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横浜金沢に野口英世博士の偉業をたずねる

2019-12-15 13:55:50 | 横浜歴史散策
1879(明治12)年、コレラの蔓延を防ぐため三浦郡長浦(現横須賀市長浦)に消毒所が設けられ、外国からの船舶が入港する前に乗客・乗員を検査し、感染症が見られた場合には隔離し治療する施設が設けられた。のちに1895年に現在地の横浜市金沢区長浜に長濱検疫所(横浜検疫所の前身)として移転された。現在、この付近は日本の高度成長期に埋立られたが、当時は海岸線に、桟橋や、迎賓館など40棟ほどの建物が設けられていた。
1899(明治32)年、「横浜海港検疫所」と改名される。


伝染病研究所の北里柴三郎所長の助手であった野口英世博士は同所長の推薦により、22歳の夏の1899年5月から9月までここで検疫業務に携わった。

長濱検疫所時代の野口英世博士

神戸港経由で横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸」の乗員から、ペスト患者を発見、隔離という成果をあげた。防止されていなければ横浜中蔓延したのではなかろうかと云われている。
この偉業は大ニュースとなり、野口英世の世界的な活躍のきっかけとなる出来事であった。

旧細菌研究室
細菌検査室は、この地に1895(明治28)年、長浜検疫所が創設された時に、その建物群のひとつとして現在の位置に建てられた。1923(大正12)年の関東大震災で他の建物とともに倒壊し、翌年に再建された。
このとき、屋根は瓦葺屋根を在のかたちに変更した。それ以外の部材はそのまま使用されている。
野口英世博士の関係資料や当時使用された器具類が展示され、博士ゆかりの研究施設としては日本に現存する唯一のもの。




 

  
地下冷暗所:床下に2坪ほどの穴を掘り、医薬品などを保存した





一号停留所
一号停留所は、上等船客用が一定期間停留する施設として、明治28年(1895年)3月に完成。定員は16名。
建物は、東京湾を見下ろす高台に、ほぼ東西に長く、南面の両端が突出したコの字型、左右対称の平屋。所内には8つの部屋(一室2人用)、食堂及び談話室がある。
検疫資料館(一号停留所)は、長濱検疫所の建物のなかでも趣がある施設であり、長濱検疫所の建築の粋がこの建物にまとまっており、明治の面影を残すものとして評価される。
現在は、「検疫資料館」として検疫業務等に使用した資料が展示されている。
一号停留所と云うから二号停留所もあった。こちらは下等船客用であった。定員は100名

下の写真は年に1回の11月中旬の公開日にたまたま訪れた日に撮影。




長浜ホール
長浜野口記念公園の整備に際し、旧事務棟の外観をほぼ忠実に復元し、地下に音楽ホール(104席)をもつ施設としてよみがえった。








現在の長浜検疫所付近


検疫所前の海は埋め立てられ臨海工業地帯や住宅となっている。
僅かに野鳥観察園に海岸線の名残がある。


参考資料:野口英世細菌検査室保存会「長浜通信」
      厚生労働省横浜検疫所

訪れた日;2019.11.16
        12.03
12.14


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