猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

有馬稲子さん

2010年04月29日 | Weblog

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日経新聞の「私の履歴書」は有馬稲子さんが書いている。彼女は本音を語るので、実に面白く感動をもらう場面が多くある。

 ある雑誌で読んで、NHKの朝のテレビで話して驚くほど大きな反響をもらった先人の言葉がある、「夏羽織一枚を残して死ぬ」。つまり人の一生はほぼプラスマイナスゼロ、わずかに夏羽織一枚を残す程度に終えるのが理想だという意味なのだ。もちろん、いま私はこれをたいせつな指針としている。

いい話だ。
まずは「人の一生はプラスマイナスゼロ」ということは納得できる。いいときばかりではないということだ。長い目で見ると、必ずいいことと悪いことは相殺され平等な人生を送るように出来ていると思う。長いこと生きていないと見えてこなかったことだ。だから、悪いことに不満を言うのはよそうと思うようになった。

「夏羽織一枚を残す程度に終える・・・」というのも、身を軽くして一生を終えることだと思う。財産などはもともとあろうはずがないので残しようがないが、名前や名声も身軽にしておくべきだと思う。欲もほどほどということであろう。

この絵は清里のホテルの窓から見た風景だ。毅然とした山々には感動を受ける。


生命力

2010年04月26日 | Weblog

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この花はなんという名前か知らないが、門の塀のまえにいつの間にか咲い

ていた。
植物の生命力は驚くべきものがある。

おそらく何処からか舞い降りてきた種が、コンクリートの間のわずかな土に

入ったものだろう。ほんのわずかな場所を利用して自己主張している姿は

何とも愛しい。

たくさんの花の中で咲いていたら、たぶん気がつかなかっただろう。

しかし、こういう過酷な所に一輪だけ咲いているので、惹かれるのだと思

う。
こういう自己主張もいいものだ。


市川団十郎の白血病との戦い

2010年04月24日 | Weblog

       

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先ほど、BS-TBSで「市川団十郎の魂・350年の名跡を継ぐ」という番組

を見ていた。白血病になり3度再発して、妹さんの市川紅梅さんからの血

液移植で現在は元気で活躍しているが、その間抗がん剤治療で地獄の苦

しみを味わい無間地獄の世界を味わった団十郎さんのすざましいドキュメ

ントであった。

そして、400日以上の闘病生活を経て「今までの人生とは違う世界があ

る」
ということがわかったことや、「多くの人たちに支えられて生きてきた

ので、歌舞伎で返したい」
という気持ちであるということであった。

特に話の中で印象に残ったことは「宇宙の星は二千億個があるが、人間

は六十兆個の細胞がいつも生まれ変わって生きていられるのだから、

生命の世界とはいかに凄い世界であるか」
とも話していた。

自分も昨年末に心臓手術をした時に、思ったことと同じであった。

先ずは「人々に支えられて生きている」のだから、「いまここに在るというこ

とがいかに素晴らしいことであるか」ということは、日がたつにつれて思い

は深くなっている。

 

 


いつかは一人

2010年04月22日 | Weblog

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久し振りでスケッチをしたが、相変わらず「下手な横づき」で楽しんで描いている。

月に一回、近くの絵の好きな人たちが集まってスケッチ会をやっていが、おしゃべりしながら楽しく描いている。これが結構「頭の体操」になっている。

ところで、昨日の新聞に宗教学者の山折哲雄さんが「死を不安がる若者を救う教育を」と題した話が載っていた。大変納得できる内容だったので、なるほどと思った。

・・・平等でないことへの抵抗感からすぐに嫉妬や怨念、敵意を他人に抱くようになった。・・・「誰でも個性的になれる」という幻想がわがままな、利己主義を生み、他方で「個性的でないと価値がない」との脅迫観念が子供の心を委縮させた。

日本には昔から「ひとり」という美しい言葉があるが、今の若者はそれを極度に恐れる。個性と平等という観念の押し付けが、結果的に似た者同士で群れることに安住させたからだろ。人は一人で生き、やがて一人で死ぬ。単純な事実をしっかり教えない限り、子供たちは死の不安から逃れられない。

