あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

江戸総鎮守 神田明神

2013-04-30 19:35:29 | 東京散策
正式名称は神田神社と称し、1300年近くの歴史をもつ神田明神。
神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神であり、神田祭が行われ全国的にその名が知られる神社である。
江戸時代、神田祭は山王祭、深川祭と並んで江戸三大祭のひとつで、36台以上の華麗な山車が江戸城に入り、将軍をはじめ大奥の女性に至るまでが上覧した。江戸城中に入ったことで、「天下祭」と言われる。
2年に1度の開催の神田祭は、前回、2011年は東日本大震災の影響で、予定されていた「神幸祭」や「神輿宮入」が中止となったため、ことし、2013年は4年ぶりとなる。
5月12日(日)の神輿の宮入には、氏子町会神輿100基余りが次々と神社へ練り込み宮入参拝する予定。これぞ江戸の祭りという最大のイベントを迎える。「神田っ子」の熱気と興奮が最高潮に・・・。
     
          

 

     
神楽殿
            

百度石
  
お参りの回数を間違えぬよう20度お参りする毎に百度石に五色紙垂(右の写真)を一色づつお供えして、五色で百度参り。

神馬・神幸(みゆき)
          
今年の5月で3歳、人間の年齢で12歳。明るく平和な世の中であることを願い神田明神の「明」をとって「あかり」という愛称。

おみくじ
                   
電動の獅子舞おみくじ

古代においては国の祭政に関する重要な事項や後継者を選ぶ際に神の意志を占うために籤引きをすることがあり、これが現在のおみくじ(神籤)の起源とされている。
電動の獅子舞おみくじのご利益は?


銭形平次
                      
          
神田明神といえばこの人物を忘れてはいけない。神田明神下に住む岡っ引の平次こと銭形平次である。子分のガラッ八(八五郎)と共に卓越した推理力と寛永通宝による投げ銭を駆使して、事件を鮮やかに解決していく有名な捕物帳がある。
作者は野村胡堂。1931(昭和6)年、文藝春秋発行の「文藝春秋オール讀物号」創刊号に銭形平次を主人公にした『銭形平次捕物控』の第1作目が掲載され、以降第二次世界大戦を挟んで1957(昭和32)年までの26年間、長編・短編あわせて383編が発表された。
時代背景は初期は寛永期(1624~45年、江戸初期)であったが、第30話から文化文政期(1804~30年、江戸後期)に変わっており、江戸時代ではあるが、いつごろかは定かではないようだ。
我々世代前後の者は知らない人はいないだろうと云うほどの超有名人であり、この小説を基にした映画、テレビの時代劇、舞台作品は数々あり、多くのスターが平次を演じている。映画では、長谷川一夫、テレビでは、大川橋蔵が特に有名だ。
平次は架空の人物であるが、小説の設定から境内には銭形平次の顔出し看板も設置されており、平次の碑も建立されている。        
          
                     

境内の末社めぐり
春秋の彼岸の中日に一番近い戊(つちのえ)の日に詣でて、五穀豊穣・身体健康を祈る信仰がある。
この時、石の鳥居を7つくぐってお参りすると、中風・ぼけ封じにもなるという古くからの信仰と慣習がある。
籠祖神社
 
籠祖(かごそ)神社は、1795(寛政7)年、籠職人及びつづら職らの事業の商売繁盛招福開運の御利益を願う神として神田明神境内に創建。

末廣稲荷神社
          
創建年代は不詳であるが、1616(元和2)年頃と、極めて古い神社とされる。むかしより、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして信仰される。

金刀比羅神社
1783(天明3)年、豊嶋郡薬研堀(現在の東日本橋2丁目)に創建され、隅田川の船人から守護神として信仰された。むかしは、隅田川往来の船人達の守護神として崇敬され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業、遊芸を職とする人々の篤い信仰を集めている。
元は独立の神社であったが、1966(昭和41)年、宗教法人を解散して現在地に遷座、神田明神の末社となった。
          
金刀比羅神社・三宿神社合祀

三宿神社
創建年代は不詳であるが、江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎され、後に神田明神神主の邸内に祀られていた内山稲荷社と合祀され、神田明神の末社となった。

浦安稲荷神社
          
もとは、江戸川平川の河口に近い一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573~92年)徳川家康入府の際に、鎌倉町の成立と共にその守護神として勧請されたが、1843(天保14)年の江戸城拡張に伴い神田明神内に遷座した。
さらに明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷5社を合祀している。

大田市場 江戸神社
                 
702(大宝2)年に豊島郡江戸に創建された「江戸最古の地主神」である。鎌倉時代には江戸氏の氏神として崇敬された。太田道灌の江戸城築城後は城内にて祀られていたが、1603(慶長8)年の江戸城の拡張の際に神田神社境内に遷座した。

大伝馬町 八雲神社
          
江戸時代以前に創建されたと伝えられる。祭礼の際に大伝馬町の御仮屋へ神輿を渡御していたことからこの社名がある。大伝馬町天王と称されていて、江戸時代には他の天王様と共に大変な賑わいのひとつであった。
明治の神仏分離により素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする、八雲神社に改称した。

小舟町 八雲神社
          
神田明神とともに元は江戸城内にあった。祭礼の際に小舟町の御仮屋へ神輿を渡御していたことからこの社名がある。明治以前は、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋橋上に神輿を安置し、祈祷が行われた。

日本橋魚河岸 水神社
           
日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間(1615~24年)に神田明神境内に遷座し、大市場交易神と称したがその後、水神社と改称し更に1891(明治24)年、魚河岸水神社と社名を変更する。

痛絵馬
           
           
           

今が盛りの藤棚



神田明神 スチャラカチャン チャンチキおかめの笛太鼓!
やくざ若衆祭り唄/歌・美空ひばり(東宝映画『ロマンス娘』)



             関連 : 神田川 お茶の水界隈を歩く
                 : 神田を歩く


神田を歩く

2013-04-28 14:55:00 | 東京散策

神田の町は、神田を冠称して神田○○町と、昔の町名が残っていることがうれしい。
町の中に「古さ」を探して散歩をする者にとっては、町の風景が近代的であっても町の名を聞くだけでも、そこに「粋の風情」を感じてうれしい。
このような、冠称した町名が残っているのは、日本橋・麻布や赤坂など少数に過ぎない。


聖橋
 
両岸に位置する湯島聖堂とニコライ堂の2つの聖堂を結ぶことから「聖橋」と命名された。
東京都千代田区駿河台(右側)と文京区湯島にまたがり、都道403号本郷通りを結んでいる。御茶ノ水駅の東端に架けられている。
放物線を描くアーチ橋で、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁のひとつで、1927(昭和2)年に完成した。船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされているという。

私の好きなあさみちゆきさんの歌に「聖橋で」がある。

              あなたと暮らした 四畳半 きれいに掃除したあとに
              涙のしみた手紙書き 机の上に置いておく
              小説書くのもいいけれど あんたは少し 甘ったれ
              自分で生きる気になって こういうわたし 見返して

              そうよ わたしは鬼になる 泣き泣き恐い顔をする
              二年二ヶ月二日目に ここで逢いましょう 聖橋で


を頭に浮かべながら聖橋を渡る。

 
聖橋から昌平橋方面を眺める
下の線路は地下鉄丸ノ内線、ちい散歩で地井さんが上の総武線と電車が交錯する写真を撮ったのはこの聖橋からではなかっただろうか?

湯島聖堂・昌平学問所跡(孔子廟)

徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、1690(元禄3)年、湯島の地に別称大成殿の聖堂(孔子廟)を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移したのが湯島聖堂の始まりとされる。また、同敷地内に幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)があり、その通称でもあった。徳川幕府最高の教育機関が当時ここにあった。
1872(明治5)年春には、大成殿を会場とする「湯島聖堂博覧会」が開かれた。
名古屋城の金の鯱鉾、オオサンショウウオ、クジャク、ウミガメやヤマアラシの剥製などが展示され、わずか20日間の開催で15万人もの観衆が集まったという。何故湯島聖堂で開催されたかというと明治の初めここに文部省が置かれていたからだという。
大成殿の内部は土・日曜及び祝祭日に公開されている。
  

世界で最も高い孔子像


相生坂と昌平坂

神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という(写真左)。相生坂より聖堂の東側に沿った坂は昌平坂という。昔はこれに並んでもう1本、西側に一条の坂があって、これも昌平坂と呼んでいた。そのうち聖堂の周りの3つの坂、全てが昌平坂と呼ばれるようになった。
昌平とは孔子の聖地昌平郷にちなんで名付けられている。

神田明神

男坂を下から、上からと眺める
男坂は別名、石坂と呼ばれる。天保の初年(1830年)当時、神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の4組が石坂を神田明神に献納した。
坂からの眺めがよいので毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月(かんげつ・名月を鑑賞))が行われた。
 
 
江戸時代、江戸城増築に伴い1603(慶長8)年に神田台へ、さらに1616(元和2)年に現在地へ遷座した。江戸総鎮守として尊崇(そんすう)された。神田祭は江戸三大祭りのひとつである。
江戸初期に豪華な桃山風社殿が、1782(天明2)年には権現造の社殿が造営されたが、1923(大正12)年の関東大震災で焼失した。その後、鉄骨鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建され、1945(昭和20))年の東京大空襲では、焼失を免れた。
江戸時代には神田明神と名乗り、周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くあったが、1872(明治5)年に神田神社に改められた。
 
これ『痛絵馬(いたえま)』というそうで、はじめて見る神社の光景である。
アニメやゲーム関係のキャラクターが描かれた絵馬を痛絵馬と指すことが多く、特に作品中に登場する神社のモデルとなった神社で見受けられ、キャラの「聖地巡礼」記念として絵馬に記しており、全国的にも多くの神社に痛絵馬が奉納されているようだ。
神田明神は具体的にアニメなどに登場はしてはいないものの、アキバが近くにあるとういことで痛絵馬が奉納されるようになったようだ。
神田明神の痛絵馬は、2009年は8枚、正月に奉納されていたのが、10年は14枚、11年は40枚ほどになり、12年は70枚ほどと大増加したそうで、今年はというと「どんだけー」っておどろく数だ。これからもエスカレートするのだろう。

 

神田の家  

神田明神の隣にある千代田区指定有形文化財「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。神田鎌倉河岸の江戸時代から続く材木商の店舗兼住宅である。
遠藤家は、江戸城築城のために鎌倉材木座から招集された材木商で、神田の鎌倉河岸に店舗を設け、江戸城の立ち入りも許されていた商人(あきんど)である。現在文化財となっている神田の家は1927(昭和2)年に建設され、この地に移築された。
内部の公開、4月は8の付く日、3日間であった。

清水坂

明治時代、神田明神下のこの坂一帯は清水精機会社の所有地であった。大正時代に入って清水精機社は土地を町に提供し、坂道を整備した。このため『清水坂』と名付けられた。
その昔、神田明神下は海の波が削って出来た海食崖であった。そしてこの辺りは神様にささげる米をつくる田んぼがあったようだ。緩斜面のため水がうまく調整出来たようだ。神田のルーツでもあるところだとNHKのタイムトラベル番組「ブラタモリ」で放送していた。『いい高低差してますネエ』

妻恋神社と妻恋坂  
”妻恋”なんてネーミングが心地よいので足を延ばして参拝した。

境内にラナンキュラスと思われる赤い花が一輪咲いていた
この神社の創建年代等については不詳であるが、東夷(とうい)平定に赴いた日本武尊は、走水の海(浦賀水道)を渡るときに海神を侮って起こらせたため、暴風雨に見舞われた。妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。
その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在した際に、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられる。その後、稲荷明神(倉稲魂命)が合祀され妻恋稲荷と称するようになった。江戸時代には関東惣社と名乗り、王子稲荷神社と並んで参詣人が多かった。
また、正月2日の晩に枕の下に敷いて寝るとよい夢をみるという縁起物の木版刷りの「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の二枚の夢枕が万治年間(1658~61)に売り出された。
妻恋坂は、多くの別名を持つ坂で、妻恋坂と呼ばれるようになったのは、坂の北側に「妻恋神社」が旧湯島天神町から移ってきてからのようだ。
        
