度を取り入れている。豊田市図書館が指定管理者制度になる時に調べたら、入札もなく、制度を取り入れたみたいです。
  日常の作業をこなしています。ここから変革を考えるような動きはない。公民館の役割が地域のサークル以外は感じられない。地区のイベントの時に、図書室を閉鎖している。本来の生涯学習施設の役割は果たされていない。

 『環境法』

  環境法を分解すると、自然環境、人工環境、生活環境の「環境」に関する法、「現在および将来の世代」に関する法、「影響を与える行為」に関する法、「関係主体の意思決定」に関する法、「社会的に望ましい方向の決定の手続と内容」に関する法、「方法」に関する法、「紛争処理」に関する法、となっているが、これらを地域で体現できるのか。

  環境法学習に対してのアドバイスとあるが、本来は環境学習があって、それを支援する法律がないとけない。10年以上前に訪問したフィンランドのハメリンナ市環境学習施設のDr.ヘリは与えられた権限を越えて、中間の存在の役割を果たしていた。法律は単にその活動を後追いしている感じがした。
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経済制度の選択を規定する政治制度

『<世界史>の哲学』より 包摂的な政治制度のアンチノミー

経済制度の選択を規定する、もっと基礎的な原因がある。それもまた制度、政治制度である。政治制度が経済制度を強く規定しているのだ。アセモグル等の結論は、こうである。包摂的な政治制度の下では、包摂的な経済制度が選ばれる傾向かおる、と。政治制度と経済制度は、論理的には別の契機である。しかし、前者から後者への強い因果関係がある、というのが、アセモグル等の見解だ。

包摂的な政治制度は、二つの条件によって定義される。第一の条件は、権力の配分の社会的な多元性(pluralism)である。政治は、ひとつの社会が自分自身を統治するためのルールを選ぶプロセスである。この決定の過程を規定している最も重要なことは、誰が(あるいはどこが)権力をもっているか、である。権力が、特定の個人や小さなグループに与えられているのではなく、社会的に広く配分されている場合、つまり権力が多数のグループや個人に託されている場合、その社会は多元的である、とされる。

多元的であるだけでは、まだ足りない。政治的な決定が実効性をもち、すべての人に強制される、と人々が確実に期待できなくてはならない。包摂的な政治制度の第二の条件は、政治制度が十分に中央集権化されていること(centralization)、つまり十分に強力な国家をもつことである。中央集権化された、強い政治制度をもっていなければ、人々は、決定事項が他者たちを拘束するだろうと期待することができず、そのために、実際に、その決定事項が人々を拘束することもない。

以上の二つの条件をともに備えた政治制度が、包摂的な政治制度である。それらの条件のうちの一方だけでも欠けている政治制度は、収奪的な政治制度と見なされる。包摂的な政治制度のもとでは、包摂的な経済制度が選ばれる傾向かおる。包摂的な政治制度と包摂的な経済制度の間に、必然的なつながりがあるわけではない。しかし、両者は親和性が高く、包摂的な政治制度の下で、収奪的な経済制度が選ばれる蓋然性は低い。したがって、経済的な繁栄を規定している究極の要因は、アセモグル等の理論によれば、包摂的な政治制度である。彼らは、豊富な事例によって、このことを実証してみせる。

多元性はあるが、中央集権的な国家がないに等しいという意味で、非包摂的(収奪的)な政治制度の例は、東アフリカのソマリアに見ることができる。ソマリア社会は、いくつもの大規模な氏族から成っている。氏族は支族に分割され、支族はさらに、「ディヤ集団」と呼ばれる近縁者からなるグループに分けられる。人々は、氏族、支族、ディヤ集団に対して強い所属意識をもっているが、それらを超える上位の集団や共同体があるとは見なしていない。どの氏族・支族も他を圧する権限をもたず平等な発言権をもっているのだから、ソマリアは多元的な社会である。

しかし、ソマリアには私的所有の観念がなく、また氏族や支族の全体を統括する中央集権的な国家が機能していない。ソマリアでは、ディヤ集団や支族の間で、ほぼ恒常的に戦争が起きている、という。殺人や傷害の罪は、ディヤ集団や支族の「血の復讐」によって蹟われなくてはならないからだ。「ディヤ」とは「血の代償」という意味である。

ソマリアは、氏族・支族・ディヤ集団の関の互酬的な贈与交換のネットワークとして成り立っている社会である。贈与交換と報復的な戦争とは表裏一体の関係にある(『東洋篇』第一三章参照)。このような社会では、贈与したり、報復したりする集団たちの関係を超越する集権的な権力が存在しない。つまり、贈与や戦いの互酬的な関係が、「正義」を規定する最終審級である。このとき、誰も、客観的な第三者として、「互酬的な均衡が成り立っている」と判定してはくれないので、報復や贈与の連鎖はいつまでも続くことになる(どちらの陣営も「まだ足りない」という主観的な意識をもつからだ)。紛争が頻発するこのような社会が、産業革命を経験し、経済成長することなど、とうていありえない。

逆の極端、つまり中央集権的ではあるが多元性を欠いている収奪的な政治制度の例は、アフリカ南部の国ジンバブエである。『諸国民はなぜ……』という書物の中で記述されている、多数の興味深い事実の中で、「笑える」という点で最高のエピソードは、二〇〇〇年一月に行われた、ジンバブエ銀行が主催している国営宝くじの抽選会の件であろう。前年十二月の時点で、同行に一定額以上の預金をしている顧客の全員に、宝くじに当たる可能性があった。司会者が当選くじを引く役を任されていた。彼は、くじを引いて、唖然とした。銀行の公式声明によると、「司会のファロット・チャワワは、わが目を信じられなかった。一〇万ジンバブエ・ドルの当たりくじが彼に手渡されると、そこにはR・G・ムガベ大統領閣下と記されていた」からだ。

国民の年収の五倍に相当する賞金を当てたのは、一九八〇年以来、この国の政治の頂点に立ち続けてきた、国で最も裕福な男だったのだ! 何と運のいいヤツだろうか。というより宝くじさえも搾取する大統領というのは、一体……。ジンバブエでは、大統領が、宝くじの結果を左右することができるのである。彼は、選挙の結果を都合よく操作することもできたに違いない。当然、経済制度や経済政策も、大統領の自己利益に(のみ)かなうかたちで決定された。たとえば、税収が足りないと彼が見なしたときの政策は簡単だ。紙幣を増刷することである。その結果は、もちろん、とてつもないハイパーインフレーションである。

このような制度のもとでは、国民を、貯蓄や投資、あるいはイノベーションのための努力や創意工夫へと導くインセンティブがまったく生み出されない。国民からすれば、そんなことをしても、まったく報われない、ということになるからだ。一般の庶民には、偶然に降ってくる幸運、宝くじの当たりすらやってこないのだ。その結果は、極端な貧困化である。

収奪的な政治制度のもとであっても、とりあえず安定的な中央集権制があれば、ある程度の経済成長を実現することができる。エリートたちが、まさにその中央集権的な権力を活用して、最も生産性の高い活動に資源を直接配分すればよいからだ。アセモグルとロビンソンは、一九二八年の第一次五箇年計画から一九七〇年までの、ソ連の経済成長と工業化を、そのようなケースの典型と見なしている。

だが、この方法による経済成長には限界がある。モデルや目標がはっきりしていて、そこに到達するまでの成長であれば、この方法は当わめて効率的である。しかし、それを超えた成長、イノベーションを必要とする成長、つまりシュンペークーが言う「創造的破壊」を伴うような成長は、中央集権的な政府による指導によってはもたらされない。理由は次の二つである。第一に、どんなに権力を用いて威嚇したとしても、人に、価値あるアイデアを思いつかせることなどできない。ある人を脅して、あまり気が進まない工場で作業をさせることはできる。しかし、どんなに脅されても、人は閃いたりはしない。

より重要で本質的なのは第二の理由である。中央集権的でしかない権力、つまり分権的ではない権力は、一般に、創造的破壊を、恐れている。『諸国民はなぜ……』に引かれている、ローマ帝国初期のあるエピソードが、その事情を雄弁に語っている。このエピソードは、伝記作家スエトニウスによって伝えられたものだという。ある男が、当時ローマを統治していたウェスパシアメス帝(在六九-七九年)のところにやりてきた。この男は、ローマの要塞でもあるカピトル神殿に、少ない費用で柱を運ぶ方法を発明したと言ってきたのだ。柱は非常に大きく重かった。製作された鉱山からローマヘと柱を運ぶには、数千人の労働者が必要であり、彼ら玉雇用するための政府支出は莫大だった。だが、皇帝は、男のすばらしいアイデアを強く拒絶した。皇帝の言い分はこうだ。「それなら、わしはどうやって民衆を養えというのか」。

この例では、政府は、柱を運搬する「公共事業」に民衆を動員し、これに報酬を払うことで彼らを満足させてきた。しかし、新発明は、この方法を無意味なものにしてしまう。そうなると、今までの統治の手法が使えなくなる。これは困る、とウェスパシアヌス帝は言っているのだ。

