雑司ヶ谷霊園から豊島ケ岡御霊へ向かった。
御霊とついているので、皇族の方の墓地であるが、それに隣接して
護国寺があり、ここにも墓がある。護国寺にはツツジの頃、見に
伺った時に、裏に回り墓地にも足を向けたことがある。大きな囲いの
立派な墓があり、よく見ると大隈重信の墓だった。その時は入り口で
施錠がされていて入れなかった。
今回訪れた時が、たまたま墓の敷地内のお色直し(灯籠の磨き等)が
行われており、施錠が外され中に入れた。重信の墓石の前まできて
撮影ができ、とてもラッキーだった。いつもなら、囲いの外からの
撮影になったことだろう。
さて、大隈重信(1838~1922)といえば、語るもがな。
大隈家は、代々佐賀藩士の石火矢頭(砲術)の隊長職に就いており、
300石扶持であった。
重信は、第8代と17代の総理大臣を務め、侯爵にもなっている。
東京専門学校(早稲田大学の前身)の創始者である。
(豊島区の護国寺にて)
御霊とついているので、皇族の方の墓地であるが、それに隣接して
護国寺があり、ここにも墓がある。護国寺にはツツジの頃、見に
伺った時に、裏に回り墓地にも足を向けたことがある。大きな囲いの
立派な墓があり、よく見ると大隈重信の墓だった。その時は入り口で
施錠がされていて入れなかった。
今回訪れた時が、たまたま墓の敷地内のお色直し(灯籠の磨き等)が
行われており、施錠が外され中に入れた。重信の墓石の前まできて
撮影ができ、とてもラッキーだった。いつもなら、囲いの外からの
撮影になったことだろう。
さて、大隈重信(1838~1922)といえば、語るもがな。
大隈家は、代々佐賀藩士の石火矢頭(砲術)の隊長職に就いており、
300石扶持であった。
重信は、第8代と17代の総理大臣を務め、侯爵にもなっている。
東京専門学校(早稲田大学の前身)の創始者である。
(豊島区の護国寺にて)