坂は右手に折れその先に妻恋神社がある

昌平橋
 
最初に橋がこの地に架設されたのは寛永年間(1624~45)と伝えられている。橋の付近に一口稲荷社(現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)、その後「相生橋」と「昌平橋」と改名が繰り返されている。現在の橋は1928(昭和3)年に架け替えられたもの。
 

JRレンガ造りの高架橋

万世橋高架橋というそうで、JR中央本線の御茶ノ水駅と神田駅の間に位置し、万世橋の付近から神田川に沿って外堀通りまで続く煉瓦造りの高架橋。この高架橋、JR中央本線の前身である甲武鉄道が走っていた。高架下は、かつてJR東日本の交通博物館となっていた。
甲武鉄道の歴史は古く開業は1870年であるが、御茶ノ水を起点に飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道となったのは1904年のことで、2年後には国有化され中央本線の一部となった。
この高架橋、現在改修工事が行われており、神田川沿いは白いシートが掛けられてレンガ造りの美感が眺められず残念だあった

万世橋
 
万世橋の歴史は、1676(延宝4)年に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。その橋は万世橋の上流150mほどに架かっていて、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋であった。
そこには江戸城内外を結ぶ三十六見附門のひとつである「筋違見附」があり、橋はその見附の付属物であった。
1872(明治5)年に筋違見附が取り壊され、その石材を再利用して、二連アーチの橋が翌年に完成した。当時の東京府知事が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、いつしか「まんせいばし」という読み方が一般化した。  

明治36)年に現在のところに新万世橋が掛けられため、萬世橋(よろずよばし)は「元萬世橋」と名称を変えたが、3年後に撤去された。その時代の橋の勾欄(こうらん)が神田明神に保存してある。

淡路坂の太田姫神社元宮と蜀山人終焉の地
 
この坂には相生坂、大坂、一口坂などの別名がついている。坂を挟んでJRの反対側に、徳川四代将軍・家綱の時代の1663(寛文3)年に任命された鈴木淡路守重康の屋敷がこの辺りにあったから淡路坂と呼ばれ、町名の神田淡路町もここからきている。
また、「蜀山人終焉の地・岩崎彌之助邸跡」の標示板も置かれている。坂を上りきったところ右手奥にJR御茶ノ水駅、その手前に聖橋、太田姫神社元宮が。

太田姫稲荷(通称一口稲荷)元宮
太田姫稲荷神社は、太田道灌の娘が重い疱瘡に罹った際、京都一口稲荷神社を勧請して、江戸城本丸内に1457(長禄元)年、創建したと伝えらる。太田道灌は後、当社を江戸城鬼門へ移したが、徳川家康入府後、江戸城外濠(神田川)をつくるにあたり、伊達家と徳川家が神田山を改作する時に江戸城の結界、また鬼門の護り神として城内より勧請した。
1931(昭和6)年、総武線開通あたり移設、現在の神田駿河台下の鎮守となった。現在は、淡路坂坂上の椋(むく)の木に「元宮」と書いた木札がくくりつけてあり、風邪・咳封じの御守りが複数個置かれている。
蜀山人(しょくさんじん・大田南畝(なんぽ))終焉の地
蜀山人は、江戸の狂歌ブームのきっかけをつくった天明期(1781~89年)を代表する文人、狂歌師。狂歌とは日常の身近な事を題材に、俗語を用い、しゃれや風刺をきかせた三十一文字のこっけいな短歌。

東京復活大聖堂(ニコライ堂)

東京復活大聖堂は1884(明治17)年から7年をかけて聖人ニコライの手によって建設、ニコライ堂の名称で知られる、キリストの復活を記憶する大聖堂である。
建設当時は東京で最も目立つ建物とされ、高さ40mの鐘つき堂に昇ると東京湾が眺められたという。
建物は大ドームやモザイク壁画が特徴の4世紀頃から始まった東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の建築・装飾様式である。ギリシャやトルコなど地中海東側に見られる建物である。

神田須田町・淡路町の古い建物


他にもあるだろうが、この界隈は東京大空襲も免れた地域である。本来はこの中に「かんだやぶそば」が入る予定であったが2月に火災を被ってしまった。現在白い塀を囲って解体作業にあたっている。残念だ。

太田姫神社  
        
1931(昭和6)年、JR総武線の工事の為現在地に遷座して80余年神社及び社務所も老朽化が進み、それに加え、先の東北大震災の際本殿は最大10cm程傾き、今後の大地震により倒壊の可能性もありとのことで、社務所を含め、9月末完成を目標に修復工事を行っている。

大久保彦左衛門屋敷跡
        
JR御茶ノ水駅近くの杏雲堂病院の植込みにこの石碑はある。
彦左衛門は通称で本名は大久保忠教といい、徳川初代将軍・家康、二代・秀忠、三代・家光の三代に直参旗本として仕えた。
東映の時代劇映画では、一心太助の親分で、たらいに乗って登城するイメージだが・・・・
             
晩年執筆した「三河物語」は、家康に仕えた大久保忠教が、さまざまな戦さをどのように戦ったか。関が原、大坂冬の陣、夏の陣での出来事などを通じて、自分の子孫のために書き残した私家版の歴史書であり、武士としての教育書のようだが、反面、徳川家への忠義を説きながら、武勲を挙げた家臣より、そろばん勘定の得意な文治派本多正信との政争に敗れたことへの不満を綴ったもののようでもある。

神田駿河台

神田駿河台は、神田四学という私立の法律学校4校(明治・日本・中央・専修)が明治時代に創立され、以来、日本大学(理工学部、歯学部)や明治大学本部を初めとする私立大学や予備校・専門学校が多く集まっている国内最大の学生街となっている。

池田坂
中央大学と日大理工学部の間の坂は池田坂という。(左写真)
池田政長という人物にはじまる旗本900石の屋敷があったところから名付けられている。
また、この屋敷に唐犬が飼われていたので唐犬坂ともいわれている。

錦華坂
        
坂下に錦華小学校があるので錦華(きんか)坂と名付けられた。左手の石垣は老舗ホテル「山の上ホテル」である。
このホテルも今月従業員のたばこの不始末から火災に被った。やぶそばといい、古い建物が火災によって消えていくのは残念なことだ。

神田駿河台から山の上ホテル西の錦華坂を経て、古本屋街がある神田神保町に降りる。そこからは東京メトロで渋谷に出て、東横線で横浜に出る。
おっと、『中華街から小江戸川越に』で、電車が埼玉までつながったのだから東横線なん云えなくなった。
そして、渋谷は単なる中間駅になってしまったので、座席確保が難しくなった。駅の地下5階は深くもぐったという感覚はないが、横浜まで特急で25分、座席のほうが心配だ。


この散策は若い女性の歴史研究家が和服を着て神田川界隈を案内しているTVを観て東京散策の候補としてコースを練った。


             関連 : 神田川 お茶の水界隈を歩く
                 : 江戸総鎮守 神田明神
 

神田川 お茶の水界隈を歩く

2013-04-26 16:18:30 | 東京散策
神田川。
フォークソングでも名を知られた川である。
かつては神田川の一部の水は神田上水として飲み水・生活用水に使われ、玉川上水をはじめとする日本最古の都市水道を形成した江戸六上水のひとつでもあった。
その神田川の水道橋からお茶の水界隈を歩き、神社や神田上水のかかわる史蹟所などを訪ねる。


水道橋駅
 
水道橋の名は、江戸名所図絵によれば、この橋の下流に懸樋(掛樋・水道橋(すいどうきょう))があったことに由来し、駅名にもなっている。
ここからスタートである。

三崎稲荷神社 千代田区三崎町2-9-12
 
水道橋駅の南側に神社は位置する。
手水舎には花が浮かんでおり、本殿前には小手毬の花が咲いている鉢が置かれている。花好きの方が管理されているのだろう。
手水舎に花が浮かんでいるのをはじめて見る光景である。
    
創建は建久(12世紀末)以前とされている。金刀比羅神社を合祀しているため、通称三崎神社呼ばれている。
創建当初は和田倉付近にあり、その後三崎村に移転、1860(万延元)年、講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたので1905(明治38)年、現在のこの地に移った。
講武所(こうぶしょ)とは、幕末に江戸幕府が諸役人、旗本・御家人、およびその子弟を対象に設立した武芸訓練機関である。剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。
築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、のちに神田に移転する。

水道橋

水道橋の名の由来が書かれたレリーフが橋の欄干にはめ込まれている。

神田上水の碑
 
碑には「神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ水道橋の東側で神田川を掛樋でわたし、神田、日本橋方面に給水されていました。」と書かれている。
また、関口の堰で分水した残りの余剰水は当時の江戸川(現在は神田川の統一名になっている)となって流れていた。

お茶の水分水路の碑
 
神田川は流れが緩やかなため、上流で川が溢れ水害が多発していた。、特に平成19年の集中豪雨による被災は大きかった。このため「神田川流域河川整備計画」の一環で、水道橋から御茶ノ水の湯島聖堂横までの神田川に沿った地下分水路事業を行った。碑はその記念ということで新しいものだ。

神田上水懸樋(掛樋)跡碑
 
江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を設け、神田上水の水を神田、日本橋方面に給水していた。
 
下の絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が現わされている。
掛樋とそれを管理する水番屋が描かれているが、水番屋にはなぜか「大かば焼」の看板がかかっている。
それは水守番人がうなぎ屋も兼務していたからなのだ。当時でも「水道橋森山」という立派な老舗のようである。
 
神田上水御茶水(「絵本続江戸土産」)


東京都水道歴史館
 
『江戸―東京400年、過去から学び・未来を創造する・・・・東京都水道博物館では、開館以来大切な水道の歴史を皆様にご紹介しています。』とのことで、館内では音声ガイダンスも利用できて江戸上水から近現代水道の過程がよくわかる。

        
館内では教育番組の撮影が行われていた。
水道博物館については玉川上水を含めた江戸の上水について後日まとめる予定。
下の石樋(石垣樋)は、発掘された神田上水幹線水路の一部を水道歴史館西手の本郷給水所公苑に移築復元したものである。
石樋の内部寸法は、上幅150cm,下幅120cm石垣の高さ120~150cmで、厚さ30cm前後の蓋石がのせられている。


お茶の水碑

慶長(1596~1615年)の頃徳川二代将軍秀忠が鷹狩りの帰りに、現在の順天堂病院の辺りにあった高林寺に立ち寄った際に、境内に湧く名水でお茶を献上したところ、秀忠はその茶をたいそう褒めました。
それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼び、この辺りをお茶の水というようになった。その後高林寺は、明暦の大火で、焼失し、駒込に移り、残された井戸は、神田川の拡張工事により、川底に沈んでしまったといわれる。

神田山の切り通し
 
1620(元和6)年以前のこと。本郷・湯島台と駿河台は地続きで神田山と呼ばれていた。
徳川家康は神田山を切り崩して日比谷入り江を埋め立て、日比谷と新橋地区を造った。その後江戸が洪水のため神田山を堀り崩して神田川を隅田川につなげ町民を洪水から救った。

御茶ノ水駅

御茶ノ水駅のホームは聖橋まで続いている。
スタートの水道橋駅は、東京駅からは中央線の快速に乗り、この御茶ノ水駅で船橋方面のからの各駅停車に乗り換えひとつめである。

この先神田の町を散策したが、後半が長くなるのでここでひと区切りつける。


                 関連 : 神田を歩く
                     : 江戸総鎮守 神田明神
                     : 玉川上水と江戸の上水  後日記載
 

桜を眺めて大倉尾根を

2013-04-21 16:41:26 | 丹沢大倉尾根
下界では桜の花は終わったけれど、丹沢は桜の花がまだまだ鑑賞できた。

桜の山道をあがる
              
見晴茶屋下の斜面に咲くヤマザクラ
この上の一本松付近にもヤマザクラが咲いていた。前回登った時はマメザクラだったが、種類の違う桜の花と花がリレー咲きして登山客を楽しませてくれている。
苦しい登坂が終わって一息つくこの地に咲く桜であったが撮った写真ではその感激が表現できなかったので掲載不可となった。残念。


駒止茶屋から堀山ノ家までの桜街道


 




