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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

駒込界隈を歩く

2012-11-03 13:09:13 | 東京散策
『駒込界隈を歩く』のスタートは駒込駅の隣駅、巣鴨駅からである。
雨の予報はなかったのにここに来る電車の窓から傘をさしている通勤人を見かけたが、この先空模様が心配ではあるが予定通り散策を始めた。8時半である。


徳川慶喜梅屋敷跡  豊島区巣鴨1-18
徳川十五代将軍慶喜が、1897(明治30)年から4年間住んでいた屋敷跡である。
中山道(現白山通り)に門があり、庭の奥には故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人から「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれた。屋敷のすぐ脇を鉄道(目白-田端間の豊島線、現JR山手線)が通ることで騒音を嫌って転居したという。
         

染井吉野の碑  豊島区巣鴨3-27
巣鴨駅前山手線沿いの桜並木入口に、染井吉野の碑がある。
   

真性寺
真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師如来。創建年代等は不詳であるが、聖武天皇(701~756)の勅願により開いたことが伝えられている。江戸時代には江戸六地蔵の第四番が安置され、また徳川八代将軍吉宗も度々この寺に立ち寄ったとされる。
         

巣鴨地蔵通商店街
およそ800mの商店街に192の店舗が並んでいるとげぬき地蔵への通り道。


         

高岩寺(とげぬき地蔵)  豊島区巣鴨3-35-2
高岩寺は曹洞宗の寺院。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵の通称で知られる。
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げに従い、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、高齢者を中心に参拝者が絶えない。


染井霊園  豊島区駒込5-5-1
水戸徳川家墓所。水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓。徳川斉昭の生母らの墓がある。およそ5,500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では規模が最も小さい。
園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、桜の名所として親しまれている。
1872(明治5)年に明治政府によって播州林田藩建部匠頭(たけべたくみのかみ)島屋敷跡地に神葬墓地として開設され、その後東京府の管理下に置かれ公共墓地となる。1889(明治22)年には東京市に移管された後、染井霊園に改称されたが、旧称の染井墓地で呼ばれることも多い。
若槻禮次郎、岩崎弥太郎、二葉亭四迷(長谷川辰之助)、高村光雲、高村光太郎・智恵子夫妻、岡倉天心、津藩藤堂家第十二代最後の藩主・藤堂高潔の墓など著名人の墓がある。
         

光太郎・智恵子の墓所にたっている「花をさすと人はいへどもわがつくる壷はもろ手にかき抱くべき  豊」の碑文は光太郎の弟、鋳金家で人間国宝になった豊周(とよちか)の歌である。また、ふくろうの置きものも。


本妙寺  豊島区巣鴨5-35-6
1590(天正18)年に徳川家康の江戸入城の際に三河より従って来たという。当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い点々と移り、1910(明治43)年に現在地へと移転した。
         
本郷丸山(文京区本郷五丁目)にあったころ、振袖火事といわれる明暦の大火の火元とされるが、寺側では事実ではないと否定している。
その振袖火事とは、
ある商家の娘が本妙寺の墓参り(花見とも)の帰り、寺小姓に恋をし、その寺小姓の振袖の紋や柄と同じ振袖をつくるが、間もなく恋の病に臥せたまま17歳で亡くなってしまう。振袖は棺桶にかけられ、本妙寺で葬儀が行われた。
その後振袖は古着屋を通して別の若い娘に渡る。ところがこの娘も翌年の同じ日に17歳で早死にし、振袖と共に再び同じ寺で葬儀が行われた。葬儀が終わると振袖はまた古着屋を経て、別の娘に渡るが、その娘も翌年同じ様に17歳で早死にしてしまう。同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまった。
恐れた親たちは、この着物を本妙寺で焼いて供養することにした。ところが読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如つむじ風が吹き振袖が舞い上がり、本堂を焼き、それが燃え広がって江戸中が大火となったといわれている。
         

遠山の金さん、千葉周作の墓、明暦の大火供養塔が、また、三門前に有名人墓所の紹介板もある。


慈眼寺  豊島区巣鴨5-35-33
谷崎潤一郎、芥川龍之介、長男比呂志(演出家)ら芥川家の墓所。


専修院  豊島区駒込7-2-4
植木屋・伊藤伊兵衛の屋敷跡として知られている。なかでも三代目三之丞は、ツツジの栽培に力を注ぎ、染井のツツジは江戸の名所として一躍有名になり、この地を中心に染井村は園芸の里として賑わった。
         

東京スイミングセンター  豊島区駒込5-4-21
北島康介や中村礼子などのオリンピック代表選手を始め、数多くの優秀な水泳選手を輩出している。
         

天理教東京教務支庁  豊島区駒込7-1-4
天理教の敷地内にある和風の建物(左手)は、1960(昭和35年)、戦前に首相を務めた近衛文麿の荻窪の私邸のうち応接室を含む建物の約半分が、ここに移築された。近衛と当時の天理教の代表者が親しかったことから移されたとのこと。
荻外荘(てきがいそう)と呼ばれたこの邸宅内で国の行方が決まる重要な会議が、開戦直前に度々行われていた。
                       

