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歴史散策まち歩きの記録
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神楽坂界隈を歩く

2012-09-12 16:27:50 | 東京散策
朝8時半、飯田橋駅西口改札口を出る。
日曜日の早朝と云っても既にいい時間帯なのだが、通行人はまだまばらであった。
今日も暑くなる予報の下、神楽坂の街散策をスタートする。

飯田橋駅西口改札口を出て右手の外堀通りに下ったところが神楽坂下。
そこから正面の「神楽坂通り」を上り、毘沙門天善国寺を過ぎ、大久保通りを越えて地下鉄神楽坂駅あたりまでの一帯が、いわゆる「神楽坂」と呼ばれる界隈といわれる。
坂の名前の由来については、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説ある。

神楽坂に向かう前に牛込見附跡と甲武鉄道牛込駅跡に立ち寄るため駅を降りて左に行く。
甲武鉄道牛込駅跡は、NHK-TV「ブラタモリ・江戸城外堀編」でも紹介されたが飯田橋駅西口改札口の西側に位置する。

甲武鉄道牛込駅跡
甲武鉄道は、1889(明治22)年東京の新宿―八王子間を走り始めたのに続き、1904年には御茶ノ水までの市街線を完成した。1906(明治39)年公布の鉄道国有法により中央本線の一部となり、この区間は国鉄(現JR)最初の電化区間となった。
その後、1923 (大正 12)年の関東大震災の復興により客貨分離を目的に飯田町~新宿間が複々線化された際に、飯田町駅と牛込駅が統合され中間地点に現在の飯田橋駅が 1928(昭和 3)年に開業した。
牛込駅跡前には現在、ピザ屋と薬局が建っている。
          

牛込見附跡
JR飯田橋駅西口からすぐのところにある、牛込御門跡(牛込見附門)は江戸城内郭外郭の城門で、1639(寛永16)年に外堀と一緒に完成。
江戸36見附門のひとつで当時の面影を最も残しているといわれる。敵の侵入を防ぐ2つの門を直角に配置したいわゆる枡形門(高麗門、渡櫓門) であった。1902(明治35)年に撤去されたが、現在でも道路をはさんだ両側の石垣や橋台の石垣が残されている。 別名「楓の御門」とよばれ、市谷は「桜の御門」のふたつを春秋一対の景観をなす門といわれた。
石垣の積み方で最も美しいといわれた切り込み萩の石積形式である。
切り込みはぎの石積石垣 とは、城郭の代表的な石積形式で、 石を削り、きれいに整形して積む形式で、寛永以降さかんに用いられた。そのほかに野面(のづら)積み石垣、打ち込みはぎの石垣がある。
飯田橋駅西口前交差点のはす向かいに牛込見附の説明パネルがある。
牛込門は上州道へ通じる北の関門であった。
          
          
                  

牛込橋
この橋は牛込見附門とともに1636(寛永13)年、阿波徳島藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)によって建設された橋で、当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、たくさんの武家屋敷が建ち並び、その間は深い谷だったところを水を引いて濠とした。現在は中央線をまたぐ橋となっている。
   

牛込橋を渡り外堀通りに出ると、ここからが神楽坂界隈となる。

神楽坂通り
神楽坂は、江戸時代初期、酒井若狭守の下屋敷と牛込御門結ぶおよそ1kmの通りをいう。真っ直ぐ進んだ先は早稲田である。
今はたくさんの数の店舗が軒を並べている。
          
                  

不二屋  新宿区神楽坂1-12
ペコちゃんの名前の由来は仔牛を表す東北方言「ベコ」からきている。ペコちゃん焼きは、不二家の全国1000店の中でも神楽坂のみで限定販売される商品である。
開店前だったのでペコちゃん人形も当然出ていない。
          

神楽坂小路
神楽坂小路は神楽坂下を神楽坂上方面に上って右手、最初の路地で、神楽坂通りと軽子坂(通り)を結ぶ小路。神楽小路の立派な標識が神楽坂通りにある。
          

みちくさ横丁
みちくさ横丁の入り口は、神楽小路に面し、袋小路となった味わいのある短い横丁。位置的には神楽坂通りと平行する。看板に「神楽小路・みちくさ横丁」とあるように、あくまでも神楽小路の一部。
昼間はそば屋がメインで、夜はスナックやバーなどが営業、突き当たりにジャズバー「コーナー・ポケット」がある。この店は名を知られているそうだ。
      