このことは何も子供だけではない。大人についても同じことがいえると思う。

昔の人は死生観を持っていた。信長の死生観は「人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか」だ。

 確かに昔は今と比べて、医学や食・住環境が悪く短命であったので、誰もが死生観を強く持っていたのだと思うが、自分の一生についての考え方はどの時代であっても変わらないのだと思う。長寿社会にあっては昔の人々以上に死生観を持つことが重要になってきている。


中村芝翫さん

2010年04月21日 | Weblog

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先日、NHKで83歳の中村芝翫さんが、出演していた。

東京の新歌舞伎座が建て替えのため休場となるので、「さよなら公演・実録先代萩」

に出演している話や「歌舞伎座とともに歩んだ80年の歴史」などを振り返って語って

いた。

中村芝翫さんは「父・五代目中村福助は私が5歳の時に亡くなり、その後は祖父の

五代目中村歌右衛門の手元で育てられたが、その祖父も12歳の時に没した。後ろ

盾のなくなった私に親代わりとなって」芸を教えてくれたのが昭和の名優、六代目尾

上菊五郎であった。」(21日日経朝刊より)

祖父が亡くなった時にはずいぶん苦労されたようだ。

それまでは「坊ちゃま」と読んでくれていた人が、祖父が亡くなった後は「小僧お

茶を持ってこい」というようになったとのことだ。

芝翫さんは「今になると、そう言ってくれた人がありがたく思う」と話していた

「苦労は買ってでも・・・」という諺があるが、これほど実践的な教育はない。

今の時代は、そういう厳しいことを言ってくれる人が少なくなった。

最も中村芝翫さんは謙虚で、学ぶ意欲が中途半端ではないからこそ、「厳しく言って

くれた人に感謝する」と言えたのだと思うが、それにしても「厭なことを言ってくれる人

が少なくなった」のも確かだ。

世の中が昔と違って複雑になってきているので、単純に「大人はもっと厳しくなろう」と

言うつもりはないが、少なくとも大人は「自分の子供だけでなく、世間の子供

達を育てる」という気持ちを持ち続けたいものだ。

 

 


現代版 維新前夜

2010年04月20日 | Weblog

あまり政治の話はしたくはないが、いま「竜馬伝」をやっているので、つい感じること

を書いてしまった。

日本は幕末の維新前夜のような雰囲気に包まれていると思う。

いま、知事や市長さんが盛んに国政に出ようとしているが、とてもいい傾向だ。

今の知事や市長さんたちは、本当によくやっている。

東京都知事の石原さんや大阪府の橋下さん、宮崎県知事の東国原さんや、名古屋

市長の河村さんそして元横浜市長の中田さん、など各地区の首長さんの努力と信念

には頭が下がる。

確かに県知事や市長で実績を積んできた人は、実践で鍛えた手腕と問題意識があ

るので、国政を任しても大丈夫だと思う。

一方最近の国会議員は行政経験がなくて、選挙で上がってきた人たちが多いので、

実力派県知事や市長経験者に比べて各段の差がある。

単に、選挙の人数合わせで出てきたと思われても仕方がない。

いま、首長さんが国政を憂いて選挙に出ようとしているのは、「竜馬伝」ではないが、

維新前夜を感じさせる。

これからはもっと動いて行くと思う。

自民・公明の連立政権→民主党→首長による政界再編成の流れが出来てくるだろ

う。


春は細胞が蘇る

2010年04月18日 | Weblog

今日は展覧会に出す絵がようやく出来上がり、運送をお願いした画材屋さ

んに持っていた。

帰りがけに五条川の桜並木をみたら、花がすっかり落ちて新緑が芽吹いて

いた。

季節は確実に回っていて、何事もなかったように今年もやってくるのが不思

議だ。

木々や植物は春になると細胞が生まれ変わってしまうのではないかと思う

くらいフレッシュになってしまう。

自分も春には、これまでの一切のこだわりを捨てて、「細胞が生まれ変

わるくらい」に自己変革してゆきたいものだ

 

 

 


