あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

3月16日の例祭

2020-03-16 16:57:56 | 横浜歴史散策

参道を100mほど進み右手に山王社と稲荷社の小さな祠がある。
その先300mほどゆるやかな坂を上ると「六道の辻」にぶつかる。周辺は今も農地になっているが、山王社はその農地を開墾するにあたり安全祈願等のために祀ったものである。

社の貼られた沿革によると、
『創建はさだかではないが、江戸時代の初期、慶安年間(1648~52)より承応年間(1652~55)頃、徳川家康(1543~1616)の家来で旗本石川六左衛門は自らの石高を補う為、瀬野(現在の瀬谷)と和泉の間に荒地を見つけ石川家の役所(名主)上矢部村(現在の戸塚区上矢部町)の佐藤家の郎党数名(佐藤一族)が第一陣として入植させ和泉境より開墾をはじめる。まず心のより処として佐藤家の割り当てた処に山王社の祠を建て工事の完成、五穀の豊饒、家内安全等を日夜祈念したと思われる。
その後石川家の領地から石井、広瀬、山中の一族また上矢部の付近から岩崎、小川等が続々と入植し畑の耕地が出来上がったのが元禄年間(1688~1704)頃、当時の宮沢の中心に村社として神明社を奉戴される。
山王稲荷社は宮沢村の最古のお社です。先祖の方々のご苦労が忍ばれます。
明治の新政府の方針で神仏の資産没収を免れる為、佐藤家の名義にしたので難を免れた。』
(注:慶安年間~承応年間時代の将軍は三代家光と四代家綱
   また、沿革の内容が少々変更されている)




山王社                                     稲荷社


横浜市名木古木「アカアガシ」 樹齢170年

例祭は昭和初期までは湯花神楽が奉納されており、開墾と湯花神楽の話は瀬谷の民話に『宮沢の開墾と湯花神楽』という題で残されている。

《民話・宮沢の開墾と湯花神楽》(『瀬谷の史跡巡り』より)
 江戸時代の初めのことです。上矢部村に石川と名乗る武士がいました。あるとき、三軒の家に対して新しい土地の開墾を命じました。
 その開墾は大事な仕事で、皆は朝は暗いうちに起きて木を伐り倒し、根を掘り起し、夜は月や星の光をたよりに草を刈り取って一所懸命働きました。
 こうした作業の甲斐もあって、いつか田畑も増え、分家も十数軒になりました。そこで、人々はこの土地に農耕の神を祭り、春には豊作を願う神楽を奉納することとなりました。
 これが、宮沢山王社の湯花神楽です。開墾の当時をしのんで、氏子たちは、山王様の境内に、切った野芝を積み重ねてかまどを作り、大釜を乗せてお湯を沸きたぎらせます。やがて、あたりに湯気がもうもうとたちこめるなか、神の使いとなった神主が天狗の面をつけて、のしのしと現れます。
 いよいよ神主が、四方から幸運の矢を放つ頃になると、神事も最高潮に達し、熱湯の湯気をくぐりぬけてくるその矢を拾って、この年の幸運に恵まれようと夢中になったということです。
 この神事も、今は見ることができなくなりました。 

   
                                            【参考】阿久和・熊野神社の湯花神楽

宮沢村の村社として山王稲荷社からおよそ300m北に神明社を鎮座した。

神明社


訪れた日:2020.03.16
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争遺産「登戸研究所」を見学する

2020-03-13 14:02:05 | 歴史散策
登戸研究所では、欧米の秘密戦技術を参考にしながら、当初は電波兵器を中心に開発を進めていたが、戦争が拡大する中で、偽札・風船爆弾・生物兵器などの多様な秘密兵器の開発に力を入れた。
戦争の拡大につれて登戸研究所も拡大され、1944 年には建物約100 棟、人員約1,000名に達したと推定されている。
正式名称は第九陸軍技術研究所であったが、外部に研究・開発内容を知られぬために「登戸研究所」と秘匿名で呼んでいた。
研究所は第一科~第四科に分かれていた。





現在、研究所資料館になっている建物は、鉄筋コンクリート造りの当時、生物兵器研究棟であり、第二科が細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発で使用してをしていた。
大学の所有となってから2009年までは、「36号棟」と命名され、農学部の教育施設として利用された。

それを改装して2010(平成22)年3月から現在の資料館になった。


第一科・電波兵器、風船爆弾の開発
風船爆弾は和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃した兵器で、当初は関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究されたが、小型の気球爆弾は、ジェット気流を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うものとなった。
気球の直径は約10m、総重量は200kgとかなり重いものであった。装備は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下によって気球が落ちるのを防止するため、気圧計とバラスト投下装置が連動する装置を開発し搭載した。
爆弾を2発搭載したものや焼夷弾の性能を上げたものも発射した。


気球はおよそ9300発を放ち、うちアメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定されるが、大きな被害はなかったようだ。
しかし、心理的効果は大きく、日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念もあった。
また、731部隊が開発した炭疽菌、ペスト等の搭載が検討もされ、アメリカ側も恐れていたが、細菌戦は実現しなかった。理由としては、風船爆弾が飛ぶ上空10,000mでは、気温零下50℃で、こういった環境下で、細菌類は耐えられないからであった。
コンニャク糊を使用したことでコンニャク芋が軍需品となり戦時中は食卓から姿を消した。