堀山ノ家では桃の花が迎えてくれた
                   

寒かった
                 
堀山ノ家の温度計では2.2℃を表示している。前回3月30日に登った時も寒かったが、その時は4.8℃。今日のほうが一段と寒かった、春だというのに。
尊仏の山頂はマイナス5度だったという。
下るときにはミゾレ混じりの雨が降った。
堀山ノ家といえば最近小屋のHPに逢坂さん、通称ヒゲさんの顔がでていなかったが、ようやくおよそ3か月ぶりに顔をだすようである。お待ちどうさま。

トウゴクミツバツツジやアケビも咲く


ヤマビル対策
           
観音茶屋を過ぎて分岐を高原山の家に続く山道に入ると沿道に白いものが点々とある。これなんだろうと思った。塩のようだが意味不明。
このことを堀山ノ家で話すと、下の容器を指差した。
           
やはり白い物質は秦野市と小屋組合が準備したヤマビル対策用の塩であった。
秦野市の広報によると、市ではヤマビルから被害を守る対策を強化しており、大倉バス停前の休憩所や各小屋に対策用の塩を配置している。また、ケモノ道などに設置した監視カメラの映像を分析し、ヤマビルを運ぶ動物が人里に侵入することを防止する対策もしていくという。
小屋組合でも50年以上も続けている登山道の清掃作業や草刈りや駆除剤散布を行っていくという。
そんな時に今回はタヌキの出迎えをうける。カメラに納めようとしたが間に合わなかった。丹沢ではじめてのご対面である。このタイミングになぜにご対面なのか奇遇だ。 

ヤマビルは気温が10℃以上で活動し、体長は25~35 mmで伸び縮みが激しく、特に梅雨や秋雨の頃が活発とのこと。地上の落葉の下などに潜伏して動物の接近は二酸化炭素や振動、熱などによって感知して表に出てその先端をあちこち振り回すように動かす。
吸血の際は、まず先端側の吸盤にある口の中の牙によって皮膚を食い破り、血液凝固を阻害するヒルジンという成分を注入する。満腹になるまでおよそ1時間吸血する。満腹すると対象動物からはなれて地上に落ち、落ち葉の下などに再び隠れる。
噛まれた時には痛みはなくヒルジンによって血がなかなか止まらず、普通は2時間程度は少しずつ出血が続く。一旦止まっても入浴などで再び出血することもある。その後も傷の治りは遅いということだ。
そこで塩の効果であるが、ヤマビルは塩をかけられると弱いといわれる。林業関係者は、昔から食塩水に浸したタオルを足首に巻き付けているようだ。登山者は肌を露出させないことはもとより、ヤマビルの入り込む隙間をなくす対策や塩を靴下などにすり込んだり、スパッツ等を塩水に浸し、乾かしたものを用いるなどがある。また、女性用のストッキングは繊維が細かいことから効果的だといわれる。予防は十分に。

2013山開き
          
4月21日は丹沢表尾根の山開きである。今回はその日に合わせて登る予定であったのだが、1日雨降りの予報だったので残念ながら前日の登りになった。当日の山開きの式典はどうだったのか少々気になることではある。
この山開きには大倉尾根を登ったキーとヤビツ峠から登ったキーが尊仏山頂で交換する式典もある。何時ぞやだったか、雨が余りにも激しく降るので駒止茶屋でキーの交換式典が中止となったこともある。雨の日の山開きだとそのことを思い出す。

山開きの横断幕を止めた電柱の下に登山者への呼びかけ看板が立っている。
「6月2日に第27回ボッカ駅伝競争大会が開かれる。登山者の皆さんには迷惑をかけるが理解してほしい。」という内容である。
大会は非公式ながらフルメンバーの120チームが今回エントリーされたと聞いている。最近になって増々参加者が増加している。今回も縁の下で大会を盛り上げていきたい。

関連 : 前回大倉尾根




羽村市郷土博物館を訪ねる

2013-04-12 20:30:33 | 東京散策
  

羽村市郷土博物館には、
                 コーナー1 多摩川とともに
                 コーナー2 玉川上水をまもる
                 コーナー3 農村から都市へ
                 コーナー4 中里介山の世界

が常設展示している。

このうち常設展示「農村から都市へ」から
養蚕業
1859(安政6)年、横浜開港に伴う輸出額のうち生糸・蚕卵・繭が8割を占めたといわれている。蚕糸業が国策産業としての推奨され、その 後1世紀以上にわたって主要貿易品目として日本の近代化に貢献してきた。
ヨーロッパでは微粒子病などの蚕病で、中国では内乱などで生糸が不足をしていた。そこで上質で格安な日本の生糸は珍重された。
水田に恵まれない多摩地方では、生糸の原料である繭生産は農家の貴重な現金収入で、1900(明治33)年、東京は全国8位の主要養蚕地帯となった。
        
『江戸・東京の農業 養蚕の村・羽村』の案内板が阿蘇神社にたっていた



以前は養蚕をしていたのではというリフォームされた農家の建物

1902(明治35)年の記録に「西多摩村の農業は養蚕業に重きをおき、農業生産高の7割強が繭、生糸の生産からである。田畑の多くは桑園化し、日常食料品さえも他村から買い求めるような状況である」と書かれている。
1919(大正8)年には養蚕農家346戸、桑畑が340ヘクタールと全耕地の70%を占め、収繭総額225トンで、「全村これ蚕に明け、蚕に暮れる日々が続いた」と養蚕業に力を注ぎ「養蚕日本一の村」といわれるまでに発展した。
蚕が盛んになると、製糸工場も次々に作られた。
1887(明治20)年に下田伊左衛門が多摩川畔に製糸工場をつくるが、3年で経営不振に陥る。下田伊左衛門は養蚕の技術指導などを行う「成進社」を設立し、西多摩村(現羽村市)の養蚕技術を確立した人物である。その結果、養蚕が非常に盛んになりその後1904(明治37)年に清水製糸が起工したのをはじめとして、加藤製糸、並木製糸、下田製糸、中根製糸などがつくられ、明治末期から昭和初期にかけて養蚕業が著しく発展した。、そして1903(昭和6)年には組合製糸である西玉社が操業をはじめている。これらの工場には、近隣や山梨県・神奈川県などから多くの女工が集まり、村は活気にあふれた。
 