大きなイノベーションは、人々の生活様式に変化をもたらす。その変化は、しばしば、統治の既存の方法にとっては脅威となる。固定的な中央集権的権力は、それゆえ、イノベーションに対して警戒的・拒絶的である。イノベーションを許容するのは、あるいはそれを積極的に支援するのは、権力が多元的で、競争的な環境に置かれているときだけである。イノベーションに背を向け、保守的な態度をとっていたときに、ライバルにその座を奪われる恐れがあるという自覚を持っているときにのみ、権力は、イノベーションを歓迎するのである。

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収奪活動と環境法が対応すべき事象

『環境法』より 環境法の学習にあたって

環境法は、実定法の科目である。ただ、体系らしきものがないうえに、法律ばかり多い。その法律も、技術性の程度が高い。その一方で、解釈上の対立はほとんどない。これまでの法律学習においては、こうした法律を対象にすることは少なかっただろう。そこで、いきなり個別の環境実定法にふれると、何を基準にしてどのように整理をすればよいのか、理解にとまどってしまう。環境法とはどのようなものだろうか。どのような特徴があるのだろうか。これから学習する環境法の世界に、まず一歩だけ踏み込んでみよう。

収奪活動と環境法

 人類の歴史は、その生存と生活を維持するために、環境から資源や効用を収奪してきた歴史でもあった。環境には一定の復元力(自然再生推進法3条3項)があるため、収奪活動がその範囲に収まっているかぎりでは、特段の問題は発生しない。ところが、水や大気といった環境は誰のものでもなく、また、利用は無料と考えられてきた。そのため、復元力以上に収奪が行われたり、同じ資源に対して両立しない収奪・利用がされたりする。その結果、人間と自然との間で、あるいは、人間同士の間で、問題が発生することになる。無制約な利用は、究極的には、人間の生命・健康までをも収奪するというように、私たちの存在そのものを突き崩す可能性もある。

 良好な環境は、人類の存続の基盤であり、そのようにあるべく将来世代からあずかったものである。人間生存の基盤であることはもとより、それにふれることによって精神的にも豊かになり、それが新たな発明や発想を生み出すきっかけにもなる。経済そして社会のさらなる発展を支えてくれるのである。そこで、人間の生存と生活、そして、その繁栄と発展を維持するためには、環境を公的管理の対象として把握し、その収奪・利用にあたって何らかのルールを創造・確定する必要がある。

 ここに、環境法の存在意義がある。環境法とは、「環境質を維持・回復する法」である。より踏み込んで定義すれば、「現在および将来の環境質の状態に影響を与える関係主体の意思決定を社会的に望ましい方向に向けさせるための方法に関する法、および、環境をめぐる紛争の処理に関する法」である。その究極目標は、私たち自身および私たちの生活を「豊かに」することである。そうした環境法について、理論的・実証的・解釈論的・法政策的研究をするのが、環境法学である。

 環境法を大きく分けると、国内法に関するものと国際法に関するものがある。地球温暖化、廃棄物の越境移動、生物多楡匪の保全、野生生物の違法取引などに関する国際条約は、国内法の制定に大きな影響を与えており、両者の関係は、年々、密接になってきている。

「多量、集中、特定、短期、単独、確実」

 日本の環境法は、「公害法」として誕生した経緯を持つ。とりわけ戦後の復興と高度経済成長の時代に展開されたほぼ無制約の奔放な経済活動は、深刻な社会問題を引き起こした。この時期の公害の特徴は、「多量、集中、特定、短期、単独、確実」というキーワードに総括される。すなわち、「比較的少種の有害物質が、全体としてみれば、多量かつ狭域に集中して放出され、それを直接あるいは食物連鎖を経て体内に取り込んだ特定の人開への影響が、短期間のうちに確実に発生した」のである。まさにこれが、「日本4大公害事件」といわれる熊本水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜん息であった。経済活動による収奪が、人間の生命・健康にまで及んだのである。自然破壊も相当に進行していたが、それ以上に健康被害が問題視されていた。

 工場・事業場に起因する環境への負荷に対し、1960~70年代にかけて、即効性のある強制アプローチを基調とする法律が相次いで制定される。それらが念頭に置いたのは、確実に影響があらわれる事象、すなわち、これ以上の曝露や摂取をすれば確実に被害が発生するという闇値(生体反応を誘発するのに必要な最小有効量)が明確なものであった。それゆえ、逆にいえば、影響が確実ではない事象への対応は躊躇されがちになる。それにどう対応するか。現在および将来の環境法が取り組むべき大きな課題である。