第二科・生物兵器、スパイ道具

登戸研究所の中でも第二科は、暗殺用毒物、各種薬物、穀物を枯死させる生物兵器(昆虫・線虫・カビ・細菌)、家畜を殺傷する生物兵器(細菌・ウィルス)、スパイ用兵器(時限爆弾・放火兵器・犬迷い剤・小型カメラ・特殊インク・変装用具等)などを開発した。
暗殺用毒物「青酸ニトリール」の開発のためには、中国において人体実験まで行ったこともあり、第二科の活動については、戦後40年以上、語られることなく、その実態は秘匿されてきた。
この青酸ニトリルは、戦後1948(昭和23) 年の「帝銀事件」での使用が今日でも疑われているとのことだ。


第三科・偽札製造
参謀本部は偽札をばらまいて中国経済を混乱させて,中国の抗戦力を減殺しようと考えた。
1941(昭和16)年12月、日本軍が香港を占領した際に法幣印刷工場から、本物の法幣の原版・印刷機などを接収した。(法幣とは政府の信用で流通するお金。)
中国の法幣は、アメリカやイギリス領の工場で製造・印刷されていて、高い技術が必要なため偽造が不可能であったが本物の原版が入手したことで、中国法幣の大量製造が可能となった。
印刷は、国内民間の高度な印刷技術者を総動員して、この登戸研究所の五号棟で行った。その建物も現在はなく、空き地となっている。
偽札は、1ヶ月に1~2億圓(元)が印刷・出荷され、総額40億圓(元)が印刷され、中国の上海に輸送された。
当時の法幣1圓(元)はほぼ日本円1円なので、日本円でもほぼ40億円に相当し、当時の日本の国家予算が200億円という時代では、国家予算の1/5ほどの偽札を製造したこととなる。
その偽札をばらまく実行部隊は、ダミー商社数社で、様々な物資を購入して偽札を拡散した。
併し、これだけの額を中国市場にばらまいても、日本軍の目的であったインフレは発生しなかったという。当時の中国市場も今同様でかかった。


明大キャンパスに残る戦争遺産
動物慰霊碑
生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。
1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級である。
裏面には「陸軍登戸研究所」の文字が刻まれている。

消火栓
生田キャンパス内に2つ残されている。日本陸軍の☆マーク、五芒星が刻まれる消火栓。
 

倉庫跡
資料館の裏手にある建物で、通称「弾薬庫」と呼ばれているが詳細な用途は不明。
外観は台形だが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。

弾薬庫跡
第一校舎1号館の裏手に草に覆われた建物。
登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれるが詳細な用途は不明。
明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともあり、「花卉園芸同好会」と表記が残る。
資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれているという。

弥心(やごころ)神社
もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていた。現在は生田神社と呼ばれる。

境内向かって右手には、元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」が立っている。

以前から見学したい施設であったが、なかなかその機会がなかったのだが、『新校舎建設に伴い、撤去される可能性が浮上している。』という新聞報道を見て足を運ぶことが出来た。




訪れた日:2020.01.30

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残してほしかった京急「仲木戸」の駅名

2020-03-13 00:00:00 | その他






JR「東神奈川」駅と隣接していながら、駅名が異なることで乗り換え可能な駅としてお客さまから十分に認知されていないことから、「京急」を冠したうえで同駅名とし、乗り間違いを防ぎつつ利便を高める目的から駅名が変更される。


という駅名に3月14日(予定)変更される。
しかし、「仲木戸」の名は付近に御殿の木戸があった歴史から来ている。

御殿とは
神奈川御殿 で、江戸時代初期に、現在の横浜市神奈川区神奈川本町におかれた徳川将軍家の宿泊施設(御殿御茶屋)である。
「新編武蔵風土記稿」には1610(慶長15)年に造営とある。「金川砂子」に御殿跡の絵があり、それによると東海道神奈川宿の往来から少し奥まったところ(熊野神社の近く)に9千坪の広さで造営されていた。
神奈川御殿は将軍が上洛の時に最初の宿泊地として使用していたが、三代将軍家光を最後に将軍が上洛することもなくなり、御殿は使われず1679(延宝7)年には、御守殿と御休息所、御上御台所の3ヶ所を残して、総て廃止された。その後その建物群も現在の埼玉県川口市にある金剛院に寄付された。
昭和の時代にはこの辺りを御殿町と呼んでいた。
京浜急行「仲木戸駅」名は、付近に御殿の木戸があったことからつけられた。

御殿の存在目的として単なる将軍の鷹や鹿狩りの休息場であったのだろうか、豊臣から徳川に変わったばかりの時代に将軍権力を象徴する砦や城郭と同類の位置づけではなかったかという見方もある。それを実証するように、御殿の周辺には土塁や空掘を設けて要塞化し、家臣屋敷などが立ち並んでいたと思われる。その後幕府の街道支配が強化される過程で消滅した。神奈川県に存在した、小杉御殿、藤沢御殿、中原御殿、然りである。

ということで、「仲木戸」の名が消えるのは寂しい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする