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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

ミュージアム巡り 発明のチカラ オリザニン

2010-11-22 06:25:54 | ミュージアム巡り
 明治43年、東京帝大農科大学の教授、鈴木梅太郎は、米麹の
中にアベリ酸が含まれていることを発見し、これを抽出して「オ
リザニン」と名付ける。現在では「ビタミンB1」として知られ
ている。
 翌年、鈴木はアベリ酸の製法で特許を取得し、オリザニンは三
共商店から脚気に効果があるとして発売された。ただし当時は、
日本医学界では脚気は伝染病の説が強く、医学界から疎遠にされ
ていた関係で、当初は売れなかったという。
 オリザニンという名ではなく、ビタミンという名称が普及した
のは、実は「ビタミン」は鈴木と同時期にポーランドの科学者、
C・フンクが命名したもの。オリザニンという名が普及しなかっ
たのは、この国際的知名度に原因があったようだ。
(千代田区北の丸公園3-2)
カット_2

ミュージアム巡り 発明のチカラ グルタミン酸

2010-11-21 05:38:29 | ミュージアム巡り
 サトウキビの精蜜から造られた「グルタミン酸」、登場した当
時は髪の毛や石油、蛇といったものから造られたと思われていた。
 当時は小麦粉を塩酸で焼き分解してグルタミン酸を取り出し、
これを脱色して濃縮するとグルタミン酸ナトリウム(味の素)を
造っていた。現在は、味噌や醤油などと同じ発酵法で製造されて
いる。
 グルタミン酸自体は、明治の初めに発見されていたが、東京帝
大理科大学の教授、池田菊苗が昆布からグルタミン酸ナトリウム
を採取し、これが“旨味”成分だと発見する。
 明治41年、池田はグルタミン酸を主成分とする調味料製造法
で特許を取得。これを製造・製品化するため鈴木製薬所(現在の
味の素)へ持ち込む。この年、「味の素」が発売される。
(千代田区北の丸公園3-2)
カット_1

ミュージアム巡り 発明のチカラ 氷砂糖

2010-11-20 05:42:51 | ミュージアム巡り
 「氷砂糖」も日本人の発明のひとつで、明治16年、静岡で菓子
商を営んでいた鈴木籐三郎が考案。
 鈴木は水に溶かしたグラニュー糖を小皿に10数日置いておくと、
結晶と氷糖蜜に分かれ、その結晶を乾燥させて氷のような砂糖の結
晶を作り出す。
 この成功により、明治23年には東京・砂村新田(現在の江東区
北砂)で精製糖の製造を開始。精糖機械も発明し、日本精製糖を創
立して本格的な精糖事業を進めていく。この会社が現在の大日本精
糖だ。
 鈴木は精糖業の他に、製塩、醤油製造等の事業に関わり、生涯で
159件もの発明品を誕生させている発明王だ。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 真珠養殖

2010-11-19 06:21:50 | ミュージアム巡り
 “真珠王”と呼ばれた御木本幸吉が三重県英虞湾で、初めて真珠
の養殖に成功したのが明治26年。
 そのきっかけは、アコヤ貝の乱獲により絶滅を危惧した御木本が
貝の養殖を始め、アコヤ貝で真珠の養殖を考案する。明治29年に
は、半円真珠の養殖法で特許を取り、明治38年に真円真珠の養殖
に成功。
 さらに真珠加工の技術特許を取得し、加工した真珠が装飾ジュエ
リーとして価値が高められていく。その後、養殖真珠は国内はもと
より海外へ輸出し、日本の真珠の優雅な美をアピールした。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 豊田式自動織機

2010-11-18 06:23:34 | ミュージアム巡り
 明治の中期にはいると日本の経済は不況から急速に回復し、株式
会社の設立とその投資に沸き立ってきて、これがいわゆる企業勃興
期を迎えることになる。
 明治23年、豊田佐吉は木製の人力織機を発明。この機械は従来
のものと比べ、5割ほどの能率のアップが図られたという。さらに、
明治29年には日本初の動力織機「豊田式汽力織機」を発明し、外
国製のものより安価で、また性能も従来の20倍の生産力を誇った。
 この発明・成功により織機の改良が加えられ、自動織機の開発が
進められていく。
 大正13年には完全な無停止杼換式豊田自動織機(G型)が発明
されると、世界からも注目を集め、当時の織機のトップメーカー・
プラット社(イギリス)が昭和4年に豊田と特許譲渡を受ける契約
を結んでいる。
 これが契機となり、豊田は“世界のTOYOTA”へ繋がる自動車産
業へ発展させていく。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 国産オルガン

2010-11-17 06:30:40 | ミュージアム巡り
 明治20年、医療機器の修理技師であった山葉寅楠は、浜松の小
学校にあった輸入オルガンの修理を依頼される。専門職でない修理
を見事こなした山葉は、自らもオルガンの製造を試み、3ヶ月後に
は試作器を誕生させる。
 しかし、オルガンの調律がでたらめで実用にはならなかった。そ
こで、山葉は東京音楽取調所(現在の東京芸大)で調律法を学び、
明治21年に製造所を立ち上げ第1号を製造販売する。
 その後の山葉の躍進は目を見張るものがあり、明治33年にはア
ップライトピアノを、2年後にはグランドピアノも製造。楽器の
「ヤマハ」の基礎をつくる。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 乾電池

2010-11-16 03:28:56 | ミュージアム巡り
 電池の発明は1800年にイタリア人・ボルタによって登場し、
日本には安政元年(1854)、アメリカのペリーが徳川将軍の献
上品として持ち込んできた。
 その後、1888年、ドイツ人・ガスナーが液のこぼれない電池、
いわゆる「乾電池」を発明。ところが、その前の年・明治20年
に時計店員の屋井先蔵が「屋井乾電池」を発明していた。
 屋井はその2年前、「連続電池時計」を発明しており、その時
は使用した輸入電池から薬品が染み出し金属部分が腐食。ここで
陽極の炭素棒にパラフィンを染み込ませることで、腐食を防止さ
せることに成功する。
 明治25年のシカゴ万博に、帝国大学の理学部が屋井乾電池を
使用した地震計を出展し、一躍注目される。ところが、屋井が特
許を取得したのが翌年で、この頃には模造品がアメリカから逆輸
入されていたという。それでも屋井乾電池は、確実に国内外でシ
ェアを伸ばしていったという。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 改良揚繰網法

2010-11-15 06:25:52 | ミュージアム巡り
 千葉の漁師・千本松喜助は、明治21年、アメリカの巾着網から
独自の着想で網裾を絞る方法の「改良揚繰網」(かいりょうあぐり)
と漁法を発明開発した。
 これは、二隻の船で網を入れ魚群を追い込んで採る漁法で、網を
両端から船内に繰り込み、同時に引手綱を素早く引き寄せて、魚が
船の下に逃げるのを防いだ。
 この千本松の揚繰網の普及は急速に進み、各漁港でさらに改良が
採り入れられ、徐々に効果が現れたという。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 改良俵造

2010-11-14 05:38:00 | ミュージアム巡り
 江戸から明治に時代は変わっても、変わらないモノに「俵」があ
った。米や塩、海産物などは俵で荷造りされ輸送されていた。
 この俵という当時の梱包袋も改良が行われており、地味な中でも
産業の発展を支えた一品だった。
 函館の海産物商の遠藤吉平は、汽船で荷物を品川へ送ったところ
荷造の俵の破損が数多くあった。当時は条例により荷に破損があっ
ても船主に責任がないため、遠藤は俵造りに邁進することになる。
 さらに遠藤は明治41年には衆議院議員に当選し、議会で俵造の
改良について意見を述べてもいる。
(千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 発明のチカラ 国産マッチ

2010-11-13 04:42:33 | ミュージアム巡り
 殖産興業政策により士族が興した事業にはメリヤスや紅茶、石鹸
等、海外から導入された産業が多くある。その中で「マッチ」の製
造も士族から生まれた産業だ。
 国産マッチは、元加賀藩の清水誠が明治8年に製造し成功すると、
清水は惜しげもなく製造法を公開する。それにより、マッチ製造が
士族の授産事業として奨励されたことにより全国に広がっていく。
 写真のマッチラベルには“SHIMOTSU SEIZO”の文字が見られ、
これは元高松藩松平家の授産金により始まった会社を、下津製燐所
が引き継いで製造されたもの。創業者の下津永行は点火薬の改良に
努める。
(千代田区北の丸公園3-2)