論語の為政にある「七十にして矩を越えず」とは、仮に自分の欲望のままに行動しても、それが人の道からは外れていない、そんな成熟した人の姿を云う。意識して律せずとも、自分の自然な行いがそのままで人倫に適う、学や理知に習熟した果てに辿り着く理想の境地のことだ。
世迷言を得意げに語り、クレーマーに成り下がり、若輩には迷惑なだけの老境もある。与えもしなかった者が、与えられないことを憤慨する身勝手、そんな矩を越えた老境を見れば孔子もさぞかし慨嘆することだろう。
目指し求めてきた老境がある。泰然自若、宗教やイデオロギーの罠から自立し、凛とした自分自身の哲学の中で死ぬこと。宇宙的時間軸に霧散する運命を静かに受け入れ、微力の故の罪を丹念に引き受けること。
周囲に迷惑の限りを尽くし、悪事悪行を重ねた人が改心し、あるいはそのふりをしてまっとうな人生に潜り込もうとする、実家に戻って老後の場を探す。そんなエピソードは最も嫌な話の一つだ。大量殺人に手を染めたオウムの出家信者が田舎に戻り、何食わぬ顔で日常を構築する、正業にも就かず革命家を気取っていた活動家、チンピラヤクザの類まで。若いころは屁理屈をこねて年金も掛けず、今は生活保護にしがみつく無様さ。そんな話が団塊の世代にはごろごろあって恥ずかしい限りだ。
道を誤った者は最後まで誤ったままで在れば良い。そうであれば、確実に悲惨な老境を迎えることになり、それこそが相応の罰になる。彼らの周囲には夥しい被害者がいるのだから。罪には罰が対応しなければならない。世間が知らぬ間に、彼等自身が唾棄すべしとしていた日常にひっそりと戻る、そこには真摯な反省も総括も何もない。ただ人として恥ずべき姿、因果応報の矩を越え、人の世が許容できない本質を持っている。それを邪悪と云う。
道を誤れば、最後まで誤ったままにあるべきだ。誤魔化しによって、因果応報の観念すらも破壊するのであれば、それは親鸞にすら救えない真の極悪人である。因果応報、その観念が貫徹されること、それ以外に人の世に重要なことなど何もない。
川口