十二地蔵  豊島区駒込7-3-1
染井霊園の入口の手前、道が二股に分かれたところにある。 
1730(享保15)年の大火による犠牲者の冥福を祈るために建てられる。十二体の地蔵の由来は定かではないが、高さ1.7mの舟形石に6体の地蔵が2段に刻まれていて珍しいもので、江戸中期の作と推定される。
地蔵上部に描かれている絵は、火や煙のようである。
                  

私の庭・みんなの庭  豊島区駒込3-8
『花咲くか 七軒町 植木の里』碑がたっている。自然がいっぱいの広さ50~60坪くらいの小さな公園。


旧丹羽家の門と蔵  豊島区駒込3-12-8
染井を代表する植木職人として活躍した丹羽家の屋敷に残る紋と蔵を保存した「門と蔵のある広場」。
門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造だが格式のある門である。
この門の建築年代を明らかにする記録はないが、古い伝えによると、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれている。
解体工事に墨書が発見され、1847(弘化4)年の修理記録があり、建築がそれ以前となる。
蔵は鉄筋コンクリート造りで築70年以上が経過している。どちらも有形文化財に指定されている。


染井稲荷神社  豊島区駒込6-11-5 
旧神駒込村字染井の鎮守。江戸時代は隣の西福寺が別当。

西福寺で葬儀がなされていたので割愛した。

無量寺  北区西ヶ原1-34-8
仏宝山西光院無量寺。
旧古河庭園の東隣りに位置する無量寺は、古くから江戸六阿弥陀の三番目として知られている。
静かで落ち着いた庭園は、四季を通じてのお勧めで、隠れた観光スポットとなっている。
平安時代から続く歴史ある寺でもある。古くは長福寺と言ったが、将軍吉宗の治世に吉宗の世で子長福(後の将軍家重)の名をはばかり、福寿無量に諸願を成就させるという、無量寺に改称。
江戸時代将軍が岩淵筋で鷹狩をした折に休息したともいわれている。
1701(元禄14)年には五代将軍・綱吉の生母・桂昌院が参拝したと記録されている。

本堂の左右にはタヌキが鎮座している。


平塚亭つるおかと平塚神社  北区上中里1-47-2
平塚城の城主 豊島近義は後三年の役で城に立ち寄った源義家から饗応への返礼として鎧1領を譲られたが、これを清浄な地に埋め、塚を築き、平塚城の鎮守とした。塚は「甲冑塚」とよばれ、高さが低いため「平塚」ともよばれた。豊島近義は社殿を建て、源義家、源義綱、源義光を「平塚三所大明神」として祀り、一族の繁栄を祈願したという。
         

        
平塚亭は平塚神社の参道脇で大正初期から営業している。
西ヶ原は内田康夫の小説、浅見光彦シリーズの主人公が住む町であり(北区では彼の住民票も発行)、平塚亭の団子は光彦の母が大好物という設定。
また、テレ朝「土曜ワイド劇場」のシリーズ作品となっている『おかしな刑事』で所轄警部補の父と、警察庁の警視の娘が団子を食べながら捜査談義をこの平塚亭でするシーンにも使われている。
つい先日、第9作目が放映され、伊東四朗と羽田美智子の巧妙なやりとりが面白い。
         

古川庭園  北区西ヶ原1-27-39 
旧古河庭園は、こちらをアクセスする。 

駒込妙義坂子育地蔵尊  豊島区駒込2-6-15  
1668(寛文8)年、駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立。
         
堂内には、右から如意輪観音、地蔵菩薩、供養碑が立ち並んでいる。
           

妙義神社  豊島区駒込3-16-16
区内最古の由緒ある社で、祭神は日本武尊。江戸城を築いた太田道灌が、足利成氏との合戦の際に、ここに詣で勝利をおさめたことから、「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれている。


           

染井吉野櫻記念公園(旧染井村)  豊島区駒込2-2-1
「染井吉野桜発祥之里」の記念碑や、染井吉野桜の原種と言われる2種類の桜が植えられている。
かつてここ駒込の一部は染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べて一大園芸農園を形成していた。
この植木屋の始まりは、染井通りに沿って柳沢家下屋敷(六義園)や藤堂家下屋敷などの大名屋敷があり、これらの広い庭の手入れにかり出された近隣の農民たちであったといわれている。
そして諸説はあるものの、ソメイヨシノはこの地の植木職人によって江戸時代に作出され、売り出されたと考えられている。
染井植木屋の繁栄は江戸時代中ごろ以降で、藤堂家に出入りしていた伊藤一族の活躍などでツツジやサツキなどの花木類の名所のもなった。
しかしながら、発展繁盛した植木の里も昭和初期には衰退し、その面影さえなくなりつつあるようだ。


