志太の微笑仏を訪ねて6(梅林院)
大旅籠柏屋 ~ 梅林院
柏屋から信号岡部北まで戻り県道210号に入る。太い車道だが車は少なく歩きやすい。
新東名の巨大な高架した潜り抜けた先に、梅林院入口の看板があるので右折する。
梅林院は駿河一国33観音8番札所なので、一昨年に訪れた事があるが木喰仏は見ていない。
果たして今日はどうだろう?微笑仏を拝観できるかどうか。
門前にある墓には1組の墓参りの人しかいない。境内に入っても誰もいず本堂にも人影は見えない。
コリャ―駄目だと早くも諦めてしまった。
アーア 一昨年の33観音の納経の時なぜ拝観を願わなかったのか、今になっても残念だ。
仕方ないので境内の案内板だけ紹介します。
梅林時 木喰仏が祀られている観音堂
「薬師如来立像 満面に笑みを浮かべ、豊かで大きな衣に包まれ、左手には薬壺を持ち右手でそれを
上から守っている。病気を治してくれるという薬師如来は多くの人々に栄拝された。
像高95.8cm 町指定彫刻」
もう一つの子安観音菩薩の案内板は子安地蔵の事でなく、二体の木喰仏の保存理由が書いてあった。
「子安観音菩薩立像 現在梅林院に所蔵されている二体の木喰仏は、元々神入寺にあったもので、
頭部の彩色は共に近年のものである。廃寺となった神入寺は檀家の総意によって梅林院境内に移され、
観音堂として保存されている。像高96cm 町指定彫刻」
なるほど木喰上人はこの梅林院に泊まって仏像を制作したのではなく今は廃寺になった寺で制作していた
のか。こうしてみると木喰上人は大きな寺より、小振りの寺を選んで泊まっているようにみえる。
自らを菩薩とする割りには肝っ玉は小さかったのか、それとも自分の作る仏像に自信が無かったのか。
さらに案内板に気になる表記があった。事前に藤枝市のHPで指定文化財を調べて行ったのだが、
HPには「有形文化財彫刻 梅林院 子安地蔵菩薩像」となっていた。地蔵と観音の違いは何だろう?
若しかして地蔵と観音は同じもの? 当然違いますよね、お地蔵さんといえば坊主頭のお坊さんで、
観音さんといえば一般的には女性でゆったりした衣を纏っている姿多いですよね。
そうなるとどうしても確認したくなるのが私の悪い癖。
別のHPにあった梅林院の木喰仏をこっそりコピーしてしまいました。(内緒)
薬師如来 子安観音菩薩
どうでしょう、右側の仏像はどう見てもお地蔵さんには見えませんよね。
これは藤枝市のHPが間違っているようですね。ついでにこのHPについていえば、外の木喰仏も
そうだが「木喰仏」の表記が無いので区別が出来ない。
他の指定文化財の彫刻は作者の名前は無いので仕方ないのかもしれないが、木喰上人が描いた
絵には「木喰上人恵比寿大黒天画像」と書かれている物もあった。
他にもこのHPには言いたいことがるが止めておこう。
あちこちを歩いていると色々な情報を知る事が出来る。例えば梅林院ではこんな話も伝わっていた。
それはここ岡部から宇津ノ谷峠を越えて駿府側の集落にある名物十団子にまつわる伝説である。
「むかし梅林院という寺の住職に腫れ物ができ、小僧に膿を吸わせて治したところ、その小僧が
人肉の味を覚えて旅人を食べる鬼になってしまった。ある日旅の僧がこの鬼を小さな玉に変身させて
杖で砕き10粒の小玉にし飲み込んで退治してしまった」というものだ。
この伝説は宇津ノ谷側では広まっているが、梅林院では紹介していない。矢張り小僧に膿を吸わせた
行為が気になるのかな。
梅林院横の農道 農道横の祠
梅林時の横の道は山に向かって伸びている。この農道を登り更に山道を登って行くと谷川峠を経て
下って行くと丸子城跡の裏に出る。また峠を下らず尾根伝いに行けば城に直接行く事も出来る。
丸子城とは今川家の丸子館の山城であり、伊勢新九郎が助けた今川7代当主今川氏親(竜王丸)が
住んでいた丸子館の詰城である。その城から東海道を歩く事なくここ梅林院に出る事が出来る。
更に面白い事に、ここ梅林院からは藤枝の奥にある駿河今川の最初の拠点だった花倉館
(詰城が花倉城)に、これまた東海道を経由しないで直接にしかも短距離で行く事が出来る。
戦国時代の深謀遠慮な武将だったら、いざという時のためこのような抜道も考えていたのではないか。
とまた勝手な妄想が始まってしまった。
因みに梅林院の山号は「谷川山」。なんだか梅林院の歴史を知りたくなってきた。
若しかして今川が開基した寺だったりして------
梅林院を出て今日最後の常楽寺には新東名沿いに南南西に向かって進んで行く。
彼岸の中日なのに暑さは相変わらずだ。それと寄道ばかりしているせいかいつになく疲れを感じて
いる。1・2km歩いては見学を繰返していると、妻のショピッピングに付きあう時と同じように
疲れてしまうようだ。でもあと一ヶ所だ頑張って歩こう。
大旅籠柏屋 ~ 梅林院