牛込揚場と神楽河岸
江戸時代、物資輸送は海路・水路が主で、江戸湾に集結した物資を隅田川、神田川を通って飯田橋東口辺りに通じ、そこからこの坂下まで水路をつくり、神楽河岸に舟着き場を設けた。江戸城の上納米もここから運び込まれたという。そのほか味噌、醤油、木材など全国各地からの品が荷揚げされている。
今も地名として揚場町、神楽河岸が残っている。
幕末から明治時代にかけて浅草に通じる船があり、この船に乗って芝居見物に通ったと夏目漱石が書いている。
飯田橋駅脇にある東京都飯田橋庁舎前に「牛込揚場」の碑がたっている。
          
神楽河岸の町名板を撮りたかったのだが、辺りは大きなビルとなり道路には電柱がひとつもなく結局見つからなかった。
          

軽子坂
軽子とは、軽籠(かるこ・モッコのこと)を担いだ人足をと呼び、その人足がこの地に多く住み行き交っていた。坂の名はそれに由来する。軽子坂の右手が揚場町である。
          
落語家柳家小満ん著「江戸東京落語散歩」には、軽子坂の紹介で『軽子坂の両側はびっしり武家屋敷で、「怪談牡丹灯籠」のお露さんの実家、旗本の飯島平左衛門の屋敷もこの辺りの設定になっている。』とある。

かくれんぼ横丁
最も「神楽坂らしい」雰囲気を保っている路地のひとつという。
石畳や黒塀、さりげないけれど趣向を凝らした建築などは江戸の佇まいを今に伝えており、花柳界の雰囲気を残していて神楽坂ならでの味わいがある横丁である。今にも粋な芸者さんが通りそうな、花街の雰囲気が漂う路地だが昼間じゃダメかな。
名の由来は、前を行く人が横丁に入って急に見えなくなってしまったことから年寄りの方が名付けた。
 
明治の尾崎紅葉、泉鏡花など文豪たちが利用した料亭「うを徳」。泉鏡花も利用して芸者「桃太郎」と恋仲となった。女系図の舞台になった料亭である。
          

三年坂(三念坂)
神楽坂通りから軽子坂の延長線の道と交差するまでが本多横丁で、その先大久保通りまでのなだらかな坂道が三年坂である。
京都清水寺の三年坂と同じ言い伝えがあってここで転ぶと3年以内に死ぬといわれている。それがいやなら転んだところを強く3遍なめろといわれている。
本当かどうか、赤穂浪士の堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かう際にこの坂を駆け抜けたといわれる。
          

本多横丁
この横丁の東側にあった大名格1万500石、本多修理(しゅり)屋敷に由来する。この本多家の屋敷は江戸中期からあったということで「本多修理屋敷横丁通り」と呼ばれ、戦後の一時期「すずらん通り」と呼ばれたが、1975(昭和50)年ごろに再び「ホンダ横丁」となった。
神楽坂の中では最も大きい横丁で、「芸者新道」「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな路である。
 

芸者新道
以前、花柳界に「ろくはち」という言葉があった。宴席が開始される6時、8時のことで、その時間帯にお座敷にでるお姐さんたちが一刻を争って近道を利用した。
この道は、神楽坂に待合や置屋、料亭が集まっていた頃の花柳界の名残を残す神楽坂仲通りから本多横丁に抜ける路地で、まっすぐで緩やかな坂になっている。
           

毘沙門天(善国寺)
山の手七福神のひとつで日蓮宗の寺。創建は1595(文禄5)年、火事で焼失して一旦麹町に移転している。
毘沙門天は別名多聞天といい仏法守護の四天王のひとつ、北の方角を守り、民に幸福をもたらすといわれる。
                    