大黒神社  豊島区駒込3-2-11
1783(天明3)年に創建され、祭神は大国主命。木彫りの七つの大国神があり、大黒天像の福運があるとされている。徳川家斉(いえなり)が、鷹狩の帰りにこの神社に立ち寄り、その後に十一代将軍となったことから、出世大国や日の出大国とも呼ばれている。


駒込駅と駒込橋
「駒込」の由来は、ヤマトタケルがここを通過したときに、馬が大量に放牧されている様子をみて「駒込み(混み)たり」といった・・・とあるようだ。
現在の駒込橋は 1991(平成3年)に架け替えられた。下はそれまでの駒込橋。


染井橋と染井通り
山手線を跨ぐ「染井橋」で、正面は「六義園」方向。
1925(大正14)年に架けられた以前の橋が、老朽化したために2002(平成14)年から3年間をかけて新しい「染井橋」が架けられた。「染井」にふさわしく欄干には、桜の花がデザインされている。右は染井通り。


六義園  文京区本駒込6-16-13  
六義園(りくぎえん)は、こちらをアクセスする。

大和郷と大和郷幼稚園  文京区本駒込6-9-7
この地は江戸時代には加賀藩前田家の中屋敷があった。明治維新後、隣接する六義園ともども三菱財閥の岩崎弥太郎の所有地となった。
大正時代になると下町に木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり、華族が所有していた広大な土地を市民に解放しようという運動が自発的起こり、岩崎家もこれに影響して久弥(弥太郎の長男)が六義園西側の土地を市民に解放することを決めた。
1922(大正11)年から分譲を開始したこの新しい住宅地は、ゆとりのある土地区画と整然とした道路の町並みで「大和郷(やまとむら)」と名付けらた。名前の由来は、隣接する六義園がもと大和郡山藩(奈良県)の藩邸だったことによるが、日本(大和)の住宅地の範となる理想郷を造るという気概もこめられていたとも考えられる。
そして実際に「大和郷会」という住民の自治組織が作られ(初代名誉郷長は首相を務めた若槻礼次郎)、現在も社団法人として存続している。
この大和郷会が設立したのが「大和郷幼稚園」で、美智子皇后がご幼少のころ1年間だけ通園したことで有名になり、このことでハクが付き、現在では難関のお受験幼稚園になっているという。タレントの山口もえさんが卒園している。


駒込富士神社  文京区本駒込5-7-2
祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚の上にある。江戸期の富士信仰の拠点のひとつとなった。今日に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている。
初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が名産物であったことに由来する現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、鷹匠屋敷跡は、駒込病院が建っている。「駒込は一富士、二鷹、三茄子」と川柳にも詠まれている。


      

駒込天祖神社  文京区本駒込3-40-1
江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込村の総鎮守として信仰を集めた社である。祭神が天照大神であることから伊勢神宮の流れをくむ神明造りの神殿である。
社伝によれば、1189(文治5)年源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この当りに寄った折、夢で松の枝に幣(ぬさ・神事の供え物。古くは木綿、麻などを用いた)がかかっているという神託があり、家臣藤九郎盛長に探させたところ、松の枝に大麻が見つかった。それで頼朝は神明を祀ったという。
駒込富士神社の氏子総代になっている。
境内に榊神社(面足尊、弟六天神)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)を合祀する社がある。


     

吉祥寺  文京区本駒込3-19-17
室町時代1458(長禄2)年に太田道灌の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建した。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。戦国時代には古河公方足利義氏の実母で北条氏綱の娘でもある芳春院の位牌が安置されていたという。
寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門と経蔵を残すのみとなった。現在は復興され、本堂、客殿、庫裏等が建ち、往時の面影を忍ばせている。また境内には「二宮金次郎」で知られる江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑、幕末の幕臣・榎本武揚、南町奉行の鳥居要蔵の墓などがある。
なお、武蔵野市吉祥寺の地名は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの当地に移住し開墾したことに由来する。


     
         経堂と彫られた彫刻

南谷寺(目赤不動)  文京区本駒込1-20-20
天台宗 大聖山東朝院南谷寺(なんこくじ)。本尊は不動明王で、江戸五色不動のひとつ。
江戸五色不動は、徳川家光が天海僧正の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。
江戸五色不動は、目黒区瀧泉寺(りゅうせんじ)の目黒不動、豊島区金乗院の目白不動、世田谷区教学院最勝寺の目青不動、台東区永久寺と江戸川区最勝寺の目黄不動、そして当寺院の目赤不動の5種六個所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも呼ばれる。
      


この先、本郷(「本郷を歩く」へ移る)に向かう。

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