柏屋から信号岡部北まで戻り県道210号に入る。太い車道だが車は少なく歩きやすい。
新東名の巨大な高架した潜り抜けた先に、梅林院入口の看板があるので右折する。
梅林院は駿河一国33観音8番札所なので、一昨年に訪れた事があるが木喰仏は見ていない。
果たして今日はどうだろう?微笑仏を拝観できるかどうか。
門前にある墓には1組の墓参りの人しかいない。境内に入っても誰もいず本堂にも人影は見えない。
コリャ―駄目だと早くも諦めてしまった。
アーア 一昨年の33観音の納経の時なぜ拝観を願わなかったのか、今になっても残念だ。
仕方ないので境内の案内板だけ紹介します。
梅林時 木喰仏が祀られている観音堂
「薬師如来立像 満面に笑みを浮かべ、豊かで大きな衣に包まれ、左手には薬壺を持ち右手でそれを
上から守っている。病気を治してくれるという薬師如来は多くの人々に栄拝された。
像高95.8cm 町指定彫刻」
もう一つの子安観音菩薩の案内板は子安地蔵の事でなく、二体の木喰仏の保存理由が書いてあった。
「子安観音菩薩立像 現在梅林院に所蔵されている二体の木喰仏は、元々神入寺にあったもので、
頭部の彩色は共に近年のものである。廃寺となった神入寺は檀家の総意によって梅林院境内に移され、
観音堂として保存されている。像高96cm 町指定彫刻」
なるほど木喰上人はこの梅林院に泊まって仏像を制作したのではなく今は廃寺になった寺で制作していた
のか。こうしてみると木喰上人は大きな寺より、小振りの寺を選んで泊まっているようにみえる。
自らを菩薩とする割りには肝っ玉は小さかったのか、それとも自分の作る仏像に自信が無かったのか。
さらに案内板に気になる表記があった。事前に藤枝市のHPで指定文化財を調べて行ったのだが、
HPには「有形文化財彫刻 梅林院 子安地蔵菩薩像」となっていた。地蔵と観音の違いは何だろう?
若しかして地蔵と観音は同じもの? 当然違いますよね、お地蔵さんといえば坊主頭のお坊さんで、
観音さんといえば一般的には女性でゆったりした衣を纏っている姿多いですよね。
そうなるとどうしても確認したくなるのが私の悪い癖。
別のHPにあった梅林院の木喰仏をこっそりコピーしてしまいました。(内緒)
薬師如来 子安観音菩薩
どうでしょう、右側の仏像はどう見てもお地蔵さんには見えませんよね。
これは藤枝市のHPが間違っているようですね。ついでにこのHPについていえば、外の木喰仏も
そうだが「木喰仏」の表記が無いので区別が出来ない。
他の指定文化財の彫刻は作者の名前は無いので仕方ないのかもしれないが、木喰上人が描いた
絵には「木喰上人恵比寿大黒天画像」と書かれている物もあった。
他にもこのHPには言いたいことがるが止めておこう。
あちこちを歩いていると色々な情報を知る事が出来る。例えば梅林院ではこんな話も伝わっていた。
それはここ岡部から宇津ノ谷峠を越えて駿府側の集落にある名物十団子にまつわる伝説である。
「むかし梅林院という寺の住職に腫れ物ができ、小僧に膿を吸わせて治したところ、その小僧が
人肉の味を覚えて旅人を食べる鬼になってしまった。ある日旅の僧がこの鬼を小さな玉に変身させて
杖で砕き10粒の小玉にし飲み込んで退治してしまった」というものだ。
この伝説は宇津ノ谷側では広まっているが、梅林院では紹介していない。矢張り小僧に膿を吸わせた
行為が気になるのかな。
梅林院横の農道 農道横の祠
梅林時の横の道は山に向かって伸びている。この農道を登り更に山道を登って行くと谷川峠を経て
下って行くと丸子城跡の裏に出る。また峠を下らず尾根伝いに行けば城に直接行く事も出来る。
丸子城とは今川家の丸子館の山城であり、伊勢新九郎が助けた今川7代当主今川氏親(竜王丸)が
住んでいた丸子館の詰城である。その城から東海道を歩く事なくここ梅林院に出る事が出来る。
更に面白い事に、ここ梅林院からは藤枝の奥にある駿河今川の最初の拠点だった花倉館
(詰城が花倉城)に、これまた東海道を経由しないで直接にしかも短距離で行く事が出来る。
戦国時代の深謀遠慮な武将だったら、いざという時のためこのような抜道も考えていたのではないか。
とまた勝手な妄想が始まってしまった。
因みに梅林院の山号は「谷川山」。なんだか梅林院の歴史を知りたくなってきた。
若しかして今川が開基した寺だったりして------
梅林院を出て今日最後の常楽寺には新東名沿いに南南西に向かって進んで行く。
彼岸の中日なのに暑さは相変わらずだ。それと寄道ばかりしているせいかいつになく疲れを感じて
いる。1・2km歩いては見学を繰返していると、妻のショピッピングに付きあう時と同じように
疲れてしまうようだ。でもあと一ヶ所だ頑張って歩こう。
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