「少量、広域、不特定、長期、複合、不確実」

 人間が全知全能でない以上、生起する問題に対しては、漸進的にしか対応できない。しかし、科学技術の発展は、その対応能力をはるかに超えた問題も発生させている。また、科学技術の発展により、かつては認識できなかった問題が明らかになっている。現在の環境問題の特徴は、「少量、広域、不特定、長期、複合、不確実」というキーワードに総括される。すなわち、「微量の有害物質が長期間にわたって環境のなかに放出され、それらが複合的に作用して、不特定の生態系や不特定多数の人間の健康に不可逆的な影響をもたらす。しかし、どのような形で影響が生じるかは、現時点では必ずしも確実ではない」のである。これは、産業公害問題とは大いに様相を異にしており、環境リスクという言葉で把握されている。環境リスクは、人間活動が環境を介して生命・健康・生態系に支障を及ぼす程度(インパクト×発生確率)として認識される。具体的には、石綿(アスベスト)、電磁波、化学物質をめぐる現象である。「多量、集中、特定、短期、単独」ではあるが、発生が不確実であることが確実にわかっているという点で、原子力発電所に起囚する放射性物質の漏出も、現代社会の重大な環境リスク問題といえる。

 環境リスクの分析・評価とその管理は、これからの環境法が取り組むべきもっとも重要な課題である。因果関係についての情報が必ずしも十分でない時点でも、不作為という選択ではなく、何らかの対応をする意思決定をしなければならない。そうした場合、財産権保障や比例原則との緊張関係が、不可避的に発生する。強制アプローチだけでは、適切に対応できない。環境リスクヘの対応は、生態系の保護や生物多楡|荏の保全にも共通する課題である。実体的に適・不適の判断をするのが困難になればなるほど、公正・透明な手続を経ることが求められるようになる。現代環境法は、環境リスク管理法の側面を色濃く持っている。

「汚染」の社会性

 環境法が取り組むべき対象は、「環境汚染」という現象である。ところで、「汚染」とは何だろうか。環境法を学習するにあたっては、これが社会的概念であることを認識しておかなければならない。環境法でいう「汚染」とは、法的に対応すべき環境状態をいう。

 たとえば、地下水の枇素濃度については、0.01mgというように、科学的指標によって汚染度を把握できる。問題は、これが何らかの法的対応をすべき状態かどうかである。人間生活から隔絶された場所でこうした環境状態があったとしても、それは環境法的対応をすべき「汚染」ではない。施策対象適格性は、人間にとって好ましい状態かどうかで判断されるのである。

 同じ状態であっても、それを社会がどのように評価するかで、対応が変わってくる。土壌のなかには、自然起因の枇素が高濃度で含有されていることがある。土壌汚染対策法が2002年に制定された当時、自然起因の枇素による土壌汚染は、同法の対応すべき「汚染」とは考えられていなかった。しかし、環境省は、国民の健康保護の観点から、2009年改正法のもとではこれを「汚染」に含めると解釈し、同法の規制対象とするようになった。

 何を「廃棄物」と観念するかも、人間にとっての望ましさによって変わってくる。その物の客観的状況によってのみ決まるのではない。たとえ新品であっても、モデルが古くなって商品価値がなくなり、占有者が不要だと思うようになれば、廃棄物とされる場合もある。
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公民館の指定管理者制度の実態とその問題

『公民館を創る』より 今日の公民館の実態

公民館の運営主体--指定管理や補助執行の実態

 公民館の設置は教育行政のもとで、公民館条例に基づき設置されることが基本である。その基本から外れて、指定管理者による管理運営がどれだけ進んでいるのか。

 結果は市町村の八六・八%が、従来通りの教育行政によるものである。近年、公民館の改革がすすんでいるとの印象を受けながらも、大きな揺らぎになってはいないとみてよい。

 それにたいし、指定管理は八・三%であった。導入市町村数は九八である。文科省統計ではこの導入市町村数が明らかになっていない。指定管理者による公民館数は一〇〇〇を超えるのであるが、導入している市町村は一〇〇程度である。つまり、全公民館の八・六%が指定管理者による運営で、全市町村の八・二%が指定管理を導入しているという結果である。

 他方、首長部局による公民館の管理運営が四・九%、五八市町村である。教育機関である公民館が教育行政から外れた一般行政が受け持つという事態が、変則的にも実施されているのである。

公民館の指定管理者

 指定管理者制度が導入されて一年経過した二〇〇四年六月段階で、総務省が行った全国調査では、指定管理者による公民館はわずか全国で二自治体、三施設にすぎなかった。

 それから一年四ヵ月後の二〇〇五年一〇月、文科省調査(平成一七年度版)によると、六七二館、全公民館の三・七%という結果であった。二〇一一年調査では、数の上ではわずか減少に転じ、全公民館に対する割合は八・六%であった。さらに、最新の二〇一五年調査では、一三〇〇館、全体の九八‥)%であり、社会教育施設の中で、最も導入率が低い結果であった。

