午前1時を回った。
4年前に購入したPowerMacG4の、排熱のためのファンが唸る。最もパワーを消耗する動画作成ソフトの
レンダリングタイムに入った。これからしばらくコイツに仕事をさせている間、僕は暇だ。
腹が空いたので、かつて行きつけだった中華料理屋が会った場所に向かう。
半年前に前の店が潰れたが、同じ場所に同じ中華料理屋が立った。
店が変わっても、その場所にほぼ同じ時間に、同じペースで通っていた。
その日も暖簾をくぐって、新聞を取り、いつものカウンター席につき、台湾ラーメンと餃子を頼んで、新聞を広げた。このルーティンワークはもうかなり洗練されていて、これ以上ないくらい最適化されている。ラップタイムは5秒44(自己申告)。それ以上にも以下にもいかない。
今日もいつもと同じ風景を繰り返すはずだった店内は、ひとつだけ違っていた。
オーダーを聞いた後、すぐに店の隅に引っ込むはずの店員さんが、あるテーブル席へそそくさと戻っていく。
そして、ひとりの客が座っているテーブルの側までいくと、所在無げに立ち尽くした。
まるで職員室に呼び出されて説教を食らう生徒のような佇まい。黒縁眼鏡に覆われた、やや小さめの瞳が所在無げにさまよう。典型的なドジっ子属性の女の子である店員さんは明らかに戸惑っている。
あんた、別の場所行ってメイド服着れば大人気だよ。お店間違えたね。
テーブルのひとり客は、4本目の瓶ビールを手酌で傾けてグラスにビールを注いでいた。萌えモドキ店員をずっと自分の側に立たせている。歳の頃は50手前の男性で、スーツは着崩れ、ネクタイはテーブルの、空になった瓶ビールの横に無造作に置かれていた。
僕は耳に突っ込んでいたイヤフォンを外すと同時に彼らのテーブルからも視線を外して、。目の前の新聞に目を落とす。関係ない。僕はエキストラだ。昨日の中日戦の結果と選手・監督の感想を知りたかった。2日ほどテレビを見ていない。
男の声が聞こえる。ろれつの回っていない言葉で、萌えモドキ店員を叱責する声が聞こえる。
「あなた、僕の言ってることわかる?日本語わかる?」
「注文も聞けないじゃない」
「しゃべれないのはまだいいよ。勉強すれば。あいさつぐらいできるでしょ」
「なんにも言わないんだもん。注文通ってるのかわかりゃしないよ」
「だいたいねぇ、前の店ではこんなことなかったんだよ」
「オレ、親友だったんだよ。前の主人はイイヤツだった」
「なんであいつの店が潰れて、あいさつもしないやつが店やってんだよ」
「返事しなさいよ、あんた」
正直、何を言われても言語になっていない、ただの呼吸でしかない萌えモドキ店員さんの「…ハァ。」には僕も苛立たされていた。その台詞が余計に男の怒気を助長していることに気づけ、と思いだした頃に台湾ラーメンと餃子が到着する。
僕にラーメン餃子をだした店主は、そこから2,3歩退いて、やや背中を丸めて、所在無げに立ち尽くした。どうやら、男の説教の矛先は店主にも向かっていたらしい。僕の注文を作り終えた後、男の説教を聞く姿勢に、店主も“戻った”のだ。
(あ~あ、えらい場面に立ち会っちゃったなー)
思いながら僕はラーメンを啜ることに神経を集中することにした。レンダリングに必要な時間っはおよそ40分。とっとと食べて戻った頃に調度良いタイミングの筈だ。
ろれつの回らない男の説教は続く。
「あんたの教育の問題でしょ。なんで雇ってんの?親戚?ムスメ?」
「ほら、言ってる間にビールがカラになってるでしょ?気づかない?」
「こんなことしてたら、そのうち誰も来なくなるよ」
「お前の店はこんなことなかったよ。オレとあいつは親友だった。あいつはイイヤツだ」
「なんであいつの店が潰れてんだ?なんでだ?え?」
おっさん、気持ちはわかるがそれが資本主義だよ。
それに彼らがあんたの親友を直接追い出したわけじゃないだろう。
実は間接的に追い出したかも知れないが。
そんなことは僕には関係ないことだ。
僕はエキストラだ。
だが、さすがに聞いていられない。
僕はイヤフォンを再び耳に当てることにした。
シャッフル再生にして流しっ放しにしていたiPodから再び僕の耳に曲が流れこむ。
泰葉の「Fly-day Chinatown」だった。
思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえる。
無駄なリアクションは、今、僕の背中で行われている修羅場に強制参加させられる材料になる可能性がある。
必死でこらえて、しかしこれ以上聴くわけにもいかず、イヤフォンを外すと、また男の声が聞こえる。説教絶賛継続中。
せっかくのプチ奇跡に少しだけ踊った気持ちが再び萎える。
「あなた、僕の言ってることわかる?日本語わかる?」
「こんなことしてたら、そのうち誰も来なくなるよ」
「なんにも言わないんだもん。注文通ってるのかわかりゃしないよ」
「だいたいねぇ、前の店ではこんなことなかったんだよ」
ループが、来た。僕がこの世で2番目に嫌う現象が目の前で展開された。
(ちなみに一番目は傘が盗まれることだ。特に夕立時に、賢明な判断で午前中から邪魔臭い傘をずっと携帯していた人間の努力を無にする、コンビ二前の傘置き場で当然のように起こる窃盗という名の犯罪。)
説教はいい。
やるならシラフでやれよ、ばかやろう。
もしくは同じことを言っていいから違う言葉を使え。
ボキャブラリィの貧困さが浮き出てみっともないぞ。
ひねりなさいひねりなさい(嘉門達夫)。
まあ、酔っぱらいのループは語彙力とは無関係なんだが。
酔っぱらいのループにいちいち正論で反論するという行為はアリなんだろうか。
思案材料がまた増えた。
完全に心のなかでは修羅場に参加していながら、表向き僕は、目の前のくどい中華料理を片付けることに集中した。
普段より、やや啜る音が大きかったくらいだ。
もちろんそんな音は、ろれつが回らない男の耳には届かない。
内心ほっとしつつ、僕は今までの人生で最高のラップタイムを叩き出してラーメンを食べ終えた。辛い。
辛いが、未だ僕はエキストラでいるつもりだ。
再び新聞を開いて餃子を片付け始める。四つめでさすがにペースが落ちて、しばらく新聞だけに集中していると、目的の記事は読み終えてしまった。
集中が途切れると、店内に今まで聞いたことのない音が漂っていることに気づいた。
鼻をすする音が聞こえる。萌えモドキ店員さんが泣いていた。
限界だ。
僕は立ち上がる。
説教リーマンが誰よりも早く僕のアクションに反応した。新しい材料を手に入れたリーマンは内心嬉々として表向きは怒気を孕ませて、萌えモドキ店員に嫌味ったらしく告げた。
「お客さんがお帰りだよ。なにぼっと立ってんの?泣いてる場合?」
瞬間、店の空間が全て僕を中心に再構築された。
濡れた瞳で僕を見つめる萌えモドキ。
苦笑いが精一杯の店主。
不貞腐れて空のグラスを持ち上げたままの説教リーマン。
立ち上がった僕。
以上、本日の
エチュードの登場人物。
設定は「酒場でのよくある風景」。そろそろシメに入りましょう。
……。
僕は、新聞を、手に取って、そのまま、本棚へ、移動した。
新聞を、置いて、目の前に、あった、一番、取りやすかった、「週刊ポスト」を、手にとって、元の席に、座り、直した。
説教リーマンがろれつの回らない声を僕の背中に向けた。
「…。ハハ、残念、違ったみたいだね、すんませんね、勘違いして」
ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな
オレは!!深夜の1時に!まだ!仕事中で!たまたま!間があいたから!不健康で太るだけと知っていながら!腹満たすために!取り敢えずの満足を得るために!ここに来たの!テメーの!愚痴をきくために!酔いどれリーマンの!自己満足のために!もしくは!名古屋の中心街でも田舎でもない微妙な土地で!裸一貫借金して!店を立ち上げて!お金本国に送りつつ!小さな幸せつかもうねなんて!プチジャパニーズドリームの!登場人物に!なるために!ここにいるんじゃねーの!テメーラの!くだらない!三文芝居を!見学ぐらいはしてやるが!参加する!可能性は!ぜろ!ゼロ!ッゼロだばかやろう!!!勝手に酔っ払ってろ!いろんな意味で!オレに介入すんな!オレを登場させるな!テメーらの!三文芝居に!!!!!!!!(
カイジ)
僕は、
こんなふうに心中で、この店のあらゆるものに罵詈雑言を浴びせながら、表向きは平静を装って、イヤフォンを耳に突っ込み、週刊ポストを一応開いて、中身を確認することなく、目の前の残りひとつとなった餃子を、口に含んだ。
イヤフォンから流れる曲がなんだったかは、覚えていない。
時計をみると、まだ40分経っていなかったので、僕はタバコに火をつける。
煙を吐き出しながら、実は、なんと、信じられないことに、此処に至って、僕は、起死回生の策を練り始めていた。この現状を打破するための最高の一言を、必死に探していた。
取り敢えず、取り急ぎ、僕は空になった食器をカウンターに差し出した。店主が気づいて、食器を下げに来る。
店主が食器を片付けるさまを見ながら僕は、その風景が見慣れたものであることに気がついた。名古屋の片隅の小さい中華料理店の、ほんの些細な出来事に、些細だけども荒れに荒れてしまった空間に、瞬間、いつもの風景が戻ったような気がしてほっとした。
そうだ僕は、この店にまた訪れるだろう。
また、いつものように、この店に、取り敢えずの腹を満たしに来るだろう。
僕はこの店が嫌いじゃなかった。
いつも、この時間に迎え入れてくれる空間があることに感謝していた。
言葉がわからなくても、メニューの写真を指し示すことで得られるコミュニケーションが好きだった。
僕が欲しいものを了解したときの、萌えモドキのハニカミ笑顔が好きだった。
会計を済ませて店を出る時に、厨房からなんとなく顔を出す店主が好きだった。
別に何を言うこともないが、客を見送ろうとしている店主の動作が好きだった。
この店が、この時間に、ここにあることが、好きだった。
そうだ、僕は、また来るだろう。
「そのうち、誰も来なくなるよ」とリーマンは言っていたが、
そしてリーマンは今日の夜を最後に、もう来ないだろうが、
僕は、また来るだろう。
「また、くるよ」って言おう。店をでる前に「また、来ます」って言おう。
そこまで考えたときに、後ろで椅子を引く音がした。
考えることに集中できるほど静かなのは、どうやらリーマンが帰る気配を見せ始めていたからだった。説教疲れと酒が十分に回ったので、少し前から、もうリーマンはしゃべらなくなっていた。気付かなかった。思わずイヤフォンを耳からひっぺがす。後の祭り。
おいマテ。オマエがいいなけりゃ話にならんだろうが。
このエチュードは4人いないと成立しないんだぞ。なに先に退散しようとしてんだよ。
僕が思いついたこの一言は、店への感謝であると同時にオマエへの皮肉でもあるんだよ。いやむしろ8割方あんたへの復讐だよ。アンタがいなきゃ話になんねーだろーが。
などと考えていたら、リーマンはとっとと席を立ってしまった。
しまった。考えてる場合じゃなかった。人生最大の、何度目かの、よくある失敗。
ループ発言といい、絡みっぷりといい、酔っ払いのフォーマットを限りなく忠実に再現していた説教リーマンは、フォーマット通り爪楊枝を咥えながら、ふらふらのままで
「ま、ちょっと言い過ぎた、すまんね。ごめんね~」
と言いながら、レジの前の萌えモドキ店員にお金を渡していた。
カウンターの真後ろで行われているそのさまを、振り返って凝視しながら、僕は何も言えず、何もできず、ただ固まっていた。
そのとき、頭の後ろから、突然、巨大な音が鳴り響いた。
「ありがとう、ごじゃますたー!!!!」
店主の声だった。
大声だった。
大声どころか、店主の声を初めて聞いた。
店主のたどたどしい日本語を初めて聞いた。
説教リーマンは度肝を抜かれていた。
満面の笑みで自分を見つめ続ける店主に、気圧されていた。
一瞬の沈黙の後、我に返り、今度はオヤジ=フォーマット通りに、咳払いをひとつすると、説教リーマンは言った。
「ま、また、来るわ。」
僕が店に入ってから、40分が過ぎていた。
「Friday」じゃなくて「Fly-day」だそうです。