蚕棚

しかし、1927(昭和2)年に起こった金融恐慌、そして2年後の世界的な大恐慌の嵐に羽村の養蚕業は見舞われ、繭価は暴落し、養蚕はしだいに衰退していった。
農民は、経済の立て直しを図るため、乳牛による畜産を導入し、酪農家が急速に増え、「養蚕の村」から「牛飼う村」へと移行していった。


常設展示「中里介山の世界」から
中里介山と大菩薩峠
      
中里介山、本名弥之助は、1885(明治18)年、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれた。
 
チューリップ畑に近いところに介山の生誕の地がある

もともとは中農であった中里家も、介山の少年時代には土地を失って、故郷喪失の憂き目にあっている。
小学校を出た介山は、電話交換手や代用教員をしながら家族を支えていた。
介山は、一時はキリスト教や社会主義運動に関心を寄せたが、その後都新聞社へ入社する。
生活が安定した介山は、都新聞紙上に『氷の花』『高野の義人』などを発表し好評を得る。そうした中で1913(大正2)年、『大菩薩峠』を「都新聞」に連載を開始する。この時介山は28歳。
「大菩薩峠」が成功すると、執筆に集中するために介山は都新聞社を退社し、よい環境を求めて高尾山麓に草庵を結ぶが、高尾山のケーブルカー架設工事によって高尾を去ることとなる。ここでの日々が、介山の生涯で最ものびやかなものとされる。
その後、介山の思い描くユートピアを求め故郷に近い奥多摩の地にいくつかの草庵を結ぶ。
          
『大菩薩峠』は、時は明治維新から遡ること10年前の幕末時代、1858(安政5)年、江戸から西に三十里(120km)離れた甲州裏街道(青梅街道)の大菩薩峠で、一人の老巡礼が武士・机竜之助によって意味もなく斬殺されるところからはじまる41巻にのぼる未完の一大巨編の長編時代小説。
虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。
単なるチャンチャン・バラバラの時代劇小説ではないと評価する多くの文学者が居られる。本人は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした作品と話す。(大乗とは仏教二大流派のひとつ)
連載は約30年にわたり、話は幕末から明治には入らずに架空の世界へと迷い込んでいく。残念なことに、『大菩薩峠』の連載は、作者の死とともに未完に終わってしまった。しかし介山の夢みた壮大なユートピア構想は、『大菩薩峠』という作品の世界で、悠久に生き続けているに違いない。
                     


屋外展示
旧下田家住宅
入母屋づくりの茅葺(かやぶき)民家で、この地方の一般農家の姿をよく示している。
江戸時代末期の1847(弘化4)年に建設された。
この民家で使用されていた生活用具を含め展示されている。
 
 
煙くてありゃしない 防虫用だがこれほどいぶす必要があるのだろうか家の中が霞んでいる


 
2階、3階が上にはあって蚕を飼育していたという


旧田中家長屋門
中央の2枚の門扉(もんぴ)と左右のくぐり戸、2本の柱とその上の梁(はり)は建設当時のもので、門の左右に各6畳ほどの土間があり、使用人の住まいや物置として使われていた。200年以上も前の建物である。屋根は瓦屋根となっているがもとは茅葺屋根であった。
この門は、もと丹木村(現八王子市丹木町)の千人同心宅の門であった。
 

赤門
もとは三ヶ島(現在の埼玉県所沢市)の徳川幕府に仕えていた眼科医師宅の門であった。江戸時代中期の創建といわれ朱塗りの建築から赤門と呼ばれた。これを中里介山の大菩薩峠記念館の門に移築して使用していたが、閉館後この地に復元された。介山も赤門と称し、本郷にある東大の赤門に匹敵すると自慢をしていたという。
 

 
野仏を集めたのか数点の石像物が祀られている


     
羽村駅から羽村市郷土博物館へ



この郷土博物館は繭玉から糸繰りをして生糸にする講習会を行っているので展示物を楽しみにしていた。が、展示スペースが少なく少々がっかりではあった。しかし、雌雄を繭の重さの違いから自動的に見分ける自動鑑別器という初めて見る器械が展示されていて、これにはおどろく。

   関連 羽村の花と水のまつり
       玉川上水        :後日記載
 




再びわが家にツバメが飛来

2013-04-11 11:01:48 | 生きもの
再びわが家にツバメが飛来

          

3日ほど前から古巣のリフォームが始まり玄関前の床が泥、ワラ屑やフンで汚れ始めた。
昨年は5月20日。遅い飛来と思っていたのだが。
巣の黒い部分がリフォームヵ所。巣をかさ上げしている。

          

では、いったいどなたがお住みになったのだろう。
親?子?

聞きかじりだが、どうも親のオスが再び使用するようである。

ツバメが飛来して来る家には幸福をもたらす、なんて話があるが。
昨年もそうだったのだが、逆の現象のほうが多かった。
今年も既に逆減少が2度も発生してしまっている。

幸福飛来を期待する家族の一員がわが家にいる。
7月の中旬頃の巣立ちまでに逆転挽回を望みたい。
わが家の家族に加わったツバメさんよろしく。
それには、『福を得るには福を施せ』だと。



          関連わが家にツバメが飛来そして巣立つ

建長寺花まつり・花供養2013

2013-04-10 11:11:11 | 鎌倉巡り
建長寺花まつり・花供養


              


花まつり
 

              



 

 

 

 

 

                
アマチャの木
 
アマチャの木を見たご婦人がアジサイの木と思ったと話していたが、当然ガクアジサイの変種なので大きな違いはないだろう。
アマチャの木とはそんな木。



花供養
 



 

 

  

 

               
花供養の導師のあいさつの中で日本人も江戸時代終わりまでは、日常の挨拶をするときにも手を合わせた。それが明治に入り西洋文化を取り入れる中であいさつも現代行われている形となってしまった。
合掌とは花がたくさんあることを意味することで、全ての草木を供養したい。
この花供養は今年から始めた行事でこれをご縁に続けたいと話された。

 