指定管理団体

 指定管理者の内訳は「その他」が最も多く、全体の約七〇%前後である。「その他」の内実が明らかではなかったが、二〇一五年の文科省調査の中間報告においては、はじめて「その他」と「地縁による団体」が区分されている。その結果、「地縁による団体」が三四八(二六・八%)、「その他」が五二三(四〇・二%)である。私の調査において、公民館の受託団体は、明らかに「地縁による団体」に関係する地元団体が多くを占めていた関係から、この両者を合算した六七・〇%が、従来の「その他」に該当するとみなされる。

 私の全国調査では、指定管理者を導入している市町村は九八であった。回収した市町村数が一三五七であったので、全体の七・二%にあたる。その半数にあたる五一・〇%が地元団体であって、法人・民間事業者・NPOそれぞれが、ほぼ同じ三等分になっている。

公民館の指定管理者の特徴

 以上のように、公民館の指定管理者制度は、民間の事業体が指定管理者として参入することは乏しく、主として地域団体が受託団体として運営にかかわっていることが明らかで、この動向は変わることはない。この公民館の実態は、他の社会教育施設にはみられない特質である。

 このことが公民館の指定管理者の第一の特徴である。民間業者の参入を期待することは無理であることが判明し、制度導入の限界がうかがえる。

 第二の特徴は、公募によらない制度である。本来この指定管理者制度は、公募によって競争原理が働き、より効率よい運営をめざすねらいがあるが、公民館の場合はそういう展開にすすまなかった。この点からしても、この制度のなじまないことが読み取れる。

 第三の特徴としては大規模な、かつ中央公民館の制度導入は少なく、自治公民館、集落公民館といった、地域の小さな公民館が指定管理者に集中していることである。地域に根づいた小さな公民館がぃ地域の人々によって管理運営されているという構図になる。

 以上の公民館の指定管理の全体的特徴は、指定管理者導入以前の公民館の管理委託の多くが、小さな地域ごとに設置されたいわゆる自治公民館などによって占められ、地域の自治組織・地域団体によって運営されるケースが主流であった経緯と関連している。

指定管理者制度の問題点-自治体の責務の放棄

 このようにみてくると、公民館の指定管理者制度の導入は、住民委託をテコに公的保障の歩みを後退させるものといわざるをえない。住民の「自主管理」を住民参加論に置き換えるわけにはいかない。公民館の指定管理者制度の導入実態から浮かび上がってきた問題点は、次の四点にまとめることができる。

 第一に、指定管理者への受託は、行政当局にとって施設所有権を残すものの、施設のあり方にたいする責任があいまいにならざるをえない。人権としての社会教育を規定した憲法・教育基本法・社会教育法に基づけば、あくまで、自治体が社会教育を推進する義務を負っているのである。その責務が薄れ、社会教育本来の理念が後退していく危険がある。社会教育施設の設置は自治体の責務であり、自らの責務の放棄につながりかねないこの制度の導入はあってはならない。

 第二では、受託団体と行政との関係は、行政が受託団体にたいして事業を評価しチェックする立場にあり、協力・パートナーシップを築くということは容易ではない。管理運営を受託している指定管理者の地域住民団体と教育委員会との距離が縮まるような「参加」の関係を創ることは困難というほかない。

 第三に、経費の節減が主要なねらいとなれば、働く人々の労働条件の後退につながりかねない。指定管理者導入の実施過程において、指定管理者制度による経費削減策は、人件費の削減に依存し、かつその結果、公民館事業の後退が明らかになる。雇用労働条件の不安定化や職員の専門性がないがしろにされる傾向を内包しているからである。これでは、質の高いサービスは期待できるものではない。

 とりわけ、公民館の場合、地域団体に依存している実態では、その専門性や資質に大きな問題を残すことになる。

 第四に、そもそも自治体の教育財産が、特定の民間団体の営利目的に利用されるなど到底容認されるものではない。また、営利事業を禁止した社会教育法第23条とも明らかに矛盾する。

 以上のような観点からすれば、指定管理の導入によって経費が削減されたしわ寄せは、受益者負担を口実にすすむ有料化をはじめとして、社会教育のサービスは明らかに後退していくことになる。指定管理者制度は、そういう現実を追認することにつながり、行政の責務を放棄するという重大な問題がより鮮明に浮き彫りになっているといえる。
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