毘沙門天は寅に縁があり、ここに狛犬ならぬ狛寅がある。当時の絵師、彫像師はトラなど見たことがないのでちょっと変わった寅となっている。
      
東京ではじめて夜店が出たところでもある。この日はお祭で子供みこしや山車が並べられている。午後から巡行という。 
 

大手門通り
戦国時代に築かれた牛込城の大手門(正門)に通じている通り。
牛込城の大胡(おおご)は三代にわたって居城としたが、かつては赤城山麓の上野国勢多郡大胡の領主であった。天文年間(1532~55)に南関東に進出、小田原北条が旗揚げした際に北条方につき江戸城上杉を打ち破り牛込城を築いた。二代になって姓を牛込と名乗った。その後小田原北条氏が敗れ1590(天正18)年、徳川の臣下になる。
明治時代には神楽坂で一番大きな料亭「松が枝」ができ、昭和時代には大物政治家の出入りも頻繁であった(現在はマンションになっている)。
駅前の案内板にはこの通りは毘沙門横丁と書かれていた。


伏見火防稲荷神社(ふしみひぶせいなりじんじゃ)  新宿区神楽坂3-6
総本社は京都の伏見稲荷大社。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ・古事記)/倉稲魂命(うがのみたまのみこと・日本書紀)で、生産の神、五穀豊穣の神として、御利益は商売繁盛、五穀豊穣ということ。小さな神社のためか細かな案内は見つからないので、それ以上のことは分からない。
見番が近くにあることで芸者さんが稽古の行き帰りにお参りをしたのではと想像する。
                

見番横丁  
最近新宿区が設定した通りの名前。
見番横丁の云われは、芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。 稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくるようだが、この日は日曜日午前とあってそんな雰囲気はなかった。
          

見番(東京神楽坂組合)
建物の1階が事務所、2階が稽古場。
1937~1963(昭和12~38)年頃が栄えており、650人を越える芸妓がいたが、現在は30数名だという。
          

小栗横丁
小栗という姓の武家屋敷が、この通りの両端にあったことから小栗横丁と呼ばれた。かつては片側(北側)に幅30cm(一尺)ほどの小川が流れていて、湧水がこの地に豊かであった。
通りの中程に銭湯・熱海湯があることから「熱海湯通り」とも呼ばれる。また、家泉鏡花が在住したことから泉鏡花通りの別称を持つ。
  
          

神楽坂若宮八幡神社
1189(文治5)年、源頼朝が奥州藤原氏・源義経討伐の際にこの地で下馬し祈願、平定後に鎌倉若宮八幡宮のご神体を勧請した。仁徳天皇、応神天皇を祭神とする社で、かつては周辺の高台すべてが境内であった。
神楽坂の名の由来は神楽が聞こえる坂ということで、どこの神社のお神楽なのかということだが、この神社のお神楽ということが定説となっている。
しかし神楽坂周辺には多くの神社があり、昔はさまざまな場所のお神楽が神楽坂では聞こえたであろう。
          
                    
この通りを歩いていると和服を着た女性が高級外車を乗って走り去って行った。が、車を置いて神社前まで戻って来たので神楽坂らしさのアングルということで1枚シャッターを切る。和服を着た女性は、本来なら夕方にならなければ出てこないのだろうね。
          

ゆれい坂
江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所「大ゆ嶺」に因み命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。行人とは行者のこと。
          

逢坂
奈良時代の頃に小野美佐吾という人物が、武蔵守となり赴任してきたが、ここに「さねかづら」という絶世の美女がいた。ふたりは恋仲になったが、美佐吾は任期を終えて都へ帰り病に倒れる。
一方「さねかづら」も美佐吾を忘れられず、この坂で逢う夢をみる。夢枕でしか会えない美佐吾を思って坂下の池に身を投げて、死んでしまう。後に村人はこの坂を逢坂と呼ぶようになったといわれている。
別名「大坂」、「美男坂」ともいわれている。「美男坂」は植物の「サネカズラ」が、別名「ビナンカズラ」呼ばれることからきているようだ。
         

逢坂を上りきると高級住宅街のようで大きな家々が続いている。

光照寺(牛込城跡)
浄土宗の寺、大胡氏三代の牛込城本丸があった場所。
この場所は高地であるため、見晴らしがよく江戸湾の航行する船はもとより、江戸城全域までが見下ろすことができたということで取り壊された。
          