花供養で二十数人の僧侶が読経する般若心経を聞いていると心が洗われる思いとなった。



         関  連      :鎌倉花まつり

         前回の鎌倉記事:
鎌倉荏柄天神左義長2013

鎌倉花まつり2013

2013-04-09 09:25:13 | 鎌倉巡り
4月8日はお釈迦様の誕生日で花で飾った「花御堂」という小さなお堂に誕生時のお釈迦様を安置し、甘茶を注ぎかける行事が行われる。
これを「灌仏会(かんぶつえ)」といい、通称「花まつり」と呼ばれている。
甘茶を注ぎかける行事は、お釈迦様が生まれた直後に周囲を見わたし七歩あるき、右手を天に指し左手を大地に向けて「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と言ったと。その時に天竜が天から下って甘い露(雨とも)を注いだという説話が元といわれる。

鎌倉のお寺で開かれた「花まつり」をめぐる。



極楽寺 極楽寺3-6-7
 
         
 
花まつりの日前後3日間は本堂及び奥の院の墓地にある高さ4mの忍性塔が特別公開される。


普明山法立寺成就院 極楽寺1-1-5
 
                   
 
シャガ

  
桃の花と白く波立つ由比ヶ浜海岸



海光山慈照院長谷寺 長谷3-11-2
 
 
 
 
 
シャクナゲ



行時山光則寺 長谷3-9-7
 
 
 
外来種のカタバミの仲間(自然が運んだようだ)


ボタン                    オキナグサ

長谷寺に参道から道を1本北に移動しただけなのに参拝客があまり訪れず、しかも四季の花を愛でることが出来、好きな寺院のひとつである。


本覚寺
               
               
 
八重桜



比企谷妙本寺 大町1-15-1




甘茶の接待



参道や鐘楼の傾斜地に咲くシャガ


                 
八重のヤマブキ

 
八重桜

                  
早くもフジの花が咲く


  
亀谷山寿福寺 扇ガ谷1-17-7
 
一般公開はされていない。

海蔵寺 扇ガ谷4-18-8
 
 
 

          オダマキ                      ミツマタ

 
ツツジとシャクナゲ



甘茶は、ユキノシタ科のガクアジサイの変種であるアマチャの若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。乾燥させることによって甘味が生じ、およびそれを煎じて作った黄褐色の飲料が甘茶である。
甘茶を今回初めて飲んだのだが、最初が極楽寺である。砂糖を加えているのではというほど大変甘い飲み物であった。
その極楽寺から甘茶の梯子が始まった。檀家の方の接待があったり、給茶器が置いてあるお寺もあった。
「花まつり」の季節は、その名の通り多くの花が咲き乱れる。
鎌倉では週末に「鎌倉まつり」が始まり翌週には流鏑馬神事が行われる。鎌倉の華やかな季節が到来した。



         関  連      :建長寺花まつり2013
         前回の鎌倉記事:鎌倉荏柄天神左義長2013

羽村の花と水のまつり

2013-04-07 22:36:01 | 東京散策
 
 

わが家から丁度2時間、青梅線のおざく(小作)駅に降り立つ。
小作駅から羽村駅の間を歩き、羽村の「花と水のまつり」に親しむ。


                      
「小作」と書いて「おざく」と読む。
名のいわれは、
(1)古くは「小佐久」と記していたことから「狭く細く行きづまりの谷」の意とする説。
(2)西隣の青梅市友田の人々が川を渡って小作をしていたからとする説。
があるというが。


大原稲荷神社
 
江戸時代中期頃より個人の屋敷神として祀られていた祠だという。

最初の神社で本日の安全祈願をする。住宅街にあって、隣は保育園。園児の声が聞こえてくる

聖書宣教会日本福院ルーテル教会・羽村教会
今回歩いた地域に2カ所のキリスト教関係の施設があった。

聖書宣教会(左)は全寮制の超教派の牧師・伝道者の養成学校。大学卒業程度の学力を持つクリスチャンに、聖書に基づいた訓練と教育を与えることを目標としている。日本をはじめ世界に約500名の卒業生を輩出している神学校のひとつ。東京基督神学校と並んで福音派の中心的な教派を越えた神学校ということ。
キリスト教界には、プロテスタント、ローマ・カトリック、正教会の3つの大きな流れがあり、その下にそれぞれ無数に分かれている。
ルーテル教会(右)はプロテスタントの流れをくむルター派の教団である。

阿蘇神社
古墳時代の終わり、601年。推古天皇の時代に創建。鎮座して1,400年余の歴史を持つ。

北参道にある鳥居(左)と多摩川沿いの南参道にある鳥居(右)


 
本殿は江戸時代初期の1676(延宝4)年の建造とされる。また祀られている神輿も江戸後期1818(文政元)年製作とされる。
               
904(天慶3)年、社殿を造営した際に植樹した椎の木。実に1,100年余の歳月を経ている。

龍珠山一峰院の鐘楼門
龍珠山一峰院(りゅうしざんいっぽういん)は、1424(応永31)年開基の臨済宗建長寺派の寺である。

この山門の特徴は、二階造りの門で、屋根が上層にだけある楼門と鐘楼を兼ねている造りで、2階に鐘楼を吊るすことで一般の楼門より建物が高い。建築様式は、和様を基本として禅宗様との折衷様式である。現在は瓦葺であるが当初は茅葺の屋根であった。
         

根がらみ前水田のチューリップ栽培
 
ここは、6月~10月が稲作で水田として使用するが、11月~5月は休耕田となるため、チューリップ植栽を裏作として行い、水田を有効利用しようと始まったものである。


およそ8万平方メートルの根搦み前水田にはチューリップやシャクナゲなどの景観植物が季節ごとに咲き乱れる。4月に行われるチューリップまつりは、チューリップの摘み取り、農産物・切花直売、模擬店などが出店。熱気球で上空から20万本ものチューリップが観賞できる催しもある。

 
2連揚水水車(実物の1/3大の模型)