無欲の人生 木版画家・川上澄生

2010年04月14日 | Weblog

日経朝刊の「文化欄」は充実しているので、毎日が楽しみだ。

今日は「無欲の人生を誠実に」という見出しで、「川上澄生木版画の世界」展を紹介していた。記事の中で彼の詩がとてもよかったので、興味を持った。記事の一部を紹介したい。

大正時代から戦後まで活躍した版画家、詩人の川上澄生の詩にこういうくだりがある。「われは市井の片隅に/他の人の邪魔にならぬやう/他の人を追越さぬやう/欲(よく)ばらぬやう/生きんことを希(ねが)ふものの如し」。60代初めに書いた詩の一部だ。世田谷美術館(東京・砧公園)で開催中の川上澄生木版画の世界展は、この作家が詩にあるような無欲の人生を送ったことを物語る。

川上は横浜生まれの東京育ち。1年ほど北米で暮らした後、26歳の年に宇都宮市で教職に就き、死に至るまでの50年間、教員生活に打ち込むかたわら木版画を制作し、詩作に励んだ。棟方志功が心酔した版画家としても有名だ。

このほかにも、文化欄には「私の履歴書」がある、いまは有馬稲子さんが書いている。この私の履歴書はご本人の人間性を感じることができて、とても面白い。

そして、今日の文化欄のハイライトは小沢昭一さんの「笑わせ上手な遅筆堂・井上ひさしさんを悼む」という追悼文であった。私の友人は「井上ひさしは電車の中では読めない本」だと言っていた。なぜかといえば「つい、笑いが噴き出してしまう」からだ。小沢昭一さんの追悼文はそんな内容だった。

 

 

 

 

 

 

 


今日の日経夕刊のコラム「ブタも木にのぼる」に同感

2010年04月13日 | Weblog

今日4月13日の日経夕刊の一面のコラムで、お茶の水大学の外山滋比
古さんが書いた「ブタも木にのぼる」は全く同感です。

若い仲間と小さな同人雑誌を始めた。編集のKさんのお父さんが脳梗塞のリハビリに好きな絵をかいているというから、表紙の絵やカットを描いてもらったら、と私が提案した。雑誌にのった絵はすばらしい。絶賛の手紙をKさんに書いたら「父は涙を流して喜びました」という返事だった。その後お父さんは人が変わったようにリハビリに精を出し、夢中になって絵をかいているそうで、「おかげさまで思わぬ親孝行ができました。ほめられるのはクスリよりよく利くみたいです」とKさんが感心している。・・・・ほめることばには驚くべきちからがある…・山本五十六元帥は「ほめてやらねば人は動かじ」という名言をのこした。俗にはほめればブタも木にのぼる、という。 あいにくのことに、人間は、ほめるより叱り、くさし、ケチをつける方が好きだ。

自分の経験なので、誠にお恥ずかしいのだが、小学校のころ先生から「君の作文はおもしろい」と言われてから、下手な文章ながら作文を書くのが好きになった。いまだに、その先生のことはよく覚えている。

この歳になって解るのだが、「叱り、くさし、ケチをつける」のは人を委縮させるだけで、何も生まれることはない。

先生といわれる人たちは、欠点を見つけて指導しようとするのだが、人の長所を伸ばすのを忘れている。

その原因は、人のいいところを認めようとしない、人間の「性(さが)」にあると思う。


アコーディオンコンサート

2010年04月12日 | Weblog

娘の伊藤ちか子のアコーディオンコンサートが4月10日と11日に行

われた。

11日のコンサートの模様を二つのブログで紹介して頂いた。

10日の開催地・扶桑は彼女の出身地であり、11日の江南市には学生の

時通った学校がある。

地元の皆様方の応援があってのコンサートであった。

取り上げていただいたブログのひとつは、一宮市のフリースペース「花咲か

爺さん」のブログだ。アドレスは次の通り。

http://hanasaka138.blog46.fc2.com/blog-entry-369.html

もうひとつは、江南市のステンドグラス会社を経営する、梶原さんのブログ

だ。アドレスは次の通り。

http://www.e-stainedglass.jp/cgi-bin/blom.exe?blog