猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

確かに「運」というものはある。

2009年12月31日 | Weblog
毎年、大晦日には自分のこれまで辿ってきた人生を振り返ることにしている。

今年は「自分の運の良さ」」というものを、ことのほか強く感じた年であった。

自分は生まれてすぐ、肺炎を患って死ぬ寸前であった。
この時代は抗生物質などはなくて、頼るのは生まれ持った体力と運しかなかった。母親の話によると、重湯が唯一の薬であったようだ。

その後小学校一年生の時、静岡で米軍の本土空襲にあい、焼夷弾が降ってくる中を辛うじて病弱の母親と一緒に裏山に避難して助かった。

また、一昨年末には思いもよらなかった心臓の大動脈弁の置換手術をして助かった。自分は子供の頃から体力に自信はなく、大きな手術をしたら、生きて戻ることはないだろうとずっと思っていた。それが助かったのだから、そういう「運命」にあったのではないかと思っている。

これまでの人生を振り返ってみると、自分はなんと運の良い人生だろうかと思わざるを得ない。
親・兄弟・医師・友人たちに恵まれたということも間違いないと思う。
周りの人たちに恵まれたことも「運」だと言えるが、「自分にはどうしようもない何かがそうさせている」ということだと思う。

運が良かったのか悪かったのかというのは、長い間生きてきて初めてわかる。
自分の人生を振り返って「運の良い事実」があったなら、「自分は運が良い人間だ」と思いこむことで、「本格的に運が向いてくる」のではないかと思っている。

「運」というものは「自分は運が良いと信じてこそ、初めて運がついてくるのだ」と信じることだと思っている。


小説「斜陽」の舞台は保存すべきだった

2009年12月27日 | Weblog
太宰治の小説「斜陽」の舞台となった雄山荘が全焼と聞いて驚いた。
太宰治の恋人である太田静子さんが戦時中に住んでいたところだ。
静子さんの日記をもとに「斜陽」が書かれたときいている。

静子さんとの間に生まれた治子さん(作家)はつい先日、NHKの番組
でこの別荘を訪れたばかりである。この番組は私も興味深く見ていた。
昭和初期に建てられた別荘は斜陽の舞台となっただけでなく建物自体が
建物自体が中国風の建築様式を取り入れた貴重なものであった。

神奈川県と保存について話し合いが行っていたようだが、放火のために
全焼したと聞いて本当にショックだった。

こういう建築物を人気作家の舞台として保存管理してオープンにしてい
たのなら、太宰ファンが連日見学に来たいたと思う。
どこの国でも、国民的な財産となった小説の舞台は保存している。
国も神奈川県も何で迷っていたのだろうか?

「斜陽」は中学生の時に想像しながら読んだイメージが、不思議と今で
もはっきり頭の中にある。
別荘の庭とか家の中のイメージはいまだに消えていない。
しかも、その別荘のイメージは、先日治子さんが訪れた時の映像通りの
ものであったのも不思議でならない。

何もマニュフェストどおりでなくてもよい!

2009年12月25日 | Weblog
国民にマニュフェスとで宣言して、民主党が政権を取ったのだからマニュフェストどおりにやらなくてはいけない、という考えは違うと思おう。
今は経済がもの凄い勢いで悪くなっており、世界的にも日本の立ち遅れが目立っている。これだけ経済が悪くなっているのにマニュフェスとのとおり、無駄を省いてその中で収支を合わせるという考え方は間違っている。

もしかしたら、民主党もマニュフェスと通りには行かないことがわかっていて政権を取ったのではないだろうか?
理路整然と説明が出来て国民の共感を得られるマニュフェスとを武器に使ったのではないか?政権を取ってしまえば、マニュフェスとの運用はどうにでもなると思っていたようだ。
その証拠に民主党はマニュフェスとでの公約をどんどん変更してきている。
しかし、それでいいと思う。
これだけ変化の大きな時代には、当然である。

税収が大幅に減少してきている中で児童手当の新設や高校までの授業料の無料化などをやろうとしたら、マニュフェスとのように「無駄減らし」でお金を工面することはできない。
赤字国債もやむをえないことだ。