          
現在の光照寺は1645(正保2)年に、神田から移転したものである。
境内に入って左手に出羽国松山藩主酒井一族の大名墓がある。
          

諸国旅人供養碑(1825年)
光照寺墓地の右手奥突き当たりに「諸国旅人供養碑」がある。
神田松永町の旅籠屋の主人・紀伊國屋利八が、自分の旅籠に逗留中に亡くなった旅人を弔った。生国と没年が書かれている。
当時、旅人は往来切手、関所手形と一緒に、生国、旅の目的、亡くなった時にその地で葬ってもらいたいなど書かれていた手紙をもっており、それに従って葬った。
          

地蔵坂(わらだな横丁)
坂上の左側に光照寺あって、近江国(滋賀県)三井寺から移された子安地蔵があって、江戸時代に信仰を集めたことから名付けられた。この子安地蔵は鎌倉時代を代表する快慶(生没年不詳)の名作とされる。
また、寺に住みついた狸が夜な夜な地蔵に化けて人をだましたという話も残っている。
別名わらだな横丁といわれ、藁を商った商家が多かったことから名付けられたという。
          

寺内公園(行元寺跡)
超高層マンションが建つ寺内(じない)公園がある一帯は、鎌倉時代から明治40年の土地区画整理で移転するまで天台宗の行元(ぎょうげん)寺という広大な寺があった。
江戸後期には寺の境内を町屋として年季貸しするようになり、家が立ち並ぶにつれて迷路のような路地ができた。
また、ここは花柳界神楽坂発祥の地といわれている。
幕府は公娼遊廓(ゆうかく)制を敷いたが、それとは別に幕府が認めぬ私娼屋が集まった歓楽街である岡場所が境内の一部にでき、それが花柳界神楽坂となったといわれる。
寺内には柳家金五郎(1902~72)、その息子の山下敬次郎(1939~2011)、芸者ワルツの神楽坂はん子(1931~95)、花柳小菊(2021~2011)、若山富三郎(1929~92)・勝新太郎(1931~97)の父長唄の杵屋勝東治(きねやかつとうじ・1909~96)など沢山の芸能人が住んでいた。
          

筑土八幡神社
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)は、東京都新宿区筑土八幡町にある神社。江戸時代までは筑土八幡宮と呼ばれていた。
当神社は嵯峨天皇の時代(809~823)に、付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれている。その後、慈覚大師が東国へ来た際に祠を立て(850年前後)、伝教大師の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。その後、文明年間(1469~1487)に当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。
1616(元和2)年にそれまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦災で全焼。明神社の方は千代田区九段北に移転し、築土神社として現在に至る。八幡神社の方は現在でも当地に鎮座している。
          
          
                    

庚申塔
筑土八幡神社境内に、1664(寛文4)年に奉納された舟形(光背型)庚申塔が祀られている。         
三猿でなく二猿であり、牡猿・牝猿がどちらも桃の枝を持った姿で表現されている点が、きわめて珍しいという。
              

江戸城外堀・牛込濠と飯田濠
東京都飯田橋庁舎前に「飯田濠」についてハゲた案内板がたっている。これによると、
ここから飯田橋まで、現在ビルが建っている一体全部が、以前は深い濠になっており、飯田濠と呼ばれていた。
飯田濠は市ヶ谷濠、牛込濠から神田川にかけて続いている江戸城外壕のひとつである。
1972(昭和47)年に都が市街地再開発事業としてビル建設が決定され、飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存して欲しいという都民の強い要望から飯田濠を復元した。
この道路脇の石垣は、江戸時代のものである。
とある。
          
          
濠が残っている牛込濠は、桜の名所として親しまれている。
江戸城外堀は矢が届かない距離で堀の巾を決めた。およそ80mある。
          


以前、「神楽坂で飲もうよ」と云った神田川沿いに住んでいた山ガールがいたっけ。当時、彼女はどんな店を紹介するつもりだったのかなと昼間の神楽坂を歩きながら思った。
この日、神楽坂の神社はお祭で神社、通り、料亭や民家の家々に提灯が飾れ、様々な印のハッピを着た人たちが行き交っていた。

                                            参考:新宿区観光協会ほか
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