八幡稲荷神社
 
稲荷神と八幡神(はちまんじん)が合祀されているため、八幡稲荷神社となっているが、地元の方は間坂の稲荷様と呼んでいるそうだ。
もとは根搦水田前の屋敷神であったようだが稲荷講の人によってこの地に祀られた。社の扁額には「倉稲魂(うかのみたま)社」と書かれており、手水舎(ちょうずや)には「蒼生魂稲荷神社」と書かれている。いったいどんな神社なのだろう。
社の奥には池があり豊富な湧水が流れ出ていた。

不動堂
 
いわれは解らぬが八幡稲荷神社の隣の祠の中には立派なお不動様が祀られている。

玉川神社
 
寿永年間(1182~85)に畠山重忠一族が信州諏訪大社から勧請。もと諏訪大明神、多摩大明神と称した。
1869(明治2)年諏訪神社と改め、その後日枝神社と合祀し玉川神社と改称した。
1882(明治15)年、この境内に羽村小学校が建設された。

多摩川堤の桜並木
玉川上水沿い・羽村堰周辺を中心におよそ200本の桜が咲くなかで、さくらまつりが開催されている。
夜にはライトアップされるエリアもある。
 
 
 
 
 
福島県人会寄贈の三春桜


玉川水神社
東京水道の守護神で玉川上水が1654(承応3)年、徳川幕府によって完成した際の水神宮としてこの地に建立された。
以来350余年、江戸町民及び浄水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たもので1893(明治26)年に玉川水神社と改称した。本殿は天保時代(1830~44)の建造、1895(明治28)年に改築。

水神社としては最も古いもののひとつ。
 

羽村陣屋跡
玉川上水が通水した1653(承応2)年に、水路や堰の管理をするために設置された江戸幕府の役所で「水番所」ともいわれている。 管理の内容は主に上水道の取り締まり、水門・水路・堰堤等の修理・改築などであった。
 


玉川上水取水堰 
1654(承応3)年、玉川上水開削時に設置される。現在の形態になったのは1900(明治33)年。
 
玉川上水については改めて書きこむ予定にしている

羽村市郷土博物館
 
多摩川、玉川上水・養蚕農業や羽村生まれの中里介山の世界が常設展示している。また屋外展示として旧下田家住宅、旧田中家長屋門や赤門がある。
この羽村市郷土博物館は改めて書き込みをしたい

羽村橋のケヤキ
幹周りおよそ7.2m、樹高25m、樹齢が400年とも600年ともいわれる。樹枝全体が鞠状をなした樹容は壮観で都内有数のケヤキの名木である。
             

馬の水飲み場 
ここに、湧水を利用した馬の水飲み場があった。
この坂下に住む農家の人たちは、段丘の畑に向かうことが大変苦労をした。そこで肥料や収穫物の運搬に馬が引く荷車に頼った。このため坂を上ったこの地に馬の水飲み場を設け労をねぎらった。
1894(明治27)年に青梅鉄道が開通すると、多摩川から羽村駅までの砂利運搬に活躍した荷車を引く馬もこの水飲み場を大いに利用した。
この坂は、近くに禅林寺があることでお寺坂と呼ばれている。
  

稲荷神社
創建は不詳であるが、江戸時代後期の『新編武蔵野風土記稿』に「稲荷社」と記述されている。
本殿の形は一間社流造で、社殿全面に模様が施された江戸時代後期の社寺建築様式の典型をなしている。1848(嘉永元)年に竣工したものとされる。 
 

旧鎌倉街道
この道は800年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと考えられる。
 
取水堰から羽村駅に向かう道が新奥多摩街道と交差するところに旧鎌倉街道の解説板が置かれていた。鎌倉街道と知り詳しく知りたいと思っていたら、その先に臨時の観光案内所が丁度あったのでそこで訪ねた。
多摩川を渡し舟で越えて羽村に入り駅の西側を通っている道で、鎌倉街道の上・中・下道の分類は解らないとのこと。調べてみたがそこには含まれない独自の鎌倉街道のようだ。


五ノ井神社のまいまいず井戸
創建は601年、推古天皇の時代と伝えられる古社である。
熊野五社大権現を祀ったことからもとは、熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたといわれる。現本殿は1862(文久2)年に竣工されたと推察。彫刻や絵・文様など江戸時代後期におけるこの地方の寺社建築の特徴がうかがえられる。
 
「まいまいず」とはかたつむりのことで、井戸に降りる通路の形が似ているから名づけられた。地表面からおよそ2周下って井戸に達する。
地元伝説では大同年間(806~810)に創始されたとしているが、形態および出土品から鎌倉時代と推定される。
井戸掘りの技術が未発達の時代に、このような形態をとるに至ったとされる。
隣接の五ノ神社(熊野社)とともに村落の中心となって永く使用されたと思われる。
地表面の直径はおよそ16m、掘り井戸は底面からの深さ6mになっている。
 

  
帰りは、朝降りた小作駅のひとつ手前である羽村駅から帰宅する。電車のツナギからか往きより30分も多くかかる。

羽村を訪れた日は強い風と雨が2日降り続いた翌日の4月4日のことである。
ここを選んだのは、先ずは「ちい散歩」のDVDを観て、散った花びらとたわむれ散歩を楽しんだ地井さんが歩いた道をたどってみたいと思ったからだ。
それに江戸城をはじめ江戸の町を潤した玉川上水の出発点でもあることも選んだひとつである。
また、羽村市を含む青梅は養蚕が盛んな地域であった。そこに開設している羽村市郷土資料館も見学のひとつで楽しみなひとつであった。
所用と天候の関係で訪れが遅くなってしまい桜の盛りが過ぎてしまったが、まだまだ花の見応えはあった。
そして午後には地井さんが楽しんだ桜の花吹雪がたのしむことが出来た。


   関連 羽村市郷土博物館を訪ねる
       玉川上水 : 後日記載
 

和泉川は”せいしゅん”

2013-04-05 16:10:42 | 散策
 


和泉川のほとりは春真っ盛り 盛春


  
菜の花とムラサキダイコンソウ

 
ハナニラ


  
今年もあった 白いスミレと白いタンポポのシロバナタンポポ

   


つくしも残っていた


 
葉がしっかり生え揃い実(サクランボウ)までなっているサクラのある サクラ様々


 
山ザクラ



ブロッコリーの花


  
小麦の収穫はもう少し先
 


 
春の小川はサラサラいくよ