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生麦事件が起きた村の人々は

2012-09-14 00:00:01 | 横浜歴史散策
生麦事件は、新暦1862年9月14日、150年前の今日、9月14日に発生した。旧暦では幕末の文久2年8月21日のことである。残暑厳しい日であった。

「生麦事件」は武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した、その後の日本が近代国家として歩みを始める起点になった事件である。
                                 詳細は「150年前の8月21日生麦村で」を参照
        

横浜開港から3年後に発生した生麦事件は生麦村の村民の対応は、そして事件によって影響があったのか、村人の目からの生麦事件をみる。
                   

生麦村は、江戸時代の初めから天領(幕府領)であって、幕府代官の支配をうけていた。横浜開港後は、神奈川に神奈川奉行がおかれたため、その預所(あずかりどころ)として、奉行の支配下に入った。
事件当時村の規模は、面積76町歩(約23万坪・76ha)、戸数282軒、人口1637人で80%が漁師であった。このうち、東海道沿いの2km両側には185軒の家が立ち並び、街道筋ということで商業に従事する村人も多かった。
漁業は、将軍家に魚を献上する「幕府の御用」を務めており、その見返りとして、江戸(東京)湾内のどこでも自由に漁ができる権限を与えられていた(御菜八ヶ浦)。

当時の生麦村の名主関口家は事件当日のことを次のように記している。

『島津三郎様御上リ異人四人内女壱人横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処追被欠壱人松原ニ而即死外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当役員一同桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候』

文中の「桐屋」とは十数人の女をかかえていた料理茶屋である。事件が発生後、奉行所の役人がここに宿泊して4日間現場検証を行っている。ところは、京急生麦駅から商店街を通り、国道15号(第一京浜国道)を越して旧東海道にぶつかった左手である。現在は材木商となっている。

この事件の一部始終を見ていた村民がいた。大工徳太郎の女房である。
これを名主が筆に改め、村役人連名で神奈川奉行所に事件を届けた。
『島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た。どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去った。』
この届は奉行所の「御用留」に記載され現在も残っているという。
神奈川奉行所は、JR根岸線桜木町駅を降りて、みなとみらいとは反対側の紅葉坂の急坂を上って小高くなったところの県立青少年センター付近にあった。現在は、神奈川奉行所の石碑と案内板が設置されている。
神奈川奉行所は横浜開港と同年の1859(安政6)年に設置されている。
        

藩士に斬られた騎馬のイギリス人は、700mほど横浜方面に逃げ、現在のキリンビール工場前で落馬し、止めを刺された。遺体は行列の障害になると街道脇の田んぼに退かされた。
これをみていた休み処の女房は哀れに思い、イギリス人の遺体にむしろを2枚かけたという。
開港して3年の当時、顔かたちも違い、服装も違う外国人に対する庶民の感覚はどうであったのだろう。

事件発生後、生麦村に変なうわさが起ち、ひと騒動あった。それは、この事件によってイギリス軍が攻めてくるというのである。
当時、イギリス軍の第3連隊100人が横浜に駐留はしていた。
このうわさによって、女、子供を親戚、知り合いに預け。オヤジだけが村に残り、家は釘を打ちつけ、イギリス軍が攻めてきたらすぐに逃げろという騒動にまで発展した。
しかし、それも根拠のないものだと10日から2週間たつと平常に戻ったという。
村人にとって生麦事件は街道での異国人と大名の接触事故だけではなかったようで、村民の生活の中にも大きな影響を及ぼしていた。

前記した名主関口家の日記であるが、『関口日記』といわれ、5代140年間(1762(宝暦12)年~1901(明治34)年)ほとんど毎日書き続けた記録が残されている。当主が不在の時は奥方がぎこちないカナ文字で代筆している日も少ないがあるようだ。
この日記は、関口家の記録であると同時に、生麦村の人々が多数登場し当時の暮らしぶりを今日に伝えている。また、その日の天候は欠かさず書かれており、米価の変動や当主が寺子屋をしている時はその内容が、明治になると質屋や金貸しの経営内容も書かれている。

その日記に、娘が行儀見習いのために武家に上っている話が出てくる。
二代籐右衛門には、娘がおしげ、おちえ、おみつの 3人がいて、10~19歳頃まで小大名或いは旗本屋敷に嫁入り前の行儀見習いで奉公に出ている記載がある。奉公回数はひとり3~6か所で、長く同じ場所には留まってはいなかったようだ。これは、あくまでも行儀見習いということで特定の作法が身につくことを避けたと思われる。
奉公に上る際には蒲団から履物まで身の回りの品一切を用意して送っている。ある江戸時代の書物によると娘を武家奉公に出すと年間200両の費用が必要と書かれている。200両は誇張としてもかなりの費用が必要であったに違いない。それまでして何故なのだろうか。娘にとっては良縁をつかむため、家にとってはステータスであったのだろう。江戸近郊の豪農や役人の娘の中には当時ブームであったようだ。それは現代でいうと女子大・短大に入学するかのようであったのかも知れない。そんな気持ちで奉公している屋敷女中はそれこそ「お里が知れる」程度であったのか、それともスパルタ教育で何処に出ても恥ずかしく女中になったのだろうか。江戸の一時代こんなことがあったようだ。この武家奉公も3人の娘の子供の世代になると、奉公前に諸稽古の時間を費やして武家奉公は短縮されたようだ。

ちょっと横道にそれてしまったが、『関口日記』を調べていてこのような記述があり興味をひいたので記載した。
『関口日記』に再び戻る。娘が奉公に上る際の日記には、
次女のおちえの時に奉公に上る着物は江戸日本橋の「越後屋(現在の三越)」で買って帰りに「にんべん」で鰹節を買ったと書かれている。ノリとお茶は「山本山」で、これも江戸銀座で求めていたようだ。生麦村には商店が多かったのに日用品でさえ江戸で買い求めたようで、名主の生活が伺える。反面使用人は、小作人や小守はいたが下女はいなかったようで日記には登場していないという。

生麦村の商人のことも書かれている。
横浜がわずかの漁村から横浜港として開港、発展する過程で生麦村の商人が横浜に進出したという。
開港前の横浜は『むかし思えば とま屋の煙 ちらほらりと立てりしところ』と横浜市歌にも歌われているように100軒たらずの寒村であった。
生麦村商人は今思うに先見の明があったようだ。


             関連 : 生麦村で150年前の8月21日に


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