日本の経済はデフレスパイラルに入ったのだ。
すでに国民は買い物を控えている。
我が家ではゴミの量が三分の一になった。

政策は硬直的に考えてはいけない。
こういう時にはマニュフェスとは通用しない。
国民は公明正大ですっきりすると思うが、政治はもっと大きな見方をすべきだ。

名古屋フィルの第九と愛知県合唱連盟の第九に感動

2009年12月21日 | Weblog
初めて年末に生演奏と生合唱の第九を聴いた。
名古屋フィルと愛知県合唱連盟の第九(合唱付き)だ。

人間の声というものが、これほど素晴らしいものとは思わなかった。
年末になるとラジオやテレビで第九が流れてくるが、生で聴く迫力はちょっとやそっとのものではない。

歓喜の歌はもの凄い迫力であった。会場は合唱団のみなさんの体を通して、神が下りてきたような感覚に包まれていた。

合唱連盟の皆さんは、年齢層が厚くかなりのお年寄りの方も多かった。
たぶん、合唱団の皆さんもこの感動が忘れられなくて、ずっと歌い続けているのだろうと思った。

来年も年末には、生オケと生合唱を聴きに行きたくなった。

スケッチ 半田市 中埜半六邸

2009年12月19日 | Weblog
明治の建築で現存する数少ない建築物である「中埜半六邸」は、すでに取り壊されることになったそうだ。
自分が訪れた時は、丁度最後の邸内見学会の日であった。

中埜半六は明治時代の実業家であり、半田市で廻船問屋や醸造業を営んでいた。
こういう建築物が壊されるのは実に寂しいことである。
半田市は古い町並みがあり、絵のモチーフには事欠かないところだ。
古い町並みは是非とも保存していただきたいものだ。

この絵は半六邸の二階から眺めて描いたものである。
もう二度と描くことが出来ないとなると一層寂しさが募る。

スケッチ 半田市の小栗邸 

2009年12月16日 | Weblog
ミツカン酢の工場近くに明治初期に建てた「小栗家住宅」がある。
現在は半田市の観光協会として使用されている。

この住宅はなかなか風情があり、蔵の街にぴったりの雰囲気だ。
スケッチをしていたら、雨戸を閉めようとしている観光協会の方が「閉めてもいいですか?」とわれわれのスケッチに気を使ってくれたのが嬉しかった。

このスケッチは現場でペン描きをしてから、家で彩色した。
F3ペン・水彩。

子猫の兄弟・姉妹

2009年12月15日 | Weblog
出掛けようとして扉を開けると、もうそこに子猫がきている。
最初は四匹いたのだが、最近は兄弟・姉妹と思しき二匹が顔を出している。

歩くとくっついてくるので、何ともいえない可愛さだ。
本当は町中で大切に育てたいのだが、動物を嫌いな人もいるので、そうはゆかないのだ。

この子猫はそのうちの一匹で、最近になって警戒心がなくなって、近づいてくるようになった。
野良猫の写真を撮るのは実に難しい。この顔は、まだ警戒している顔だ。

スケッチ ミツカン酢の工場 半田市

2009年12月14日 | Weblog
半田市の運河周辺はミツカン酢の古い工場が立ち並び、絵のモチーフには事欠かない。

半田の街は案内のパンフレットも充実していて、結構楽しめる。
絵のモチーフとしては運河周辺のミツカン工場、元カブトビール工場跡、中埜家当主宅、JR半田駅などがあるが、街の中はどこをとっても絵になりそうだ。

このスケッチはミツカン本店あたりから運河に立ち並んだ工場を描いたものである。F4水彩・ペン

ろう梅の花

2009年12月13日 | Weblog
毎年1月か2月になると「ろう梅」の香りが漂ってくる。

どうも温暖化のせいか毎年開花が早くなってきているのではないかと思う。
昨年は12月22日に蠟梅の花が咲いたのだが、今年は12月13日に開花しているのだ。
蠟梅のように香りで季節を感じさせる木々は、子供の頃からその記憶が体に沁みこんでいて、なにか他の木々以上に懐かしさを覚えるものである。

ところが温暖化で開花が狂ってくると、季節感も狂ってしまう。
いまCOP15がコペンハーゲンで開催されているが、つくづくと人間は視野が狭いものだと思う。
いま人間が一体化してこの地球を守らなかったら、何年か先は生きてゆくことすら不可能になってしまうのだ。
こういうことこそ日本が先頭に立って進めてゆくべきだと思う。

蠟梅の花を眺めながらそんなことを考えていた。

室生寺の十一面観音像の不思議さ

2009年12月10日 | Weblog
室生寺金堂の十一面観音像ほど美しい像はない。

自分も50年も前、名古屋から室生寺の十一面観音像を訪ねて行った時の感動はいまだに忘れられない。

先日放送された「土門拳のドキュメンタリー」で土門拳はこの観音像をみてから仏像の虜になったというが、よくわかるような気がする。
自分も観音像に出会って以来、そのお姿が自分の心の中にはっきりとインプットされている。特にお顔の優雅さや極彩色の光背の残像は明確に残っている。

特にこういう彫刻は作者の魂が入り込んでいるので、観る者に不思議な感動を与えている。自分も出来うるならば、再度お会いしたいと思っている。

この写真は昭和42年発行の「原色日本の美術・密教寺院と貞観彫刻」(小学館)の写真を撮ったものである。